命が惜しくば、俺を好きだと言ってみろ。 作:まつりお
下水道掃除を終えれば、リンとグレイス、そして妹たちは下町にやってくる。
もとより下水道に入るのは下町の入り口から入ることになっているのだが、グレイスがきちんと下町を歩くのはこれが初めてだ。
街はあちこちが壊れて、それをなんとか補修しているのが見て取れる程度には貧相でボロボロだが、不思議と他にはない活気があった。
上層の街では、人々はどこか行き急ぐかのように行き交い、会話と言える会話が聞こえてくるのは広場の呼び込みくらいだ。
いっそ、リンが囲まれていた時が一番喧騒があったと言えるくらいに、上層の街には活気がなかった。
対して、下町は人々の言葉があちこちから聞こえてくる。商売をしているもの、値切りのためにやかましく交渉している者。通りかかった者に挨拶をしてくる者。
それぞれ様々な理由で声を張り上げて、けれどもそれらが決して衝突しているわけではない。
むしろ、一つ一つは方向性がバラバラなのに、どうしてか向かっている先が同じであるかのような、得も言えぬ活気をグレイスは感じていた。
「お、リンちゃんおかえり」
「ただいま、おじさん今日は元気そうね、あんまりお酒飲んじゃダメよ」
「あらぁ、リンちゃんが若くてカッコイイ子を連れてるわ」
「言っとくけど、恋人とかじゃないから、まぁ、古馴染みよ」
そんな中で、リンも誰かとすれ違うたびに声をかけられる。話の内容は他愛のない挨拶か、隣にいるグレイスのことがほとんどだ。
中には挨拶をせず、グレイスを睨んで去っていくものもいるが、若い男がほとんどだ。なぜああして睨むのか、グレイスにはよく解らなかったが。
「お姉ちゃんね、下町のアイドル? なんだよー」
「皆お姉ちゃんが大好きなの」
「お兄ちゃん嫉妬されてるよー?」
妹たちが解説してくれた。
言われてみれば確かに、リンはいい女だ。こういう活気に満ちた場所で、彼女のような存在は輝いて視えるだろう。顔も性格もいいとなれば、リンがモテないわけがないのである。
「……ちょっと、何無言でうなずいてんのよ、気味悪いわよ」
「そうか?」
首をかしげる。
「そういえば、ここは亜人を排斥してはいないのだな」
「そんな余裕がないのよ。明日を生きるだけで精一杯。ここにいる人達は魔術も使えないし、むしろ力が強くて体力のある亜人はむしろ重宝されるほうだわ」
なるほど確かに、気にしている余裕もなく、むしろ頼られる存在なのだとすれば、亜人が排斥されないのは納得だ。逆に言うと、ここは亜人が居なくとも亜人と同じくらい排斥される立場の人々の集まりということになるが、一般の市民とはお互いに距離を取っているから、問題は起きないのだろう。
「それにしても……こんな場所があったのか」
「世界なんて、いつもこんなものじゃないの? アンタみたいな貴族が贅沢な暮らしをしてる裏で、こうやって貧しいながらも慎ましく暮らしてる人もいる。それは、アタシがリーンヒルドだったころから変わらないわよ」
「いや、決して貧しいことに感心しているわけではない。ここは、上層の街とは打って変わって賑やかだ」
流石にグレイスだって、貧富の差というやつは理解している。自分が人間の感覚では恵まれているということも。それを捨ててでも、人の生きている姿を見たいという感情が、普通なら貧しい者にとっては失礼なことだということも。
それでも、グレイスが魔王であったことを知っているリンにとって、それは普通なことなのだが。
「……世界のすべてが、あんな場所であってたまるもんですか。それに、上層の人たちだって亜人を迫害するのが常識なだけで、悪辣な人間ってわけじゃないとは思うのよ」
「だが、愚かだ」
「それは、アンタにとってはそうかもしれないけどさ」
ジトっと、睨むようにグレイスをリンは見上げてくる。咎める、というほどではないが、決してグレイスの言葉を好意的に受け止めてはいない。
「ここの人だって、アンタが貴族の格好をして、横柄に振る舞ったらアンタに出ていってほしいと思うわよ。これ、アタシが上で迫害されるのと何が違うの?」
「む……」
違う、とグレイスは切って捨てることができなかった。
「アンタが見てるのも、今この場が活気に満ちてるのも、一つの側面でしかないの。ピンと来ないかも知れないけど、人って簡単に強くもなれるし、弱くもなれるのよ」
「……理解できんな」
魔族は良くも悪くも変化の乏しい種族だった。人を見下し傲慢に振る舞う魔族は、生まれた時からそうだし、グレイスのように無関心な魔族なら、興味をいだいても関わろうとすることはない。中には人に好意的な魔族もいたが、そういう魔族は生まれた時から好意的で、そして裏切られたとしてもその好意を頑なに変えようとはしなかった。
それが、魔族という存在だ。
「だが――決して悪くない感覚だ」
「そう?」
「ああ、お前のおかげだ、リン」
グレイスは自然と笑みを浮かべながら、感謝を口にする。驚くのはリンだ。突然褒められると、彼女は照れてしまう。唇を尖らせて、頬はちょっとだけ赤くなっていた。
「きゅ、急に何よ」
「この営みを知れてよかった。お前がここで、前を向いて生きていることを知れてよかった。お前と会話して、見識を広めることができてよかった。すべてお前のおかげだ」
「ちょ、ちょっと。だから急にどうしたのよ!」
「退屈だと思っていた人の生に、初めて意味を見出すことができた。労働、というのは中々どうして奥が深い。それを知れただけでも、こうして転生したかいがあったというものだ」
「大げさすぎよ! 一日で人生観変えないでよ、重くて面倒見きれないわ?}
「む? そうか? 素直な気持ちなのだが」
グレイスには、どうしてリンが照れているのかわからない。というか、そもそも照れているということもよくわかっていない。
なにゆえリンが顔を真赤にして慌てているのか、自分の言葉が彼女を困らせてしまっているのか、そのことに意識が向いて、そもそも口にしたことの意味を彼は一切考えていない。
「お姉ちゃん口説かれてるー!」
「ラブロマンスー!」
「ひゅーひゅー!」
「ちがわい!!」
周りを走り回ってからかう妹たち。
まぁ、これはこれで楽しそうならばいいのか? とグレイスは結論づけることにした。残念ながら彼はまだ人としての情緒はまったく育っていないのである。
「っていうか!」
「む?」
「労働だけに人生の意義を見いださないでよ!」
そこで、リンは話を切り替えてグレイスへ突っかかる。かなりリンは本気のようで、グレイスはさっぱり状況が飲み込めないのだが、とりあえず彼女がグレイスの言葉を真面目に否定していることだけはわかった。
「確かに、働くことってとっても大事だわ! お金をもらって、明日のために頑張る。素敵よね?」
「そうだぞ。俺も労働をして、ようやく人らしい生活を――」
「――人間らしい生活がそれだけなわけあるか! 労働ってやりがいはあっても、大変で辛いものなんだから!」
決して、働くだけで人は生きていけないと、リンは言う。
人生の楽しみを教えるために労働を教えたのではないと、リンは言う。
つまりどういうことだ? グレイスはまたも首をかしげた。
「つまりは、これよ!」
指をさす。
その先には――
「一日の終り、疲れと汚れと匂いを洗い流して、新しい明日へ想いをはせる! そう、ここが人生の意義だとアタシは断言する!」
――銭湯があった。
グレイスはリンによって、ある場所へと案内されていた。それがこの銭湯。下町が共同で経営する、リン曰く人生の意義。
グレイスにとっては、完全なる未知の世界だった――
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銭湯とは命の洗濯だ。
リンはグレイスにそういった。
しかし、グレイスはいまいちそれがピンと来ていない。何せグレイスは、生まれてこの方湯船に入ったことがない。富裕層では、身支度とは魔術で済ませるものだ。もっというと、魔王時代も身体を清潔に保つ魔術をグレイスは使用していた。
根本的に、入浴という文化がグレイスが生きてきた世界には存在しない。
興味もなかったのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、それを聞いたリンはすごい目でグレイスを見てきた。
それはもう、人ではない何かを見る目だった。魔族が人形であるのも相まって、魔王時代ですら、あんな目をリンに向けられたことはない。
『アンタ、湯船を知らないなんて人生の半分……いえ、魔王時代を含めれば、百回分くらい人生損してるわよ!?』
とまで言われてしまった。
であれば入ってみることもやぶさかではないのだが、困ったことがあった。リンは女湯で、グレイスは男湯なのだ。いくらなんでも、そこで女湯に入るほどグレイスは常識知らずではない。
だが、それはそれとして入ったこともない湯船に、一人で入ることは難しい。リンは中にいるおっちゃんたちに聞けと言われたが――
――知らない相手に声を書けることを躊躇う意識が、グレイスにも存在した。
中に入ると、脱衣所があり、服を脱いで中に入ると、十人くらいが一度に入れる湯船が目の前にあった。これに入ればいいのだおるか、とグレイスは首をかしげる。
「むぅ……」
行くべきか、行かざるべきか。ここまでくれば行かない理由はどこにもない。しかし、どのようにして湯船に入ることが正しいのか、グレイスにはさっぱりである。
湯船の前でグレイスはひとしきり悩んだ。
よくわからない、どれだけ悩んでも、いまいちピンとこない。入ってみれば分かるということかも知れないが、入ることも少し足踏みしてしまう。
やがて、意を決して中に入ろうとすると――
「ちょっと待ちな」
「む?」
声をかけられる。すでに湯船に浸かっていたおっさんだった。つるつるの頭と、立派なお腹が特徴だ。
「まず体を洗うんだよ。わかるか?」
「むぅ、難しいな……わかった、やってみよう」
そこでそう言えるのは、グレイスがそこそこ素直な性格をしているからか。魔王の威厳というやつが感じられないやり取りだが、そもそもグレイスは今魔王ではない。自分の立場は、湯船に浸かるおっさんと変わらないと思っている。
「それと――あっちを見な」
指をさす。その先にかかれているのは「タオルを湯船につけてはいけない」という内容。グレイスはそれに頷くと、恐る恐るといった様子で体を洗うための場所に座る。
流れるお湯をざばぁと被って、それから備え付けられた石鹸で体を洗う。
さすがに石鹸の使い方くらいは分かるグレイスである。だが、そもそも貧民街であるはずのこの場所に、石鹸があるという不思議に彼はついぞたどり着かなかった。
そも、石鹸どころかこの銭湯が維持できているのも、不思議と思わなかったのだが、それはさておき。
――変化に気がついたのは、体を洗って、頭を洗っているときだった。今日一日、グレイスは下水道で掃除をしていた。ついに鼻が慣れてしまったため気が付かなかったが、グレイスはとても汚れていたのだ。
頭の汚れが洗い流されたことで、その変化をグレイスは理解する。
爽快だった。
そう感じた上で、もう一度湯船を見る。あれに浸かれば今日一日の疲れはまるっきりなかったことに成ってしまうくらい、爽快なのではないか?
思い至ってしまった。
そうなればもう止まらない。グレイスは石鹸を洗い流すと、すっと立ち上がる。覚悟はとっくに決まっている。未知の存在、湯船。
しかし同時に、好奇心をくすぐられる対象となっている存在、湯船。
グレイスはそれを初めて体験するのだ。
――おそるおそる、湯船に脚をつける。その時、間違いなくグレイスの中で革命が起こった。
ああ、そうだ、これは――
「これが――生きがい」
その時、グレイスはリンの言っていたことを魂で理解した。過酷な労働と、その後に待っている体を癒やす湯船の魔法。こんなもの、夢中にならないわけがない。
そして、大きく伸びをした後、グレイスは周囲を見た。
周囲の視線は、グレイスへ釘付けとなっていた。
――自分を止めた、つるつる頭のおっさんと目が合う。
グレイスとおっさんは、同時にサムズアップをするのだった――