日が沈みだすより先、午後五時には海水浴から撤収して帰宅することになった。いくら夏の海といえど太陽が沈めば水温は低くなる。風邪を引くことのないようさっさと撤収してしまおうという考えだが、此処で異を唱える幼女が一人いた。
「むー。まだ遊びたい」
遊び盛りの子供である桂音は鈴白家の前まで来るとつんと唇を尖らせて俺の手を握る。普段はこういう文句は言わないようだが、嫌々と俺の手を握って離さない。本当にまだ帰りたくないようだ。
「わがまま言わないの」
「おねーちゃんはおにーちゃんとずっと一緒にいてずるい!」
「あ、あたしはいいのよ。将来的に結婚するんだから」
「むー。けっこんってなに?」
そう言われると、解答に困る。
二人して答えに詰まって、子供らしい文句に苦笑する。
どう説明したものだろうか。悩んだ末に、琴音は幼児にわからせるように優しく諭す。
「血の繋がらない男の子と女の子が家族になる、ってことよ」
琴音が出した幼児で理解できる答え……だとは思うのだが、聞いてみると意味がわからなかった。むしろ逆に複雑化しているように聞こえてしまう。
「わかんない」
首を傾げる。確かにちょっと回りくどいかもしれない。
俺は桂音の顔の位置に合わせるようにしゃがみ込み、視線を合わせて説明する。
「パパとママがいるだろ。結婚するっていうのは、好きな人と生涯を共に過ごす誓いみたいなもんだ。ずっと一緒にいるって約束なんだよ」
「……いないもん」
桂音は唇を尖らせて、拗ねたように呟いた。
それは俺に辛うじて聞き取れる声で、胸に小さな棘のように刺さる。
意味を考えて、僅かながらに察してしまう。
それは……踏み込んでもいい話なのだろうかと。
–––そういえば、以前にもこんな感じで家族のことを聞いた気がする。その時話に出たのは……父親のことだけだったような?
「まぁいっか俺も結婚って何?って聞かれても答えられないし。よし、今日はお兄ちゃんと一緒の家に帰ろうか」
「うん!」
沈んだ表情が一気に明るくなる。
そんな妹の様子……というか、俺の決定に琴音が声を荒げた。
「ちょっと!?」
「いいだろ。今日くらい。それとも子供がいたら不都合なことでもあるのか?」
「なっ。ないわよ」
琴音の反対したそうな表情を見たが、無理矢理押し切って桂音を肩車して我が家へと進路を変更した。
家に帰宅した俺達は早々に風呂に入ることにした。海で浴びた潮風と海水を洗い流すため、今日一日の疲れを癒すための風呂は至高の一言に尽きる。だがしかし、風呂は一つしかないわけで。歳頃の男女が一緒に風呂に入るのは忌避するところがある。いくら許婚といえど、そんなことにチャレンジしたことはなかった。
「琴音と桂音から先に風呂に入れよ」
故にレディーファーストという言葉が適用されるわけで、俺がそう口にするのも不自然ではないだろう。そう思っての提案だったのだが、此処でまた幼女から文句が来た。
「えー。わたしおにーちゃんと一緒にお風呂に入りたい!」
いくら許婚であっても遠慮することはあるが、歳頃でない幼女からの誘いに俺は動揺する。それだと琴音が風呂に入れない。
「いや、琴音と桂音から先に入った方がな?」
「いいじゃない。圭が先に入りなさいよ。あたしは後から入るから」
「でも……お前だって先に風呂入りたいだろ」
「そうだけど。後からでいいわ。準備だってあるし」
そう言って琴音は水着にパーカーを羽織ったまま台所へ向かう。海から家まで島民達は水着姿で帰ることは、そう珍しいことでもなく、俺と桂音だって水着のままだった。
「それなら先に入らせてもらうか。行くぞ桂音」
「おにーちゃんとお風呂ー!」
脱衣所に直行して、すぐに服を–––水着を脱ぐ。隣を見ると桂音は肩紐を外して必死に脱ごうと奮闘しているところであったが、濡れた水着は重いのか張り付いて中々剥がれない。
「おにーちゃんぬがして!」
中々際どいワードが飛び出すが子供相手だとそういった感情は湧き上がらず、俺は桂音からするすると水着を脱がした。
「よーし、行くぞー」
すっぽんぽんになった桂音を連れて、浴室に移動する。この家の風呂も昔は火を起こしてやるような古めかしいものであったのだが、何度か壊れたせいか最新式の風呂に替わっていて、風呂のタイルやバスタブも数年前に買い替えたものだ。しかし、爺さんはそれが気に入らずドラム缶を何処からともなく持ってくると五右衛門風呂を作ってしまうため、殆ど使われていなかったりする。
「ほら、その椅子に座って。まずは髪を洗ってやるからな」
「うん♪」
楽しげな返事を聞いたところで、俺は桂音の髪を洗っていった。シャンプーやリンスは琴音が使っている女性用の物を使って丁寧に洗ってケアをしていく。それから泡を洗い流して、今度は柔目のボディータオルに手を伸ばした。
「次は身体な」
ボディーソープをボディータオルで泡立て、桂音の身体を優しく丁寧に洗う。
–––特に何もなかった。
敢えて名誉のためにも言わせてもらうが、俺がロリコンなんて事実もないし幼女の身体では興奮するはずもない。それを再確認したところでちょっとほっとした。
最近、琴音にロリコン疑惑をたてられているため疑心暗鬼に陥っていたのだ。
「桂音はどう?おとなしくしてる?」
「おう。はしゃいでいるが別に暴れたりはしてないぞ」
「そう。良かった」
浴室と脱衣所の曇り硝子越しに琴音の声が聞こえた。次の瞬間だった–––。
「–––じゃあ、あたしもお邪魔しようかしら」
浴室の扉を開けて、琴音が中に入ってきた。海で見せたあの水着姿でだ。
「……何じろじろ見てるのよ」
「いや、なんとなく」
「桂音の髪も身体も洗い終えたんでしょ。ほら、狭いから桂音はゆっくりお湯に浸かるのよ」
俺はいつ『混浴したい』と言い出したのか、目の前の光景に絶句していると湯船に浸かった桂音に代わり琴音が俺を椅子に座らせる。そもそもそんな願望を口にした覚えなどない。
「え、なんで混浴?」
辛うじて声に出せたのは困惑交じりの不明瞭な言葉で、状況をただ述べただけで説明にはなっていなかった。
「後で入るって言ったでしょ」
「……」
何を当然のことをと言わんばかりの琴音に俺は絶句した。彼女はこんなことを自らする性格ではないからだ。可能性があるとすれば、俺が混浴を懇願した場合に限り可能性が浮上するが、前述の通り混浴を願った覚えはない。一度は考えたが、一緒に入ろうなんて口に出した覚えはないのだ。
だから、今の状況が理解できずにいる。
「いや、待て、おかしい。どういう状況だこれは?」
「何ってあたしがあんたの背中流しに来るのがそんなに不満?」
「別に不満ということは……」
異性と風呂に入るシチュエーションは誰だって妄想くらいしたことがあるだろう。そんな夢のような状況、嫌なはずがない。
「おねーちゃんなんで水着きてるの?」
そこで、水着で風呂に入ろうとする琴音に待ったをかけたのは桂音だった。まるで不思議な物を見たとでも言わんばかりの純粋無垢な幼女の質問に琴音はたじろぐ。
「なんでってそれは……ねぇ?」
質問を俺に受け流す彼女は困ったような顔だった。しかし、それは悪手だ。
「桂音、お姉ちゃんはいつもお風呂に入る時どうしてるんだ?」
「すっぽんぽんだよ」
ほう、すっぽんぽんとな。それは実に見てみたいものだ。お風呂場で水着姿も中々に背徳的だが、此処は常識に則って非常識に対抗するべく琴音に視線を向ける。
「なんで琴音は水着を着てるんだろうなー」
「おねーちゃんおふろははだかではいるんだよ」
「うっ……!」
妹に指摘されて動揺を隠せない姉は、器用に確信犯である俺だけを睨んでいた。こうなることは最初から判っていたであろうに随分と残念な思考回路である。
「わ、わかったわよ脱ぐわよ……その代わり絶対にこっち見ないでよ!」
「承諾しかねる」
「そこは嘘でもいいから“見ない”って言いなさいよ!」
「正直者なのが俺の取り柄なんだ」
「あんたの正直は少し捻くれてんのよ」
琴音は文句を言いつつも壁の方を向いて水着の紐に手を掛ける。上を外して、下を脱いで、チラチラと此方を確認しながら慎重に脱いでいく様はなんとも形容し難い興奮を覚える。幼女いなかったら理性が千切れていたかもしれない。
そして、全てを脱ぎ去ると脱衣所のカゴに放り込んで琴音は身体を隠しながら俺の背後に回り込んで、運動もしていないのに少し荒い呼吸を繰り返す。
「見るなって言ったでしょバカ!変態!」
「悪い。目を逸らすタイミングを見失ってた」
しかし、敢えて言わせてもらうならば頑張って隠しているというところが逆にエロいとは、心の内に留めておくだけで口には出さなかった。
「それで背中流してくれるんだろ。隠してたら洗えるものも洗えないぞ」
挑発的に誘うと背後の琴音の雰囲気が変わる。
「そう……ね。まずお湯かけるわよ」
「あぁ」
風呂桶を手に取って、琴音が湯船からお湯を掬うとそれを俺の頭上でひっくり返し–––。
「〜〜〜ッッッ!?!?!?」
思わず声にならない悲鳴が漏れた。
「ちょっとどうしたのよ?そんなに熱かった?」
「違う。めちゃくちゃ痛い。染みる!」
桂音にかけるお湯の温度には気をつけていたのでそれはない。だとすると失念していたことが一つ、真夏故の過ちとでも言うべきだろうか。
「あー、日焼けね。あんた日焼け止め塗らなかったの?」
「こうなることを忘れてたんだよ」
子供の頃はよく日焼けして染みる〜とか言いながら風呂に入っていたが、都会ではあまり外で遊ぶ機会もなかったから日焼け止めを塗るという発想がなかったのだ。島にいる時ほど焼ける理由がない故に。もちろん、使う人は使っているが。
「男なら我慢しなさいよ」
「さっきのは不意打ちだから仕方ないだろ」
次は大丈夫なはずだ。
「取り敢えず、髪洗うわよ」
「おう」
間髪入れずに琴音が男用のシャンプーを手に俺の髪を洗おうと身体を近づける。何か背中越しに柔らかな膨らみが当たったり、擦れたり、気にすると終始気になってしまう状況に意識を持っていかれているとすぐに至福の時は終わりを告げた。
「じゃあ、流すわよ」
「……おう」
掛け声と共に髪の泡が洗い流される。即ち、ご褒美タイムの終わりを示していた。なんにせよラッキースケベタイムは終了だ。全然残念だとか思ってないんだからね。
「それじゃあ、今度は背中いくわよ」
「優しくしろよ。間違っても力込めたりなんかはぁぁぁ!?」
言ったそばから背中をたわしで削られたみたいな激痛が走る。思わずのけぞって、椅子から前に四つん這いになって倒れ込む。
「……おまえ何で削った?」
「普通のボディータオルよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないわよ」
「もっと柔らかい材質のやつない?絹みたいな」
「…………ないこともないけど」
相当悩んだ末に琴音は小さな声で呟く。
「でも、絶対に後ろ見ないでね。絶対よ」
続けて念を押した琴音に怪訝な表情で首肯してから、俺は椅子に座り直す。
「そ、その前に桂音をお風呂から出しちゃうわね。のぼせちゃうといけないから」
慌ただしく琴音は桂音を湯船から連れ出すと、すぐに脱衣所で身体を拭いてやり戻ってきた。服を着るくらいは自分でできるらしい。或いは着せた服がワンピースタイプのものだったのか。
「その、一応目を瞑ってくれる?最初だけでいいから」
何を使う気だろうか。少し不安に思いながらも目を閉じる。すると何も見えなくなり、聴覚や嗅覚が過敏に反応を始める。まるで長い時間そうしていたかと思うと、不意に背中に柔らかくて大きなものが押しつけられた。
–––これはまさか?
俺は思考が停止して何も言えなくなる。
琴音も風呂の間、ずっと口を閉ざしたままだった。
何を使ったのかは神のみぞ知る。
これもシュレーディンガーの猫だよね。多分。