魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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一身上の都合(明日夜勤なので)で今日投稿しました。


第9話 灯火

 

 突き刺すような冷たい空気に、月が鮮やかに映えている。細く鋭い日本刀のような三日月だ。月の光こそ弱いものの、学園都市が放つ光に照らされ、夜空はさほど暗くはない。

 

『こちらは放送部です。これより学園内は停電となります。学園生徒の皆さんは極力外出を控えるようにしてください。繰り返します…………』

 

 あちこちにあるスピーカーから麻帆良全体に響いているだろう声が、停電の始まりが近いことを告げる。

 

「始まるか」

 

 世界樹の根元に腰を下ろしていたアスカが閉じていた瞼を開いた。

 立ち上がったアスカの視界の先では、何時もならばまだ街中に明かりが灯っている時間帯にも関わらず、この日の麻帆良学園は少々異なる雰囲気に包まれていた。

 麻帆良全域に、重い闇が垂れ込めている。年に二度、機械の大規模メンテナンスのために行われるこの麻帆良大停電は街中から光を奪い、そこに住む人々に普段とは異なる細やかな興奮と恐怖を与えていた。

 人々とは違う緊張感を感じ取っていたアーニャは立ち上がったアスカを見つめる。

 

「時間よ。準備はいい?」

「勿論」

 

 アーニャの若干震えた呼びかけに瞑想していたネギが頷いたが、その背や全身には魔法具が重量過多と呼べるほどに纏っていた。そんなネギをアスカが呆れた視線で見つつ、歩み寄って背負っている鞄から姿を覗かせている剣をポイッと放り捨てた。

 

「アホか。重装備過ぎだ」

「あ、止めてってら」

「エヴァンジェリン相手に生半可な装備は重しになるだけだ。使い慣れた杖以外置いて行け」

 

 多種多様の剣や杖、試験管やアンティークの銃を身につけ、予備まで持って覚悟を決めていたネギから装備を引っ剥がされていく。

 ネギが装備を剥がす手を止めようとするが力で叶うはずもなく、アーニャに助けを求めても、こと戦いにおいてはアスカの意見はこの三人の中では絶対である。アスカがいらないと言うならそれが正しいと無視した。

 

「折角持ってきたのに」

 

 マントと父の杖以外の全てを剥がされたネギは不満たらたらでありがながらも、アスカの意見が最もなこともあって装備を取り返そうとはしなかった。名残惜しそうに見てはいたが。実際はただ使って見たかっただけなのかもしれない。

 理想的な戦闘状態である適度な緊張感を維持しているアスカと違って、指を咥えそうなネギの様子にアーニャの過度な緊張は僅かながらも解れた。

 

「感謝はしないわよ」

 

 この中で最もエヴァンジェリンを恐れているのはアーニャだ。逆に恐れていないのはアスカ。ネギはその中間ぐらいか。この双子は気を回し過ぎるところがあるのでアーニャの為を思った行動か。

 

「やっぱり持ってちゃ駄目かな?」

「駄目」

 

 やはり気の所為かとアーニャは少しはあった感動を心のゴミ箱に投げ捨てるのであった。

 

「んじゃ、何時ものやついくぞ」

 

 ようやく諦めたネギを連れて三人で円陣を組んだアスカが拳を握り、腕を真上に突き出した。ネギとアーニャもそれに倣う。

 

「俺達に」「僕達に」「私達に」

「「「出来ない事なんてない!!」」」

 

 乗り越えるべき困難に挑むために、三人は拳を掲げあって戦意も高らかに叫ぶ。

 確実に増した戦意の中で拳を下ろしたアーニャは、ふとオコジョ妖精のカモがいないことに気が付いた。

 

「そういえばカモは?」

「どっかで油売ってんだろ。その内に顔を出すさ」

 

 と、噂されていたカモの姿は何故か女子寮の明日菜達の部屋にあった。

 

「なんか不気味な空やね」

(どうしたら……なにか、なにか!)

 

 もう直ぐにアスカ達がエヴァンジェリンと戦う。何とかしなければという危機感がベッドに蹲っている明日菜は木乃香の言葉に応えられないほどの焦燥を得ていた。

 

「お困りかい、姉さん」

「誰!?」

「俺っちはオコジョ妖精のアルベール・カモミール。ネギの兄貴たちの仲間だ。姉さんに話があってきた」

 

 ベッドの柵によじ登っているオコジョは、明日菜の顔を見遣った。

 

「兄貴達がやばい。下手したら死ぬかもしれねぇんだ。手を貸しちゃくれねぇか」

 

 カモの意図せず放った一言が、厳重に閉じられた記憶の壁をこじ開けられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵐の前触れを思わせる重い音を轟かせて風が夜闇を走る。誰もが停電のため外出を控える中、街の中央に聳え立つ時計塔の屋根の上に一人の人影があった。

 屋根の上に立つのは真祖の吸血鬼エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。常に行動を共にする茶々丸は学園側が結界を途中で張り直さないようにシステムを掌握てからの合流になるので今はいない。

 

「こうして見ると狭いものだな」

 

 闇の眷属であるエヴァンジェリンには暗闇の中でも学園の境界である今宵の決戦場である橋の影まで見えていた。今なら魔法で簡単にそこまで飛べる距離だが、十五年前からその先へ行くことができない。だが、その時はまだ今ほどには辛くはなかった。

 

『卒業する頃にはまた帰って来るからさ、光に生きてみろ。その時、お前の呪いも解いてやる』

 

 思い出すのはサウザントマスターによって呪いを掛けられ、この地に連れられてきた時のことだった。不貞腐れているエヴァンジェリンに苦笑しながらサウザントマスターが言った言葉は、今でもついさっきのことのようにはっきりと覚えている。

 三年経ち、卒業しても呪いを解きには来なかった。もしかして忘れているのかとも不安に思ったが、きっと来てくれるとサウザントマスターを信じた。

 五年経って死んだという噂を聞いて、そんなはずはないと否定した。

 九年経って、三度目の卒業式をボイコットしながら、サウザントマスターには二度と会えないのだと絶望した。

 十二年経って、五度目の入学式では茶々丸という従者ができ、今までとは変わったメンバーではあったが、心がどんどん朽ちていくのを感じた。

 真祖の吸血鬼である我が身は老いも死もない。このまま縛られたまま麻帆良という箱庭の中で永久に飼い殺しされる。そんな思いを常に抱き続けていた時、暗闇の中に一条の光明が差した。

 

『サウザンドマスターの息子達が麻帆良に来る』

 

 サウザントマスターが生きている事を知った時には天にも昇る気持ちだった。

 

「鈍ッタナ、御主人」

「悪いか、チャチャゼロ」

「サア、ナ」

 

 屋根の上に立つもう一人の影にして、エヴァンジェリンの初代従者であるチャチャゼロは良いとも悪いとも言わなかった。チャチャゼロが突きつけるのは何時だって事実のみ。

 

「弱クハナッタ。ナギノ野郎ニ出会ッテカラ、ズット」

「かもしれん」

 

 感傷を抱きつつ、エヴァンジェリンはその時間を待つ。久方ぶりの一人と一体となったことに不思議なむず痒さを感じながら瞼を閉じた。

 

『こちらは放送部です。これより学園内は停電となります。学園生徒の皆さんは極力外出を控えるようにしてください。繰り返します…………』

 

 思考している時にアナウンスが流れ、始まった停電と共に戻った莫大な魔力が全身へと駆け巡る。

 長年失っていた物を取り戻した充足感を感じ、久しぶりに甦った懐かしの感覚に笑みを浮かべながら開いた瞼の下で輝く黄金の瞳で自分の手の平を見つめる。

 

「ふむ。まあ、満月でもないし、この程度だろうな。やはり直ぐには全盛期とまではいかんか」

 

 十五年もの長い間、ほとんど魔力を封印されていたのでいきなり魔力が戻ったことで幾分か持て余し、その扱いきれない分が大気へと垂れ流されている。その垂れ流している魔力だけで見習い魔法使いレベルなら腰を抜かし、何もしなくても許しを乞うだろう。

 

「まぁ、その辺りは直に慣れるだろう」

 

 見習い魔法使いとしては目を見張るレベルにあるとはいえ、アスカ達が相手ならば多少魔力を持て余すぐらいはハンデにすらならない。少し戦えばすぐに当時の感覚を思い出すだろうと考え、ばさりと漆黒のマントを広げて飛び上がり、闇の中に沈む麻帆良を見る。

 夜こそが自分の時間という自分のような吸血鬼でも、暗いとそんな風に感じ入ってしまい闇に不気味さを感じて、そのおかしさに自嘲して笑う。自分は闇の種族、太陽が輝く昼ではなく暗黒に沈む夜を生き場にして、死なず老いず時間を呼吸しない種族のはず。なのに、そこまで自分は光の下に慣れてしまっていたのかと自嘲は苦笑に変わる。

 この戦いは彼女のナギに対する八つ当たりでしかない。終わった時、どんな形であれ気持ちに決着をつけなければならない。自身が望んで始めた戦いだ。終わらせるのもまた自身の役目。いまは戦いだけに集中し、難しいことは考えずにこれから始まるであろう、甘美にして殺伐たる時間に胸をときめかせながら空を飛ぶ。

 

「では、始めようか!」

 

 これより僅かな時間、最強の悪の魔法使いが甦る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな事をエヴァンジェリンが思っているとは露知らず、アスカ達は決戦場である麻帆良大橋に向かっていた。学園都市内の全体メンテナンスによる停電の時間は夜八時から深夜十二時まで、科学に頼った現代において実質的に都市機能の麻痺である。麻帆良大橋は念のため、学園長の手で人払いや防音の結界が張られており、周りを気にすることなく存分に戦える環境を作り出されている。舞台は既に整っており、後は役者を残すのみとなった。

 停電の為、明かり一つ無い道を歩いていると巨大な魔力が三人を貫いた。

 

「えっ!? これって……魔力!?」

「分からねぇけどかなりの大物だ……これがエヴァンジェリンの力……」

「えぇっ!? そんなまさかここまでの魔力をしてたっていうの」

 

 空間を震撼させるほどの予想を遥かに上回る魔力を前にして、狼狽を隠せずネギとアーニャは揃って右往左往している。アスカですら冷や汗が止まらない重圧。ただ余波として放たれているだけの魔力ですら正しく桁が違う。

 

「行くぞ」

 

 肌がビリビリと震える発生源へとアスカが足を踏み出す。その背中に安心を持って、ネギとアーニャも続いた。

 

「エヴァンジェリン!」

 

 アスカ達が麻帆良大橋の入り口に到着した時には、見る限り誰もいなかった。ネギはてっきり待ち構えているとばかり思っていただけに少々意表を突かれたが、もしかしたら罠かもしれないと、杖を握り締める。何時もなら絶大な安心感を与えてくれる父の杖もこの時ばかりは頼りなく感じた。

 

「いないの?」

 

 アスカの呼びかけに返事はなく、アーニャが周囲を見回しても僅かな月明かりしか光源がないために魔力を消して隠れでもされたら、目視しか捜す手段がなく見つけるのは難しい。やはり相手の出方を待つしかないのかとネギが声を上げようとした時だった、

 

「…………ここだよ、坊や達」

「「「っ!?」」」

 

 神経を張り巡らせていた状態だったから唐突に背後から響いたその声に橋の入り口に立った三人の足は凍りついたように止まった。エヴァンジェリンの声は呟いた程度の声の大きさだったのだが、その声はどんな大声よりも三人の耳に響いた。

 咄嗟に先程まで自分がいた筈の背後へと振り向くと、そこには空に浮かんで三人を見下ろすエヴァンジェリンと茶々丸、そして見覚えのない小さな人形の姿があった。

 

「ようこそ、我が主催の恐怖劇へ。勇敢な戦士たちを歓迎しよう」

「いらっしゃいませ」

「ヒヒヒ」

 

 薄い笑みを浮かべたエヴァンジェリンの後ろで茶々丸がメイド服を着て頭を下げ、人形――――エヴァンジェリンの初代従者であるチャチャゼロは体長を超える巨大な鉈染みた剣を持っていた。その剣が魔力を帯びた魔剣であることは魔法具コレクターであるネギには分かった。

 

「お招きに預かりまして光栄って答えた方がいいか。悪いがマナーなんてものにはとんと疎くてね。不作法を晒すかもしんねぇぞ」 

 

 今まで戦った誰よりも強いプレッシャーの持ち主を間近にして、口を開くことが出来ないネギやアーニャの代わりに応えたアスカですら余裕はない。エヴァンジェリンの姿を見た時から冷や汗が後から後から流れて行く。

 

「今の私は気分が良い。多少の不作法も許そう」

 

 エヴァンジェリンから発せられる魔力は邪悪にして妖艶。姿形は前と変わらぬながらも、男のみならず女をも取り込まずにはいられない魔性を振り撒いていた。気を一瞬でも抜けば膝を屈して永遠の忠誠を誓ってしまいそうになるのを堪えなければならなかった。

 

「なら、礼としてテメェをぶっ倒させてもらう!」

 

 魔性に呑み込まれまいと、アスカの全身から魔力が迸った。今回は事前に枷を外しての掛け値なしの全力。手加減して勝てる相手ではないことを良く知っている。単純な魔力総量ならエヴァンジェリンにも劣らぬはずなのに、圧力はエヴァンジェリンと比べればかなり落ちる。単純な制御能力の差であった。そのことを理解しながらもアスカは最強に戦いを挑む。

 

「気合を入れろよテメェら!」

「私に指図するなっての!」

「そうだ!」

 

 アスカに言い返しながらも二人は気合を入れた。最大の魔力量を誇るアスカと、ほぼ変わらないネギ。大分下がってアーニャの魔力。三人が戦意を魔力の迸りから挫けずに向かってくる気なのを感じ取ったエヴァンジェリンは、それでこそと薄い笑みを浮かべた。

 

「チャチャゼロ、貴様はアスカをやれ」

「ドイツダ?」

「金髪の方です」

 

 茶々丸が指差したアスカを見たチャチャゼロは、目の奥に得物を前にした肉食獣のような獰猛な輝きを宿す。持っていた鉈のような巨大な魔剣を肩に担ぎ直した。

 

「アイツカ、イイゼ。アノ中デハ一番歯応エガアリソウダ」

 

 アスカとチャチャゼロの視線が混じり合って火花を散らし合う。ここ百年でマシな部類な目をしているアスカにチャチャゼロの嗜虐心は粟立った。

 

「茶々丸はアーニャの小娘だ」

「了解です」

 

 茶々丸に相対するはアーニャ。機械ゆえの冷めた感情の感じられない視線がアーニャを貫いた。

 

「私はネギの坊やをやる。二人とも、私の従者として敗北は許さん。必ず勝て」

「誰ニ言ッテンダ」

「イエス・マスター」

 

 それぞれに相対する相手は決まった。エヴァンジェリンの声が聞こえていたアスカ達もそれぞれが相対する相手を睨む。その中でエヴァンジェリンは己が相対するネギを高みから見下ろした。

 

「さっさと勝負を決めて、坊や達の血を存分に吸わしてもらおう」

「そうはさせません。僕が勝たしてもらいます」

 

 エヴァンジェリンが宣言した言葉を跳ね除けるように、相対者であるネギは十メートル先にいる真祖の吸血鬼を睨み返しながらハッキリと抵抗の意を表した。怯えがないわけではない。今も立ち向かうことに膝が震え、恐怖で噛み合わない歯がガタガタと鳴っている。それでも戦うのは一人ではないと、ネギはなけなしの勇気を振り絞った。

 

「精々、抗って見せろ!」

 

 前衛であるアスカとチャチャゼロが同時に飛び出すのを見ながらエヴァンジェリンの心は躍った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カモの一言が放った影響は甚大だった。

 

「死ぬ? アスカ達が?」

 

 もしかしたらアスカ達が死ぬのではないかという思いが心的外傷による記憶再生のフラッシュバックを引き起こす。

 記憶の扉がこじ開けられたとのと同時に、ズキンと鋭い痛みが脳天を突き抜けた。思い出すことを拒んでいるかのように、頭が脈打つように痛む。身体が震えていた。

 

「お、おい姉さん!?」

 

 痛みが酷くてカモの声が聞こえない。

 世界は急速に暗くなり、内側から何かが染みだしてくる。開いた記憶の扉から、神楽坂明日菜には存在しえない記憶が染み出す。

 心の最深部に押し込められていた記憶が掘り起こされる。多量の記憶が湯水の如く溢れ出してきた。目の前に拡がり、やがて視界は記憶の映像に埋め尽くされていく。

 

『――――よぉタカミチ、火ぃくれねぇか。最後の一服……って奴だぜ』

 

 再生された記憶には、どこか高畑に似た壮年の男性が口から血を吐き、腹にも穴が空いているのか多量の血を流して岩場に凭れていた。その顔は泣いている自分を安心させるためにか笑顔だが、体から流れた血は致死量近くまで達しており死相が浮かんでいる。

 

『あー、うめぇ』

 

 右肩の部分が破れ、あちこちに汚れや煤が付いたワイシャツを着た若い男が煙草に火を点けると、壮年の男性は味を良く味わうように深く吸い込み、端から血を垂らした唇から紫煙を吐き出す。

 

「……ぁ……」

 

 明日菜の顔は苦悶で歪み、口からは声にならない言葉が紡ぎ出される。

 アスナはこの煙草の臭いが嫌いだった。明日菜はこの煙草の臭いが好きだった。その違いがどこから来るのか、アスナではない明日菜には分からない。

 

『さあ、行けや。ここは俺が何とかしとくから』

 

 鳩尾付近からワイシャツを紅く染め、それでも止まらずに流れ続ける血はズボンを伝って地面を朱に染める。

 

『…………何だよ、嬢ちゃん。泣いてんのかい? 涙見せるのは…………初めてだな』

 

 全身を瘧のように震わせ、会話の合間合間に血混じりの堰を吐きながらも痛みは欠片も見せない。大量に浮かんだ脂汗がなければ痛みを我慢していることにも気づかなかっただろう。

 

『へへ……嬉しいねぇ』

『師匠……』

 

 「タカミチ」と呼ばれた青年には分かっている。壮年の男性の顔色は青を通り越して真っ白になっている。流れ出た血液の量は致死量に達し、もはや師が助かることはない。もう、どんな名医も高名な治癒術士の魔法も彼の命を救ってくれないだろうと、理解してしまった。

 

『タカミチ……記憶のコトだけどよ。俺のトコだけ念入りに消してくれねぇか』

『な、何言ってんスか師匠!』

 

 タカミチは、師である男のあまりの言葉に叫んだ。師の今際の際の遺言であると分かっていても叫ばずにはいられなかった。

 

『これからの嬢ちゃんには必要ないモンだ』

 

 男はそれでも、頼むとタカミチに視線を送った。

 末期の言葉を拒否できるほど二人が積み重ねてきた信頼関係は薄くなく、また男の言葉に僅かなりとも共感を覚えてしまったタカミチの絶望だった。

 

『やだ……ナギもいなくなって……おじさんまで……やだ』

 

 小さなアスナは己の手で死に行くだけの男の手を握り締めた。その目元から涙を流しながら。

 ふわりと、頭の上に重さを感じた。男の手が、アスナの頭を優しく撫でる。弱々しく駄々を捏ねる少女の頭に手を乗せ、口の端から血を流しながらも男は笑っていた。

 それは封印されて忘れ去られた記憶の数々――――。堰を切るかのような勢いで押し寄せて来る情報の洪水に、処理しきれなくなった脳が加熱していく。頭痛は悪化の一途を辿り、口唇が歪んだ。

 

「ああっ……」

 

 明日菜は得体の知れない記憶に翻弄され、溺れていく彼女の口から小さな悲鳴が漏れる。怖気を感じて身震いをする。冷水に足を浸したかのような悪寒が全身に伝播して、体がカタカタと震え始めた。もはや表出してくる記憶を堰き止める術はない。封印された記憶が現実味を帯び、映像となって脳内に展開していく。

 

「ガトウ、さん……」

「姉さん!?」

 

 パシッ、と頬を叩かれた衝撃が明日菜を現世に引き戻す。

 

「大丈夫かい? すまねぇ。様子がおかしかったから、つい叩いちまった」

「……………ありがとう。ごめん、ちょっと眩暈がしたみたい」

 

 頭を振るとまだ眩暈がする。

 先程まで何かを見ていたような気がするし、大切なことを思い出そうとした気がする。今はその全てが夢幻のように遠い。だけど、たった一つだけ覚えていることがあった。

 

『幸せになりな、嬢ちゃん。あんたにはその権利がある』

 

 それは今にも途切れそうなほどの弱々しい声音である。だがその声は間違いなく明日菜の心に響いていた。魂が揺さぶられ、全身が打ち震える。声に秘められた切なる願いが痛いほどに伝わってきた。

 明日菜には声の主が誰かは解らない。だが耳にしたことがあるような気がした。どこで聞いたのかは憶えてなかったが、望郷の念に駆られるかのような懐かしさが漂っている。

 

「今度は私が護る。誰も失わせなんてしない」

 

 その言葉に集約された感情に突き動かされて明日菜は動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地上戦をするアスカ達と違って、ネギとエヴァンジェリンの戦いの場は空中だった。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!」

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル!」

 

 二つの始動キーが絡み合うように、唱和しながら夜空に響く。

 

「食らえ、魔法の射手・氷の29矢!」

「風の精霊97人! 魔法の射手、連弾・風の97矢!」

 

 氷と風、異なる属性の29と37の魔力の矢が二人の間で花火のような光と音を轟かせてぶつかり合う。

 的確なコントロールがなされたエヴァンジェリンの魔法の矢を、三倍のネギが放った魔法の矢が空中で激突し合って相殺する。同じ魔法にも関わらず三倍の数の差があってようやく互角ということは、それだけ彼我の魔法使いの格の差を現していた。そしてエヴァンジェリンはまだ実力の百分の一も出していない。

 

「ハハッ!! 中々やるじゃないか! だが、詠唱に時間が掛かり過ぎだぞ!! リク・ラク・ラ・ラック・ライラック。闇の精霊37柱!」

 

 空を飛びながら、初手の段階で既に一杯一杯のネギとは違い、言葉にも表情にも余裕がありありと見えるエヴァンジェリンが、ある意味アドバイスとも取れる事を言いながら次の魔法の詠唱に入った。

 楽しそうに上空を飛びながら笑い声を上げるエヴァに対して、ネギの表情は必死そのものだ。実戦経験が、潜り抜けた修羅場が、修練に費やしてきた時間が圧倒的に違う。ネギとて魔法の矢の術式は体に染み付いたと言っても、十年と六百年という生きた年月の時間の差がそのまま錬度の差となる。

 

「くっ!? ラ、ラス・テル・マ・スキル・マギステル! 風の精霊101柱!」

 

 ネギの膨大な魔力は魔法学校でも比肩する者などほとんどいなかった。いたとしても校長などの数人の魔法教師だけで、魔法の撃ち合いで自身が負けたことは殆どない。

 

(す、凄い力。だ、駄目………打ち負ける)

 

 初めての経験でこのままでは負けると考えてしまったら、魔力発生の基点となっている右腕がガクガクと震え始めた。

 

(まだだ! 父さんは、アスカはこんな程度で逃げない!)

 

 諦めが胸中に漂うが、父とアスカならこんな程度で逃げないと、今までで最大の気迫を放つ心の言葉を持って恐怖を打ち払った。自身の体、後のことなど考えずに限界を超える程に魔力を注ぎ込む。

 

「えぇいっ!!」

 

 目一杯の魔力を杖に注ぎこんで詠唱を唱えきる。

 

「魔法の射手、連弾・闇の37矢!」

「魔法の射手、連弾・風の101矢!」

 

 倍近くに膨れ上がった精霊の数に驚くも、今度も素早く詠唱を完了させ、エヴァンジェリンに遅れる事無く魔法の射手を撃ち出した。

 さっきを超える数の矢が召喚され、再び宙でぶつかり合う。高威力の属性の魔法同士は相殺し、派手な爆煙をあげる。だが、エヴァンジェリンほどに数を増やせなかったネギの魔法の矢は幾本か突破してネギを掠める。しかも、相殺した魔法の射手の余波が、威力で劣ったネギに襲い掛かってきた。

 ただでさえ慣れない魔法戦闘、それも圧倒的強者との戦いで精神もすり減らし、更に無茶をした所為でネギは盛大に息を乱して膝から崩れ落ち、地に手をついた。

 

「はぁ、はぁ……」

「アハハ、いいぞ! よくついて来たな!!」

 

 ネギは地に着いていた手を離して片膝をつき、息を整えているが体に力が入らない。疲労で額には汗が浮かび、心臓は早鐘を打ったようにガンガンと鳴り響いていて、とても戦いを続けられる状態でない事は誰が見ても明らかであったが、体は動かなくとも闘志は今だ健在と眼だけが戦う意思を示していた。

 

(強い! これが父さんと同じ領域にいる人の力!!)

 

 魔法の衝突が生んだ余波の風を腕で顔を庇いながら、ネギは改めてエヴァンジェリンの恐ろしさを確認していた。

 まともに魔法を打ち合ったのは先程のたったの二回、それも初歩の魔法である魔法の射手だ。しかし、一矢に込められた魔力の純度は、それだけで相手の実力を伝えてくる。エヴァンジェリンの精緻にして大胆な術式の構成と、無限とも思えるほどの強大な魔力。既に限界ギリギリの自分とは違い、エヴァンジェリンは今も余裕に満ち満ちている。

 未だにネギが無傷でいられるのは、一重にエヴァンジェリンの戯れにすぎない。エヴァンジェリンは余裕を以って、ネギは必死を以って対峙する。

 

「やるじゃないか、坊や。まさか相殺されるとは思わなかったぞ。だが、まだ決着はついていないぞ」

 

 十五年ぶりの呪いという戒めからの解放が、魔法使いとしての戦いが、久しく忘れかけていた戦場の高揚がエヴァンジェリンの体内を駆け巡っていた。

 どれだけ力の差を感じさせようとも些かの戦意の衰えも見せず、必死で喰らいついてくるネギを称賛する。街にまで届きそうな程よく通る声で笑いつつ、ネギの評価を殊更に高め、エヴァンジェリンは次の一手を打つ。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック。氷の精霊74頭。集い来りて敵を切り裂け、食らえッ! 魔法の射手、連弾・氷の74矢!」

 

 笑みを浮かべたエヴァンジェリンは魔法を放った。このままでは不味いと思ったネギは咄嗟に杖に跨り大地を蹴って杖に乗り、斜め上に飛び上がって避ける。

 避けられたことで急に目標を失った氷の矢はその殆どが大地を抉ったが、残った二十本の矢は直角に近い角度で急上昇しネギの後を追う。

 

「くっ! ラス・テル マ・スキル マギステル 風の精霊199人! 集い来たりて敵を穿て 魔法の射手、連弾・風の199矢!」

 

 ネギは追ってくる魔法の矢を見て、杖に乗りながら後ろを向いて呪文を唱え切った。飛びながらの狙撃ではあるため精度は悪いと考え、数を撃てば当たる論理で大量に撃つことにより、魔法の射手を全て撃ち落とす事に成功した。

 そしてネギは上昇から角度を変えてエヴァンジェリンを見る。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風精召喚!! 剣を執る戦友!!」

 

 ネギの詠唱と共に、周りに白色に統一され、それぞれが何かしらの得物を所持しているネギを模ったモノが八体出現した。

 

「分身! いや、風の中位精霊による複製か」

 

 エヴァンジェリンはネギを見上げ、詠唱を聞いただけでその分身じみた術の正体を看破した。

 剣を執る戦友とはその名の通り、今回の場合は風の中位精霊を呼び出すためのもので難度的にはそこまで難しいものではない。本来ならばこれは決して十歳の見習い魔法使いが扱えるような魔法でもなく、また八体を同時に使役するなど甚だ不可能である事もまた事実である。

 

「行って!!」

 

 唯一実体を持つ本体であるネギが精霊たちに命令を下し、その指先がエヴァンジェリンを指した瞬間、八体の精霊が彼女の包囲を開始した。

 精霊たちは各々の軌道を描いて瞬く間に包囲して、執拗にその得物を向けて振るって捕縛しようとする得物に当たれば風で捕縛されるので、捕縛しようとするネギの作戦などお見通しなエヴァンジェリンは上昇と下降を繰り返して避け続ける。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック 氷の精霊8頭!! 集い来りて敵を切り裂け 魔法の射手・連弾・氷の8矢!!」

 

 回避行動を続けながら詠唱を唱え、近づいてきた精霊達に向けて氷の魔法射手でそれぞれ迎撃していく。

 ネギが風精一体に込めた魔力は、エヴァンジェリンが放った氷の一矢と比べると莫大であったはずだ。風精に込められた魔力と比較すればネギの方が遥かに大きいのに、最小限の魔力でいとも簡単に屠る。

 

「これが闇の福音の実力!? だけど、僕だって」

 

 呆気なくやられたがネギの中ではそれも想定の範囲内。迎撃された剣を執る戦友を目くらましにしつつ急加速し、エヴァンジェリンの側面へと回りこんで詠唱する。

 

大気の拳(エーテル・フィスト)!」

 

 ネギが作戦通りに側面に回りこんで魔法を放つ。魔法使いの格など関係のなくさせる込められるだけの魔力で放たれた、複数の風の拳がエヴァンジェリンに襲い掛かる。

 潤沢な魔力で放たれた大気の拳に気づいていたエヴァンジェリンは真正面から策も何もなく突っ込んで行った。

 

「その程度で私をやれると思ったか!」

「そんな!? ぐっ………ラス・テル・マ・スキル……!!」

 

 エヴァンジェリンは障壁によるゴリ押しで大気の拳を突破して距離を詰めて来る。

 ネギは追撃で唱えようとしていた中位魔法から、即座に取るべき手段を選択する。

 

「風花・風障壁!!!」

 

 ネギを護るように風の壁が攻撃を阻む。小柄ながらも異常な攻撃力と尋常ならざる力を持つであろう真祖の吸血鬼の攻撃を、物理的な損害から身を守ることができる風花・風障壁ならば凌げると判断した。

 

「慌てず防御壁を張れたのは褒めてやるが、それは最善手ではないぞ。確かに風障壁は10tトラックの衝突すら防ぎきれる優れた対物理防御魔法だが――――」

 

 見習いで出来る咄嗟の判断ではない。しかし、当のエヴァンジェリンはこの程度では満足しない。更に距離を詰めて、両手に魔力を漲らせる。

 視認できるほどの魔力を迸らせて、無謀にも風の壁に両手を突っ込んだ。

 

「効果は一瞬。連続しようも不可能という弱点があることを忘れるな。そして、何事にも例外があるということもな!」

 

 そして力任せに風の壁を、両開きの扉をこじ開けるように切り裂いた。その気になればトラックとの正面衝突も無傷で済ませる事ができるほどの物理的に破壊する事が出来ないはずの魔法障壁。しかし、それは理論上の話で、力量差によっては力尽くで突破される事も有り得ることである。エヴァンジェリンがやったのはまさにそれ。

 

「そんな風障壁を素手で!?」

 

 力尽くで切り拓かれる風障壁。魔法力による身体能力強化の賜物と言えよう。常識に捉われていてはエヴァンジェリンのような規格外に出会った時にこのような目に合うという実例を身を以って体感する。

 風花・風障壁が切り裂かれた瞬間、エヴァンジェリンの足がネギを蹴飛ばした。

 

「ぐわっっ!?」

 

 咄嗟に張った障壁を何枚も突破され、口の端から血を吐き出しながら吹き飛ぶネギ。しかし、やられているばかりではない。そのまま全速力で橋の向こう側へと飛んでいく。

 

「あの方向だと…………学園の外に逃げる気とは思えないから何らかの罠でも仕込んでいるか」

 

 エヴァンジェリンはすぐには追いかけず、ネギの向かった方向を確認し、眼下の戦いの状況を確認する。

 

「ほぼ互角か。茶々丸はともかくチャチャゼロめ、楽しんでるな」

 

 久方ぶりの戦闘と相まってチャチャゼロが本気を出さずに遊んでいることは、同じようにネギで遊んでいるエヴァンジェリンには直ぐに分かった。

 

「人のことは言えんか」

 

 身に纏う外套を蝙蝠の羽のように大きく広げ、我が物顔で夜空を進む。十五年分の鬱憤を吐き出すかのように大きく外套を羽ばたかせてネギを追いかける。

 急加速をして三秒で一心不乱に空を飛び続けていたネギを射程圏に捉えた。

 

「氷爆!」

 

 エヴァンジェリンによって作り出された氷の爆弾がネギの左後方で爆発し、凍気と爆風が同時にネギに襲い掛かる。

 

「あぐうっ!」

 

 咄嗟に伸ばした手の先で障壁を展開し、最低限地面に叩きつけられることだけは回避したが左半身の所々が氷付けになってしまった。

 

「ハハハ、どうした逃げるだけか? もっとも呪文を唱える隙もないだろうがな!」

 

 凍った体の箇所もそのままにすぐさま態勢を立て直し、再び今までと同じ方向へ飛び出した。その先には今日の為にネギが張った罠がある。

 ネギは自分が魔法使いとしての力量で大きく劣っているのを自覚しているので敵わない事など百も承知だった。勝つために罠の一つや二つは用意している。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック 来たれ氷精 大気に満ちよ。白夜の国の凍土と氷河を こおる大地!」

「わ――ッ!」

 

 一つ一つの氷が全長五メートルを楽に越すその氷山を間一髪で避けたネギだが、無理な動きをした代償に杖から放り投げられて、何度も跳ねながら悲鳴を上げて橋の上を転がる。

 手加減したとはいえ自分の魔法を避けたことに僅かに賞賛の眼差しを向けながら、橋に降り立ったエヴァンジェリンはネギの企みを看破した。

 

「ふ………なるほどな。この橋は学園都市の端だ。私は呪いで外には出られないから、ピンチになれば学園外へ逃げれば良い、か。意外にせこい作戦じゃないか。え? 先生」

 

 地面に這い蹲るネギを見て、エヴァンジェリンが腕を振るうとこおる大地が消え去る。

 真っ直ぐ過ぎたネギが多少なりとも努力した事を認めて歩を進めていく。ぐぅ、と唸りながらネギは近づいてくるエヴァンジェリンを、悔しげな表情でただ見ているだけのようではあるが、如何せん顔に出過ぎだった。

 真っ直ぐ過ぎる性格が仇になっていた。腹芸や罠を仕組むには性格的に難しかったのかもしれない。こういう罠はアーニャやカモの領分で、生真面目で気負いすぎるネギには少し早かったようだ。

 エヴァンジェリンにはネギの態度と間の地面から僅かに漏れる魔力で、何処に罠があるのかは分かっているが、それもまた一興だと気にせず進む。ネギは息を呑んでエヴァンジェリンがその場所へと足を踏み込むその時を待った。

 

「これは……!」

 

 その場所に一歩踏み入れた途端、アスファルトに刻まれた術式が起動する。

 これは陣が敷かれた上に、対象が足を踏み入れた時に発動する、対象を絡め取る結界。魔法円が浮かび上がり、そこから伸びる幾重もの光の縄がエヴァンジェリンの身体に巻きついて自由を奪っていく。

 罠に嵌った当のエヴァンジェリンは逃げ出そうという気配はなく、最初は驚いていたが僅かに感嘆の声音を漏らすなど落ち着いたものである。

 

「ほぉ、捕縛結界か。よく考えたな」

「や、やったー! 引っかかりましたね、エヴァンジェリンさん!」 

 

 完全にエヴァンジェリンが結界に捕らえられた事を確認すると、ネギはガッツポーズをして喜びを全身で表現し始めた。

 自分が張った捕縛結界ならば破られないと自信を持っていた。だが、ネギは極限に至りし魔法使いを知らない。破られるとしても時間がかかり、無防備な姿を晒しているのだから負けを認めると考えていた。 

 止めも刺さずに、そうしているのはネギがまだ十歳にも満たない少年であるが故に仕方のないことかもしれない。これが試合で審判でもいればネギの勝利が確定したであろうが、この戦いは試合でもなければ審判もいない。勝敗の判定は最後に立っていた者によって決まる。

 

「もう動けませんよ、エヴァンジェリンさん。これで僕の勝ちです! さぁ、大人しく観念して負けを認めて下さい!」

 

 ネギはこの時のために夕方に設置しておいた切り札である捕縛結界が上手くいったことに喜びながら自信満々に勝利を宣言して、今までの緊張が解き離れたようなハイテンションでエヴァンジェリンに捲くし立てる。

 

「やるなぁ、ぼうや。感心したよ。ふ、あは、アハハハ!」

 

 紡ぎだされた最初の言葉は罠に嵌めた事への純粋な賞賛。今まで未熟ばかりが露呈していたが、こと数えで十歳の少年が本気でないといっても伝説の相手に戦い、罠に嵌める知略を見せ付けた。

 束縛する捕縛結界を見ても、ネギが才気溢れる少年であり、魔法使いとして前途有望だと彼女自身も認める。しかし、後に続いた笑い声はさっさと止めを刺さないネギの甘さへの嘲笑。確かに真っ直ぐ過ぎた少年が罠を張り、自分を一瞬でも追い込んだ手際、見事と言えよう。

 年齢からの未熟か、人間としての未熟か、或いは己の力への過信か、極限に至った魔法使いに対する認識不足か、ここで直ぐにトドメを刺さなかったのは致命的であった。

 

「な、何が可笑しいんですか!? ご存知のように、その結界に捕らえられたら簡単には抜け出せないんですよ!」

 

 称賛と嘲笑。そのどちらにも、敗北を認めるような色は欠片も混じっていなかった。

 ネギにはエヴァンジェリンが理解できない。惜しむらくは、エヴァンジェリンの戦士としての実力を把握しきれなかったこと。

 

「坊や。貴様、まさかこの程度の罠で私が屈すると本気で思っているのか? サウザントマスターに負けたとはいえ、私は最強クラスの魔法使いだぞ?」

「え?」

 

 込められた嘲笑には気付かずとも、正の感情で笑われたことでない事を悟ったネギは問うが返って来た言葉を理解する前にエヴァンジェリンの身体から魔力の濁流が迸り、体を押さえつけている鎖がギシギシと軋む。ネギは自分で最大にして最後の勝機の時を失ってしまったのだ。

 

「私はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。最強の『悪の魔法使い』だ!!」

 

 言葉の後に力のままパキンッ、とガラスが割れる様な硬質の音を響かせて鎖を引き千切った。

 

「……あ……」

 

 常識外れの力技を目にしたネギは唖然とするばかりで声にならない声が自然と零れ落ちる。そんな常識外れを成すのがエヴァンジェリンであり、英雄と言われたナギである。ネギはそれを実地で実感させられた。

 

「そ、そんな……っく!」

 

 内心で卑怯だと感情的な批判を浴びせながらも、再び捕らえようと詠唱を始めようとしたネギだったが、何時の間にか体を夜目ではほとんど見えない糸で拘束されていた。

 

「あ……っ!」

 

 拘束されてほとんど動けないネギに、近づいてきたエヴァンジェリンは簡単に杖を取り上げた。魔法使いは特殊な事がない限り、杖がなければ魔法が使えなくなる。糸で拘束されていることも合わせて既に死に体と言っていいだろう。

 

「フン、奴の杖か」

 

 ネギから奪い取った杖を、過去を連想させる忌々しさと郷愁から思い起こす僅かな懐かしさを混ぜた目で見つめること数秒。

 

「ああっ!?」

 

 ポーン、と子供が興味の失せた玩具を放る様に、或いは過去の未練を断ち切るように橋の下に広がる湖へ無造作に投げ捨てた。戦闘において敵の戦力を減らすのは常套手段。彼女がそれを成すのに果たして何を思ったのか。

 エヴァンジェリンの行動に杖の持ち主のネギは元より、遠くから見ていた学園長や高畑にさえその行動は予想外の事で、放物線を描いていく杖をただ呆然と見届けるだけだった。

 

「エヴァンジェリンさん! あ、あれは僕の何よりも大切な杖、あれがないと僕は…………」

 

 いま自身が口にした通り、自分が何よりも大切にしている杖を投げ捨てられて、ネギは完全にただの十歳の少年と成り果てる。

 父の杖を奪われたことで急速に戦意を失っていく。あの杖は六年前からどんなに寂しい時、辛い時でも共にあり続けた心の支柱であった。

 策はいとも簡単に打ち破られ、杖は奪われて失ってしまった。心の支柱を失ったネギの肉体からみるみる内に覇気が抜けていき、目から闘志の光が消えた。残ったのは戦う意思を無くした小さな子供だけ。 

 杖を投げ捨てた本人であるエヴァンジェリンは、杖がないだけで闘う意欲を失った情けない姿に苛立ちを感じていた。それと同時に自身がネギにサウザントマスターの影を重ねていたことにも気付かざるを得なかった。

 目の前にいる子供はただの十歳にも満たない見習い魔法使いにしか過ぎないのだと。ナギと同じ気概をネギにまで求めたのは間違いなのだと。

 

「あうっ!?」

 

 パシンッ、と乾いた音がネギの頬から響いた。苛立ちが限界に達したエヴァンジェリンの平手打ちが、ネギの頬を殴打したのだ。打たれた衝撃でネギの眼鏡が音を立てて橋の上に転がっていく。

 

「一度戦いを挑んだ男が簡単に諦めるな、馬鹿者! この程度でもう負けを認めるというのか!? お前の親父ならばこの程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ! アスカでも立ち向かおうとしただろうよ!」

 

 苛立ちから指を突きつけてエヴァンジェリンはネギを罵倒する。

 これが見習い魔法使いだとしてもサウザントマスターの息子がこんなものでどうするのだと、そんな思いが表面に出てきた。あの誰にも屈しなかった男の息子が、啖呵を切って来た双子の弟がいるのに、こいつだけがこんなにも弱いことを認められない。

 

「あ、ぅ……」

 

 ネギはエヴァンジェリンに気圧されたように力なく、糸に拘束されまま項垂れる。

 

「はっ! 所詮、奴の息子といえどこの程度か。最早血を吸う価値もない。いや、サウザントマスターや、兄がこの程度ならアスカも同様だということか」

 

 ネギの怯えた視線を受けて、ふと感情を荒げている自分に気づいたエヴァンジェリンは、冷静さを取り戻した後、改めてネギへの正しい評価を口にした。

 ネギも自分達の実力が違うのは初めから分かっていた。その差を埋めるための策を用意したとは言っても、負けるかもしれないという思いは少なからずあった。だが、エヴァンジェリンを罠に掛けた時に勝ったと慢心せず、止めを刺していれば結果は変わっていたかもしれない。今更にそんな思いがネギの胸中に広がるが、後の祭りであった。

 

「ちっ、これぐらいでもう心が折れたか。存外に脆かったな」

 

 ナギならば決して諦めず、例えどんな窮地に陥ようとも常に勝利を渇望し、そして勝ち取ってきた筈だ。そもそもこの考え自体がネギを見ていないのかもしれないが、今更変えるつもりも無い。元々大してネギに期待していたわけではないが、それでもやはりナギの息子がこの程度と言うことには一抹の失望を感じずにはいられない。

 糸を解いてネギの拘束を解き、踵を返した後ろで地面に落ちた音を無視して、ゆっくりと空を飛んでネギから離れていく。

 ネギは見逃された事に安堵の息を漏らすが、未熟な自分と違い尊敬する父をアスカを侮辱されることは何よりも許せなかった。

 

『お前の親父ならばこの程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ! アスカでも立ち向かおうとしただろうよ』

 

 エヴァンジェリンに言われた言葉が蘇って記憶にある父の姿が思い浮かぶ。ネギが絶望した時に現れ、どれだけの悪魔の群れに囲まれようとも負けなかった圧倒的な力を披露した背中。アスカには最初から分かっていたのだろう、エヴァンジェリンの巨大さを、強さを。それでも誰にも弱音を吐くことなく立ち向かおうとしていた。

 

『サウザントマスターや、双子の兄がこの程度ならアスカも同様だということか』

 

 その心底の失望を感じさせる言葉が、ネギの心に漂っていた暗い気持ちを吹き飛ばしていく。父への思いは、ネギ自身の中にあるどんな思いよりも優先される。双子の弟への侮辱は、父への思いに匹敵するほどの意志の強さをネギに与える。

 

「…………訂正してください」

 

 恐怖は怒りへ、諦めは闘志へ、ただ想いだけが折れていた心を繋ぎ合せ、伏せていた体を起こさせる原動力となった。震える体を鼓舞して立ち上がり、唯一残っていた子供用練習杖をポケットから取り出し、去って行くエヴァンジェリンの後姿を見据える。

 

「僕のことを言われるのはいい…………見ての通り、こんなにも情けない男です。でも、二人は、二人のことだけは訂正してください!」

 

 躊躇は一瞬、不安を吹き飛ばすように杖を掲げ、全身から放出した魔力が風となって竜巻を引き起こす。

 

「ぬっ、まだやる気が残っていたか」

 

 ネギから発生した風に体を煽られるも、エヴァンジェリンはすぐに体勢を立て直す。立ち直ったとしても戦力差は歴然、ゆっくり待てばいいとエヴァンジェリンは気楽に考える。心が折れたまま無様な抵抗を繰り返すのか、それとも……………。

 

「…………ふん」

 

 空中にいるため物理的にも、そして心情的にもネギを見下しながら、エヴァンジェリンは尊大に腕を組み、立ち上がった『魔法使い』を見やる。

 ネギの方は、まだ表情に緊張が見受けられ、足もガチガチに固まっていた。情けなくも震え、目は今にも逃げ出したいと叫んでいるのが見て取れた。決して恐怖を克服したわけではないが、二人への思いがネギの体を支えていた。

 それでも立ち上がったネギを、かつての愛しい仇敵の姿に重ね、エヴァンジェリンはキッと目を細めて見据える。

 確かにナギよりも圧倒的に弱い。アスカよりも遥かに弱い。自身よりも天と地ほどの差があるほどに弱い。その姿を見れば、恐ろしくて、怖くて、みっともなく逃げ出したいことは、どんな惨めな姿になっても許しを乞いたいことは分かった。

 痛い思いをしたくない、怖い思いに合いたくない。だけど、逃げ出さない。恐怖に抗い、命の危険に立ち向かって見せた。生まれたての小鹿のように全身を恐怖で震わしているいまのネギの姿は情けないだろう。だが、エヴァンジェリンは笑う気にはならない。

 どんな情けない姿でも抗って見せたのだ、このエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに。伝説に、闇の福音に、真祖の吸血鬼に。

 果たしてこの学園に本気となった自身に抗って見せようという気概のある者が何人いるだろうか。どんな動機であろうと、どうやっても勝てない力の差を理解した上で折れた心を抱えて抗う者を笑うことなど出来ようか。

 

「よく立った。ネギ・スプリングフィールド。先程までとは打って変わって、随分と良い顔をするようになったじゃないか。正直、見違えたぞ」

 

 ネギの行動を褒め、賞賛するようにエヴァンジェリンは言葉を紡ぐ。

 

「だがな、私にさっきの言葉を訂正させたいのなら実力でしてみせろ!」

 

 彼女は今こそ『ネギ・スプリングフィールド』という人間を認めた。自身が戦うに値する人間だと、『ナギ・スプリングフィールドの息子』としてではなく、『ネギ・スプリングフィールド』としてその存在を認めたのだ。

 封印を解く供物ではなく、この場において伝説の吸血鬼を前にしてネギは勇気を示し、いまなお立ち向かおうとしている。

 

「……はいっ!」

 

 言葉を放つエヴァンジェリンの姿は少女の姿をしていても、そこにいるのは何者にも媚びぬ覇者の風格を備えた最強の魔法使いだ。エヴァンジェリンの呼びかけに、ネギは圧倒されながらも、今までとは打って変わり強い意思を持って踏みとどまって叫び返した。

 自らの意思をはっきりと乗せた言葉で戦いの開幕を迎え入れたネギは、この勇気を与えてくれた父と弟に感謝の念を抱いた。

 辺りから音が消え去り、嵐の前の静けさを思わせる刹那の静寂が辺りを押し包む。子供用練習杖はエヴァンジェリンに投げ捨てられた父の杖に比べれば余りにも頼りないが、我侭は言っていられない。戦意は十分。勝機は薄く。だが、諦めなかったネギの下へとアーニャを抱えたアスカが滑り込んできた。

 

「良く言ったっ!」

 

 ネギの前で着地したアスカはボロボロだった。服のあちこちが切り裂かれ、チャチャゼロによって付けられた切り傷が全身を覆っている。

 

「言うじゃない、ネギの癖に」

 

 アーニャの身なりも酷いものだった。茶々丸に殴られたのか頬を大きく腫らし、立ち上がった立ち姿もどこかぎこちない。

 

「二人とも……」

「良い啖呵だったぜ。こっちまで聞こえて来た」

「そうよ。私の名前がなかったのは剛腹だったけどネギにしては上等なこと言うじゃない」

 

 ネギは二人と比べて怪我は殆どない。怪我の具合を見るだけでどれほどの激戦を行ってきたかが分かった。一番酷い怪我を追いながらも退く気など一切アスカはネギを横目で見た。

 

「やっぱエヴャは強かったか」

「うん、僕じゃ手も足も出ない」

 

 アスカの問いに答えながら、ネギは戦意も高くエヴァンジェリンと合流した向こうの従者二人を見据えた。

 

「茶々丸もあれは卑怯だわ。なによロケットパンチって」

 

 頬を殴られたのはそれなのか、向こうの陣営で若干申し訳なさそうに頬を撫でているアーニャを茶々丸が見ていた。

 

「そっちの方は勝てそう?」

「無理。完全に遊ばれてる。ちっこいくせに洒落にならねぇ強さだ」

「アスカがお手上げなら私達はどうにもならないわよ」

 

 この三人の最高戦力は文句なしでアスカだ。そのアスカが相対する敵を倒せないとなれば、当初の予定は大幅に狂ってしまう。

 警戒しながらも敵の前で作戦会議をしている三人に呆れを感じつつ、エヴァンジェリンは己が従者達を見た。

 

「どうだ、アイツらは?」

 

 ご機嫌なチャチャゼロを見れば分かるが敢えて聞いた。

 

「ヤルゼ、アノ金髪。他ノ二人モ見テタガ単体戦闘能力ハ、アノ中デハ最高ダロ。ダケド、マダマダナッチャイネ」

 

 チャチャゼロはエヴァンジェリンの最初の従者として、最も苛烈な時代を共に生きて来た。そのチャチャゼロの目から見ても才覚を感じさせるアスカだが、まだまだ未熟と断じる。

 

「アーニャさんは型破りなところがあります。信じられない攻撃をしてきました」

 

 服のあちこちを焦げさせた茶々丸は静かに己の所見を述べる。少なくとも、身に宿す魔力の量で言えば、ネギとアスカは自分と肩を並べる事ができる事をエヴァンジェリンは少しの苛立ちと共に認め、従者から聞いた話も合わせて三人の評価を大幅に改めた。

 

(自分ならば、三人をどう育てる?)

 

 心の強さを見せたネギ、初代従者に才能を認めさせたアスカ、茶々丸を驚かせた意外性のアーニャ。

 これだけの才能、自分で育成というのもしてみたくなったエヴァンジェリンである。いまの未熟さなど自身が鍛えれば簡単に叩き直せる。

 

「それもこの戦いの決着次第だ」

 

 奇しくも最初と同じ位置関係になった両組は戦意を高めて、再度の激突に備える。

 何かの切っ掛けでいつ崩れてもおかしく均衡を崩したのは、第三者の存在だった。

 

「こら、待ちなさい――っ!」 

 

 この戦いの最大のイレギュラーが紛れ込んで来た。

 


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