「マスター。恋とは一体なんなのでしょうか?」 作:アグネス・ゾンビ・デジタル
「…………」
ここはトレセン学園のトレーナー寮。
今日は完全休息日なわけで、わぁい休日 マスター休日大好き──なんてな具合で自室のベッドで横になってお菓子食べながら漫画を読んでいたのだが、扉をノックする音が聞こえたので居留守を使った。
そしたらそのあと三十回くらいノックする音が聞こえてきて、それも無視していたら今度はドアノブをガチャガチャする音が聞こえてきた。
とにかくそりゃもう怖かったんだ。嘘だろ、この学園じゃ俺の知ってる常識は通用しないのだろうかと。
はぁっと小さくため息をついて、扉壊されて理事長に怒られるのも嫌だから観念して出て行った。
まあ予想通りと言うかなんというか、目の前には無表情のブルボンが立っていた。
「なに? 新手の嫌がらせ?」
「いえ。マスターに伺いたいことがあります」
うそ〜。それチャットじゃだめなやつ? って聞こうと思ったけど、よく考えてみるとブルボンは機械に触れないんだった。
完全に触れないわけではないのだろうけど、高確率で触れた瞬間ぶっ壊しているのを今まで何度も目にしてきた。どうやらうちのサイボーグは機械と最悪なまでに相性が悪いらしい。
とりあえず玄関先で話すのもなんだったので部屋にあげて、紅茶を淹れて差し出してからテーブルを挟んで正面に腰を下ろしてなんの用かと訊ねた。
「マスター。キスの味について教えてください」だってさ。
……なんなのマジで。
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一度言ってもらっていーい?」
とは言うものの、聞き間違いかもしれない。
一縷の望みにかけて、下手くそな愛想笑いを浮かべた。
「キスの味について教えてください」
「帰ってくれ……」
なんで? どうしてそんなこと恥ずかしげもなく訊けるんだ。
俺の方が照れちゃいそう。
「マスターの私物、マスターの匂い。普段のスーツ姿とは異なるラフな服装。つまり、『高揚』しています」
「おぅ……。え、なんの話だっけ?」
「キスの味──」
「オーケーわかった。説明しよう」
これ絶対新手の嫌がらせじゃん。キスの味ってなに、俺が訊きたい。
ていうかキスとかいう言葉がブルボンの口から出たことにびっくりだわ。そういえば最近テイオーたちと恋話とも呼べないような、恋のかけひきがどうとかこうとか稚拙な話をよくしていたし、あれか、そのときの副産物なのだろうか。
困るなあ、この子こう見えて好奇心旺盛なんだよなあ……。
「そうだね。キスの味はだね……」
「はい」
どう説明しようかと頭を悩ませていると、ブルボンは餌を前に『待て』を強要されている犬のような瞳でこちらを見つめてくる。
正面で正座しているブルボンから「早く。まだ?」なんて心の声が聞こえてきそうな気がして、回答を急いでしまった。
いやハナから解答なんて持ち合わせていないんだなあ。
「レ、レモンの味かな……なんつって……はは……」
「レモン……」
やめろ繰り返すな。虚空を見つめるな。
「……意味不明。再入力をお願いします」
「勘弁してくれ……」
なんだ、やっぱり新手の嫌がらせじゃないか。俺はもう恥ずかしくて死にそうだよ。だからもうなにも言わずに帰ってほしい。頼むからひとりにしてくれ。
「マスター。何故レモンの味──」
「ブルボン」
追究しようとするブルボンの言葉を遮り小さく咳払いをしてから、不思議そうに首を少し傾けたブルボンの瞳を覗き込んだ。
「もうケガも完治したことだし、そろそろ次の目標を決めようか」
このときの俺はただ話題を逸らしたかっただけで、別にそこまで深くは考えていなかった。
だからこのあと、ブルボンが必死に悩んで出した答えに……心の底から笑って頷いてやることなんてできなかった。
× × ×
それから一週間が経って、いつものようにトレーニングを終えてからトレーナー室でミーティングをして、同じチームメンバーのファル子とデジたんとテイオーが出て行ったあとも、その場から一向に動こうとしないブルボンの前に腰を下ろした。
ブルボンはじっと俺を見据えたままで、沈黙が続く。
なにか大切な話をしようとしていることは察することができたから、俺は一旦立ち上がってお茶を二つ淹れてからブルボンの前にひとつを差し出し、もう一度同じ場所に座った。
ブルボンは「ありがとうございます」と言ってからお茶を一口飲んで、「お話があります」と続けた。
「ん。どした?」
「次の『目標』が決まりました」
この前言っていたやつか……なんて思い出しながらお茶を啜って、どうするのかと問いかけた。
「海外のレースに出走してみたいです」
「…………え」
瞳孔が開いていくのを感じた。
しんと張り詰めたトレーナー室で、その声ははっきりと聞こえた。
「なんて、言った……?」
けれど聞き直したのはどうしてだろうか。自分でもわからない。こういうのは祝福してやるのが正しいのだろうか。
「海外のレースに、出走してみたいと……」
「それはっ、一度だけか……? それとも……」
ブルボンは頑固で、融通がきかなくて、妥協というものを知らない。
だから海外のレースになんか出てその空気を直接肌で感じれば、もっと走りたい、もっと競い合いたいと思うのだろう。
──多分何年も、帰ってこない気がした。
それが悪いことかと問われれば、もちろんそんなことはない。海を渡るウマ娘は今までもいたわけで、向こうで得られることはたくさんある。なによりブルボン自身がその道を選ぶなら、トレーナーとしてそれはきっと喜んで送り出してやるべきなのだろう。
頭ではそう理解していても、心が理解してくれないのはとても厄介だった。
「わかりません……。私は……」
ほら。きっと今俺はひどい顔をしている。
ブルボンが予想していた反応とは180度違っていたのだろう。
ブルボンの声は次第に小さくなってもう聞き取れない。
頭の中が直接かきまわされたみたいにぐちゃぐちゃで、言葉がうまく繋がらない。
なんて言えばいい? どんな表情を浮かべればブルボンは安心してくれるのだろう。
陽が沈んであたりは暗くなり始め、カラスの鳴き声がいつもより大きく響いている。
「そうか……。もう、決めたのか……?」
なんとか絞り出した言葉は、そんな意味の無いものだった。
「いえ。マスターの許可が必要です」
どこか悲しそうな瞳で首をふるふると横に振って、そう答えたブルボンに、ダメだと……許可はできないと、そんなことを言えるやつがこの世界にいるのだろうか。
……いるはずがないよな。だって、きっとウマ娘にとって走ることは生きることと同義で、その中で出した答えはなによりも尊重するべきで……。
「なんて顔してるんだよ」
……お前が言うなよって、心の中で自分を戒めて、身を乗り出して、机を挟んで向いに座るブルボンの頭にそっと手を置いた。
きっと今までで一番うまく作れた愛想笑いは、ブルボンの緊張をほぐしてくれた。
「海外か。良いな、それ」
「マスター……」
「もちろん俺はついて行ってやれないわけだけど、ひとりで大丈夫なのか?」
ひとりとは言っても、向こうにはトレセン学園のツテでちゃんとブルボンの面倒を見てくれるトレーナーたちもいるわけだが、いかんせんコミュニケーションがド下手なので不安ではある。
こっちでも友だちが多くいるわけではないのに、海渡って本当にやっていけるのかよと、そんな意味を込めて揶揄うように笑いかけると、ブルボンは頭の上に乗せていた俺の手にそっと手を重ねて少しだけ口角をあげた。
「はい。マスターの実力も、私が証明してみせます」
「…………おぅ」
不覚にもうるっときてしまった。
不意打ちはやめてね。
× × ×
それからの時の流れは驚くほどに早かった。
手続きやらなんやらでトレーニングに参加する機会が減ったブルボンがいつも見せていた背中は想像以上に大きかったみたいで、ブルボンがいない日はみんなどこか精彩を欠いていた。
「こらこら。そんな調子じゃブルボンが心配するだろ。もう一本タイム測るから息整えておけよ……」
そう言うとしっかりと返事はするものの、やっぱり浮かない表情で、どうしたものかと後ろ髪を撫でながらため息をついた。
こういうとき優秀なトレーナーであれば気の利いた言葉をかけてやれるのだろうけど、俺ってほんと使えねえ……。
「マスター、お疲れ様です」
そうやって自虐的なことを考えていると、不意に後ろから声をかけられて勢いよく振り返った。
「……今日は休むんじゃなかったのか?」
嬉しくて顔がほころんでしまう。
それと同時にみんなも駆け寄ってきて、ブルボンを囲んでわいわいとはしゃぎ始めた。
「またボクと恋話しようよー!」とか、「ウマドルユニット組む話はどうなったのー!」とか、「ブ、ブルボンしゃん……っ! あたしは離れていてもずっと推し続けますぅ……!」とか。
一気に話しかけられたブルボンは虚空を見つめながら「思考停止……」などと供述している。
それからしばらくみんなで会話をして、一通り話が済んで落ち着いたところで、ブルボンは「ありがとうございます」と微笑んだ。
「……
わかっていたことも、いざ言葉にされてしまうと痛いほどに胸を抉られる。
それはみんなも同じようで、さっきまでの喧騒がうそのように黙ったまま視線を落とした。
それでもブルボンはまた笑って──
「マスターを、よろしくお願いします」
俺以外の三人に向けてそう言った。
「え、俺がよろしくされちゃうの?」
逆じゃない? 「マスター、三人をよろしくお願いします」じゃないの?
と、納得いかない表情を浮かべていると三人とも同じタイミングでふき出して、うっすらと目に涙を浮かべながら嬉しそうに承諾していた。
そんなみんなの姿を見ていると俺までつられてしまって、黄昏時にオレンジ色に染まったトレーニングコースに、みんなの笑い声が一層大きく響き渡った。
× × ×
「いい加減携帯触れるようにしてよね、チャットでも連絡取りたいんだからさ」
「ウマドルユニットの曲と振り付け、ちゃんと考えておくからね☆」
「デジたんのことは忘れても……ファル子さんとテイオーさんのことは忘れないでください……っ!」
「いや俺も俺も……。俺のことも忘れないでね?」
空港まで見送りに来るとより一層寂しさが込み上げてきて、それを隠すように明るく振る舞った。
話したいことや伝えたいことは山ほどあって、けれど言葉がばらばらになったみたいにうまく揃わなくて……。まあいつでも向こうの寮に電話すれば取りついでもらえるのだから、無理して絞り出す必要は無いかと考えていると、ブルボンを囲んでいた三人が身を引いて、「今話しておけ」と目で伝えてきた。
三人に見守られる中、ブルボンの正面に立つと不思議と緊張して、喉がからからに渇いてきた。
──なにから話そうか。もう残された時間はあまり無いのに、やっぱり言葉は形を成さない。
目の前にいるそのウマ娘の存在が大きすぎて、頭の中はたったひとりとの思い出で埋め尽くされてしまいそうになるくらいたくさんのものをもらった。
「……俺は、ブルボンと出会ってから随分と変わったよ」
「私も、マスターと出会ってから大きく変わりました」
変わるきっかけをもらった。
「毎年夏の終わりには一緒にいたいって言ったのに、行くんだな」
「それは……」
「ふっ……あはは! 冗談だって」
気持ちを伝えてもらった。
「ブルボンが向こうに行っている間に、すっかり遅くなってしまったネックレスへのお返しを考えておくよ」
幸せを願ってもらった。
「いえ。気を遣って頂かなくても──」
「俺が……。俺がそうしたいんだ」
与えてもらうばかりでは、きっといつか返しきれなくなってしまう。
「……ありがとう」
「はい。ありがとうございます」
しっかりとこちらを見つめてくるブルボンの頭に手を置こうとして、あげかけた手を止めた。
触れたら、離せなくなってしまいそうだったから。
「毎日、朝でも夜中でも電話してきて良いからな」
「はい」
「食事にも気をつかってな。ゼリー飲料ばかりじゃだめだぞ」
「はい」
「時差とかもあるから身体にも気をつけて……それから……ええと、それから──」
「マスター。そろそろ搭乗の時間です」
「……あ。そ、そうか。そうだな、うん」
やっぱり寂しいと泣いたり、行くのをやめると言い出せば、なにも言わず連れて帰ろうと思っていた自分が急に恥ずかしくなった。
そんななんともないような目で見つめて、機械のような声で返事をするのはやめてほしい。
結局、俺ばかりが期待していたようでひどく虚しくなる。
「引きとめて悪かった」
「いえ。それでは、マスター。みなさん……。行ってきます」
ブルボンは三人に向けてぺこりと頭を下げた。それに三人は手を振りかえしている。
別にこれが最後の別れになるわけじゃないけれど、俺ばかりがまだ、心の底から笑えずにいた。
「……元気でな」
そう言って微笑みかけると、ブルボンは胸の前で小さく手を振った。そんなこともするのかと、驚きながらも手を振りかえして応えると、くるりとまわって歩き出す。
まだ手を伸ばせば簡単に届く距離なのに、その背中がやけに遠くに感じてしまって、小さくため息をついた。
自分はいつからこんなに寂しがりだったのだろうかと。
そんなことを考えていると、少し先でブルボンが急に立ち止まり、なにか考えごとでもしているのか、少し上を向いたまま固まっている。
かと思えばまたくるりとまわって、こちらに向かってズカズカと歩き出した。
俺の目の前まで戻ってきて、じっと俺の瞳を見据えたまま微動だにしない。忘れ物でもしたのだろうか。
「……どうしたんだ?」
問いかけると、ぴくりと耳が反応して、そのすぐあとに両手で俺の顔を掴んだ。
そのまま引き寄せられて少し背を曲げると、くっと背伸びをして、勢いのままに──
「──────ッ」
「「…………えぇぇぇえ!?」」
「ウヒョー! くぁwせdrftgyふじこlp!! 興奮を隠しきれていない自覚はある……っ!」
一瞬なにが起きたのかわからなかった。いや、一瞬でなく今もわからない。
視界の端でテイオーは真っ赤になった顔を覆った両手の指の隙間から瞳を覗かせ、「ぴ、ぴえっ……。ワケワカンナイヨォ……」と呻いている。その隣でファル子が握った両手をぶんぶんと上下に動かしながら「ス、スキャンダルだよぉ!」と叫んでいる。さらにその隣ではデジたんが尊死していて、俺の目の前には瞳を閉じたブルボンの顔があって、頬に添えられた両の手が温かくて、サイボーグでも唇は柔らかいのだなと感心した。
「…………」
ゆっくりと離れていく、柔らかな唇と包み込むような優しい手のひらの感触が、いつまでも残り続けている。
未だ声も出せずに固まっていると、面白いくらいに目の前のブルボンの頬が染まっていく。でも相変わらず無表情だから、本当にされたのかなんてはっきりとはわからなくて。
「いえ。その、これは……マスターが……」
こんなにも言い淀んでいるブルボンを見たのは初めてだった。明らかに動揺している。そんな姿を見せられるとさっきの行動が急に現実味を帯びてきて、こっちも余計に心臓の音がうるさくなるわ頬が熱くなるわで、本当に勘弁してほしい。
「マスターが……あまりにも寂しげに笑ったので……『離れがたい』と感じました……」
それだけ言って、こっちの言葉も聞かずにブルボンは逃げ出すように駆けて行った。
真っ白な頭の中に数十秒前の光景をえがき出し、たまらず口元を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
「なんだよ、それ……」
最悪だ。笑って見送って、これから先も蓋をしたままで良いと押さえつけていたはずなのに。
始まりはいつだったのか、どこでだったのかさえわからないくらいいつまでも気づかないふりをしていたのに。
保留だとか言って、多分、本当は……俺の方がずっと先だった。
「ああ、くそっ……。とんでもない爆弾置いてくんじゃねえよ……」
だめだ。自覚してしまったらもう抑えきれないくらい、ずっと、誰よりもなによりも……。
──風呂に入るとき以外は、眠るときも肌身離さずつけていた蹄鉄のネックレスを右手できゅっと握りしめ、左手で乱暴に前髪をかき上げた。
もう誤魔化しきれないくらい、それは確かなものだった。
ブルボンが海外のレースに出走したいと言ったとき、聞こえていたのに聞き直したのは、単に嫌だったのだ。俺はブルボンの担当トレーナーでありながら、先へと進みたがったブルボンを……ずっと、いつまでも目の届く範囲に置いておきたかったのだ。
心配だからとか、そういうのもあったけれど、そんなんじゃない。複雑でもなければ、それは単純で明快で……ただ俺は……。
ブルボンのことが──
おしまい