―――――――世界を背負ってまで求めたものは
光が瞬いては消え、宙を舞う者達が踊るようにすれ違い、爆光が煌めいては閃く。対極にある二つの想いが狂気と化して幾度となく交差し、交錯し、それでも決して混じり合う事はない。
交錯し、光を撒き散らす超越者達。白と黒の超越者が描く光の軌跡が、周辺空域をネオンの如く彩っている。引かれ合い、惹かれ合い、だが重なり合うことはない。ただひたすら出会いと別れを繰り返している。
拳を噛み合わせたまま、ネスカと造物主が顔面同士触れんばかりの距離で睨み合っている。込められた力によって小刻みに震える体が互いの破壊を目指していることが、見ずとも手に取るように感じ取れた。
「ぐぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁあああ……………………!」
「ぬぅああぁぁぁぁぁああぁぁあぁあ……………………!」
眩い光が視界を圧倒して脳内に押し拡げられる。心身を押し包む力の圧迫をも遠ざけるその光は他者の存在を許さない。
世界すら軽々と砕きそうな造物主の力。抗うネスカもまた例えるなら岩を砕く荒れ狂う大河の激流。
闘いの舞台は墓守り人の宮殿の周辺空域にまで戻って来ていた。闘いが始まって何分が経過したのか、激闘を続ける二人は完全に時間の感覚を失っている。
互角の戦いを見せる二人の攻防は一進一退で、このままでは両雄が数千年戦い続けても雌雄は決しないように思われた。
どれだけネスカが力を集めようとも、それを制御するのは一人の人間にすぎない。やはりナギの肉体を得た造物主の力は強大だ。
ナギ・スプリングフィールドという世界最強の肉体を得たことで史上最強になった造物主と違って自身の力だけで追従しているネスカには遠からず限界が迫っている。そうだとしても力を抜くことは出来ない。少しでも力を抜けば圧される。形振り構わずでようやくネスカは造物主と互角になったにすぎない。それも、今にも壊れそうな天秤の上でやっとだ。これだけやって対等に辿り着いただけだ。そして、深海にも底があり、空には果てがあるように、これ以上は望むべくもないことも、ネスカは重々自覚していた。
「ぐっ、あ! ………でっやあああああああああっつ!」
「むんっ! はっ! ―――――っっはっつ!」
ネスカの拳と造物主の拳が激しく交差する度、星久を砕いたような光の波が拳撃の合間で発生し、光の力場に溶けてゆく。前後左右に押し合う光の力場は、他者の存在をどこまでも否定する。
両者の戦闘空域に紛れ込んだ愚かな飛行石達が、分を弁えない愚か者に神罰を下すかのように塵へと変えていく。
この戦場に他の誰も介入させない。余剰物を排し、戦場には二人分の殺気が充満してネスカは息をつめて拳を構え直した。
二人は全く同じタイミングで跳び、互いに拳を打ち合い、交錯した狭間で発せられた光が激突してスパークの光を弾けさせた。轟音が爆ぜる。頭上の雲でぼっ、と真円の穴が穿たれ、隠された空が露になる。音速を超えた激突が生んだ衝撃波が天を引き裂いたのだ。
「どうしてそこまで呪われた生にしがみ付く!」
瞬きの更に半分の後、スパークした光が弾けて交わる向こうで互いの顔を映し出す。
「生き物は自分の子に未来を託すのが本性じゃないのか! あんたはどうして次の世代に託そうとしない!」
「託すに託せるものではない! 彼らがあまりにも愚か過ぎるのだ!」
負けられない、目の前の相手にだけは。本能の叫びが体を突き上げ、何度目かも分からない拳を突き出す。造物主の拳がほぼ同時に振り上げられ、干渉し合う光が空を覆う光を揺らめかせた。
殴り飛ばされて追撃を仕掛けるネスカに向けて造物主は片手を差し出した。同時に、指先に紅が小さく宿った。
「行けっ!」
造物主が叫ぶのと、指先から炎の奔流が放たれるのは同時だった。迫るネスカの顔に灼熱の風が吹きつける。
「くっ……!」
ネスカは押し寄せる龍の如き炎を睨みつけて急に高度を上げる。その軌跡を、遠い造物主の指先がなぞった。炎龍がその指に従って同じだけ高度を上げてくる。
「誘導――――この規模でだと?!」
右へ左へと旋回しても、高度を下げたり上げたりを繰り返しても炎龍は執拗にネスカの背を追ってくる。圧倒的に高密度の、防御もせずに飲み込まれれば肉体など消し炭一つ残さない炎だ。
高速で移動し続ける物体に早々当たるものではない。怖いのは、進行方向と敵の射線が水平に交わった瞬間――――即ち、真正面か真後ろにいられる時だ。それ故、とにかくジグザグに動き回る。慣性飛行を五秒も続けたら、止まっていると見做されるのが空戦戦闘の実態だ。
「逃げられない、なら!」
何時までも追いかけてくる以上、後退することは意味を成さない。逃げるのを止めて迫り来る炎龍へと向けて加速した。
軌道修正の叶わない距離まで引き付けた上で、紙一重ですれ違うしかなかった。加速しながら身体を揺らして様子を見るも、どう動いても造物主の指先に誘導された灼熱の顎が広がっていてアスカを逃がしそうにない。
「まだまだ行くぞ!」
造物主が指先だけは炎を誘導しながら交差した腕を振り下ろすと、瞬く間に視界を涙のように澄んだ刃が埋め尽くすように放たれた。
前方からは炎龍が、それ以外からは周囲を氷刃が埋め尽くすように包囲していく。
どんどん大きくなる前方の炎を見据え、周囲から迫る氷刃が空気を切り裂く音を聞きながら逃げ場を失ったことに悟り、アスカはそのまま炎の中へと消えた。
炎龍と激突し、爆煙の中に消えた白い光を見届けた造物主は構えを解かなかった。
「この程度でやられてくれるとは思えん。その程度の男ならば既に決着がついている」
見上げる先で、渦巻く火球が一瞬蠢くのを止めた。暫しの後、内から何かに抗うように細かく震え、少しずつ膨張していき、最後に砕け散った。爆ぜ落ちる炎の紅と引き裂かれた黒煙の狭間から突き破って、辺りに満ちた黒煙を振り払った白い光が輝きを放ちながら向かってくる。
「っ!」
だが、それは囮。背後から気配を消して近づくアスカに気づいて、振り向き様に十分に魔力の乗った裏拳を放つ。
黒煙を振り払った白い光が沫となって消え、隙を突いたと思っていたアスカは咄嗟に障壁を張ったが、造物主の一撃の威力は障壁の防御力を凌駕しており、障壁は粉々に砕かれた。
「がっ――!」
一撃を完全に防ぎきれず、弾き飛ばされながら鮮血を迸らせて、アスカは横に吹っ飛ばされた。
「滅びよ」
造物主は裏拳を放った手を吹っ飛ぶアスカに向けて、手の先で黒い雷が帯電して究極の破壊の波動に満たされる。その強大無比な魔力で、雷鳴を数百倍に増幅したような轟音を天地に響かせると共に、アスカを攻め立てる。
一瞬後、暗黒に染まった波動が帯状に広がる雷となって打ち出された。
「――――――あああぁぁあああああああああああああああああああああああああっつ! ……………っは―――――――――っつ!」
アスカは体勢を整える間もなく間近に迫った黒い雷を前に気合一閃で雷の暴風を放つ。
次の瞬間、雷鳴にも似た音が耳をつんざき、同時に凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。雷の暴風は造物主の黒い雷と衝突し、混ざり合い、遂にはこれを相殺することに成功したのだ。
「ぐっ………」
アスカの払った犠牲は、大きかった。
無茶な体勢で技を放ったことによる力の消耗と、相殺したといっても間近で迎撃した所為で黒い雷の波動をまともに浴びたことで腕と言わず脚と言わず、猛獣の牙にでも噛み砕かれてしまったかのように深い傷を負ってしまったのだ。
苦痛に呻くアスカを前に造物主が手を翳すと、近くの空間を漂っていた一㎞近くはあろうかという岩石が彼の念によって引き寄せられる。
「流星」
岩石が近くに来たところで造物主が腕を一振りすると、岩石は一つの一つの欠片が数メートル台にまで爆砕され、無制限に加速して超高速の凶器となった何千、何万という散弾がアスカに襲い来る。
それは、天より堕ちる巨大な隕石にも等しい衝撃、破壊力であった。稲妻の速さで失墜する
「うっ………!? ………っぐ………っくっ…………っぐああああああああっ!」
アスカは展開した障壁で防ぐので手一杯で、反撃する余裕もない。なんとか三分の二は回避に成功するも残りが身体を傷つけて、皮膚が裂け、肉が裂けて、鮮血が目の前を赤く染める。
「どうした? 顔色が冴えぬようだな。―――――むんっ! はっっつ!」
「ぐっ、………っ………っく! っぐあっ!」
なんとか戦いを再開するアスカだったが、先程までの接戦が嘘のように、造物主の攻撃が幾つか肉体を貫いていく。
鋭利な岩石の刃は確かに恐るべき破壊力を秘めていたが流れが完全に造物主に傾いた状況は良くない。
「ええいっ!」
「ちっ、目潰しか」
両腕に雷を溜めて掌を勢いよく打ち合わせることで強力な発光を生み出す。
体勢を立て直す時間を得ようと離脱したネスカは光の残滓を突き破って離脱する。しかし、距離を取って振り向きかけたネスカを光線が掠め、不味いと思った時には遅かった。光の壁がネスカを取り囲み、波動を伴ってネスカに浴びせかけた。
「人は勝手なものだ。信じれば裏切られる」
声にならない悲鳴を上げたネスカは全ての力を防御に回すことで耐え切るも、虚無よりもなお深き造物主の眼を直視して肉体が重く硬直させる。
「信じれば傷つく」
ネスカの中で溜め込んでいた塊が一気に解放され、両腕の間から迸る雷を走らせ、電磁加速砲の要領で加速した風の弾丸が音速すらも超えて造物主へと放たれる。
しかし、準光速といっていい速度の風の弾丸を造物主は直前に急加速をかけて躱した。応射された光が横合いからネスカに殺到する。
「認めよう。今の貴様は確かにナギ・スプリングフィールドよりも強い、圧倒的に」
出力を絞った速射型の光弾に乗って、造物主の声がふりかけられる。
ネスカよりも力を使っているはずなのに、そのスピード、パワーには些かの衰えもない。いっそ体が馴染んできて動きが鋭くなっているとも思える造物主が縦横に奔り、八方から飛来する光弾がネスカを狙う。
「だが、貴様一人がどれほど強く輝いても、世界全体を背負えるわけではない。これから貴様が為すことも、やがては歴史の闇に埋もれてゆく。変わらんのだよ、人は、世界は!」
擦過した光弾が障壁を抉る。やはり遠距離では勝ち目はない。接近戦に持ち込む他ないが、造物主はまったくその隙を与えてくれない。ネスカはぎりと奥歯を鳴らし、避ける動作に神経を注いだ。
光球が造物主の周囲を巡り、輝く闇色の魔力の塊は、揺らめきながら大きくなり、それぞれが頭上で大きく乱舞し始める。
「行け!」
戦意を声に出して吐き出すと共に造物主の頭上で天使の光の輪にも見える光の集合体が四方に押し広げられ、一斉に飛び立って各々にジグザグの軌道を描いて跳ね回り、一束に収束する。
「―――――ッ!!」
どう、と光が奔流となり、ネスカに真っ直ぐ向かってゆく。
迫る光弾を前に、一秒が一時間にも引き延ばされた一瞬の後、意識と一体化した肉体が動き、灼熱する光の渦が連続して視界内に弾けた。
光弾はネスカの直前で破裂し、無数の光の玉とよって一瞬で百を越える爆発の火球が行く手を遮るように膨れ上がり、体を包み隠してゆく。ネスカの進行方向の長い道を遠目からでは篝火のように飾った。
造物主の憎悪そのものである衝撃が二度、三度と体を打ちのめし、ネスカの心身を容赦なく苛んだ。ただの衝撃波だけで飽和した障壁が弾け、ネスカの体が意識とは別に後方に弾き飛ばされる。
そこに避けようもない光玉が迫る。姿勢を整えて避ける間もないネスカは風盾を展開して受けた。
「…………!」
だが、障壁に命中した光は、空中でしっかりと踏ん張ったはずのネスカを一気に数㎞も後退させた。
「あああ…………ッ!」
ネスカは防御障壁の出力を全開にして咄嗟に施した最大の防御の上からでも、凄まじい衝撃が伝わってくるのがネスカには分かった。四肢が千切れたと思うほどの衝撃が脳髄を貫き、ぱっと弾けた空白が頭の中に広がる。
削るどころではなく、抉ってくる光を辛うじて軌道を反らした。かろうじて軌道を逸らしたものの、余波だけでもネスカの身体を大きく揺らし、バクッと鼻の真ん中を横一文字に切れて出血する。
闇色の光は天に向かって走り、雲を抜いて消えていった。
ネスカは膨れ上がる衝撃波に押されて錐揉み状態に陥り、目まぐるしく回転する世界が視界を埋める。
空中に滞留したネスカを前に造物主が現れ、攻撃を重ねる。
「私は越えられぬ。これが………この世界を創造した我が力の一端―――――これで終わらせる!」
造物主の囁きが耳朶を擽り、同時に左の下腹部に強い衝撃が走った。造物主の拳が深くめり込んでいた。がら空きの顔面に目掛けて反撃の一撃を振るう。
パンッと、くぐもった破裂音を響かせて、振りかぶられたネスカの拳が払われ、身体が勢いに流れたところに造物主の次の一撃が加えられた。閃光のような蹴撃が側頭部に決まる。
首と頭蓋の両方から、反対側に抜けていく衝撃。間髪入れずに魔力の輝きを帯びた拳打を胸板にもらって吹き飛ばされる。
一瞬で何百メートルも吹き飛ばされながら意識を遥か前方に向けると、光り輝く無数の球体が迫っていることが分かった。前方に障壁を何枚も展開するが次々と突破され、咄嗟に全身を覆うように展開した障壁に着弾する。
全身を包んだ障壁を揺るがす衝撃に、アスカは呻き声を上げた。
「ふっ!!」
爆煙によって遮らせた視界の最中、造物主が息を吐く音が直上から聞こえた。
半瞬にも満たない刹那でネスカに肉薄する。ネスカは咄嗟に迎撃の一撃を放ったが、万全の状態で放たれたわけではないので手の甲で難なく払われて体が泳ぐ。
「尚も歯向かうか。その心意気だけは認めよう」
造物主の組み合わせた両手が動き、真上から思い切り叩きつけられた。上位古代語魔法を放つのと同じぐらいの魔力が込められた一撃に轟音が空間に炸裂して、全身を包んでいた障壁が一瞬の停滞すらも許さず粉々に砕けて攻撃が背中に食い込む。
「人を信じて世界が変わるものか! 気持ち一つで、越えられない壁を壊せると、奇跡が起こると思うな!!」
下方に落とされながらその叫びを聞く。
ここで自分たちのしていることが、正に人としての業であり、罪なのだ。どんな理由を掲げようとやっていることに変わりはない。
「驕らぬ者などいない! 惑わぬ者などいない! 恨まぬ者などいない! 怒らぬ者などいない! 貪らぬ者などいない! 妬まぬ者などいない! 怠けぬ者などいない――――ッ!!」
この世に渦巻く悪意と罪業を叩きつけるような造物主の連撃を耐える。
「明確な悪意に踊る者もいれば、虐げられた果てに堕ちた者もいた!」
拳の一撃一撃がネスカを打ちのめし、一瞬とはいえ意識を消し飛ばして痛みで直ぐに復活させる。その連続の狭間で垣間見た造物主の過去がフラッシュバックしていた。
「取るに足らない些細な悪意から、他を喰い潰すドス黒い極悪まで、多くの罪悪をその眼に焼き付けてきた!!」
言葉の一つ一つが氷の針となり、腹の底を凍てつかせるのが感じられた。無条件に同意させられた本能を振り払うも闇は纏わりついて離れない。
「人の心は脆い! 例え世界を救おうとも喉元を過ぎれば忘れる! そうなれば変わらずこれまで通りの歪な世界が続くだけのことだ!!」
殴打を受ける体が、何よりも言葉とは裏腹に何もかもを諦めて、しかし諦めきれない嘗て神だった者の慟哭が心に痛い。
(俺のしたことは正しいのか?)
ア7スカは茶々丸を通して世界に映像を流して安定という名の硬直に波紋を投じた。しかし、本当に正しかったのかと、造物主の憎悪を目の当りにしてネスカの中に疑問が浮かんだ。
旧世界だけでも数十億の人がいる。それだけの人がいるなら多少の歪みや不平等は生きていくための必然だ。無理に正そうとすれば、忽ち全体のバランスが狂って世界は崩壊する。
何度も何度も攻撃を受けてボロボロになり思考の袋小路に陥ってネスカを前にして、攻撃の手を止めた造物主が救いの手を差し伸べた。
「いま貴様が信じている希望、可能性は、いずれ裏切られる。私はそういう例を何人も見てきている。今ならまだ間に合う。私に従い、理想の世界を造るのだ!」
ズキリ、と差し込む痛みが胸に走った。意識して封じ込めていた想いを言い当てられ、冷たい空気に体の熱を奪われたネスカは改めて造物主を見た。
衝撃の軽減と共に全身を締め付けていた気嚢が萎み、鬱血した頭からすっと圧迫が遠のくのが感じられたが、体全部が肉離れを引き起こしたような、不穏で不快な違和感は骨身の奥に残り続けた。
肩で息をしつつ、腕を上げて顔の汗を拭う。頭痛が取れない。高速移動による重圧で締め付けられ通しの全身がひりひりと痛む。つん、と鼻の奥に痛みが走り、ぬるりと生暖かい感触が鼻から漏れ出すのを感じた。鼻血を腕で拭って後を追って飛び出してきた造物主と相対する。
「儀式発動まで、まだ幾ばくかの猶予がある。今一度だけ選択を与えよう。ここで死ぬか、我が前に屈するか」
造物主の声の冷たさは冷酷さから来るものではない。運命に絶望し、達観した者が持つ心が凍りついたかのような冷たさだ。
油断とも思える隙を晒す造物主は、来るべき敵は全て粉砕するとばかりに泰然とした調子でネスカを見下ろす。
「……………、」
問いかける声に対するネスカの返事はまだない。
諦観に沈む造物主の目を見上げ、その闇に吸い込まれる錯覚に囚われた時、第三者の声が頭の中に響き渡った。
《―――――呑み込まれるな》
固まっていたネスカの冷えた体を内側から温めるようなその声とは別の声が続く。
《よく見ろ、過去の怨念に支配された造物主に未来は見えていない》
甘い匂いと共にもう片側の耳に声が響く。
《あの方は独り。もう誰も背中を支える者はいないのだ。他者に裏切られるからと全てを拒絶する哀しい魂を救ってやってくれ》
声に従って改めて造物主を見れば、誰とも共に在ることが出来なくなった年老いた恒星のように倦んだ残光を放つ孤独な光が目に入る。
《暗闇で立ち止まっている限り、望む未来がやってくるはずもない。自分から光に向かって歩かなければ希望が生まれないと分かっていても、絶望しきったあの方にはそれが出来ないのだ》
悲し気に語る声に、造物主が何を根底としているのか、やっとネスカに理解できた。妄執である。同時に、どうしようもないほどの信念であった。誰もにも曲げられず、誰にも止められない程の、いっそ絶望的な精神は自分で道を変えることすら出来ないほど凝り固まってしまっている。
《過去に絶望して足を止めちまった奴に、未来を語る資格はねぇ。未来を創るのは今を生きる者だけだ。それを教えてやれ》
幻聴ではない。確かに聞こえる声達に導かれるようにネスカの総身に力が漲ってくる。
「まだだ………」
否、と造物主に言葉を否定するように意思が、力が湧いてくる。
体力の限界など、肉体の限界など、とうの昔に超えている。予想よりも遥かに巨大な造物主の力に精神が、意思が屈しそうになる。挫けそうになる。だが、その度にネスカを支えるものがあった。ネスカは諦めなかった。
―――――頑張って
重症を負った皆を治療しながら祈りを込めていた少女がいた。木乃香だ。
彼女にはアスカが墓守人の宮殿に突入するまで、デュナミスらと激戦を重ね、治療の限界を迎えていることを察していた。アスカが超人と呼べる者でも膝を折り、常人ならばとっくの昔に気絶どころか死んでいてもおかしくない状態にあると知っていながらも木乃香は確信していた。
ネスカならばどんな相手も跳ね除け、必ず勝利することを。
「まだだ!!」
彼・彼女たちの想いは、ずっとネスカに伝わっていた。彼女らの全ての想いに報いるためにも、絶対に負けられない。
「まだ諦めぬか!」
後、一歩で陥落しかけたネスカから放出されるエネルギーに造物主は思わず距離を取った。
「――――ぁっ!」
ネスカが拳を引くと、背後に千を越える光が生まれる。それらは最初は蛍の光のようにふわりと淡い光となって浮かび上がるが、瞬く間に激烈なる雷光を発して雷の槍へと変わった。
ネスカの背後に出現した千を越える雷の槍。遠目からは黄金色に輝く雷槍は天の星々を思わせる。千にも及ぶ煌めきだ。その一つ一つが山を穿ち、川を裂き、天を突く。
雷槍の切っ先を造物主に向けて、ぐるりと彼の周りを囲い込む。
「諦めねぇ! アンタみたいに俺は絶対に諦めない!!」
ぎしり、と軋む音が体の内から聞こえるが、ネスカは無視して叫ぶ。
千ある内の百の雷槍が一斉射されて光軸を描く。稲光の尾を引き、槍は造物主に向かって刹那の速さで迸る。
「人は、世界は、アンタの言うように絶望しない! 奇跡を起こすのは、何時だって人の強い想いだ!!」
自分の力で何とかできない状況に遭遇したところに、パズルのピースのようにその解決方法を都合よく携えた人間が現れるようなら誰だって道を踏み外さない。人類皆兄弟、みんなで笑ってみんなが幸せ、なんて極めて優しい幻想だが実際にそんなことが起きるはずがない。
生きている限り、望みはあるはずだ。方法がないなら見つかるまで探し続ければいい。そこに敵が立ち塞がるというのならばみんなで闘えばいい。手段がない時が、望みがない時が終わりなのではない。諦めた時が終わりなのだよネスカは知っている。
「戯言を……ッ! 奇跡を信じて死ねと言うのか!」
気勢が戻ったネスカから距離を取っていた造物主は回避して横合いに滑り込む。ネスカは体を捻り、残りの九百の雷槍をそちらに向けて放った。
負けじと造物主の背後に光の輪が顕現して闇を解き放つ。
闇色の光の輪から生まれた一矢の矢は高々と上昇し、分裂して数百の闇の矢となって、集結する前の九百の雷槍に向かって降り注いでくる。
闇の矢と雷の槍の激突。
ドッ、という轟音が響き、二人の周囲に連続した爆発と破壊を撒き散らした。
「想いがある限り、人はどこまでも強くなれる! 絶望だって跳ね返せるようになる!」
そもそも、最初からネスカが戦おうが逃げようが運命は何も変わらなかったかもしれない。もしかしたら、ネスカが選んだ選択こそが未来を滅ぼす道に進むのかもしれない。
それでも、とネスカの魂の奥底から声が叫ぶ。
「幻想だ! そんなことは思い込みに過ぎない!」
更に速度を全開にして加速させ、突進をかけた。雷槍と矢が爆発する間をすり抜けるように飛行して、何発か当たるも力技で突破してネスカに攻撃を仕掛ける。
ネスカはそれを真っ向から受け止め、二人が発した光がぶつかり合い、融合して、巨大な光の帯が爆発的に膨張した。
波紋状に広がった光の帯が周囲の空間を揺るがし、二人以外の全てを弾き飛ばす。
「そらっ!」
至近距離からの一撃を、けれどネスカは僅かに身体を捻って躱し、そのまま造物主への側頭部に捻じりを利かせた回し蹴りをぶち込んだ。体勢の崩れた造物主へと、マシンガンのような連続突きをを放つ。僅か数秒の攻撃で、堅牢な防御陣がデコボコに歪んでしまった。
「ここで一気に!」
叫びと共に放った痛烈な一撃が防御陣を突破して造物主の胸に叩き込まれた。上から放たれた一撃によって真下に急降下する。
落ちていく造物主に向かって追撃の一撃を放とうとしていたネスカの目前で、自然の法則などないかのように造物主の身体が跳ねる。造物主は壁を蹴ったかのように空中を跳ねて肩口からアスカにぶつかっていった。
「ぐあっ」
体をくの字に捩って呻いたアスカを尻目に、身体をぶつけた反発作用で距離を開けた造物主は体を横周りに回転させて黒い魔力光を纏った右手を振るった。振るわれた腕に沿って風の刃が飛ぶ。けれどもネスカは、飛んできた黒い風の三日月を素早いローリングで躱すと、体が開いている造物主に急接近して白い魔力光を纏った拳を放った。
「むおっ!?」
アスカの攻撃を受け止めようとした造物主が咄嗟に翳した左手の前に展開された防御壁が重い音を立てて砕け散る。対してネスカの右拳は、殆ど勢いを失わないまま、造物主の肩口に深々とめり込んでいた。
「まだまだ!」
まるで怪我人に肩を貸すような姿勢で、ネスカが造物主の右腕を肩の後ろに背負い込む。
ネスカの体側が造物主の腰に密着すると同時に、左腕の肘は鳩尾を一撃、また同時に左脚は造物主の軸足を鮮やかに刈り払った。
鮮やかなまでに決まった鶴打頂肘。肩を殴ってから後は全てが一瞬のうちの一動作である。まさに中国拳法、八極拳の極意とされる攻防一体の套路だった。
「ぬぐぅっ」
受け身を取ることすらできず、近くの飛行石の一つに叩きつけられる。あまりに強烈な衝撃に、手足が全て根本から外れ落ちてしまったかのような錯覚に陥る。全身が痺れて動かない。ただ肘撃ちの直撃を受けた胸の激痛ばかりが意識を焼き尽くす。まず間違いなく肋骨に罅が入ったのだろう。
膨大な魔力にあかせて治癒した造物主の向かってネスカが迫って来る。
究極のポテンシャルを得た自身とここまで戦える人間がいるはずがないと思っていた。そんな自分にここまで戦えたネスカを素直に称賛した。
だが、と造物主は続ける。
「勝つのは私だ!」
掌の上に浮遊していた小さな炎の塊が急速に膨張する。
直径にして三十メートルはあろうかという漆黒に染まった巨大な炎の球が、唸りを上げて周囲の空間を捻じ曲げながら振り降りるネスカに向かって大砲のように撃ち放たれた。
幾ら炎球の威力は大きかろうが、速度は鈍重で軌道も真っ直ぐ。ネスカの機動力ならば避けることは容易い。
「弾けろ!」
避けようとしていたネスカの少し前で振り上げた腕を引き戻して双眸をカッと開いた刹那、彼らが至っている領域からすれば比較的ゆっくりとした速度で進んでいる炎球が、音もなく炸裂した。
直後、巨大な闇の炎が空気を引き裂いた。鋼鉄をも瞬時に跡形もなく溶かす灼熱の閃光が、爆発地点を中心に発生する。
一連の動きは、殆ど爆発だった。轟音に空が震えて、その温度が如何なる次元に達したか、回避行動に移ろうとしたネスカを呑み込んだ。
爆煙が辺りを覆い尽くし、視界が利かない中で中々動きを見せないネスカに焦れた造物主は眉を顰める。
「…………この程度で倒れるとは思えんが」
「ああ、利いてないぜ」
突如として背後から聞こえた声にナギの体が反射的に攻撃を繰り出す。
雷光の如き速さで振り返った造物主が振り上げた拳がやや斜め方向からネスカの頭蓋骨目掛けて一気に振り下ろされる。その一撃はネスカを貫いた。柔らかいものを粉砕した感触を造物主は得ている。が、その手応えは人体を貫いた割にはあまりにも軽すぎる。
「間抜け」
瞬間、ネスカの体が内側から爆発した。造物主が何かをしたのではなく、以前に楓相手に使った雷の精霊を詰めた影分身が衝撃を受けたことで自壊したのだ。
「っ!?」
接触状態からの爆発と間近での高電力の電気ショックに晒された造物主の口から悲鳴も出ない。
「親父の体に頼ってるから、そうなる!」
爆煙の向こうから孤を描くように空を泳いだネスカが獣のように歯を剥いて、電気ショックで体が痺れている造物主を強襲する。
体が動かない造物主は魔力に任せて右の拳を躱した瞬間、目の前でネスカが腰の回転を殺さずに運動エネルギーを左足に移すのを見て、ナギの体は反応しようとするが電気ショックから抜け出せていないので動きが鈍い。
「!」
造物主の視界の死角から後ろ回し蹴りで側頭部を襲う。これに造物主は抗することが出来ず、衝撃が脳を揺るがして意識を途絶させる。
「ウォオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
ここを数少ない勝負所と見たネスカの連打が次々に放たれる。
絶大なる力を以て放たれた拳の一撃一撃が無防備になった造物主に突き刺さる。ネスカは止まらない。猛烈な攻撃に動きを止めて棒立ちとなった造物主を一方的に攻め続ける。
「があっ?!」
膨大な魔力による身体強化であっても攻撃を受け止めるには限度がある。
胴体と言わず、顔や四肢を強打された特大の衝撃が全身を揺らす。マシンガンを百丁一気に撃ったかのような爆音が自分の体を殴打している音だと造物主が気付いた時には、既に呼吸が止まっていた。
「ざらぁっ!!」
造物主を上から叩きつけて真下にあった墓守り人の宮殿に落とす。渾身の殴打によって一秒とかからずに墓守り人の宮殿にある墓守り人達の街へと落下する。
「がっ、ぁぁああああああああああああああああああああッ!!」
見下ろすネスカの目には、落下する造物主の身に途中で幾重にも渡って防御術式が張り巡らされる輝きが見えた。恐らく攻撃を躱せないと踏んで発動させていたのだろう。だが、それら全てを突き破って造物主の体は落ちていった。
「雷の暴風! 雷の投擲!」
圧倒しようともネスカの辞書に油断の文字はない。遅延呪文のストックはないので詠唱を破棄して魔法を唱える。
個々の威力は落ちようとも今は拙速とトドメに足る威力があればいい。
「術式統合、巨神殺し・暴風の螺旋槍!!」
右手に雷の暴風を、左手に雷の投擲を収束させた塊を結合させ、もう一つの雷神槍を作り出す。
数十倍近い魔力があるネスカが放てば個々の魔法の詠唱を破棄しても、ネギが
「行けっ!」
神罰の如く放たれた暴風の螺旋槍が造物主が落ちた場所に着弾する。その瞬間に「
造物主が落ちた地点を中心として、突如として発生した破壊力抜群の圧縮された台風が墓守人の宮殿にある街を粉々に粉砕する。
爆音と、振動と粉塵が辺りを襲う。灰色の粉塵が、煙のように舞い上がる。
「ぐっ………ごほっ………」
暴風の螺旋槍で粉々に粉砕された街の中で傷だらけで造物主は倒れていた。
有り余るほどの魔力を全力で防御に回すことで五体満足で耐えきったが、その体はボロボロだった。それ以前の戦いの傷も合わせて腕と言わず胴体と言わず、ありとあらゆる所からドロリとした赤黒い液体を零している。
何度も死んだことがある造物主でも生きているいるのが不思議と思える一撃であった。偏に生き残れたのは頑強な肉体のお蔭。
「ここまでだ、造物主」
諦めることには慣れているから、フワリと羽毛のように近くに着地するネスカを見ても何も思わない。今の造物主の傷だらけの体と比べれば十分に軽症であり、疲労はしていても限界には達していない。
「此度、も……及ばぬ、か……」
力の入らない体に活を入れて傷だらけの体を引き摺るように上半身を起こし、立ち上がりながら造物主は掠れるような声で呟いた。その間にも魔力で治癒を行っているが戦闘可能にまで回復するには時間がかかり過ぎる。
「この、魂に……響く感覚。完全魔法無効化能力が不完全とはいえ、発現していると見える。力を使い果たした後ならばともかく、今の状態では体を奪うことは叶わぬだろう」
造物主は今まで何度も武の英雄に打ちのめされて来た。その度に体を移し替えてきたが、今回は同じ結末を辿ることすらも出来ない。
「この上にアルもいる。その魂、封印させて貰うぞ」
「ただでは、やられん!!」
十分な余裕がまだまだある魔力で光弾が放たれ、ネスカは魔法の射手を放って迎撃する。
第一歩の動きが鈍い造物主に、ネスカの攻撃が更に苛烈さを増して襲いかかる。一瞬で差を引き離されそうになり、しかし造物主は逆転し返すべく拳を振るう。
轟音が炸裂する。深手を負っていることで力負けをした造物主の体を掬い上げるような拳が大きく吹き上がる。
「があああああああああッ!?」
下から掬い上げるような拳に上空へと突き上げられた造物主は自身が砲弾にでもなったかのように、次々と天井を吹き飛ばして墓守り人の宮殿の都市部にまで跳んだ。
空中から地面に落ちて血を迸らせながらも必死に立ち上がろうとしている造物主に迫るネスカには油断も隙もない。
「あ……あ――」
回復した分だけダメージを負ってもなんとか立ち上がった造物主だが、血に塗れた体に入る力は、全開時の一割にも満たない。もう、立っているだけでも精一杯で、相手を睨みつけることしか出来ていなかった。
「………お、のれ……」
小細工もトリックもない。自らの肉体を完全に掌握し、戦闘の流れを掴めば一気に引き寄せる戦闘理論と直感。数多の武の英雄と同じようにポテンシャルで上回っているにも関わらず、上に行かれてしまう。
どう戦えば切り崩せるか、ごぷっ、と口から血反吐を吐きながら造物主は考え続ける。
「が――っ?!」
そんな最中、造物主を追い詰めていたネスカの体が突如として振動した。
造物主は何もしていない。突如としてネスカは大量の血を吐いて、膝を折った。
「な、に……っ!?」
次いでネスカの全身に灼熱が襲う。そして次の瞬間、ネスカの体がブレる。
「まだ、制限時間には――ッ?!」
アーティファクトの合体制限時間ににはなっていないはず。分離するはずのないネスカが造物主を追い詰めながらネギとアスカに別れる。
「……なにがっ!?」
「が、お、あ……」
分離して弾かれたネギが理由も分からずに混乱していると、その場に留まっていたアスカが呻いているのに気づく。
目から、耳から、口から…………アスカの頭部のあらゆる穴から、血が流れ落ちていく。そして太腿に、膝に、肩に、指の一本ずつまで―――――痛みの感覚が誤作動を起こして逆に麻痺しかけるほどの信じられない激痛が噴き上がっている。
神経、血管、腱、筋肉、骨、あらゆる体組織が重機のように圧倒的な力でブチリと引き千切られた感覚。古代に行われた車裂の刑とはこうしたものか。脳はショックから今にも死を選びかける。その責め苦は、絶え間なく続くのだ。アスカは羽を捥がれた鳥のように地に堕ちて悶え苦しむ。
「―――――――ッ」
その痛みとは逆に悲鳴は口から迸らず、血に染まった泡だけが零れた。
叫ぶだけの余力がないのである。全身を渦巻く激痛の嵐は、それだけの力さえもアスカから奪いつくしていた。まるで体中が捲れ上がるような、内臓が皮膚となり、皮膚が内臓と置き換わってしまったような異様な感覚。肺さえも碌に動かず、窒息の寸前までアスカを苦しめた。
「負けかと思ったが、とんだ結末になったものだ。しかし、当然と言えば当然とも言える」
と、身体中の骨と筋肉が引き裂かれるような痛み、激しい振戦と頭痛に苛まれるアスカを見ることしか出来ないネギに直上から冷たい声がかけられる。
「全開の状態で私と相対すれば別であったが、連戦を繰り返して負傷の極みを直ぐに治した後では、こうなるのは必然。デュナミスとテルティウムの奮戦が実を結んだとも言える」
ネギと倒れたアスカを見下ろし、立ち上がって今も回復をし続ける造物主は告げた。
真紅の髪を風に靡かせる姿は、死神のようにも見えた。負傷によって全開時の一割に戦闘力が落ちようとも、未だネギらを上回る造物主はネギどころか放っておけば死にそうなアスカにとっては、まさしく死神以外の何者でもない。
「っ……」
アスカが身体をくの字に折って血が大量に混じった吐瀉物を嘔吐した。そのまま荒げた息を吐き出す。そうすることで、やっと呼吸という行動を思い出したという、そんな風だった。無理矢理に自分を蘇生させたようでもあった。
「あ……う……」
呻き唸りともつかない声を絞り出しながら、次いでアスカの全身から噴き出す蒸気。力が蒸発していくのが目に見えていた。極限まで力を引き出し、蒸気が出るほどの身体の限界を超える力を搾り出していた代償。無理な力の行使に全身の血管が表面に浮かび上がり、熱のある息をひっきりなしに吐き出し続ける。その顔色は紅潮するどころか氷水に首まで浸かっているかのように青褪めていた。
「そこまでなっても尚も抗おうとするか」
呻きながらもまだ起き上がろうとするアスカを見て造物主は勝ち誇るでもなく静かに見守る。
肉体は死に体同然。しかし、この状況に至っても眼だけは爛々と輝いて全く衰えていない戦意を示していた。もう殆ど身体は言うことを聞いてくれない。支えにしようとした手は土を掴むことしか出来ないが、それでもなお、アスカはゆっくりとその身を起こそうともがく。
「かっ、まだ………まだだ」
床に口元を擦り付け、無理やりに泡をこそぎとって、アスカが言った。
「その決着を見ることなくお前は死ぬ」
造物主はアスカの足掻きとも言える宣言に静かに否定する。
障壁を張る力も残っていないアスカに全力は必要ない。いや、今のアスカの状態からすれば、放っておいても死ぬだろう。それを理解しながらも、ゆっくりとアスカの腕が動く。
ここまで、無理に無理を重ねてきた結果がどうしようもなく蝕んでいる。激痛で意識は朦朧とし、瞬く間に世界が曖昧になっていく。分かっていたことだ。確率的に言えばこうなる結果の方が圧倒的に高かった。
それでも、ありったけの力を手の指先に込める。
「止めておけ。その状態では意識を保っていられるのが不思議なくらいだ。無理に動けば今すぐにでも死ぬぞ」
しかし、込めた先から力がすり抜けていく。代わりに、激痛だけが神経を劈く。まるで、指先だけが痛覚を残した肉袋に変わったようだった。
砕けた破片を掴み、ボロボロの体を動かして、血塗れのアスカがまだ立ち上がろうとしている。内臓が傷ついたのか、呼吸をしようとした彼の口から、ごぽっ、と血の塊が噴き出した。
それでもその顔は凄絶な笑みを浮かべていた。
「どうして笑っている?」
と、死に体でありながら目から光は消えず、口元には笑みが浮かんでいるアスカに造物主が訊いた。
ただ立って歩くことすら出来ない絶望的な状況でありながら戦意を失わず、なおも立ち向かってこようとすることに疑問を覚えたらしい。
「さあ、どうしてかな」
造物主の問いに生命という生命を失い、瞼を開けている力さえも無くしながら応える。
腕の感覚などない。ところどころ血に塗れ、まだ指の感覚が残っているのが不思議なほど。足腰も動かない。筋肉全てが断線しているとしか思えない。立ち上がれない。
「は……………あ―――――!」
敗北を示す肉体に対して、精神が示す意思はそんなことはないと右腕に力を込める。
「がっ……!」
力を込めた右腕に灼熱する痛みが走る。体の中でブチブチと何かが千切れるような感触。耳ではなく、体内を直接通って響き渡る鈍い音。
我慢する、耐える、堪える。
息を吸う。拳一つほどの空気を吸うのに、小一時間もかかったように思えた。それらの空気を力に変えて、奥歯を噛みしめる。
微かな心臓の鼓動と、ギチギチと音を立てる傷ついた内臓。ずるり、と滑る腕で地面を掴み、危険信号が鳴り響く体を無理やりに起こす。一つ一つの動作が自らの肉体を破壊していく様がありありと伝わってくる。強引に関節を引き伸ばし、血管をギシギシと軋ませ、碌に酸素も供給されない肺は燃料不足の悲鳴を苦痛という形で脳へと叩きつける。
体は鈍い音を立てながら、それでもアスカの意思に応えてくれた。
「は―――ぐ、つ――!」
鬼神の如き形相のまま、片膝をつくために腕に更なる力を込める。その度に傷口から、なにか生きていくのに必要な物がごっそりと零れ落ちていく。それすらも無視して力を込める。
ゆっくりと体が持ち上がった。膝を立てるだけで、巨大な岩を引き抜くような疲労に襲われた。
「無駄だ。最早、戦える体ではない。私がそんなにも憎いか、アスカ・スプリングフィールド」
憎悪。そうだろうか――――――アスカは考える。
「父と母を奪った私が憎いから戦おうとするのだろう。でなければ、命を捨ててまで戦おうとする理由を見い出せん」
「憎んでなんかいない」
眩暈を堪え、アスカは言う。
「憎しみでないのならば、どうしてそこまでなっても闘おうとする? 辛いだろう、諦めてしまえ」
戦っている相手から哀れむような目で見られることが理解できずに造物主の困惑して、本当に疑問に思うようなその言葉には頷いてやるわけにはいかなかった。
言葉を吐く余裕などなく、アスカは睨み据えた視界の向こうに囚われたままの明日菜の姿が目に入った。眠っている顔に流れる一筋の涙。
「諦める理由なんか、ねぇ」
どくん、と魂が鼓動を打つ。それで、気がついた、思い出した。
「同情なんてしない」
魔法世界の人間に同情なんてしていない。
答えなど、とっくに知っていたのだ。しかし、分かりきった答えを受け入れることが、一体どれだけ困難なことか。
「魔法世界を救ってほしいと頼まれたわけでもない」
今、アスカにしか出来ないことがある。だが、それはあくまで限られた範囲のことだ。一番大きな壁はこの世界にいる者達が乗り越えるしかない。
「親父達が守った世界だからって、俺が命を賭けてまで戦う理由はない。精々一ヶ月程度しかいないんだからな。俺が戦う理由はないはず、だった」
確かに彼女の過去は血に塗れていたのかもしれない。造物主の2600年に及ぶ絶望は世界を作り変える権利を得ているのかもしれない。心の一部では造物主が正しいことを悟っているのに、どうしてこんな体になっても抗おうとするのか―――――彼女の過去を知ったからだ。
「造物主、アンタには世界を作り変える権利があるのかもしれない。正直、アンタが正しいとも思うよ」
自分と信念を貫こうとした者達が戦って散っていく。ここは楽園には遠すぎる世界だ。アスカが希望を持とうと、事実は変わらない。
この楽園にはほど遠い世界で、アスカは声を上げる。
「それでもさ、俺にも戦う理由があるんだ」
魔法世界に来て明日菜の過去を知った。
ただ奪い、奪われるだけの日々。ナギに助けられて、ガトウという犠牲の果てに光の道へと歩むことが出来た少女。その力で多くの人が消えてしまったら彼女はどう思うだろうか。きっと己の力を憎むだろう。きっと悲しむだろう。きっと自分を責めるだろう。
だから、光の道を歩んだ彼女が、最後にその闇に囚われないように守らないと、遥かな過去から明日菜と世界を雁字搦めに縛っているモノを壊そうと思った。陽だまりの中でみんなに囲まれて笑っていられるように。
アスカのやるべき事は、こんなにもはっきりとしている。立ち上がらなければならない。
「お、ぉぉおおおおおおおおおおぁぁああああああああああああ!!」
そうして、アスカ・スプリングフィールドは天に向かって吼えるように立ち上がった。
たったそれだけのことで、体中のあらゆる部位が悲鳴を上げる。見えない刃物で切り裂くように全身から間欠泉から溢れ出るように血が噴出する。だが、それが何だというのか。そんなものが、この衝動を止める理由になどなると思っているのか。
明日菜の無邪気な笑顔が、曇った視界にちらつく。それだけで迷いは消えた。
「アスカ……」
隣で血を撒き散らしながら立ち上がったアスカの姿にネギは胸を打たれた。
けして人の胸を打つものではない。目を剥くような感動も、胸を高ぶらせるような激情もない。だけど、涙が出てしまいそうな奥の奥のずっと奥の魂までも震わせるような在り方はネギには到底出来ないことだ。
「はっ――――ぜっ―――――ぁ」
正直に言えば、アスカは意識を保つのもきつい。立って、声を出すのも苦しい。今にも死にそうだ。だが、それでも生きている。生きているなら声を出そう。心臓の鼓動があるのならまだ闘える。口は動く。腕一本動けば人は殺せる。指一本動けば眼球だってくり貫ける。それが出来なくても、この歯で喉笛を噛み裂ける。どんな手段でも人は戦える。
現状では万に一つの勝機はない。しかし、ここで立ち止まることは出来ない。この胸に、まだ温かさが残っているうちに。
ならばやるべきことは一つだけ。退く理由は欠片も無い。退く必要も微塵も無い。あるのはただ、絶対にも似た必然だけ。
体の自由は利かないも同然。両足の機能とて本来の十分の一ほどもなく、拳を握る両腕でさえ力が籠もらない。打ち込まれれば、どんな凡庸な一撃でさえ受けきれずに倒されるだろう。何かの拍子に、不気味に軋む動脈の一本でも引き千切れれば、それだけでアスカは確実に絶命する。されど今のアスカには一部の隙もなく、迷いさえ見出せなかった。
もはや虚勢など張らず、ただ己の敵を正面から見据える。
「何故闘うだと? そんなことは決まっている!」
絶望すら跳ね除けるほどに胸の奥が熱かった。
滅意を遮る暖かな波動。それは酷く脆いながらも、なによりも強固だった。折れぬ想いが、切実なる決意が、ただそれだけがアスカを守る盾の全てだった。
初めて。初めて。初めて。初めて。初めて。初めて初めて初めて。狂おしいほどまでに求める人の為に。
――――――――――ごめんなさい
目覚めてからずっと頭に響いている明日菜の弱々しい声。
――――――――――何も止められなかった
また彼女の悲痛な声が頭蓋骨を震わせる。
――――――――――私がいなければ、こんなことにならなかった
自分を責めなくてもいいのだと、救われていいのだと、アスカがこの戦場に飛び込んだ理由を声を大にして伝えたかった。
「…………よく聞け、俺は―――――」
息を、アスカは吸い込んだ。何もかも失われた空っぽの身体を、せめて別の中で満たそうとするように、思いきり吸い込んだ。
造物主は正に人を救う神そのものだ。が、古来、神とは生贄を希求するものであるらしい。その生贄が明日菜なのだ。そんなことを認めるわけにはいかない。
英雄だとか、どうだとかどうでもいい。ただ、男として此処まで来た意味を。
「俺は、明日菜を助けるためにここにいるんだよ! 世界なんてそんな小さい事情なんかどうでも良い! 他の誰でもない。明日菜を救う為だけに戦ってきたんだ!」
明日菜が助けられないなんて嫌だった。
犠牲にしないと世界が滅びるのなら、全ての人々に謝ろう。死んだ人々に、生き残った人々に、膝をついて詫びよう。泥だって啜るし、踏み躙られても構わなかった。殴られようが撃たれようが刺されようが砕かれようが構わなかった。
内側から溢れるように我知らず最早ドロリとした血の味しかしない唇を動かして、アスカは造物主の目を直視して言葉が迸る。
男が鋼のように鍛えてきた自尊心も、頑冥な人生哲学も、命よりも大切な意地も、人生を懸けて来たもは全て女に恋した瞬間、砂のように崩れ落ちる。最も忌み嫌っていたはずの格好の悪い自分を曝け出してでも、それでも求めずにはいられない。彼女―――――神楽坂明日菜を。
「惚れた女をこの手に抱きたい! そのために邪魔なテメェはぶっ飛ばす! ついでに世界を救う! 全て俺のためだ! 邪魔をするなァァァァァァァァ―――――ッ!!!」
喉も裂けよとばかりに、自分の中に詰まっている想いを叫んだ。
死地へ挑む者が放つ、ただ純粋な宣戦布告。体力の限界など、とうに超えている。戦う力も、もはや尽きた。それでも自分のありったけの言霊を込めるようにして強く叫ぶ。
心は常に血を流し、過去の疵痕と、酷薄な現実と、残酷な未来に炙られている。けれど、弱音も悲鳴も押し殺して戦ってきた。英雄ではない。勇者でも天使でもない。頭のおかしい異常者ですらない。怖くないはずがない。アスカは無感情な機械のような人格ではない。
だけど、立っていることすら覚束ない万事休すの絶望的な状況でありながら。それでも決して諦めることだけはなかった。拳を握るための指は動き、相手を見据えるための眼も開いている。ならば、最後の最後の瞬間まで投げ出してはならない。
愛する者がいるから戦うことが出来る。守ることと戦うことは同じだから。かけがえのない尊いものを守ることは、自分自身の在り方と、自分自身の未来を守ることに直結している。
信じなければなにも始まらない。もう絶望は要らない。絶対に負ける訳にはいかないのだ。これで命が、心が、魂が、アスカ・スプリングフィールドという存在が根こそぎ燃え尽きることになろうとも、立ち向かわなければ何も変わらない。
「――――一個人の為に世界と戦うなど馬鹿げている。正気か、貴様は」
絶望に押し流された諦観どころか身を焦がすほどの闘志を迸らせるアスカを前にして、如何な造物主とて構えられぬ筈がない。死に体の男を前にして構えてしまった自分に造物主の眉間に不快の皺が寄る。
「それでも安かねぇんだよ! 世界の未来みたいに大きくなったって、明日菜の命は俺にとっては安かねぇんだよ!!」
明日菜を縛り付ける運命に対する怒りがアスカを突き動かしていた。
腹の底で沸き立つ怒りが、痛み切った筋肉に際限なく活力を与えるようだ。だから、まだ戦えると思った。
「その理由が判らないからこそ、あんたは変わってしまったんだよ」
問いに対してそれだけを応え、瞳だけが決死の覚悟を告げていた。
先程まであった莫大な力は既にアスカにはない。全開時の一割未満の闘う力すら残っていないのに立ちあがった愚者。全てのカードを使っても対処できない、それどころか立っているだけで精一杯のアスカにもはや勝機はない。たった1枚の切り札すら出し惜しみ出来ないのでは、巻き返しを図るのは不可能。
「判らぬな。私はもう、忘れてしまった。……………喜びも、なにかを愛する心も。私にはもう、なにも思い出せぬ」
それは、気のせいだろうか。アスカには一瞬、無情の造物主の顔に侘しい影が差したように見えた。
「今の私には、もう絶望しかない。かつては、身勝手な者達を恨みもした、憎みもした、悲しかった、悔しかった、恐ろしかった、狂いそうだった……………………だが、それらの感情も全て二千六百年の長い時がすり減らしてしまった。私の中にあるのは、空虚な隙間と二千六百年分の絶望でしかない」
真実、二千六百年もの長き間、地獄を見続けた彼女の者の心は磨耗し、今では嘗ての願いや想いも既に過去のもの。今の造物主を動かしているのは呪いとでもいうべき降り積もった敗者達の積み重なった怨念である。
「ああ、私は真実、怨念に突き動かされる亡霊なのだろう。だが、それでもいい。何もかも忘れて、敗者達が置き去りにされるよりかは、ずっといい」
過去の怨念に衝き動かされる亡霊。その姿がまるで道に迷った迷子のようだとアスカには思えた。
愛する者が与えてくれるものを、そして自分が愛する者に与えられるものを、造物主は忘れてしまったのだ。アスカは初めて造物主を哀れだと思った。
微かに目を見開いた造物主と、アスカが視線を交わらせたのは一秒未満の時間に過ぎなかった。次の瞬間には攻撃されるかもしれない。それでも誰もが最期を迎える前、こんな衝動に身を焼かれていたのかと思った。アスカは倒れていいはずなのに、先も無いのに痛む全身に力を入れて立ち続ける。
「―――――」
とはいえ、現状ではアスカが戦えないことに変わりはない。立っていることがやっとで歩くことすら出来ない体たらく。アスカ・スプリングフィールドは血塗れの唇を拭い、決然とした面持ちで造物主に対峙する。
(…………、)
単に口を動かさないのではない。頭の中においても静寂。心の中が何も生まない奇妙な空白。それはある種の覚悟か。或いは諦めか。一瞬後に全ての思考を取り戻した彼は願った。
「……頼む……っ」
神にではない。自分自身にではない。
「力を」
自分が取るべき選択は何か。もはや戦えない体の自分がするべき選択は何か。絶対の敵、造物主の圧倒的な暴力に対抗するための選択は何か。
都合の良い幸運など当てにすることは出来ない。自分が当に限界を踏み越えてしまっていることは解っている。それでも眼光だけは衰えない。そしてその眼光が消えない限り、アスカの闘志が止まる事はない。
「誰でもいい」
絶望に、神楽坂明日菜がいなくなるという想像がアスカの精神を蝕む。だから、泣くように叫んでいた。祈るように叫んでいた。
「誰か俺に力を貸してくれ」
一人で勝てないのであれば二人で、二人で勝てないのなら倍の四人で、四人で勝てないのならばもっと多くの人に。
一つが解ければ、後は全てが連鎖的に紐解かれていく。それはアスカの最後の力。正しいと信じられるからこそ、出し惜しみ無く全てを出せる、信念の力。
全身は傷だらけ、生まれたての鹿のように足が震え続けている。口から血反吐を吐きながらただ助けを乞うて叫んだ。
「いいわよ」
そして、軽い声がアスカの耳に届く。
本を貸してほしいと言われたから答えたかのような軽い言葉と共に声の主がトンと背後に着地する音が聞こえた。
「また変な事態に首を突っ込んでるのね、アンタ達は。全く私がいないとテンで駄目なんだから」
「はは……」
その主を確認する為に振り返る必要はない。ありえないタイミングにアスカは全身を走る痛みも忘れて笑った。
「よくも馬鹿兄弟をボコボコにしてくれたわね、ネギに似たイケメンのお兄さん」
「似たじゃなくて、あの人は僕らのお父さんの体を勝手に使ってるんだよ」
「あらそうなの? まあこのアンナ・ユーリエウナ・ココロウァが来たからには快刀乱麻の如くパパッと終わらせてやるわ!」
状況は全然分かってないのだろうが、これほど空気を自分のペースに巻き込んでくれる者などアーニャ以外いない。実力で言えば全く以てそぐわない発言ではあるが、ネギもアスカも万軍を得たかのような面持ちで造物主に相対する。
「一丁、やってやっか」
「メルディアナ魔法学校が誇る
「
アスカを中心として後ろにネギとアーニャが並ぶ懐かしい立ち位置。魔法学校時代のことを思い出してテンションが上がった三人は揃ってニヤリと笑う。
「なんたって三人揃えば」
「出来ない事なんて」
「ないんだから!!」
揃って中指を立てて造物主を挑発する三人が対峙する戦場から百メートルと意外なほど近く。呆然と戦いを眺めていた面々は、合体が分離してアスカがとても戦えない状態になった時には絶望に満ちた顔だったのに今浮かべているのは笑みだった。
全身を痺れさせる言葉だけがグワングワンと頭蓋の奥に反響した。
「全くあの三人は」
その声を発したのは誰だったか。
エヴァンジェリンは己が決心を固めた。
茶々丸は胴体から顔部分しか残っていないが全てを見届けるように眼差しを向け続ける。
木乃香はアスカの決心を伝えるように眠り続ける明日菜を見た。
古菲は無気力感から武器を取り落としていた神珍鉄自在棍を拾い上げた。
高畑は三人を幼い頃より知るからこそ、誇らしげに感じて拳を強く握った。
クルトは想い人の似姿を持つ彼の言葉に猛る自身を感じ取っていた。
アルビレオは深く静かに決心を固めていた。
「…………行こう」
この場の中で誰よりも応援し続けていた木乃香が声を出す。
拒む者などいなかった。体中に包帯を巻き、その包帯すら赤いものが滲んだりしているような状態であっても、そんなものは関係なかった。
圧倒的なパワーのネスカですら倒し切ることが出来ずに分離してしまった以上、歯が立たないほどの『怪物』の前に立てと言われても怯える者はいなかった。それ以上に心を占めるのは嬉しさといった感情。
「行こう! うちらの戦場へ!!」
叫び声と共に、茶々丸を抱えたまま我先にと飛んで戦場へと向かう。
無力であることなど百も承知。それでも戦うべき理由は揺らがない。ここはアスカだけの戦場ではない。彼ら皆の戦場だ。ならば自身が戦場へ向かうのになにを遠慮する必要があろうか。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
ある者は氷を纏い、ある者は長刀を携え、ある者は棍を手に大きく跳ぶ。死を怖れぬ者たちはあっという間に集合すると、まるで満身創痍のアスカを守るように布陣を築き上げた。
「みんな……」
アスカはその奇跡のような光景に、痛む身体を忘れるほど感動した。
エヴァンジェリンがいる、木乃香もいる――――皆が一丸となってアスカを守るように立っていた。
ぐら、とアスカの身体が傾いだ。力が抜けて立っていられなくなる。
「あ……」
極度の緊張から、一瞬とはいえ解放された結果、一気に精神と肉体が限界に達したのだ。視界がおぼつかない。完全に平衡感覚を失い、横倒しになろうとした時、横合いから柔らかな何かが受け止めてくれた。それが少女の手だと理解するのに、少し時間が掛かった。
「大丈夫アル。傷は深……浅いアルよ!」
「古……」
ぼんやりとアスカは支えてくれた少女の名を呟いた。
アスカ派瞼を閉じ、少女の体温と匂いに心を預ける。
自分が支えられていることが、一人じゃないことが、強く強く感じられて、胸の奥から湧き上がってくる。湧き上がった想いが血を失い冷えた身体に熱を宿す。
(なんて……)
なんて軽いのだろうと古菲は思った。
怪我ばかりの二人でも支えられるほどの軽い身体。どこにでもいる人の重みを感じながら、たった一人で世界の命運を背負っていたのかと、真剣に古菲は考えた。それがクラスメイトを守るためだと聞いたからこそ、その胸を痛めた。
完璧な人間など、いないこと。欠けていない人間など、いないこと。寂しくない人間など、いないこと。
現実に生きていく以上、誰もが耐え、誰もが戦い、誰もが抗い、自らの埋めがたい欠陥や欠落に耐えて生きていくしかないということ。結局、無関係な相手なんて世界にいない。誰もが他人と繋がって、そうやって世界全体と関わってしまっている。
結局はそうやって生きていくのだ。誰だって、何時だって、どこだって。
古菲に支えられて、上体を起こす。しかし身体に全く力が入らない。そのまま支えてもらっているのとは反対側に倒れそうになってしまう。
「しっかりするでござるよ」
「楓……」
倒れかけたところを古菲と同じように楓が受け止めて支える。
「楓!? 気が付いたアルか?」
「あいあい、三人の声でつい先ほど目が覚めたでござるよ」
焔達との激戦で全精力を使い果たし、意識を失っていた楓が笑みを浮かべながら立っている。その背後に突如として人が現れる。
「みんな頑張ったようだな」
「おや、真名。いたでござるか」
楓が声の主を振り返ると、長身の龍宮真名が髪を流しながら立っていた。
「随分と遅れたが、最後には間に合ったようでなによりだ」
ザジとの戦いで次元跳躍弾を使って三時間後に飛ばされ、戦いが最終局面に至っていたこともあって手を引いたザジと別れてやってきた真名は少し嘆息する。
「戻りました、このちゃん」
「せっちゃん!」
月詠との戦いの後、一時気を失っていたものの傷だらけの体を治癒しながら辿り着いた桜咲刹那の登場に涙を溢れさせた木乃香が優しく抱き付く。
「はは、小太郎以外全員集まっちまったな」
傷だらけの者も多いがパーティーが全員生きていることが確定し、アスカは血染めの顔で笑った。
「…………ありがとう」
と、アスカは言った。
瞼を閉じ、少女達の体温と匂いに心を預ける。自分が支えられていることが、一人ではないことが、強く強く感じられて、胸の奥から湧き上がってくる。湧き上がった想いが血を失い冷えた身体に熱を宿す。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
少女達に支えてもらわなければ立っていられない状態にありながら、みんなに頭を垂れて礼を述べる。
なんて言葉が足りないのだろうと思う。もっと言いたいことがある。もっと気持ちを表したいのに言葉が口から出ない。
「馬鹿ね。礼を言うよりも簡単なことがあるでしょ、アンタには」
「ああ、そうだな」
感謝を伝える方法など、結局は一つしかない。形はどうあれ、誠心誠意を以って礼を述べるよりも彼らに報いるとすれば、世界と明日菜を救うという結果を出すこと。だから、それ以上を口にすることなく涙を零さぬように奥歯を噛み、長く頭を垂れていることでアスカは自分なりの感謝を表現した。
(な、に………?)
造物主は、アスカ・スプリングフィールドの取った行動を理解できなかった。
彼からすれば、個々に見るべきものはあっても菓子に等しい脆き壁。一分も揺らぐことなく、険しい表情で告げた。
「弱者に救いを求めるだと………。それほどまでに命が惜しいか」
「そう見えるか」
遂には立っていることすら出来ずに楓と古菲に支えてもらっているにも係わらず、彼の口元には笑みすらあった。
「人に頼るってのはそんなに悪い事か?」
これだけの人が揃うことが奇跡のように思えた。アスカは、多くの人に支えられてここにいるのだ。
「なんだと?」
「一人で全てを背負えるなんて、ただの思い上がりで周りを信用していないだけだ。お前みたいにな。俺はアンタと同じにはならない」
己の弱さを自覚し、なおかつ前へ進む者は成長する。
「弱さにそのような言い訳を見つけたか。貴様が語る希望は他人に縋らなければ立てない単なる幻想と成り果てたわけだ」
だが、勝機がないことは変わらない。最高期のネスカに比べれば百歩も二百歩も劣る烏合の衆でしかない。寄り集まろうとも何の問題もないのだ。集団心理でも働いたのだろうが、ありもしない錯覚に縋った末路は碌なものではない。
「違う……! 希望はここにある! 独り善がりの妄想じゃない。躓いて傷ついて、それでもみんなで歩いて行けるってことを世界に示さなくちゃいけないんだ!」
しかし、アスカはそれを否定する。己が胸と周りを指し示し、熱を伝播させる。
傷だらけで疲れ切ったアスカは、苦しみで体を満たしている。なのに、極限状態の中、世界を信じられていた。信じることが出来るようになっていた。
「もう、アンタが救う必要はないんだ。この世界は地獄じゃない」
アスカは喘ぐように喋る。
苦痛の中で感じる身近な熱の心強さを誰かに伝えてやりたい気分だった。彼のように信じられなかった誰かに、この世界は捨てたものではないと、誰かを救ってやりたいと伸ばされているのだと、伝えたかった。
「なら、示して見せよ! 幻想では何も守れはしない!」
喝破した造物主を前にして、アスカは笑う。
「俺だって何も闇雲に戦っていたわけじゃない」
一人一人は無力でも、個人の意思の連なりが世界を闇の淵から引き戻すことだってある。
「見えたぜ、あんたの隙が」
苦しみ、激しく咳き込んで口から血が一筋流れていても静かに瞼を開き、アスカは呟いた。
「造物主、アンタは強い。今まで戦った誰よりもな。だけど、その身体は親父のものだ。アンタ自身のじゃない。ずっと見てたぜ。その身体と精神の隙間を」
「隙間などない。我が精神はこの身体を完全に掌握している」
「違うね。なら、俺はなんでアンタの過去を知ることが出来た? なんで意志よりも早く体が勝手に反応する? まだ完璧じゃない。全てを奪えてないんだよ」
ナギの身体はあくまでナギのものだ。その精神が肉体より抜け出てもその繋がりは消せない。精神と肉体の結びつくは強く、横から肉体だけを簒奪した造物主が本当の意味で奪い取るには、まだ時間が必要だ。
「俺には魂に作用する技が使える。追い出せるぜ、その身体から。俺の力はその為に鍛え上げて来たんだからな!」
麻帆良にいた頃に木乃香に取り憑いた動物霊を払った時や、麻帆良祭で機竜に取りついた怨霊を払ったように、ネギから闇の魔法の毒素を追い出したように、神鳴流の奥義である斬魔剣・二の太刀を真似た斬魔拳。
そして造物主と同種の魔法科無効化能力と神の技法を真似て作られた闇の魔法。火星の白と金星の黒を斬魔拳に込め、ナギの精神を肉体に打ち込めば殺すことなく造物主を追い出すことが可能だ。
「―――――、」
告げられた造物主は、一言も告げなかった。ただし、その表情に変化があった。笑み。隙を突きつけられて尚、造物主は壮絶な笑みを浮かべていた。
「そのような弱った体で出来るものか」
アスカの足元から舞い上がった光の粒がキラキラと煌めいた。淡い輝きを放つ、蛍のように小さくてフワフワとした光の玉だ。それは一つきりではなく、二つ三つ四つと少しずつ増えて、遂には数え切れなくなった。
「出来るさ。俺は一人じゃないからな」
歩いた。激痛を無視して、歩を進める。全身全霊を込めて、アスカは前へ進んだ。
「此処にいる皆と」
暖かで不思議な光がさざめき舞い、戯れる。輝く粒子は巨大な砂時計を逆立ちして見たかのように天に昇っていく。
それはネギが、エヴァンジェリンが、木乃香が、古菲が、楓が、刹那が、真名が、高畑が、クルトが、アルビレオが、彼らの背後にいる幾千、幾万、幾奥の人々の願いだ。
「周りで戦う沢山の人と」
ネスカと造物主の戦いで荒らされた超大規模積層魔法障壁が晴れてその向こうの光景が現れた。
この地に進むのを阻む召喚魔を駆逐し、かなり近くにまで迫ってきている魔法世界の各諸国の連合軍の戦艦と戦士達がアスカ達の後ろにつく。
彼らからも発せられた光の粒がアスカに周りに滞留して大きな光となっていく。
「この世界で生きる全てが俺を支えてくれる」
明日を望む若者の希望が、若者達をこれ以上戦場で散らせまいと大人達が積み上げてきた努力が、若き者達が造り上げる世界を見届ける老人達の祈りが編み出した奇蹟。
人は変われるし、変わっていける。その変化の中に少しずつでも前進しようとしている。瀬戸際に立つ世界の片隅で、それぞれのやり方で向き合おうとしている。世界を否定し、絶望を突きつける何者かに対して彼らは怒っている。理不尽に抗い続けてきた人の本能に突き動かされ、みんなが同じ敵と戦っている。
「こんな光がなんになる。一瞬の光が幾ら集まったところで―――――」
「だから繋げていかなぎゃならねぇんだ。光は灯し続けなければ消えてしまう。人が想いを託すのと同じだ」
自分の想いを受け継ぎ、自分の死後も存在し続ける何者かがいてくれるということ。それは多分、永遠を手に入れたのと同じ事。世代を重ねて受け継がれた想いが、少しずつ進化して未来へと連なる。
光の粒に触れたアスカの心に多くの声が響いてくる。それだけで赤ん坊のように泣いてしまいそうだった。
「多くの人が戦っている。それだけでこの世界を信じられる」
今、それぞれの理由で集まって来た人達が戦っている。深い感慨が押し寄せて、息が出来なくなって喘いだ。絶望に負けないように、もう一歩踏み出した先は、ただどうしようもなく広い世界に成る。
「そこをどけ、造物主。未来に絶望はいらないんだ」
アスカはフラフラのまま、感覚さえ失い始めた四肢に無理やり力を入れて、ボロ布のようになった身体を引き摺るようして前に進む。
立って一歩足を進めるだけで命が抜けていく感触がする。それでも、アスカの眼光だけは衰えない。その眼光が消えない限り、アスカの前進が止まることはない。
みんなを追い越して集団の前に立つ。
「そんなもので私を越えられると思ったか!!!!」
「思ってるさ。アンタは言ったよな、世界は重いって」
背後にいる全ての者の視線と意を感じながらアスカは万感の思いを抱きながら自信を持って答える。
「俺一人では無理でも、みんなとなら世界だって背負える。一つになれば超えられないものなんてない」
「そこまで……! そこまで抗うか!」
ぎり、と造物主は奥歯を鳴らした。
「だが、構わぬ!」
始めから造物主は独りで戦っていた。始めから、そして終わりまで独りで戦い続けるのだ。
「世界の敵となろうとも、過ちと悲しみに満ちている絶望の世界で壊し、我が理想の世界を築くのみ!」
相手が何人いようとも自分一人で結構と、そう考えているのだろう。それが思い上がりでないことを、全員が知っていた。しかし、臆する必要はなかった。だから、アスカは自信を持って言えた。
「俺はアンタと違って人の強さってヤツを信じてる」
最後の戦いが始まる。ここからが反撃の時。過去から続く因縁と呪いに決着を着けるために集った者達の、最後の戦いが。
激化する強大な戦争の中で、彼らが自らの目的を見失わずに走り続ける限り、この世界は簡単に壊れはしない。世界の命運が決まるまで―――――――後僅か。
儀式発動まで残り二十六分五十九秒。
次回『第94話 希望を胸に』
残り三話。