命が惜しくば、俺を好きだと言ってみろ。 作:まつりお
かつて、魔族と人類は、大陸の覇権をかけて争っていた。
これは間違いではない。ただ、今の時代と過去の時代では、現実に相違が存在している。今の時代、魔族は人類を苦しめる驚異だったと伝えられている。ときには人を騙し、人を陥れた、と。
しかしそれは正しくない。この時代、覇権を争っていたのは“魔族”と“人類”という二つのククリではない。魔族と人が手を組んで、別の魔族と人の国と争っていたのだ。
魔族は強力な個人である。人は寄り集まった群体である。互いに個の利と数の利でもって結びつき、別の魔族と人間の国を滅ぼそうとしていたのだ。
今の時代、魔族は人類の国家を操った悪魔として伝えられているがなんてことはない、人も魔族も何も変わらない、欲深く傲慢な生物だった。
しかし、当時から魔族が人類の敵であることを疑わない者たちもいた。学を得る機会のない、一般的な平民達である。彼らにしてみれば魔族は単独で自分たちを皆殺しにできる凶悪な存在であることに変わりなく、そこに他国が絡んでいようが知ったことではない。
そして、そんな平民の中から魔族を討ち果たすことのできる特別な人間として見いだされたのが勇者――リーンヒルドだった。
「当時は否定しなかったが――俺は魔王であって魔族の主ではない」
敵意を向けるリンに、グレイスはきっぱりとそういった。
路地裏、再び二人きりとなって、リンとグレイスは正面から相対している。もはや言葉に遠慮などイラない。リンの瞳には棘があった。敵意という棘が、今もグレイスを突き刺している。
「魔王とは、魔族の中で最も力の強い存在に与えられる称号に過ぎん」
「それが、何だって言うのよ」
「俺はお前の故郷を滅ぼせと命じたことはないし、人の命を奪えと命じたこともない」
「……信じられるか!」
叫ぶ。吠えると言っても良い。それはそうだ、リンは――リーンヒルドは死ぬまでそれを信じ続けたのだから。
「……確かに、アタシの故郷を滅ぼしたのは、魔族リヴァイスヒッターだった、でも、あいつは最後にアンタの名を呼んだ!」
「あいつは俺を嫌っていたからな、死に際に名前を叫べば、お前は俺が黒幕だと考えると踏んだのだろう」
「アタシの国を襲って、人を殺した!」
「逆だ。お前の国の軍隊から襲撃を受け、返り討ちにしたのだ。人死にはその結果に過ぎん」
まさか、殺されて殺すなとはリーンヒルドも言わないだろう。
こうして転生してはいるが、彼女だって最終的にグレイスヒルターを殺害したのだから。正義と大義と、彼女の意志で。
「……何よ、なんで否定するのよ……アタシは、アンタを討つことを使命に生きてきたのよ……!」
「……リーンヒルドよ、お前も薄々感じていただろう。果たして、本当に自分の行動は正しいのか、とな」
「…………」
「お前は、純粋すぎたのだ。そして、その純粋さが汚れることのないよう、お前の仲間たちはお前を邪悪から守った。俺はそう感じている」
リーンヒルドは、担ぎ上げられた勇者だった。
国の都合で、魔族を討ち滅ぼすことができるがために。周囲は彼女を勇者として扱ったが、結局は体の良い鉄砲玉だったということ。
そんな彼女には仲間がいて、仲間は彼女を国の思惑や邪悪な意図から遠ざけてきた、守ってきた。
少なくとも、グレイスヒルターからみて、リーンヒルドはそんな存在だった。
――危うい、とは常々思っていた。仲間たちは彼女に過保護だ。彼女が汚い世界を知らないよう遠ざけていた。グレイスとてそれを変えようとは思わなかったが、それはグレイスが魔王であり、彼女たちに干渉するべきではないと考えていたからだ。
そして今、彼女は真実を知った。それを信じることはできないだろう。しかし、同時に心当たりだってあったはずだ。
「……皆が、何かを隠していることは、わかってた。でもそれを知ることはできなかったし、きっと私のためなんだろうって思ってた」
「それは、間違いではなかっただろう」
「だとしても! 私にそれを隠すってことは、あの子達がその分汚いことや嫌なことで苦しんでたんでしょ!? そんなの、悲しすぎるわよ……」
――そして、その上でこう言えるのがリーンヒルドだったのだ。
善良で、純朴で、そして思いやりがすぎる。そんなふうに考えてしまうから、仲間たちは彼女のことを危ういと思ったのだろう。そしてグレイスも、そうおもったのだ。
本来なら、触れるべきではなかったかもしれない。知らないなら知らないでよかったかもしれない。それでも触れずにはいられなかった。
グレイスは人間になったから、リンもまた転生し、互いに人として再開したから。
あのときあった二人の壁はこの時、取り払われていたんだ。だからグレイスは話さなければならなかった。しかし、それを話した後――一体グレイスは、リンになんと言葉をかければいい?
魔王であったグレイスが、リーンヒルドを見ているだけだったグレイスヒルターが、かけれる言葉は一体何だ?
ここまできて、グレイスは言葉に詰まってしまった。沈黙が、二人の間に流れる。
そして、
「――ねぇ」
それを破ったのは、リンだった。
「……なんだ」
「どうしてアンタ、そんな顔をしてるのよ」
「……何のことだ?」
自覚はなかった。
しかし、リンの指摘で理解する。自分は今――怒りと悲しみと、そして無常で心が支配されている。今のグレイスは、筆舌し難い顔をしているはずだ。
リンが、見ていられなくて思わず声を書けてしまうほどに。
「なんでアンタが、そんな顔をしなきゃ行けないのよ。アンタは魔王よ? アタシの敵よ? そのアンタが――そんな顔をしないでよ」
「……リーンヒルド」
本当に彼女は、どこまでもお人好しで、おせっかいだ。
自分の根底が揺らいだこの状況で、グレイスのことを気にかけるなんて。
「……ねぇ、どうしてアンタは人に転生したの? アンタの知ってる人間は、“正しく”はなかったんでしょう?」
――そして、鋭い。
他人の情緒を察することができるほど、人付き合いの経験がないグレイスにしてみれば、羨ましくて仕方がないほどに。
ああ――まったく。
これは口を開かずにはいられない。
そう思ってしまう何かが、リーンヒルド――リンには確かに備わっていた。
「……俺はな、憧れていたんだ」
「憧れ……?」
「人に対する憧れだ。その野心に興味があった。人は短命でありながら大陸の覇権を手中に収めようとしていた。魔族と手を組み、魔族を蹴落とそうとしていた。その野心はどこからくる? どうしてそうまでして、人は前に進もうとする? その意志の出どころを、俺は知りたかったのだ」
グレイスは積極的に人を害することはなかったが、自分に挑んでくる人間を好意的に感じていた。
「かつて、魔族にとって、人は取るに足らない存在だった。それがいつしか、この大陸全てに根を張り、台頭に魔族と交渉し、利用していた。それまでに果たしてどれだけの時間がかかった? 千年か? 二千年か? 気の遠くなるような時間だ。一人の人間の一生など、吹けば飛んでしまうような時間だ」
「……」
「そんな人間の成長を、俺は中から知りたかったのだ。人が前に進む理由を、直接この身で知りたかった。成長のない魔族ではなく、成長のある人間として、俺は生きてみたかった」
そうしてグレイスは語り終える。
魔王として望んだ転生を果たし、人としていまここに生きている。であれば当然、
「――解ったの?」
答えは出ているはずだ。
人はなぜ成長できるのか、どうして諦めることをしないのか。
「……解らなかったさ」
結論は、出なかった。それが答えだ。
「俺が死に、魔族のほとんどは死に果てた。そうなれば、人は完全にこの世界の覇権を手にする。そうした時、人は歩みを止めたのだ。栄華を極め、それで満足してしまったのだ。この時代で――俺はもう一度人が立ち上がることは無いと知ったよ」
人類は停滞していた。
大陸が一つの覇権国家に支配されたことで、平和が訪れ今の穏やかな時代になった。人々は当たり前のようにそれを謳歌し、疑問に思うことすらしない。
これでは、人類はグレイスの思うような成長性のある存在ではなかったということになってしまう。
「退屈に執着する今の人類が、停滞にもがく今の人類が、俺には見るに堪えない。こんなもの、知るべきではなかった。……俺は、転生したことを後悔しているよ」
それが、何一つ偽りのないグレイスの結論だった。
そして同時に、これだけは嘘など語る理由のない、リーンヒルドでも分かるグレイスの本音だった。
「…………」
「リーンヒルドよ……いや、リンよ。お前もそう思うだろう、この時代はつまらん。人は人であることに満足し、亜人を下に置くことで一つにまとまり、結果時間だけを浪費している。あの衆愚を見ただろう、あいつらは――お前が守るような価値のある人間だったか?」
「……知らない」
ぽつり、言葉が溢れた。黙りこくっていたリーンヒルドから――顔を伏せていたリンから、ようやく言葉が。
「知らないわよ……そんなの、アタシ考えたこともなかった。アタシは、目の前で起きた理不尽が許せなくて……誰かが悲しむことが嫌で、戦ってたのよ」
「ならば、何だという?」
「アンタの言うことなんて、考えたこともなかった。余裕もなかったし、何より魔族に殺された人は悲しんでた」
吐き出すように、こぼれ落ちるように紡がれる言葉は、時折なんども力を喪っていた。頭の中がぐちゃぐちゃなのだろう、今にもどうにかなってしまいそうなのだろう。
それでもなんとか口から言葉を吐き出さなければ、彼女もまた停まってしまうのだろう。
グレイスが愚かだと言い切った、リンを取り囲んだあいつらのように。
それはリンだって嫌なのだ。
「それを……アレと一緒にするな! 私達は生きたくて生きたのよ! それに……!」
一歩、
「アタシはまだ、死んでない!」
それは、その瞳には、活力があった。確かに瞳は生きていた。リーンヒルドからリンに転生したこともそうだ。そして、彼女が言うにはきっと――“リン”は生きているのだ。
今も、まっすぐ前を向いて。
「アタシはまだ、アタシの望んだ生き方を曲げてない。アンタは知らないだけよ、人間を、私達を!」
「ほう、言うではないか。お前は知っているというのだな? 正しい人の生き方を」
「正しさなんか知らない。でも、アタシは今のアタシを後悔してない、それだけよ」
そう言って、リンはフードを脱ぎ去る。猫耳――亜人の証をグレイスに示して言うのだ。彼女は虐げられる立場だが、それでも楽しみはある、人として生きている、と。
それは、つまり。
「ならば、見せてもらおうか。リーンヒルド」
「リンよ!」
――宣戦布告だ。
リンは、きっと今も迷っているだろう。だが、目の前に自分と同じように迷っている、かつての仇敵が存在したとしたら。
彼女はそれを放っておけない。何よりも自分のために、自分の迷いを振り払うために。
――グレイスは、その意志の力が何よりも好きなのだ。
確かにリンは生きている。
今もかつてと変わらず、リーンヒルドだった頃から何一つ揺らぐこと無く。グレイスによってリーンヒルドだった頃のことを否定されてもなお。
ああ、それでこそだ。
グレイスは笑みを浮かべてリンを見た。今、リンの目には“敵意”が宿っている。しかしそれは、宿敵に対するそれではない。
受け入れられない主張に対する敵意だ。
正義の勇者リーンヒルド、その在り方は今も変わらない。
グレイスは人として転生して初めて、自分が高揚していることを、自覚せずにはいられなかった――
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そして、
「――おい」
「さぁ、やるわよ!」
「オイ!」
グレイスは顔をしかめていた。
ソレはもうすごい勢いで。そして鼻を摘んでいた。
「何よ! 今更文句を言うつもり!?」
「違う! これは何だ!? 俺は今から何をさせられるのだ!?」
顔をしかめてこそいるが、今のグレイスにあるのは怒りよりも困惑の方が強い。何せ――
「何って――」
リンは笑顔で、手にはブラシを持っていた。
「下水道掃除に決まってるじゃない」
そしてこの場所は、凄まじい異臭が支配していた。