――――光を集めて
そこは静かだった。そこは冷たかった。そこは暗かった。深海のように暗く、氷河のように変化が無かった。
世界は白くも黒くもなく、只管茫洋として、薄ら寒かった。息は苦しくなかったが、ほんの一メートル進むだけで凍えて死んでしまいそうな錯覚を覚えるだろう。
「どうして……どうして、こんな………」
闇よりも深い深淵の中で神楽坂明日菜は考える。
どうして、このようになったのか。どうして、このようにならねばならなかったのか。運命という言葉を使うのであれば、これは俗に言う「運命の悪戯」であるのか。現在という時間との隔絶感がずしりと圧し掛かってきて、明日菜は声を詰まらせてしまった。
「どうして……」
明日菜は愚かな自分を呪った、呪うことしか出来なかった。
体にポッカリと穴でも空いたかのように、心は見事なまでに伽藍同だった。受け入れ難い事実に心がついていない。喪失感すら感じられなくなる空虚さが体を支配している。
もう友達が傷つくのを、終わり行く世界を、何もかも残酷なだけの現実など見たくなかった。何も考えず、ただ楽しいことを探していれば良かった日々は二度と戻らない。誰にも迷惑を掛けずに、初めからこうしている方が正しい在り方だったのかもしれない。
「諦めてしまうの?」
どこからか声が聞こえる。
ありえない。ここは明日菜の内面世界、彼女しか存在しえないはずなのに。
「本当に諦めてしまうの?」
薄闇の中に溶け込むように、「彼女」は静かに立って繰り返す。
背筋がピンと伸びていて、その立ち居のさまが微かな威圧感を発していた。一度も陽に照らされたことのないようなすべらかな白い肌、頭の両端で縛られた長い髪と完成された面差し。儚げな肢体を古風な神殿に使える巫女のような裾の長い服で覆うことで、それが彼女の持つ神秘的な雰囲気を引き立たせていた。格別派手でも煌びやかでもないのだが、対峙する者を圧倒する力が備わっていた。
人形のように表情を全く動かすことのない端整な顔から、虹彩異色の瞳が真っ直ぐに明日菜を見ていた。
感情を感じさせない虹彩異色の瞳は、こちらに焦点が合っているのかどうかも定かではない。人の身では潜れない深海に通じているのではないかと思わせる昏い瞳は、まるで眼前にポッカリと開いた二つの堂靴に見えた。
深森の奥深くに人知れずひっそり咲く花のように。目立たない、だが一度でもその姿を目にすれば、見た者の心に生涯咲き続けるような、不思議な印象の少女だった。
秀麗な顔立ちは、何の感情も浮かべずに間近の明日菜を見つめていた。相手に対する正負の思念を持たない純粋な視線は、幼児や動物に通じる無垢な色を持っていた。
「あなたは、誰?」
彼女が誰か分かっていながら明日菜は泣き声のような、弱々しい掠れた声で聞いた。
眼の前の少女は明日菜に似た面影がある。いや、明日菜にこそ少女の面影があるというべきか。
「私はアスナ。紛い物じゃない本当のアスナ」
銀の鈴を鳴らすような、冷え冷えとした透き通った声が明日菜の耳に冷たく触れた。それはキーが高いといっても同じ明日菜の声であるはずなのに、明らかに自身の声とは違っていた。
「アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア」
アスナは淡々と明日菜に告げた。感情を介さない言葉は、魔法世界を滅ぼす罪業を糾弾するべく現れた断罪人のように思えた。
魔法世界の伝統を重んじる小国・ウェスペルタティア王国の姫君で、王族の血筋にしばしば生じる「完全魔法無効化能力」を持つ特別な子供「黄昏の姫御子」その人。
「そんな、私は偽物なの?」
明日菜は絶句して頭を振った。
心の底ではそんなことはないと信じていたかった。自分は自分だと。
「神楽坂明日菜は私が封印された時に生まれた代理人格に過ぎない」
残酷すぎる真実を突きつけられた明日菜は己の体を抱きしめながら苦悶する。
目の前の少女アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアこそが、本来この身体を扱うに相応しい人格であると、解放された記憶と無意識のレベルのところで正しいのだと悟らされたからだ。
アスナが存在しなければ明日菜はこの世に生まれなかった。アスナこそが本物で明日菜は偽物に過ぎない。全ては彼女の物であり、明日菜足らしめる何かは何一つ存在しなかったのである。
所詮、明日菜はアスナが記憶を封印された際に生まれた代理人格であり、存在自体もまやかしに過ぎない。そしてその事実を知った時、明日菜は絶望の淵へと追い込まれた。神楽坂明日菜という人間の全否定に等しかったのである。
明日菜は両手で頭を抱え込み、真実に嘆いた。
「諦めるの?」
再びの問いをアスナは繰り返した。
ここで初めて、アスナの声に微妙な本当に微々たる変化があった。自分と同じ顔、自分と同じ瞳、なのに何もかもが違うアスナの、有るか無きかの情意があった。そして驚いたことに、その感情は明日菜に対する非難であるようだった。
「明日菜はこの道を選んだ…………ガトウさんの想いを踏み躙ってまで」
ぼそりと呟いた一言が、断頭台の刃のように明日菜の心を真っ二つにした。
「なのに、諦めるの?」
その言葉の一つ一つが氷の罅割れが心臓に走っていくようだ。熱くなっていた明日菜の頭が真っ白になり、心臓から心の隅々にまで凍りつくような冷たいものが広がっていく。まるで血液に冷却液が混じりこんだようだ。全身を満たしていた神楽坂明日菜を支えてモノの全てが砕け散り、バラバラと抜け落ちていく。
「しょうがないじゃない。私にどうしろってのよ」
「ガトウさんに望まれた幸福なアスナとして生きてきたのが明日菜。明日菜にはガトウさんの願いを叶える義務がある」
必死で問いかける明日菜に、アスナは冷めた口調のまま、抑揚無く返答した。その口振りからは何の感情を見出すことも出来ない。その態度は、微動だにしない表情も相まって人形のイメージを加速させた。
「明日菜が諦めるということはガトウさんは間違っていたということになる」
そう言葉を切り、アスナは感情のない瞳で明日菜の顔を見つめた。
「……な」
明日菜はハッと身じろぎした。
既にアスナからは、先程見えたかに思えた感情の芽は、跡形もなく消えていた。そこにあるのは、例の透明な瞳だった。何もかも見透かすような瞳だけが、明日菜の思いを鏡のように明日菜自身へと跳ね返していた。
「それでも私には背負えない。私はアスナじゃないから」
どうしてこんなことになっちゃたのかな、と明日菜は言いながらぼんやりと考えた。
封印されていた記憶に隠されていた過酷な現実が彼女をひどく打ちのめす。たった数か月前の、魔法のことなんて知らなかったことが何年も昔のことのように時間間隔が麻痺していた。
「きっと木乃香達も私の正体を知ったら、もう笑いかけてくれない」
それどころか、何も知らずに笑みを向けていた事そのものを、忌まわしき記憶のように思うかもしれない。ここには人の皮を被った醜い化け物、兵器でしかなかったのだから。
「なんでこんなことになっちゃったのかな……」
何でもっと違う、ずっと異なる、誰もが笑って誰もが望む最高に幸せな物語ではないのか。誰一人欠けることなく、何一つ失うものもなく、みんなで笑っていられるような世界じゃないのか。
「ごめんなさい」
弱々しく謝る。そうすることでしか今の明日菜は自我を保てない。
「何も止められなかった」
どこに逃げ場はない。精神が悲鳴を放ち、罪の意識で引き裂かれる。
「私がいなければ、こんなことにならなかった」
温かい世界にいたかった。誰かと一緒に笑っていたかった。一分でも良い、一秒でも構わない。少しでも穏やかな時間を過ごしたかった。だが、何を思った所で、もう遅い。明日菜には逃げ場などない。隠れる所なんてない。こんな醜い自分を温かく迎えてくれるような、そんな楽園はこの世界に存在しない。
「
「…………そう、明日菜も諦めるのね。私のように」
少女の声は疲れ切っていた。まるで、千年を生きて人間の闇を全て見つめてきたような、明日菜よりも尚も暗き達観した絶望がそこにあった。
「精神年齢二桁にもなってないのよ。諦めるしかないじゃない」
一体、どれだけの人達が明日菜の力の犠牲になってきたのか。十や二十では足りない。百や二百では足りない。数え切れない程の人達の命を奪った怪物が、そんな大罪を背負う化け物が一人だけ助けを求めるなど許されないと思った。
「……、助けて」
祈りにも似た声で呟く明日菜。
存在するかも定かではない地面に倒れ込み、顔を埋める。世界中の不幸を一身に背負ったかのような理不尽さに咽び泣く。
だからこそ、今の明日菜は誰もいない所でしか、自分自身だけしかいない所でしか弱音を発せられない。背負うには重過ぎる罪に脅え、贖えない罰に傷つき、耐え切れなくなってボロボロになった呟きは、ただ闇に消えていく。
喉からは吐こうとしているのが言葉ではなく、肺であり心臓であるかのように何度も喘ぐ。
「助けてよ……」
この場にいるのは明日菜とアスナだけ。
アスナが無様な姿を晒す明日菜を止めなかったのは同じ気持ちだったからかもしれない。誰に届かなくても、いるかどうかどうかも分からない神様にお祈りするようにアスナも、助けて、とやはり無感情な言葉を口の中で呟いた。
とうの昔に錆びたはずのアスナの涙腺から透明な錆が落ちた。決して誰にも届かない叫びが、耐え切れずに少女達の口から零れていく。
「助けてよ、アスカぁ」
生命を振り絞るように、心の奥にいる人の名を呼ぶ。希望を失い、命を投げ出さずにはいられない暗闇の底で、ただ一つの灯であるように。
最後の最後で、終わりの一歩手前のこの瞬間に真っ先に浮かぶのは、やはり彼の顔だ。
巻き込みたくはなかった。しかし、彼は自ら戦場へと身を投じた。
みんなが自分の為に戦ってくれただけでも、存分に感謝に値するはずだ。だから、こんな結末に陥ろうとも明日菜は誰も恨まない。
それだけで満足だ、十分だ。神楽坂明日菜はこれ以上の幸せなどないと両手で抱えきれないと考えているのに、助けを求める声が口から出てしまう。明日菜に出来ないことも、アスカなら出来るような気がした。だけど、自分一人が助けを求めるのは卑怯だと思った。
誰にも届かない。誰にも聞こえない。誰にも受け入れられない。絶対なる孤独の中で、神楽坂明日菜の幸福がこれから始まるなんて思いもしなかった。
「…………、」
声が聞こえたような気がして明日菜は顔を上げた。
この場にいるのは明日菜とアスナだけ。言い方を変えればアスナから派生した明日菜しか存在しない内面世界。そこに他者の存在が混じることはない。目の前のアスナもまた無表情の中に驚いたように目を僅かに大きく開いていた。
『――――なんか、ねぇ』
「…………?」
また誰かの声が聞こえた気がして、明日菜は声の主が分からなくて首を捻った。
誰の声だったのだろうと耳を澄ますが第三者の存在は感じない。となれば、現実からの声が届いているのか。
「ありえない。ここは精神世界。現実の声が届いて来るなんて」
と、そこまで言ったアスナは明日菜の指に嵌められた指輪を凝視する。
曲がりなりにも世界最古の王家としての相応しい知識を有しているアスナの眼には、宝石もない簡素なデザインのリングに込められた魔法効果を看破していた。
「対の指輪に対する共鳴。現実にいるアスカの声を精神世界にまで届けてる」
魔法発動媒体になることや、若干の魔法・気に対する抵抗力が増すだけではなく、隠された効果として対の指輪に対する精神を共鳴させることが出来る。例えば本来ならば他者が介在出来ないはずの精神世界に声を届かせることも可能となる。
『同情なんてしない』
その声に、明日菜は呼吸が止まるかと思った。
「アスカの声? 一体、何が」
全く事態が呑みこめていない表情で明日菜ががアスナを見てくる。
『魔法世界を救ってほしいと頼まれたわけでもない。親父達が守った世界だからって、俺が命を賭けてまで戦う理由はない。精々一ヶ月程度しかいないんだからな。俺が戦う理由はないはず、だった』
暗闇に飲み込まれた少女の叫びを聞いて駆けつけた英雄が闇の世界に福音の鐘を鳴らす。
『造物主、アンタには世界を作り変える権利があるのかもしれない。正直、アンタが正しいとも思うよ。それでもさ、俺にも戦う理由があるんだ』
その声は暗闇に包まれた世界を照らす鮮烈な光と共に耳朶を貫き、肉体を一揺れさせた。明日菜は我に返った思いで目を瞬いた。
『何故闘うだと? そんなことは決まっている!よく聞け、俺は――――』
今にも死にそうな体で、強すぎる造物主を前にして恐怖を感じないはずがない、怖くないはずがない。神楽坂明日菜には分からないあの少年が何を言いたいのか、それが分からない。
それは、誰の為に?
それは、何の為に?
『俺は、明日菜を助けるためにここにいるんだよ! 世界なんてそんな小さい事情なんかどうでも良い! 他の誰でもない。明日菜を助けるために戦ってきたんだ!』
叫びに明日菜の心臓が止まるかと思うほど高く鼓動を打った。
胸が詰まる。アスカが何の為に怒りを抱いているのか、今の今まで何の為に戦っているのか。
敵が勝てる相手だから誰かを守りたいのではない。誰かを守りたいから勝てない敵とも戦うのだ、と声の主は込めた全てだと物語っていた。
『惚れた女をこの手に抱きたい! そのためにテメェをぶっ飛ばす! ついでに世界を救う! 全て俺のためだ! 邪魔をするなァァァァ―――――!!!』
血を吐くように叫ぶ少年の声がハッキリと明日菜に届いた。
間違いない、呼んでいる。見知った命が、自分だけを見て叫んでいる。アスカの顔が、囁きが、明日菜の内にはっきりと脳裏に蘇った。色んな感情を見せる背中、温かい手、青空のように蒼い瞳。怯えるような恐れ、真っ直ぐな怒り、静かな思いやり。目を閉じれば鮮烈に思い出せる。
罪深さは変わらなくて、ここで消えていくべきだと思っている。それでも、そんな生きていてはいけない存在でも、失いたくないと求めて叫んでくれる人が、確かに存在する。
「ああ……」
身も心も震えるような感動に明日菜の口から声が漏れた。
涙が溢れそうで、少女は沈黙する。世界中の誰に見捨てられても彼だけは味方でいてくれる。その単純な真実が体の芯に灯り、生きる細い獣道を照らしてくれる。
「ああ……!」
熱に浮かされたような心に噴火するマグマにも似た感情が沸き上がった。まるで魔法みたいに、どうしようもなく暴れる熱が、胸に、涙腺に込み上げる。
今度こそ涙が零れてくるのを止められなくて、明日菜は顔を押さえた。
「どうしたの?」
「ううん、なんか胸がいっぱいで」
手で隠したまま、アスナの問いに顔を逸らして目尻を手の平で擦り、笑おうとする。だけど、頬が強張ってなかなか上手くいかなかった。どころか、隠したはずの指の間から涙の欠片が滴った。
「あ、あは、ご、ごめんなさい。な、涙がっ、止ま、らなく、て」
嗚咽が少女の喉を割る。
なんてことはない、そこまで想ってくれたことが嬉しかったのだ。ただ、それだけのことがどうしても堪え切れなかった。押し留めていた感情が自分にもどうしようもない形で暴走していた。
「ご、ごめんなさい。見、ないで」
顔を伏せる。どうしてと、思う。もう終わりなのだ。もう十分だって諦めたところなのに。恥ずかしくて、顔中から火が噴き出るようで居たたまれない。このまま消えてしまいたいと、本気で願った。
「泣きたいなら、泣けばいい」
「え?」
すると、アスナからの思いがけない言葉が耳をついた。
「無理に抑えたり、我慢したりしなくていい。そんなことをする必要はどこにもない」
「そっか……」
場違いな笑みを浮かべた明日菜の目元に、珠のような雫が浮かび上がった。それと同時に、堰を切る勢いで感情が溢れ出て来る。
そんな明日菜の胸中に去来するのは、アスカとの思い出の数々である。決して楽しい思い出ばかりではない。だが、かけがえのないものばかりだ。
アスカがどれだけの激闘を超えて、ここまで来てくれたかを思うと泣いてしまいそうになる程に嬉しかった。アスカだけではない。木乃香も、刹那も、茶々丸も、楓も、古も、真名も、小太郎も、他にも多くの誰もが傷つきながらも戦い抜いてきた。
最期の涙が一滴、頬を伝った。そしてゆっくりと嗚咽は収まった。
「もういいの?」
「うん。私は一人じゃないもの」
魔法の薬みたいに激情が退き、代わりに温かなものが胸に宿った。確かに、覚えのある温かさだった。
だから、とても嬉しそうに、まるで指輪を受け取った花嫁みたいに明日菜は笑った。強く笑って頷いた。そして歩行を覚えた手の幼児のようにどこかぎこちない動作で、それでも明日菜は立ち上がる。
重要なのは何も真実だけではない。偽りもまた明日菜の一部だろう。自分の為に全てを賭けて戦ってくれている人がいる。幸せも苦しみも、嘘も真実も、過去も現在も、何もかも。
「ありがとう」
と、アスナにアスカに、全ての人に笑って言った。勇ましい女騎士のような微笑だった。
最後の瞬間が訪れるまでは徹底的に抗わなければならない。一秒でも長く時間を稼ぎ、生き残るための方法を模索する必要があった。もはや恥も外聞もない。地面に這い蹲り、命乞いをし、恥辱に塗れようとも、明日菜はこの声が聞こえる限り生き続けると心に誓う。
「私は行く。みんなの下に、アスカのところへ帰る」
ぐいと涙を拭きながら、少女は宣言する。どうして、断るはずがあろう。
ずっと、少女は役に立ちたかった。自分に許される限りあらゆる手段を尽くして、アスカを振り返させたかった。無力な自分が嫌で、何も出来ない自分を憎んで、ずっとずっと過ごしてきた明日菜にとって、アスカの叫びはまさしく天恵にも等しかった。
「どうして、どうしてまた希望が持てるの? もう諦めていたのに」
アスナの小さな声を聞いた。
「確かに一度は諦めたわ。でもね、もう一度希望を持てたの」
それだけで嗚咽が零れそうになった。あれほど恐怖していたのに、どうして声を聞いただけで涙ぐんでしまうのだろう。
「私はここにはいられない。外に世界に行かなくちゃ」
「アナタではここから出られない」
「ええ、分かってるわ。だから、力を貸して」
これまで彼女と向き合えなかったのは、自分の弱さ故だ。こんなギリギリのタイミングでやっと向き合うだけの覚悟が決まっただけだ。それだって、外部からの手助けがあってのことに違いない。
それにここを出ることは、本物であるアスナに出来ても偽物である明日菜には出来ない。
「無理を言ってるのは分かってる。自分がどれだけ酷い事を言っているのかも分かってる。私にはきっとみんなを、アスカを守れない。どれだけ足掻いても絶対に守れない。だから、だからお願いだから!」
それでも続けて言った。
「私を呑み込んでもいい――――アスカを助けて!」
そこには打算も駆け引きも、ウェスペルタティア王家の人間とか黄昏の姫巫女とかも、人間が積み重ねてきた小賢しい知恵もない。呪われた宿命と向き合った彼女は、そんなことを言い切る強さを身に着けていた。
それは、不屈の力だった。温室で咲き誇る花ではなく、道端で太陽を目指す花の力だった。冷たい夜を耐え凌ぎ、陽の下で花を咲かせる。この世で最も古く普遍的な力だった。人が類人猿だった頃から持ち続けてきた純粋な愛情だけだ。
ただ、そうしたいという願い。少女の気高き決意だった。遂にアスナには持てなかった強い意志だ。
「逆でしょ? アナタが私に身体を返すのよ」
運命を告げる女神のようだった厳正な声音を崩して、童女のように笑って悪戯心を込めて言う。底知れぬ声には、確かな喜びと親愛に溢れていた。
「呑み込まれるのがどちらかはまだ分からないけど」
目の前にいるのは自分の可能性の一つ。そして自分にはなれなかった存在。
「どのような結果になっても結末はもう決まっている。それでもいいの?」
アスナは猛々しく在る明日菜を見て決めた。
「アスカも覚悟した上で戦ってくれたんだもの。私も覚悟しなくちゃ」
「そう、分かった」
人形染みた表情は柔らかな面差しへと変わる。罪は全て自分が背負うと、こんな自分にもやるべきことが、やれることが出来た。柔らかな面差しが微かに悲しみで曇り、今にも溶けて消えそうな儚げな表情になる。
「「行こう、過去に決着をつけに」」
これで何もかもに決着が着く。どのような結果に至ろうとも走り続けると決めた二人の手が重なった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
木乃香は自分が死んだと思った。視界には何も映らなかったし、先程までアスカの近くにていて濃厚だった血の匂いもしない。五感のほぼ全てが機能していないのだから、黒の光に呑み込まれて死んだと考える方が自然だった。
(考える? 死んだはずなのに?)
死んだのならば考えることも出来ないはずであると矛盾に気付く。
死んだ後は輪廻の輪に入って転生するという話はアーニャから聞いたことがあるのだが、流石に魂になっているのに思考できるのはおかしい。
(………、っ)
アスカに可能な限りの魔力を譲渡したので、真っ白に塗り潰された五感が戻るのに暫く時間が必要だった。
生きている。失われたのではなく、五感が回復しつつあるのだということは自分は生きていることを示していた。
(な、にが………?)
造物主が放った一撃は、ネギ達が壁となって防ごうとしたが碌な抵抗も出来ずに弾き飛ばされた。光を集めていたアスカを守る最後の壁となるはずだった木乃香は腕を引っ張られて後ろに投げ飛ばされた。
最後の一撃を放つために力を溜めていたアスカが防御したとは考え難い。
防ぐことは不可能で、当たらないなんて希望を持つなんてのもありえない。にも拘わらず、木乃香には新たな傷の痛みのようなものはない。
「――っ!?」
ゆっくりと瞼を開いて息を呑んだ。
近衛木乃香は、一瞬だけ自分が置かれている状況を理解できなかった。地面に倒れている木乃香が眼にしたのは、自身の両側に伸びる暗黒の光だった。暗黒の光は眼の前の地面をごっそりと吹き飛ばしながらも止むことはなく、今も勢いを増している。
世界すらも呑み込むように見えた破壊光線を真っ二つに切り裂く嘘みたいな情景である。聖書に描かれる海を断ち割るモーセのようだ。恐らく暗黒の光によって抉られた地面は深く巨大な溝となることだろう。
木乃香は未だはっきりとしない意識のままで首を反対側に向けた。そこに広がっているのも同じ光景だ。破壊力は拡散し、薙ぎ散らされて周囲の大気を焦がし、耳を圧するような轟音と身を吹き飛ばしそうな剛風は暗黒の光が放つものだ。
しかし、それにしては妙だった。上と左右に暗黒の光が伸びているのに、自分の被害は皆無。後方は無事だったからだ。
善悪強弱問わず、放出系の魔法というもの全てを問答無用で消去する行為。そんな馬鹿げた事が出来る人間を、彼女はたった一人だけ知っている。
(あの魔法を防いでいる……? いや、違う。
ようやくハッキリしだした意識と共に暗黒の光の発生源であろう前を向くと再び息を呑んだ。
眼の前に、見覚えのある背中が
一つはとても広く、そして逞しい男の背中だった。傷ついたアスカ・スプリングフィールドの背中だ。
もう一つはアスカに比べれば華奢だが、造物主の魔光を手に持つ剣で正面から押さえつけ、アスカを守護するように立ち塞がる少女がいた。下手したら幼馴染の刹那よりも馴染み深い少女、封印されていたはずの神楽坂明日菜の背中があった。
或いは、造物主が己が能力を活かして物理攻撃をしていれば彼女など粉々になっていただろう。しかし、今回はあくまでも魔法攻撃だ。そして、彼女の能力はどんなものであれ放出系の魔法は完全にシャットダウンする。
造物主の攻撃が絶大な「魔法」攻撃であればこそ、彼女の能力は容赦なくその一撃を無効化される。
「な……ッ!!」
調の樹霊結界の上に概念結界を重ねがけして囚われていたはずの明日菜が目覚めて現われたことに驚愕する造物主。
造物主とアスカを別にすれば造物主の使徒達や紅き翼が総がかりでも外側からでは突破することは不可能。内側からなら可能性はあるが、儀式発動の為に意識は深いところに眠らせてある彼女が目覚めるはずがない。
それこそ外部から誰かが彼女に干渉して目覚めさせない限り。
「遅いぞ、明日菜」
「いいじゃない、最後には間に合ったんだから」
魔法を防ぎ続ける明日菜と、彼女を信じて力を溜め続けるアスカの軽口をする二人の姿を見た木乃香は、今まで張っていた気を抜いた。
自分に対して何かを言ったわけではない。しかし、二人の背中は雄弁で。声より先に、告げられた言葉を木乃香は確かに受け取っていた。
―――――二人なら大丈夫だ、と。
安心して魔力切れから来る失神に身を委ねた。気を失った彼女の口元には二人への絶大な信頼から緩やかな笑みが浮かんでいた。
(後は任せたで、二人とも)
後ろで木乃香が完全に気を失って倒れこんでいることに二人は気づいていなかった。そんな余裕もなかった。
「貴様ら!!」
造物主が何かを叫んだが、二人は聞いていなかった。
「明日菜ッ!!」
「任せなさい!!」
声を掛け合う必要はなかった。互いの目を見詰め合う必要はなかった。指先を触れ合わせて鼓動を一つにする必要もなかった。二人は狂ったように
「はぁあああああああああああああ!!!!」」
気合の籠った叫びと共にハマノツルギから放たれた魔法無効化能力が込められた斬撃は、四大属性の最上位魔法が纏められた魔光を一刀両断に切り裂く。
「ぬぅっ!?」
無極而太極斬は放つ端から魔光を切り裂き、やがては造物主に辿り着いた。
魔光を放っていた腕が斬撃によって上方に弾き上げられ、造物主の体が寸瞬だけ泳ぐ。その隙を見て取った明日菜とアスカが飛ぶ。
先を飛ぶ明日菜がハマノツルギを槍のように構え、背後を追うアスカが、ごぅん、と音を立てて光が練り合わせる。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
刹那、刮目し、腕を振り上げるアスカの魂の喚声。命の残り火その最後の灯明までも爆ぜさせて吶喊する。造物主だけを視界の中心に据え、全身を槍と化した。
「負けられん! 負けられんのだ、私は! 全ての敗者達を救う為に!」
迫る二人の光を見据え、造物主は体勢を整えることすらせずに攻撃を選択する。腕に激流を遡って泳ぐ竜の猛々しさを持つ暗黒の波動が集まり放たれた。
凝集された究極の負は周りにある浮遊石を呑み干し、重力を捻じ曲げ、太陽や星久の光さえも屠りながら迫るアスカに襲い来る。
「これで終わりだ、
アスカは魔光を回避することなく、造物主へと迫る。
魔光は全て明日菜が切り裂く。アスカは拳に集めた光に全てを預け、造物主へと迫る。外部から見た二人の姿は、もはや闇を切り裂く一条の光に等しい。
「我が宿願を阻ませるものか!! 貴様らには分かるまい! この積み重ねられた敗者達の願いの重みが!!! 救済の邪魔をするな!!!!!」
必死の造物主の慟哭と共に闇が倍増する。
あまりの威力に明日菜の突貫の勢いが止まり、弾き飛ばされる。それでも造物主までの道は確かに切り開いた。
「行って!」
最後の力で造物主までの道を切り開いた明日菜の献身を力に、希望という名の光を体現するアスカが突き進む。絶望の闇で覆いつくさんと造物主もまた全ての力を絞り尽くす。
「
最早、攻撃は避けられない。それを悟った造物主は世界すらも呑み込む闇を拳に収束して勢いを増していく。
「!!!!」
闇そのものと化した造物主の拳とアスカの光を纏った拳が遂に激突した。
「く……!」
「ぬ……!」
二人を中心に巨大な黒と白の光が激突して荒れ狂い、互いを食い破らんと輝きを増す。弾けた輝きが太陽が間近にあるように辺りを照らし出した。
ぶつかり合う二つのエネルギーが爆発的な光を生じさせ、太陽よりも遥かに強い光量が新オスティア空域を照らすと、夜に沈む空を暗転させた。
それまでとは比べものにならないほどの閃光が発した後、大気が揺らめいて世界そのものが震撼したような錯覚すら覚える。あまりにも痛々しいほどに強い光であった。誰一人として、目を開けていられる者などなかった。それどころか、光は瞼を易々と貫通し、誰もが目を尾さえ、庇を作ってこらえようとしたが、それでもなお光は飛び込んでくるのだった
「終わりだ!?」
「世界の終わりだああぁあッ!?」
鮮烈を極める膨大な閃光が世界を包み込んでいく。
灼熱する太陽よりも激しく、圧倒的な存在感を以って世界に現出したそれによる衝撃も凄まじく、まるで人間が立つことさえ許さぬ星の怒りのように世界が揺れていた。
今回のそれは、原因は自然現象ではない。アスカと造物主の拳の合間で分かれる白黒の柱が、その中心であった。まるで魔法世界の核から吹き上げるがの如き白黒の柱が、世界全土にまで影響を及ぼしているのだ。
「この不完全な世界と共に砕け散れっ!!!!!」
造物主の叫びと共に闇が膨れ上がる。圧倒的な闇の奔流が、今にもアスカから発せられる小さな光を呑みこんでしまいそうになっていた。
「くっ!」
アスカの突進は一瞬で無に帰した。右腕に自ら作り出した勢いが跳ね返って来る。前に進もうとする力がその場で虚しく空を掻く。
既に限界を迎えていたアスカに、全てを賭けた造物主の一撃は重すぎた。容易く圧倒され、拳どころか腕、上半身、下半身と流れるように痛みが走り、何かが途切れる音を聞いた。
「おおお……ぐぐぐ………くそおおおおおおおお!!」
抵抗。譲り得ぬ抵抗。アスカの拳先から小さくも気迫こもる閃光が湧出する。極小の光の波動と、極大の闇の波動の激突。勝敗は誰の目にも明らか。百も承知の上で、なお諦めず、雄叫びを上げる。
「諦めろォオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
「諦めて、たまるものかぁああああああああああああああ!!」
アスカは諦めない。諦めは意味を成さない。この拳を引けば後が無い。自分にも、この他闘いにも、そして世界にも。
例えそれがどんなに不利な戦いであっても、勝機が皆無に近いと知っていても魂魄を出し尽くすまで、アスカは退かない。
「消え去れぇぇえええええええええええええええええっっっ!!!」
だが、どれだけアスカが力を込めようと拮抗にすら至らず、太陽すらも呑み込む宇宙の暗黒を前に、それに比べればあまりにも小さく儚い希望の光が今まさに消え去ろうとしていた。
威力では押し切る事も出来ない。耐える以外の方法は思いつかず、時を待たずして吹き飛ぶことは間違いない。胸に湧くは諦観と絶望、そして屈辱。
細やかな抵抗は終わり、間もなく訪れるのは覆しようのない死。運命を受け入れるというのはこういうことだというのか。抗えば抗うほど運命という名の鎖は肉に喰い込んでいく確定的未来。―――――そうなるはずで、あった。
「これでようやく終わるのだ。やっとこの呪われた運命から解放される…………!」
揺るがぬ優位に立つ造物主は長年の想いが成就する時が目前であることを悟り、激戦の終わりが見えたことで気の緩みから本音が零れ落ちる。
人は皆、捨てられない何かを持っている。それを守るため、或いは取り戻すために生きている。造物主もまた嘗て願った世界を取り戻すために戦っていたのだ。
「……っ!」
造物主の涙ながらの呟きにアスカの意識が沸騰する。
確かにこのままでは魔法世界は滅ぶだろう。そしてアスカの取る手段は
(でも)
と、尚も拳を強く握って闇の重圧に耐えながら、アスカは思う。何も、こんな結末じゃなくても良いはずだ。もっとより良い世界を求めても良いはずだと。
「まだだっ!!」
だから、こんなところで崩れ折れてはならない。
彼の背中は、自ら未来を掴もうとした幾億の手に押されている。彼を同じ方向を、幾兆の瞳が共に見ている。無数の足が、彼と共に踏み出される。
小さな光がアスカの想いに応えるように輝きを増して闇を押し返す。ありったけの力を、持てる力の全てを、それでも足りないというならこの
今まで無意識に自己保身で抑えていた力の全てを解き放った。
「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
叫びと同期するように勢いを強めた光が僅かに闇を押し返した。
しかし、届かない。多くの力を借りて、多くの願いを背負って、多くの想いに背中を押してもらっても造物主の二千六百年の絶望の前には無力。
「ァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」
どれだけ叫ぼうと、どれだけ力を込めようと、どれだけ叫ぼうと、どれだけ抗おうと、絶対的な力の差を前に抵抗は無意味であり時間稼ぎにしかなりえない。
己の力だけでは耐えることすら出来ず、皆の力をより集めようとも届かない。その事実を前に諦めたわけではない。折れたわけでもない。絶望したわけでもない。だけど、どれだけ願っても届かないアスカを闇が呑み込み掛けた―――――その時、
「ぁ――」
ふと大気が凪いだ。圧されるばかりの小さな白い輝きを、誰かがそっと握り締めた。その背中を支えた。
微かな温もりが背にはある。背後を振り返る必要など無い。
『行け、アスカ!!』
『負けるでない!!』
声は聞こえない。気配は感じない。背を押す感触がない。だけど、分かる。言葉すら交わす必要など無い。誰がそこにいて、何をしたのか、これからどうするのか。分かる。ただ自然に理解できる。だから、自分もただ為すべき事を為すのみ。
「な、に……!?」
アスカの背後にいる存在を見た造物主は予想外の事態に一驚する。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!」
アスカから膨れ上がる純白の力。光へと変換された力の渦がアスカを中心に顕現し、天まで届けと膨張する。光は闇を押し返し、今にも潰れそうな状態から拮抗へと持ち込んだ。
拳の狭間で激発する光と闇が鬩ぎ合う。
二人を中心に衝撃波が広がり、唯一無事でアスカの応援に向かおうとした明日菜も強すぎる衝撃に地へと押し付けられた。竜巻を遥かに強くしたような乱気流が舞い、世界が震えているような強い地震が世界を襲った。
二人のあまりにも強すぎる力に世界が耐えられないように、怯えるように。
「どこまでも私の邪魔をするか! 英雄よ! 我が裔よ!」
アスカの背を押す陽炎のような姿―――――ナギ・スプリングフィールドとアリカ・アナルキア・エンテオフュシアを憎悪を込めて叫ぶ。
自身に拮抗せしめたアスカを前に、負けぬと押し返しながら激昂する造物主。今まで残していた力を全て振り絞るも、一進一退を繰り返すだけで圧倒することが出来ない。それどころか一瞬でも気を抜けば負けるのは自分。
それがまた造物主の怒りを強めた。
アスカの背中を押す存在、二十年前に自身を打ち倒し救済を挫き、そして十年前には万全を期したにも係わらず相打ちにまで持ち込まれた。剰え、ナギが己の肉体を犠牲にしてアリカによって封印されてしまった。
協力者である魔族の研究機関が出した試算では十年前の時点で、魔法世界の崩壊が始まるまで最短で二十年を切っていた。計画の万全を期すなら早い方がいい。そんな最中に十年もの長き間、ナギの体に封印されていた。
彼らにとっても苦肉の策だと理解していても数少ない時間を無為に消費してしまった憤りは消えはしない。
「二度ならず、三度までも立ち塞がるか!!」
目の前の相手を排除すれば抵抗する勢力は完全に瓦解する。後一歩というところで入った邪魔が造物主から完全に余裕を奪い取って死に物狂いにさせた。
だからこそ、造物主は彼に取ってもはや塵芥に過ぎなくなった一人の少年がまだ完全に戦意を失っていないことに気がつかなかった。彼もまた抗う彼らと血を同じくする者、ネギ・スプリングフィールドの存在を。
地に伏せていたネギが最後の力で体を起こした。かほどに傷つきながらも、尚もぶつかり合う光と闇と見上げた。
(ああ……)
あれが英雄だと思う。あれこそが英雄だろう。だけど、自分も負けていられない。家族が一丸となっているのに自分だけが暢気に寝ている場合ではない。
出来る事を成すため右手に、残った魔力の全てを注ぎ込んでいく。
ドクン、となけなしの魔力を搾り出すように右手に集めていると心臓が一際高く鳴った。
今までの激闘と残った魔力すらアスカに分け与え、ネギに残ったのは生命を維持できるギリギリのラインしかなかった。なのに、生命を維持する限界の魔力を更に使おうとすれば答えは簡単。生命を維持している魔力を切り崩して行うは正しく自殺行為。
「ぐ……! ……ッ、うぶ……こふ」
魔力の限界を迎え、ネギの口から溢れる大量の鮮血。吐血は収まらず、遠ざかっていく意識を精神で引きとめながらも魔力を収束していくのを止めない。
何故ならネギの目にもまた造物主と同様に、アスカの背を支える薄らと透けた両親の姿が見えた。双子の弟と両親が戦っているのに自分だけ退くわけにはいかない。
これから使う魔法はシンプルにたった一つ。基本にして簡単な魔法の射手。数があっても意味はない。一つに全ての力を込めて、あのバランスをこちらに傾ける一助とする。
「づぅっ」
だが、魔力が足りない。命を賭けてもあの光の中に飛び込むだけの威力に届かない。
「馬鹿ね、ネギ。私のも持って行きない」
比較的に近くにいたアーニャもまた辛うじて意識を繋いでおり、ネギのやろうとしていることを察してアーティファクト『女王の冠』を呼び出す。
「我が能力を主人へと貸し与えよ」
召喚されたアーティファクトはアーニャの頭に出現し、冠の中央にある宝玉が輝いた。
アーニャのアーティファクトの効果が発動する。
女王の冠は、被った者の能力を主人へと与えるという変わったアーティファクト。この場合の主人とは仮契約をしたネギであり、アーニャの能力、魔法適性と残り少ない僅かな魔力がと貸し与えられる。
「やっちゃえ」
それだけを言い残して今度こそ気を失ったアーニャの気持ちを受け取ったネギの片手の先が炎を纏う。想いと共に熱量を強くして不規則に明滅し、ネギの顔を浮かび上がらせる。
「行けぇえええええええええええ――――――――っっっっ!!!!」
全ての意志を込めた咆哮と同じく掲げられた手の先から、ばちばちと火花を散らせる高密度の輝きが放たれた。反発し合う光と闇と比べれば圧倒的に小さな炎が、ネギの放った魔法の射手・火の一矢が掻い潜りながら進み行く。
「な……!」
極限の光闇の激突を奇跡的に潜り抜けて魔法の射手・火の一矢が背後から造物主に着弾した。
二人のない魔力を搾り出した乾坤一擲の一撃でも造物主にダメージはない。あるのは頭部に当たったことによる僅かな衝撃と驚きだけ。
造物主が着弾の衝撃から揺れた頭を戻して撃った眼下にいる相手を見ると、今にも倒れそうな少年が右手を自身に向けていた。
「勝て、アスカ!!」
その一発を放っただけで何をされるでもなく、ネギは最後にアスカに向けて血を吐きながら叫ぶ。直後、今度こそ全ての力を使い果たして崩れ落ち、完全に意識を失った。
ネギの残りの全てをかけた一撃は造物主に全く効いていない。傷の一つもつけることすら出来ず、影響は
『『――――今
「―――――ううぅぅぅぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぁあああああああああああああああああああああっつ!!!!!!」
「な、っに?!」
ネギが生み出してくれた最大にして最後の絶好の好機。これを逃してなるものかと背を押してくれる存在達の叫びと同時にアスカは踏み込んだ。
この一歩。更に一歩。大いなるその一歩。その歩みには想いを繋いだ者たちの命が宿ると大きく踏み込んだ。
運命は変えられる。過去は無理でも未来ならば。吹き荒れる力の光を身に纏ったアスカは、その意思を示すべく闇を突破して思いっきり踏み込む。
空を蹴って造物主の目前に一歩踏み込み、自身の拳を更に握り締める。アスカに折り重なるようにナギとアリカも拳を構える。
「
我が拳に乗せた想いよ、届けとばかりに拳に込められた光が爆発した。
「―――――舐めるな!!!!!!!!」
振り下ろした拳は、造物主の分厚い胸板を撃ち抜いた。光の奔流が柱となって雲海を吹き飛ばし、天空へと突き抜けていく。
「があ?! がっ!?!?!?」
苦痛を上げる造物主の肉体に変化があった。造物主の、ナギの胸から、炎とも光ともつかない真紅の球体が浮かび上がっていた。
『俺の体を返しやがれ!!』
光に乗ったナギの精神に追い出されるように真紅の球体は造物主の精神、魂とでも呼ぶべきものが肉体から遊離して宙空へと浮遊していく。
アスカが放った光の一撃、『エンジェルさん事件』で木乃香に取り憑いた雑霊を追い払ったように、闇の魔法で魔素に魂魄まで侵されて精神も肉体も完全に魔に支配されて人外の化け物になりかけたネギの闇を打ち消したのと全く同じもの。
途方もないエネルギーでありながらどこまでも純粋な光は、拳に宿ったナギの魂を肉体に打ち込んだ。入り込んできたナギの魂によって、肉体を乗っ取っていた造物主の魂が光に追い出されたのだ。
普通ならこんなことはありえはしない。偏に傷つき、消耗して、アスカの魂に届く一撃を受けたところにナギの魂が突っ込んできたから。
追い出されたオーラのようになものをゆらゆらと昇らせている真紅の球体は「不滅」たる造物主の魂。封印することでしか対処出来ない高位の魔物を完全に撃ち滅ぼして消滅させる超高等呪文ですら決して死なず、滅びず、失わない。「紅き翼」ですら二十年前、討伐に失敗し、十年前にナギとアリカを犠牲にすることで辛うじて封印に成功した。滅ぼすことが出来ないからこその「不滅」である。
今その魂は、肉体を失ったことで急速に宝石のような真紅の球体から歪な形をしたドス黒い何かとなって浮遊する。
《ああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――っ!》
突如、ドス黒い何かが絶叫した。
今までなかった、意図せずに肉体を失って魂のみの存在となってしまった造物主が上げた、文字通りの魂の叫び。
魂は、それ単体では存在することが出来ない。魂を入れる容器が必要なのだ。常人ならば魂だけになった瞬間霧散するが、「不滅」である造物主は存続できる。それとて、消滅しないだけで平静を保っていられるわけではない。やはり、器が必要なのだ。
神殺しの刃によって造物主の魂に致命的な亀裂が生じていた。
突如として肉体という器から放り出された魂は急速に損耗し、しかし不滅であるからこそ大人しく消えることすら許されず、己が全てが削られ続けるこの世の地獄を味わう。
無限共感能力による他人の痛みではない。自分の、他人ではない己が消えていく予想すらしていなかった恐怖に、精神的に追い詰められていた魂だけの造物主は狂乱する。
《おおおおおおおおおおおおおののののののののののののののののののれれれれれれれれれれれれれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!》
怒り、哀しみ、憎しみ、恐怖。それらの感情が綯い交ぜになって荒れ狂い、最も強靭で優れた肉体を求める。だが、ナギの肉体では駄目だ。今の一撃に内包されていたナギの魂によって肉体を奪い返されてしまった。
報復型精神憑依の能力も壊された。肉体はともかくナギの精神は万全そのもの。今の造物主では奪い返すだけのエネルギーはない。
残るとすれば、たった一人。その肉体を奪わんと魂が動く。
《その身体を寄越せええええええええええええええええええええっ!》
標的にしたのは心身共に限界を遥かに超越しているアスカの肉体。素養は十分、完成度も高い。怪我具合が似たりよったりの中でもっとも簡単に早く奪える肉体は目の前のアスカだった。
甲高い叫びを辺りに響かせて、凄まじい勢いでアスカに向けて突き進む。先程の一撃が正真正銘の最後の力だったアスカには、迫り来る造物主の魂を認識しても、ただ目を見開くことしか出来なかった。
そこへ収まった衝撃波の中で最も早く行動した明日菜がハマノツルギを携えて割り込んだ。
「さようなら」
最も自分に近く遠かった人に向けて哀別の言葉を向け、過去に決着を着けるべく明日菜はハマノツルギを構える。
「やあぁぁぁぁぁあああああああああっ!!」
全身全霊を込めて、明日菜はハマノツルギを突き出した。明日菜の手に、ズブリとめり込む感触があった。
完全魔法無効化能力と最も始祖に近き明日菜の血が、造物主の魂に刻まれた呪いとも言える不滅の力を消し去る。
《ぐわぁはぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!》
ハマノツルギが突き刺さった造物主の魂が次の瞬間に四散した。
不滅の力を失くした魂はこの世界に存在することは出来ない。その末路を見届けたアスカの胸を痛みが走った。二千六百年の長きに渡って世界だけを思い続けた存在の、あまりにも無残な最期に心を痛めたのだ。
「あ」
ふと、四散した魂の一部が自身に向けて落ちてくるのに気がついた。
アスカは受け入れようと思った。すると、そいつはアスカが伸ばした手に染み込むようにして見えなくなった。
「お疲れ様、造物主」
魂の内側に滑り込められたような異物感を感じて表情を歪めながらも、アスカは今までたった一人で世界と戦い続けた人を労わった。
儀式発動まで残り十二分。
次回『第96話 英雄と姫巫女』
残り一話。