「マスター。恋とは一体なんなのでしょうか?」   作:アグネス・ゾンビ・デジタル

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「マスター。温泉旅行に行きませんか?」

 また契約解消されたんだってさ。

 

 どうしてあんな奴がトレーナーになれたんだ?

 

 皇帝の威を借りたってところか。

 

 

 

 

 

 ──雑音ばかりが聞こえていた。

 

 皇帝、シンボリルドルフと共に七冠を達成したのが俺の始まりで、自分は天才なのだと信じて疑わなかった。初めて担当したウマ娘と歴史に名を刻むほどの功績を残したのだから。

 でもそれは俺が凄かったわけじゃなく、彼女の持つ才能が成し遂げたのだと、すぐに思い知らされた。

 彼女の次に……その次に担当したウマ娘も、みんな俺のやり方にはついていけないと、俺のもとを離れて他のトレーナーたちのもとへと行った。

 

 まあ別に、ケガを負わせたとかそういうんじゃないから責任だとかなんだとかは一切感じていなかったが、前のウマ娘と契約を解消されてからはや二ヶ月が経った。

 そろそろ動き出さなきゃまずいなあ、なんてぼんやりと頭の片隅で考えながら、カフェテリアで熱い珈琲を啜っていると、隣の席からこちらをじっと見つめているウマ娘と目があった。

 

「…………」

 

 微動だにしないから、マネキンかなにかなのかと思ったが、それにしちゃよくできすぎている。

 いや、あれマネキンじゃないわ。やっぱりウマ娘だ。今瞬きしたもん。それにしても怖……。ずっとこっち見てるし、なに? 俺がなにしたって言うんだ……。むしろなにもしてなさすぎるまであるぞ俺は。

 そう。ルドルフと七冠達成して以来なんの功績も残していないんだ。そろそろ理事長から「解雇ッ!」とか言われてもおかしくない。ははは、なにそれウケんね。いやウケねーから。

 

「…………」

 

 と、くだらないことを考えている間もずっとこちらを見つめている。

 流石にその視線に限界を感じた俺は、珈琲を片手に席を移動することにした。

 なんだあいつ、怖……。

 

 

 

   ×  ×  ×

 

 

 

 幾ら担当ウマ娘がいないと言えど、本当になにもしないわけにはいかない。選抜レースにもちょくちょく顔を出すし、理事長に言いつけられて書類の整理や、後はウマ娘たちが使う道具の整備なんかもしたりする。

 十枚洗えば二十枚増えるタオルとか、ジャージとか。一番嫌なのはトレーナー室の掃除だね。まあ確かにルドルフ以降なんの功績も残せていない俺は学園のお荷物だが、どうして先輩トレーナーたちの言いなりにまでならなくちゃいけないんだ。理事長はこんな俺を学園に置いてくれるから良いが、あんたらは別に俺になにもしてくれないだろう。

 くそ、むかつく。

 

「…………」

 

 雑巾掛けを終え、トレーナー室を出てすぐのところにある水道で雑巾を洗っていると、少し離れた木の影からこちらを見つめている視線を感じた。

 ちらと横目で確認すると、やはりというかなんというか、先程カフェテリアにいたウマ娘だった。

 もしかして俺になにか恨みでもあるのだろうか。人間気づかないうちに誰かを傷つけていた、なんてことはよくあるし、俺もそうだったのかもしれない。じゃなきゃストーカーだろ。怖いっての。

 

 ここで謝って済ませてもらおうと思い彼女と目をあわせたが、その無機質な瞳になにも言えなくて俺は黙って踵を返した。

 やだなあ、怖いなあ。

 

 

 

 

   ×  ×  ×

 

 

 

 

 雑用を押しつけられたせいで今日も随分と遅い晩飯になってしまった。カフェテリアは既にウマ娘やそのトレーナーたちで混み合っており、席を確保することもできない俺は小さなため息をこぼしながら学園を出る。

 コンビニでおにぎりとお茶を買い、学園近くにある公園のブランコに座りながら食すことにした。

 不審者だろこれ。

 

 ──ものの数分で食べ終えて500mlのお茶を半分ほど飲んだところで、学園を出たときから痛いほど背中に感じていた視線にようやく声をかけた。

 

「付き纏うの、そろそろやめてくれないか? はっきり言って迷惑だ」

 

 少しだけ苛立っていた。その原因のほとんどは彼女では無いのに、日頃のストレスと、どうしようもない自分への憤りをぶつけてしまった。

 

「申し訳ありません」

 

 表情ひとつ変えずに淡々と言った彼女へと向き直り、なんの用かと問うた。

 

「あなたのトレーニングは理に適っていないものばかりだと噂を聞きました」

 

 お、なんだ? 喧嘩売られてんのか?

 それにしても唐突だし、痛いところを遠慮無く衝いてくるな。

 これ以上俺をいじめるのはよせ。泣くぞ。

 

「そういった問い合わせは受け付けておりません。俺の悪口ならどうぞ学園の意見箱にでも入れとけ」

「私のマスターになってください」

「マス…………は?」

「私の夢は『三冠ウマ娘になる』ことです」

「待て待て待て、コミュニケーションド下手か。言葉が足りてなさすぎるだろうが。いきなりなんの話だよ……」

 

 捲し立てるように言った俺に対し、目の前の彼女は「思考中……」などと供述しており、しばし固まったまま虚空を見つめている。

 なんなんだマジで。怖すぎる。

 

「私の夢は『三冠ウマ娘になる』ことです」

「それは今聞いた」

 

 数秒考え込んで口を開いたかと思えば、同じ言葉を繰り返す。

 こいつの言うマスターってのは恐らく『主人』とか『所有者』って意味だろう。ということはあれか、俺に担当トレーナーになれって言ってんのだろうか?

 つまり目指しているのは皐月賞、東京優駿、菊花賞のクラシック三冠……。

 

「……俺のトレーニングは理に適っていないものばかりなんだろう? 三冠目指すならもっと優秀なトレーナー見つけろよ」

「いえ。噂を聞いてあなたが担当していたウマ娘全員にトレーニング内容について伺ったところ、とても優秀だと私は感じました」

 

 無機質だと思っていたその瞳に、光が宿ったような気がした。

 

「甘さは必要ありません。どんなトレーニングでもこなしてみせます」

「…………」

 

 様々なウマ娘たちと契約してきたが、俺の指示するトレーニングに最後までついてこられたのは皇帝、シンボリルドルフだけだった。

 彼女は凄い。なにもかもが違っていたのだ。それ故唯一残した功績は全て彼女のおかげだと思っていた。

 俺はトレーナーには向いていない。ずっとそう思っていたし、みんなからもそう言われていた。

 でもみんなって誰だ? 理事長が俺にそう言ったのか? ルドルフが自分の力だけで七冠を達成したとそう言ったのか?

 目の前の彼女は俺に主になれと、俺を優秀だと言った。

 ここには、少なからず俺を認めてくれるひとたちがいたんじゃないか。

 

「……か、考えとく」

「マスター」

「まだなってない! 保留だ!」

 

 そうは言っても、もう既に答えは出ていた。

 どんなトレーニングでもこなしてみせます……か。

 早速寮に戻ってクラシック三冠に向けた出走レースとトレーニングメニューを考えなければならない。

 

 口角が上がっているのがバレないように踵を返し、公園を出た。

 足は随分と先に進みたがっていて、気がつけば小走りになっている。

 吹きつける仲秋の夜風に背を押され、久しぶりに得た感情を抱えながら、小走りと言うには速すぎるペースで駆けていた。

 

 

 

 

「ついてく、ついてく」

「ついてくんじゃねーよ!!」

 

 

 

 

   ×  ×  ×

 

 

 

 

 正式に彼女と契約を交わしてわかったことは、彼女がミホノブルボンだったということ。

 以前契約していたトレーナーと既にデビューは果たしており、芝1000メートルのメイクデビュー戦で勝利しただけでなく、コースレコードまで更新していた。

 この話は俺も耳にしたことがあり、スプリンターとして期待をよせられていたことも知っていた。

 だが彼女の夢はあくまでクラシック三冠であり、そこで担当トレーナーと折り合いがつかず契約を解消されてしまったらしい。

 

「タイムは……微妙だな」

 

 そこから芝1600メートルのレースに勝利、続く同距離の朝日杯FSにも勝利し、デビューから三連勝でGI優勝を遂げた。

 その後距離を伸ばして1800メートルのスプリングステークスでも勝利を飾り、皐月賞、東京優駿までも勝ち、俺の想像を遥かに超えた無敗の二冠ウマ娘となった。

 そしていよいよ菊花賞に向けて坂路のタイムを測っていたのだが、29秒4という素晴らしいタイムであった。

 

「こんなんじゃ三冠最後の菊花賞落とすぞ。坂路、もう一本追加な」

「はい、マスター」

 

 肩で息をするブルボンに冷たく言い放ち、もう一本タイムを測ったが、またしても29秒4という記録を叩き出した。

 ……気を抜けば笑みがこぼれてしまいそうになる。

 

 

 

 

 

「お前、文句のひとつも言わずによく頑張るな」

 

 トレーニングを終え、クールダウンに付き合いながらそんな言葉をかけた。

 

「私の『目標』はクラシック三冠です。それを支えてくれるマスターには感謝こそすれ、文句などありません」

「……そうか」

 

 触れていた背中越しに伝わってくる熱がなんだか無性に愛しくて、このままぎゅっと抱きしめてやりたいなんてことを思った。

 どうしてそんな感情を抱いたのか自分でもよくわからなかった。

 ただひとつ変わらない想いは──

 

「菊花賞……。絶対勝とうな」

 

 ブルボンの頭に手を置いてそう言うと、少しの沈黙のあと、どこか優しげな声が返ってきた。

 

「はい。マスター」

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「ごめん……」

「どうして、マスターが謝るのですか?」

 

 問いかけても返事は無かった。

 マスターはずっと俯いたまま、右手の拳を強く握りしめ、肩を震わせていた。

 

 声が遠い。こんなにも近くにいるのに、なにも聞こえないほどに──

 

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

 

 夢を見ていた。懐かしい夢だったような気がするけれど、目を覚ましたのと同時に内容は霧散した。

 朧げな目をこすり、ふと隣を見やると気持ちよさそうに眠るマスターの横顔が見えた。

 

 現状を把握する。

 トレーニングの前にミーティングを開くと言っていたマスターの指示に従い、授業終了後ジャージに着替えてトレーナー室にやって来た。マスターはソファに腰掛け、うつらうつらと船を漕いでいた。

 毛布は無かったので、私が着用していたジャージの上着をマスターに掛け、その隣に腰を下ろした。

 船を漕いでいたマスターの頭にそっと触れて、肩を貸した。

 マスターからはひどく心地のよい香りがして、気がつけば私も眠りに落ちていたらしい。

 

「マスター」

 

 呟くように、小さく呼びかけてみたが返事は無い。マスターがこんな風に眠っているところを見たのは初めてだった。

 マスターの寝顔を見ていると胸が苦しくて、締めつけられるような感覚に似ている。でもどこかふわふわとしていて、それを『エラー』だと認識していながら──

 

「『触れ合い』を実行します」

 

 左で眠るマスターの前髪に右手で触れた。

 

「んぅ……」

 

 一瞬、眉間に皺を寄せて、でもまたすぐに心地よさそうな眠り顔を見せてくれるマスターを見て、唇の端が微かに上がるのを感じた。

 

 マスター。

 

「この感情は、『可愛い』……です」

 

 もう自分でもなにをしようとしているのか理解できていなかった。

 

「……第二フェーズへと移行します」

 

 前髪に触れていた右手を下にずらし、左頬に触れた。『エラー』により制御不能。『温もり』を検知。

 ソファが軋む音。マスターの寝息がよりハッキリと聞こえてくる。

 ゆっくりと距離を詰めていく。

 十センチ……。五センチ……。

 

「んぁ……?」

 

 後三センチ、というところでマスターの目がぱちりと開いた。

 

「…………」

「…………」

 

 三センチの距離でお互い見つめ合ったまま、十二秒が経過した。

 ビクッと肩を震わせたマスターが慌てて距離をとり、現状を全く理解できていないといった表情で口をパクパクさせている。

 

「マスター。温泉旅行に行きませんか?」

「……え、なに? どゆこと?」

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

「悪い、待たせちゃったか? 寮を出てから忘れ物したことに気づいちゃってさ。いやあ、危うく人生ゲームの無い旅行になるところだったよ」

「いえ。1時間46分52秒です」

「めちゃくちゃ待ってんじゃん……」

 

 トレーナー室でマヌケヅラ晒して眠りこけていた俺は、懐かしい夢を見ていた気がするのだが、「温泉旅行に行きませんか」という唐突な誘いに驚いてその内容は全て忘れてしまった。

 どうやら以前商店街の福引で当てた温泉旅行券を利用しようということだったらしい。

 

 トレセン学園の門前で待ち合わせをして、忘れ物をしたと言っても遅れたのはたかだか十分ほどなのだが……ブルボンはひとりで二時間弱待っていたのか。

 スカして無表情決め込んでるけど実は内心ワクワクしてんのかな? もしそうだったとしたら可愛すぎるんですけど? 見てますかデジたん。あなたの推しが尊いですよ。

 

「まあとりあえず行こうか」

「はい」

 

 どこからか「むり……しゅき……尊い……」なんて声が聞こえてきた気がしたが、気のせいだということにして学園を出て駅へと向かった。

 ホームの売店でお菓子やらジュースやら弁当やらを購入して列車に乗り込む。

 窓際の席をブルボンに譲り、その隣に腰を下ろして先程購入したチョコを取り出して一粒口に放り込んだ。

 窓の方に身体を向けて列車が出発するのを待ち侘びているブルボンの尻尾が、一定の間隔でふわりとゆれて手に触れる。

 心地よくもくすぐったい感覚に苦笑を浮かべながらも、手は置いたまま俺も出発するのを待ち侘びた。

 

 やがて車内に響くアナウンスと共にゆっくりと動き出し、次第に加速していく。

 後ろ姿からでも十分感じ取れたが、陽の光にあてられた窓ガラスに映ったブルボンは、遠足前夜の子供みたいな瞳をしていた。

 

「マスター」

 

 しばらくして、外の景色に満足したのか、ブルボンは身体ごと視線をこちらに向けてじっと俺を見据えた。

 

「ん、どした? 腹減ったか?」

「時計は正午を表示。昼食にしましょう」

 

 言われて腕時計を確認すると、確かに正午ピッタリだった。

 いや、ブルボン……。時計持ってないよね? どうしてわかったの? ……なんて、これくらいのことでいちいち驚いていてはブルボンのパートナーは務まらない。

 返事をする代わりに苦笑を浮かべ、売店で購入した牛たん弁当を二つ袋から取り出して、そのうちのひとつをブルボンに手渡した。

 

「その紐引いてみな」

 

 言われるがまま、弁当の箱から出ている紐を引いたブルボンは、蒸気が噴き出したことに驚いたのか、一瞬肩をピクリと震わせ弁当を凝視したまま数秒固まっている。

 

「マスター……。マスター」

 

 かと思えばこちらを向いて俺を二度呼んだ。

 心なしか慌てているようにも見える。

 

「マスター、『熱い』です」

「……うん。置こうね」

 

 シートに備え付けられた背面テーブルを出して、ブルボンはそこに置いた弁当をまた凝視している。

 その姿が可笑しくて、無性に愛らしくて──

 

「ふっ……はははっ」

 

 押し殺そうとしたけれど、つい声を出して笑ってしまった。

 そんな俺を見てブルボンは珍しいものでも見たかのように、小さく口を開けたまま固まっている。

 

「はは……は……え、なに?」

「マスターの笑顔に、『戸惑い』を確認」

「おや? 心外だねブルボン。俺だって笑うよ?」

「いえ、そうではなく……」

 

 なにが言いたいのか、ブルボンは虚空を見つめたまま「解析中……」などと供述しており。

 

「それより、もう十分温まっただろうし食べよう」

 

 何故だか気恥ずかしさを感じた俺は誤魔化すようにそう言って、ブルボンから目を逸らして黙々と弁当を食べ進めた。

 

 

 食べ終えてすぐに「ふぁ、あ……」と、小さな欠伸を噛んだブルボンを寝かしつけ、一定の速度を保ったまま目的地へと走る列車の音と、隣から聞こえてくる寝息をお供に目を閉じる。

 このまま眠りに落ちてしまうのも悪くはないが、滅多に聞くことのできないブルボンの寝息を逃すのも勿体ない気がする。

 ──ちらと、片目を開けてブルボンの寝顔を盗み見た。

 それはサイボーグと呼ぶにはあまりに綺麗で、少しばかり幼さの残る可愛さもしっかりと兼ね備えているのだなと感心した。

 

「……あほらし。寝よ」

 

 自分でもよくわからない感情を抑えつけ、やっぱり目的地までは眠って待つことにした。

 

 

 

 

   ×  ×  ×

 

 

 

 

「とうちゃーく!」 

 

 無事目的地へと辿り着き、旅館でチェックインを済ませて荷物を置いてから街中をまわることにした。

 

「マスター、次はあちらです」

 

 その無表情からは窺えないが、おそらく高いのであろうテンションで俺の服の裾を引っ張りながら歩くブルボンに着いて行き、観光名所を見てまわる。

 が、まだ到着して二時間ほどしか経っていないのにもう土産屋に入ってしまったブルボンの背中を見送って、店の出入り口横に置かれた自販機で缶コーヒーを買って飲みながら待つことにした。

 

 十数分経って出てきたブルボンは俺の姿を見つけて、少しだけ口角を上げたような気がした。

 

「なに買ったんだ?」

「……内緒です」

「ははは、そうか内緒か……内緒!?」

 

 内緒ってなに? え、ブルボン? いつからそんなお茶目になったんだ……。

 

 娘がいつの間にか大人になっていたような、なんとも言えない複雑な気分を抱えながらその後の時間を過ごしたせいで、どこを巡ったのかはあまり覚えていない。

 とりあえず旅館に戻り、今回一番の目的である温泉に入ることにした。

 

「じゃあまたあとで」

「……………」

 

 男湯と女湯の入口の前で別れを告げて暖簾をくぐったのだが、ふと真後ろに気配を感じて勢いよく振り返る。

 

「こらこらこら!」

 

 当たり前のようについて来ていたブルボンの首根っこを掴んで外に放り出した。

 

「ミッション──『ついてく』を実行します」

「せんでいい……」

 

 「マスターのお背中をお流しします」と、どこか張り切っていたブルボンをなんとか説得して、ひとりで大浴場を堪能した。

 

 浴衣に着替えて浴場を出たが、ブルボンはまだ出ていなかったので火照った身体を涼ませるため旅館の外へと出た。

 旅館のすぐそばにはベンチが備えられており、そこに座って自販機で購入した缶コーヒーを啜る。

 灯りの少ないここから見渡した空には無数の星が輝いていて、生い茂る木々のおかげで心地よい風を肌に感じられる。

 どこかで鳴いている虫の声と、俺たちの他にも数組いる客たちの微かな笑い声が混じり合っていた。

 

「マスター」

 

 ぼぅっと夜空を見上げていた俺の視界に急にブルボンの顔が割り込んでくる。

 真後ろに立ったブルボンが上から覗き込んでいるらしい。垂れた髪が頬にあたってこそばゆい。

 

「あー。ちょっと涼もうと思ってさ。探したか?」

「いえ」

 

 ぽんぽんと隣を手で叩いて、「座れ」と目で促すとゆっくりとこちらへまわって真横に腰を下ろした。

 肩と肩が触れ合いそうなほど近い距離に座ったブルボンから少しだけ離れて、顔が良いから浴衣も似合うな……なんてことを思った。

 

 会話は無く、ふたりで夜空を見上げたままでいると、不意にブルボンが小さく口を開いてこちらに視線を移した。

 

「どうぞ」

 

 差し出された手のひら大の紙袋を受け取り、相変わらずコミュニケーションがド下手だなと思いながら問いかける。

 大体いつも唐突なんだよなあ。

 

「なんだ、これ?」

「お土産です」

「……開けていいか?」

 

 ……何故俺にお土産? と聞こうと思ったが、深く考えないことにする。

 

「はい」

 

 返事を待ってから紙袋を開けると、先に小さな蹄鉄がついた革紐のネックレスが入っていた。

 

「幸運を呼ぶものだと聞きました。それから、祈りを込めて贈るとそれが叶うのだそうです」

「へぇ。なに祈ったの?」

「もちろん──」

 

 ……あぁ。これが、本当に苦手だ。

 不意に見せるこの小さな笑顔が、俺の心をひどく掻き乱す。

 

「マスターの幸せです」

「…………」

 

 際限無く降り注ぐ月の光が、そう言ったブルボンの瞳の中で煌めいていた。

 

 自分以外の時が止まったのかと錯覚するほどに、聞こえてくるのは心臓の音だけで。なにを言えばいいのかわからずに、黙り込むしかなかった。

 

「では、私は先に部屋に戻って──」

 

 そんな俺を気にもとめず立ち上がったブルボンの手を掴んで、きゅっと強く握りしめた。

 

「マスター?」

「……ありがとう。大切にする」

 

 もう片方の手の中にあるネックレスを見つめながら言った俺は、多分優しい笑顔を浮かべていたんだと思う。

 自分で自分の表情を確認する術は無かったからわからないけれど、そんな気がする。

 

「マスター……」

「でもさ、俺の願いはいつだってブルボンのことだけなんだ。俺は……ブルボンが幸せでいてくれたらそれで十分幸せなんだよ」

 

 そこに嘘偽りは無く、心の底からそう思っているはずだった。

 一番怖いことは、レースで負けることなんかじゃなくて……ケガをしてもう二度とターフに立てなくなることだったから。

 

「────ッ」

 

 握りしめていたブルボンの手が震えているのを感じて顔を上げると、同時にブルボンの頬を伝って涙が地面へと落ちた。

 

「え、泣いて──おい、どうしたんだよ?」

 

 慌てて問いかけたが答えてくれず、握りしめていた手を振り解いて走って旅館へと戻って行った。

 少しの間呆気に取られて動けなかった俺はすぐに冷静さを取り戻し、その背中を追いかけた。

 

 当然追いつけるわけもなく、先に部屋に戻っていたブルボンはまだ飯も食べていないのに真っ暗な部屋で毛布を頭からかぶって布団の中でうずくまっている。

 

「気に障ったのなら謝るよ。だから理由くらいは教えてほしい……」

 

 部屋の電気をつけて、その隣に腰を下ろして声をかけた。

 

「……エラーです。とても苦しくて、でもとても嬉しいです」

「な、なんだそれ……?」

「制御不能。……マスターの存在が、大きすぎます」

 

 涙声で言ったブルボンの声を聞きながら、肩あたりをとんとんと人差し指で叩くと、それを探すように毛布の先から片手だけを覗かせる。

 その手を人差し指でそっとなぞると、応えるようにきゅっと握り返してきた。

 

「…………」

 

 なあブルボン……。

 その存在が大きすぎるのは、俺にとっても同じなんだよ。

 きっと出会った頃はそんなことなど微塵も考えていなかったはずなのに、もうブルボンのいない人生なんて想像もできないほどに。

 複雑なパズルの穴を埋めるようにひとつひとつピースを重ねてきたんだ。三冠が獲れなくて、ケガを負わせてしまって……罪悪感ばかりが募っていくのに俺なんかよりもっと優秀な誰かに託すことなんてできなくて。

 エゴだと、ワガママだと知っていながら嘯いて、幸せを願いながらずっと傍にいさせてほしいと願っていた。

 

 この感情の正体にも気づかないまま、それでもきっとこれから先も手放すことはできないのだろう。

 

「あの日から……ずっと考えていたんだ」

 

 菊花賞を勝たせてやれなかったあの日から、ケガを負わせてしまって、今日までずっと……。

 

「トレーナーになんてならなければよかったって。俺には誰かの夢に寄り添える器量なんて無いからさ。……でもそしたらさ、ブルボンにも出会えてなかったわけで、じゃあ俺はどんな風に今を過ごしていたんだろうって想像するんだ」

 

 相槌をうつように、俺の人差し指を握っていたブルボンの手に力が入った。

 

「笑っちゃうくらいなんにも思いつかなくて、自分のことなのに可笑しいよな」

 

 自嘲気味にそう言うと、ブルボンはようやく布団から出てきて俺の前にぺたりと座り込んだ。

 赤くなった目にはちゃんと血が流れていて、未だ握られたままの人差し指は熱いくらいに熱を感じている。

 

「だから──ああ、えっと……」

 

 自分でもなにを言いたかったのかわからなくなり、こちらを見つめているブルボンに苦笑で応えて、ぽんと手のひらを頭の上に置いた。

 ふわりとした髪は触り心地がよく、ぴくりと反応した耳は愛らしい。

 

「これからも……よろしくな……」

 

 なんだそれ──って、自分でツッコミたいくらい意味不明。

 でもそれでよかったんだって、目の前で小さく笑ったブルボンを見てそう思った。

 

「はい、マスター」

 

 

 

 

 

 

   ×  ×  ×

 

 

 

 

 

 

 温泉旅行から数ヶ月が経ち、最近ブルボンの様子がおかしいことに気がついた。

 頭を撫でると微妙な表情を浮かべるし、デジたんたちと話していると痛いくらいの視線を感じる。

 

 反抗期なのかもしれないと、そっとしておくことにしたのだが、トレーニングを終えてトレーナー室で少しだけミーティングをしてから、帰ろうと席を立ち上がろうとした瞬間だった。

 

 目の前のブルボンはこちらをじっと見つめて、マネキンかと疑うほどの無表情で──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マスター。恋とは一体なんなのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あと一話だけ続きます
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