桂音に泳ぎ方を教えながら過ごしていると正午の放送が流れた。あの学校の予鈴の録音だ。それを聞いて遊んでいた子供達が蜘蛛の子を散らすように家に帰って行く様を見送って、俺は今もバタ足の練習をしている桂音を海から抱き上げる。水深は1メートルほどの浅瀬だが、四歳の子供にとってはかなり深いのだ。
「ほら。もうお昼だ。一旦中断して、ご飯食べに行くぞ」
「えー、もうちょっと」
水の中でバタ足をすると前に進むのが楽しいみたいで桂音は駄々を捏ねる。子供らしい反発の仕方だった。
「あまりやりすぎもよくないからな。昼からは普通に遊ぼう」
俺は今の今まで放置していた琴音と美咲に視線を向ける。二人は見るからに不機嫌そうな顔で、ビーチパラソルの下から俺達を睨んでいた。その傍らでは苦笑いの智代子。
「–––それにあまり放置しすぎもなぁ」
三人は島でもかなりの美人だ。他の男達が寄ってこないとも限らない。現に“ある一点”に視線を向ける男達がいることも外野から見て判る。
「ねぇ、お姉さん達、今暇?」
–––と、そこに勇気ある若者が三人、突貫した。
「……なに?」
「えっ、あっ、いや、暇なら一緒に食事でもどうかなぁーっと」
「俺たちいい飯屋知ってるからさ。此処にはよく来るし」
「その割にはあまり見ない顔だけど?」
男達を一蹴する琴音、確かに地元民に対して『いい飯屋を知ってる』は悪手だ。なにせ相手は地元民だ。観光客より島に詳しいのだから。琴音達が地元民ということに気付いて、典型的口説き文句を吐いていた男の表情が固まった。
「うわぁ……」
そして、俺はあれに今から話しかけなければならないのかと思うと憂鬱になる。
放置しすぎても琴音達の機嫌を損ねかねないので、助けに入る体で合流させてもらうことにした。桂音を連れて、三人がいるパラソルの下に戻る。
「悪いがそいつは俺の女だ」
「なんだてめ–––っ!?」
振り向いた瞬間、男三人の表情が固まる。視線は“ある一点”を見つめ、表情が青くなる。
ダメ押しとばかりに俺は琴音の肩を抱く。今まで海水に浸かっていたせいか、琴音の体温が心地良い。
「俺の許婚だ。手を出すな」
精一杯睨むと男達が怯む。そして、すぐに手のひらを返した。
「お、おぉ、悪かったな」
「じゃ、じゃあ、俺たちは帰るから」
「お邪魔しましたぁ!」
逃げるように早足で消える三人の男を見送る俺の背中に痛いほど視線が突き刺さる。
「なるほど。そうやって琴音先輩を手込めにしたんですね」
智代子が興味深そうに頷いている。腕を組んでいるせいか彼女の胸が強調されていて、目のやり場に困る状態になっていた。
「手込めとは随分と大袈裟だな」
「いえいえ、圭先輩の顔やルックスも悪いというわけではないですし、並大抵の女の子なら普通に落とせると思いますよ」
「それなら俺にモテ期が来ているはずだが」
「よく見てください。琴音先輩の顔真っ赤じゃないですか」
言われて琴音の顔を見る。指摘されるまで気づかなかったが、彼女の顔は耳まで真っ赤だ。
「俺の女……今、俺の女って……」
ボソボソと独り言を呟いている。それも俺が今言った小っ恥ずかしいセリフを。
「言葉の綾だ。忘れろ」
「絶対に嫌。孫の代まで語り継ぐから」
黒歴史を嬉々として子に語り継ぐのはいかがなものかと思う。
「むむむ……これが正妻の余裕か。圭君、ボクにもそういうこと言って欲しいなー」
「えー、なんて言えばいいんだよ?」
「俺の女、でもいいよ」
「そう言われてもな……」
それはそれで角が立ちそうだし、あまり口にしたい言葉ではない。琴音の場合は許婚という立場があったため多少の齟齬はあろうと利用できたのだ。
「取り敢えず、保留で。昼食にしよう」
「じゃあ、間を取ってこうしよう」
美咲はそう言って朝のようにくっついてくる。
「何してるのかしら?」
「別にー。くっついてるだけだよ。まぁ、押し倒されちゃうかもしれないけど」
「なっ!?」
「おーい、二人とも離せ」
対抗するように琴音が反対側の腕に抱きつく。両手に花とは言ったもののあまり嬉しくない。明日には島中に二股かけただのと噂が広まるに違いないのだから。
–––俺は噂はあまり気にしないタイプだが。
引き剥がす労力を考えれば、このままでも別に構わないだろう。
「で、あいつらは?」
「真広先輩と亮介先輩は……と、噂をすればですね」
昼を過ぎて観光客が疎らになってきたからか此方に歩いてくる二人の姿はすぐに見つかった。二人とも収穫はないようでとぼとぼと気落ちしたまま歩いてくる。
「収穫はあったか?」
「団長が琴音嬢や美咲とイチャコラしてる間、俺達は死に物狂いでナンパしてたっていうのに……爆ぜろ」
「そうだリーダー。俺たちに見せつけるな。……自分たちが惨めに思えてくる」
予想通り収穫はなかったらしく、朝の元気は何処へやら二人は遠い目で水平線の向こうを見る。
「いや、全然そういうことはなかったぞ」
「ですです。圭先輩ってば、ちょこ達を放置して桂音ちゃんに一生懸命泳ぎ方を教えてましたから……それに嫉妬して拗ねた二人を宥めるの凄い大変だったんですからね」
「それは悪かった」
件の二人といえば、両腕を奪い合って睨み合っている。おかげで身動きのひとつも取れない。
「それより腹減ったんだが」
「じゃあ、海の家行こうぜ。近いし」
「値段は割増だが、あそこは品揃え豊富だしな」
そして、多数決をとった結果、満場一致で海の家に行くことになった。
『海の家』は何処でも聞く通り夏の海水浴場でお目にかかる軽食屋だ。夏になるとやってくる観光客のために、焼きそばなどの色々な料理を売っている。しかし、この稲荷島の海の家は少々特殊で、島直営店となっている。役所が管理し、島民達が運営しているのだ。品は島にある飲食店から出品され、漁師達からは魚介類が豊富に提供されている。
言うなればこの島を一つに凝縮したかのような場所。それが夏限定で開かれる『海の家』と呼ばれる出店だった。
「そういや今年は誰が海の家やってるんだ?」
基本、働いているのはお金が欲しい高校生から大人の島民。稀に手伝いで子供がいたりする。海の店が開いたならその手の話はすぐに広まるかと思ったが、今年は何も知らなかった。
「そういや俺も知らねぇな。真広、知ってるか?」
「いいや、あいにく俺も知らないな」
普段、海に来ているはずの二人も知らない。その理由が女の尻を追っかけ回しているからとは周知の事実だ。
「そういえばちょこも海の家にはあまり行きませんね。中学生のお小遣いにしては高いですし、高校生になるとそういう機会もあまりありませんから」
「まぁ、誰にしても知ってる相手だと思うわよ」
「そうだよ。みんなご近所さんなんだし」
「いい匂いがするー!」
雑談をしながら海の家の近くに寄ると香ばしい匂いがしてきた。海で疲れた身体には中々の刺激で誘われるまま店先に顔を出すと、思いもよらぬ人物が厨房を占拠していた。
「はーい、らっしゃいませー。……って、これはこれは若旦那じゃないっすか。いやー、水着の美女に囲まれて羨ましい限りっすね」
藤宮紫苑、七海学園の生徒会長兼豆腐屋兼食堂の看板娘が海の家の厨房に立っていたのだ。神出鬼没すぎて驚く。
「か、会長……?なにやってるんですか?」
「バイトっすよ。あとついでにうちの店の宣伝ですね」
予想外の人物の登場に琴音も目を白黒とさせる。
「「げっ、生徒会長……」」
男二人は紫苑を見て見るからに表情を陰鬱としたものに変えた。そんな反応すら馴染みなのか、紫苑はバイト時の狐耳と尻尾をつけたエプロン姿のまま腰に手を当てて怪訝そうな顔をする。
「げっ、てなんすか。夏休みに超絶美少女の生徒会長に会えたんですよ。むしろラッキーでしょうに。若旦那もそう思いますよね?」
「若旦那って俺のことか?」
「色々と呼び方を考えてみた結果、それが一番かと思いまして」
この数日そんなことばかり考えていたようで紫苑は真面目にそう言っていた。
「で、若旦那はどう思うっすか?」
「悪いが美少女は見飽きてるんでな。ありがたみがない」
紫苑も美少女の部類に入るのだろうが、琴音も美咲も智代子も島ではかなりの美人の部類なのでそういう希少性を感じられないのが本音である。もっとも誰が一番なんて言及した日には一悶着ありそうなので避ける意味合いもある。
「じゃあ、若旦那的に誰が一番可愛いんですかねー?」
裏の裏を読んで紫苑は意地の悪い笑みを浮かべてこう言った。聞き耳を立てる女子三人、とぽけっと呆けている幼女が一人、俺に注目している。一番角が立たないのは……。
「桂音だな」
「ほうほう、つまり若旦那はロリコンってことですね!」
「もういいやそれで」
一番争いが生まれないのは俺が“ロリコン”になること。それで平和になるのなら、多少の犠牲は付き物だと諦める。
「そう。へー。そうなんだぁ……」
「これはボクの大人の魅力ってやつをわからせる必要がありそうだね」
両腕が柔らかな感触を超えてミシミシと鳴る。二人が腕を締め付ける音だ。
–––全然、平和じゃない。
俺は都会で覚えたスルースキルを全力で行使して努めて冷静に振る舞う。
愉快そうに笑っている紫苑に座敷席へ案内してもらうことにした。
「仕事しろ生徒会長」
「では七名様ご案内〜♪」
海の家は最近改装されたようで妙に真新しいテーブルや畳が増えていた。経年劣化で朽ちた部分は入れ替えることで新しくしたらしく、海の家は新装開店されたかのように綺麗だ。その奥の座敷席に俺たちは通された。
「……動けないんだが」
亮介と真広は向かいの席で、何故か俺は女子に囲まれている。腕は二人に掴まれたまま、膝の上には桂音が座って身動き出来ない状態が更に酷くなっている。智代子は通路側の席で、若干の苦笑いを漏らしていた。
「だけど圭先輩も満更ではないですよね?」
「そりゃあな。そうだけど……限度ってものがあるだろう」
せめて食事は普通にしたい。その時には離してくれることを願うが、どうやらそれはフラグになりそうだ。
「それじゃあ、ご注文をお伺いしますね」
俺の心中を察してかさっとメモ帳を取り出して仕事に移る生徒会長、あれは仕事に切り替えたのではなく俺が何かを切り出すのを察して先手を打つことで止めた、というところだろう。口元が弧を描いたままだ。
「メニューはなにがあるんだ?」
「そうですね。新鮮な魚介類を使った料理から、狐揚げという郷土料理に、豆腐を使った料理。あと定番の焼きそばとかカレーですかね。シーフードですけど」
紫苑が出してくれたお品書きにはサザエの壺焼き等の海の家にしては珍しい品まである。それを順に見ていたわけだが、此処でも“あれ”を見つけてしまった。
「「「飲む麻婆豆腐で」」」
ドリンクの欄に『飲む麻婆豆腐』が堂々とメニューとして書かれていたのだ。そんなものがお品書きにあるのはこの島くらいのものだろう。
そして、それを頼むのも幼女と二人の男という組み合わせがなんとも理解し難い。
「流行ってるのかそれ?」
「団長知らねえのか?大豆は畑の肉と呼ばれていて、海で疲労した筋肉に丁度いいんだぞ」
「あぁ、飲むだけで筋肉痛が和らぐ効果がある」
「ソイプロテインってのがあるだろ。この島の漁師たちにとっちゃあプロテイン代わりに飲める魔法のドリンクなんだよ」
「というわけで、リーダーも一杯どうだ?」
「俺は遠慮しておく……」
飲む麻婆豆腐の効果を力説されたが懇切丁寧に断り、メニュー表に視線を戻す。
「じゃあ、俺は海の幸のパエリアで」
「あたしはそうねー。塩焼きそばがいいかしら」
「ボクはイカのホイル焼き」
「ちょこも塩焼きそばで」
「「俺たちはカレー大盛りだ」」
「きつねあげー!」
それぞれが好きなものを注文する。紫苑は普段のおちゃらけた姿からは予想できない速度で耳から入った情報をメモに書き留めると、復唱して注文を確認したあと厨房に引っ込んでいった。
この繁盛期に一人で海の家を切り盛りしているわけではないらしく、厨房には別の島民の姿もあったことから調理は手分けして行われるようである。
「お待たせしました!藤宮食堂特製『飲む麻婆豆腐』っす」
程なくして届いた“麻婆豆腐”はジョッキで出てきた。
※主人公はロリコンではない。