田舎の夏は都会の夏と比べて比較的過ごしやすい。それはこの稲荷島だからなのか定かではないが、間違いなく都会よりもこの島の気温が低いことにあるのだろう。稲荷島は島という名に違わず海に囲まれており、海から吹く潮風は太陽の熱を受けていても涼しさを感じる。自然が多いことも理由の一つだろう。
対して本土で俺が住んでいた場所はまさに鉄のジャングルと呼ぶのに相応しい場所だ。何処を見てもビルが並び、一度迷えば元の道に戻るのは困難だった。時折吹いてくる風もビルの間の隙間風で熱風と呼ぶのに相応しく、清涼感は得られなかった。
長々と前口上を述べたが結論を言おう。
「暑い……」
浅い眠りに入るたびに暑さに叩き起こされ、夜中に起きれば二度寝に至るまで時間がかかり、まるで寝た気がしない今日この頃、俺は寝起きに夏の気候に文句を言っていた。
それから気怠い身体を起こして、時計を見る。
時刻は朝の八時を指している。そこで俺は違和感を覚えた。
「……あれ、琴音は?」
いつもなら朝の七時半に起こしに来るはずの琴音が来ない。同室で寝ているはずの琴音の布団は畳まれて隅に置かれ、既に起床したことはわかる。そして、いつもなら身支度を終えた後に朝食の準備をして俺を起こしにくるのだ。それがないということはまだ朝食の準備が済んでいないのかと考えたが、料理の音どころか生活音すらない。
気になって台所や他の部屋も見てみたがもぬけの殻、玄関で靴を確認すれば出掛けたらしく家には不在ということが確認できるばかり。
どうやら出掛けたようだ、と結論づけたところでふと思った。
「これじゃあまるで母親を探す子供だな」
目を覚ましたら母親がいない状況に不安になって母親の姿を探す子供、という状況に陥ったことはないが言い得て妙で納得してしまうのも事実。遺憾なのはそんな例えしか用意できなかった俺の思考だ。解せない。
–––母親じゃないわよ。妻よ。
琴音ならこんなツッコミを入れてくれるのだろう。顔を赤くして、恥ずかしそうにしながらも。そんな姿を思い浮かべると俺もどうしようもなく愛おしく感じてしまう。
「俺も無意識に探してしまうあたり、嫌ではないんだろうな」
不安で探して、心配して、一緒にいることが当たり前と感じるあたり。それは好きと呼ぶには十分な条件を満たしていると思う。嘆くべきは一目でも琴音の姿を見たいと思っている己の心だ。
「何処行ったんだ?」
気になる。気になって仕方ない。
取り敢えず台所に戻ってお茶を飲もうと冷蔵庫を開けたところで、その中にあるラップされた皿に気づいた。
「朝食は用意していったのか?」
皿の上に小さなメモが付属されている。拾って読み上げれば『美咲と智代子と出掛けてきます』と琴音の字で書かれていた。少し安堵したものの疑問は尽きない。何処に行ったのかわからないままだ。
ひとまず朝食だ。琴音が用意していった朝食を食べながら黙々と考える。琴音の家か、美咲の家か、智代子の家か、はたまた秘密基地か。数年分の空白が俺の心に穴を空ける。不安という、穴を。
「……邪魔するわけにはいかないしな」
それでも探すという選択肢はもうない。彼女には彼女の日常がある。それを邪魔する権利はないのだから。
「まぁ、せっかく島に帰って来たんだし、気分転換に釣りでもするか」
一人きりの朝食は琴音が作った料理で味は保証付きだったというのに美味しく感じなかった。その事実に気づかないふりをしながら、蔵から祖父の釣竿を拝借して家を出た。
それから住宅街を抜けて俺は性懲りも無く琴音の家の前を通った。もしかしたら鈴白の家の方に戻っているかも、と考えて浅ましくもまた彼女の姿を探している。
しかし、代わりに見つけたのは鈴白家の庭で一人、つまらなさそうに蹲っている既視感を覚える背中だ。昔の琴音と瓜二つ、その上行動も一緒なのだから、妙に懐かしさを覚えた。
「桂音」
「あっ、おにーちゃん!」
声を掛けると振り返り、姿を確認すると駆け出してくる。俺の前に来ても勢いは止まらず腰のあたりに飛び込んできた。優しく受け止めて、そのまま頭を撫で回す。
「ん〜。おにーちゃんになでなでされるのすきぃ」
蕩けきった声で甘えてくる桂音の満更でもない様子に俺も笑みが溢れる。
「そうか。ところで琴音知らないか?」
「おねーちゃんなら朝帰って来たけど、すぐに着替えてどっか行っちゃったよ」
「そうか……」
「おにーちゃんもおねーちゃんがいなくて寂しいの?」
そんなに寂しそうに見えただろうか。
桂音の飾らない言葉を聞いて、大きく動揺する。
「別に寂しくなんかは……」
そう。たまたまこの夏ずっと一緒にいたからいざいなくなると寂しいとかそんなんじゃない。そんなものではないはずだ。これは一種の反射的なものだ。そう言い聞かせる。
「桂音は何をしていたんだ?」
誤魔化すために話題を変えて桂音に訊ねると、少女の表情が物悲しいものになってしまう。
「……蟻、見てたの」
「楽しいか?」
「楽しくない」
「なら別の遊びをすればいいのに」
「だって、おとーさんもおねーちゃんもあそんでくれないんだもん」
拗ねたように桂音は頬を膨らませる。
「おとーさんはいつもしごとでいえにいないし、かえってきてもねてるから。あそぼうっていってもおねーちゃんにあそんでもらえって。おねーちゃんも男のひとの家によめいりしたって。それまではおねーちゃん毎日遊んでくれたのに」
–––なんかごめん。
そう謝罪したくなった。
言うなれば、俺は桂音にとって姉を奪った犯人で。
姉が遊んでくれなくなった原因でもある。
きっと、俺が来なければ琴音は桂音と毎日のように遊んでやっていたのだろう。
その日常を、時間を、俺は奪ってしまったのだ。
「……じゃあ、俺と遊ぶか?」
代案として出たのがこれだ。琴音も桂音を蔑ろにするつもりはなかったのだろうがこうなれば致し方ない。その穴を埋めるのは俺の役目と諦めて、暇な時間を潰すことにする。
「おにーちゃんが遊んでくれるの!?」
パアッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべる桂音。それは例えるなら向日葵のような可愛らしい笑顔だ。
「やったー!」
もう離さないと言わんばかりに桂音がぎゅっと抱きついてくる。
「何して遊ぶ?」
「んーとね、おにーちゃんなにもってるの?」
「これか?釣竿」
俺の背中にあるケースを見て不思議そうな顔をする桂音に教えてやると、きょとんと首を傾げられた。
「つりざお?」
「魚を釣る道具だよ」
「おさかな取るの?」
「まぁ、そうだな」
「やりたーい!」
どうやら魚釣りに興味があるようだ。
「じゃあ、今日は魚釣りをしようか」
「うん!」
そうと決まればまずは報告だ。自分はこの歳になれば勝手に出歩いていたが、女の子が何も言わずに外を出歩くのは問題だ。
「まず婆さんに言っておくか」
桂音を連れて縁側に行く。
此処からなら、屋敷中に声が響くはずだ。
「婆さん、桂音借りてくぞ!」
その数秒後、何処からともなく老婆が現れた。
「婿殿かい。琴音だけじゃ物足りないかい?」
「こんな小さい子に興味はないぞ」
「冗談だよ。好きにしな。だけど絶対に目を離すんじゃないよ。もし何かあったら琴音と蔵に監禁して跡取り作るまで出さないからね」
「……肝に銘じておくよ」
とんでもない罰ゲーム?内容に肝を冷やしながら、俺は桂音の小さな手を握った。
「じゃあ、婆さんの許可も得たし行くか」
「うん!」
そして、鋭い眼光の鈴白の婆さんから逃げるように島有数の釣りスポットへ向かうのだった。