懐かしい記憶が目を閉じれば脳裏に過ぎる。鼻先を掠める潮風の匂いが俺を懐かしい気持ちにさせた。あの島では毎日嗅いでいた匂い。久しい感覚に瞼を開ける。
『間も無く、稲荷島です。お降りの際は足元に気をつけ、お忘れ物のないようにご注意下さい』
既に島が見えていた。全体的に大きな島だ。外観は殆ど森ばかりだが四分の一ほどが居住区や港のような人の手が入ったスペースとなっている。山の頂上付近には街を見下ろすように神社の社が見えており、赤い鳥居が見えていた。この島に古くから存在する“稲荷神社”と呼ばれている神社で、正式な名称は長い歴史で失われたとか。
入港した後、停泊した船から降りて夏の日差しに手を翳しながら鬱陶しげに目を細めた。
「帰って来たのか……」
この島を離れて七年程の月日が経っている。それでも変わらずこの島は存在した。懐かしいような感覚に浸りながらも、俺は何処となく寂しさと不安に心が揺れ動いていた。
ずっと帰りたいと思っていた。親の都合でこの島を去ってから、ずっと……。
それがようやく叶ったというのに、俺はこの島に来るのが億劫だった。
「まぁ、取り敢えず宿の確保だよな……」
思考を切り替える。服や何やらをパンパンに詰めたトランクを片手に港を歩く。観光客や本土から島に帰って来た島民達の流れに沿って住宅街に続く坂道を登って行った。
途中、同年代の女子三人組とすれ違う。藍色の髪、茶髪、桃髪の娘達だ。都会とは違った雰囲気の女子達は喋りながら坂を下っていく。その一瞬、目が合った。
「……」
初めて見た気がしない相手だった。でも、誰だか判らず適当に会釈して坂道攻略に戻る。相手もまた笑い掛けてきたが誰だかわかっていないようだった。それもそのはずこの島を離れたのは七年も前、一眼でわかるほど容姿は一緒というわけではない。所々成長しているし身長もかなり伸びている。俺も久しぶりに会っても一目じゃわからない自信がある。
また歩き始める。今度は小学生くらいの子供が駆け回っている姿を目撃した。あの年代だと俺のことなんて全く知らないはずだ。観光客と思ってか、元気に挨拶すると去って行った。
「まるで変わってないな」
島を見た感想は何処か安心した気持ちと共に漏れた。
また歩く。そして、一軒の家の前に辿り着いた。
住宅街から少し外れた位置にある少し大きな古い家だ。
そこが目的の祖父の家だった。
「おーい、祖父さんいるかー?」
古い家だからかインターホンがない。大声で玄関から呼びつけても反応がなかった。仕方なく庭から何までぐるっと見回してみたが人の気配が感じられない。もう何日も帰ってないみたいに……。
「おかしいな。ちょっと聞いてみるか……」
島民ならば全員が顔見知りみたいなものだ。少し歩けば何か当たるだろう、と思って表から十分ほど歩いて住宅街の方に戻ると駄菓子屋についた。少年達が店先でかき氷を頬張っているシーンに出会した。
「なぁ、坊主どもちょっといいか?」
「なに兄ちゃん誰?」
「俺は黒崎のところの親類なんだけど。黒崎の祖父さんが何処にいるか知らないか?」
「え、あの怖い黒崎の爺さんの血縁なの?」
どうやら今も昔も怖いジジイみたいだ。
「そうそう。その怖いジジイだ」
「それなら入院してるよ一年前くらいから」
「はぁ?マジかよ」
まさかあの殺しても死にそうにない祖父が入院。その言葉だけが信じられなかった。教えてくれた子供に礼を言って駄菓子屋を後にする。今度は坂を下って港町の方に足を伸ばし、昔からある病院を訪ねた。受付で看護師に訊ねる。
「黒崎源一郎の病室って何処ですか?」
「黒崎さんの病室……?あなたは……?」
「黒崎圭です」
「え、圭君!?この町に帰って来てたの!?」
「今日、朝の便で」
「よかった。ご家族とは連絡が取れなかったから困っていたのよ。この島の誰も知らないって言うしねぇ。お父さんとお母さんは?」
「色々あって来れません。俺一人です」
「そう……。でも、圭君が来てくれただけでも良かったわ」
そう答えるとちょっと待ってね、と言って調べ始める。すぐに判明したようで『106号室』と教えて貰い、受付を後にしてすぐに向かう。病院の廊下の隅のようで場所はすぐにわかった。
今、突撃する。
「おい、ジジイ」
「ん?誰だノックもせずに……」
扉を開けると個室に一人、ジジイがベッドの上に座っていた。昔、筋肉質で逞しかった姿は見る影もなく痩せ細っているのが一目で判る。相手は俺を一眼睨んで手元にあった枕をぶん投げた。
「このバカ娘が何しに帰ってきた!」
「よく見ろ。男だ。あんたの孫だよ」
真っ直ぐに飛んできた枕を受け止めて下から投げ返す。するとまた投げられる。受ける。投げる、を繰り返して埒があかないので枕を没収する。物理的なキャッチボールをしに来たのではない。
「耄碌したかジジイ」
「ふん。儂はまだこの通りピンピンしとるわ」
「じゃあ、ちゃんと言葉のキャッチボールしてくれ」
「今更、孫が何の用だ」
用がなければこんなところには来ない。と、言いたいところだが一度くらい見舞いはしないといけないという義理もある。俺はこの祖父が大の苦手だった。昔も、今も、頼るのですら嫌なほどに。だが、頼れるのはこの人しかいなかったのだ。
「久しぶりに帰ってきたらそれかよ」
「島を捨てたお前達と交わす言葉は持ち合わせてない」
「別に捨てたくて捨てたわけじゃねぇよ。こうして帰って来た」
「……」
俺の言い分が受け入れられたのか、祖父はそっぽを向きながらも態度を緩和させる。
「あの二人はどうした?」
「残念ながら来ないぞ。親父は都会の女と浮気して離婚、母さんもそのあとどっか消えちまったし俺一人だ」
「あのバカが……。まったく」
「俺は目下検討中。適当にバイトしながら学校に通うことも考えたけど、別にそれほど行きたかった学校じゃなかったし、それなら島に帰ろうかなって思って帰って来たら、ジジイが倒れたって話を聞いてさ」
「娘がバカなせいで、おまえにも迷惑をかけたみたいだな」
「ちょっと困ったけどそれだけだ」
短い会話が終わる。下手したら残りの寿命すら削りそうな内容に祖父は重く溜息を吐いた。
「家は好きにするがいい」
「そうかい。それは良かった」
「その代わり、おまえは黒崎の次期当主としての役目を……」
「わかってるよ。継げって言うんだろ」
祖父の……俺の家は島では割と古い家柄だ。島ではかなりの発言権というか権力を持っており、うちの祖父に逆らえる大人は少ない。そんな古過ぎる家柄のせいか時代錯誤なことまで決められていた。
「おまえは許嫁のことも大事にするんじゃぞ」
「へいへーい」
俺には生まれた時から、将来を約束する相手がいたのだ。
なんとか祖父の小言から解放されて島を歩く。カラッとした日差しの中を歩き、町から外れた山道の中に入る。二十分ほど歩くと小屋が見えてきた。
「まだあるのかよあの小屋……」
かつて、俺が仲間達と秘密基地と呼び集まっていた場所だった。元は祖父の所有物で俺が誕生日プレゼントとして受け取ったものであり、好きに使っていいというから秘密基地に仕立て上げたものだ。外は丁寧に手入れが施されており、蔦や雑草は夏だというのにそれほど蔓延ってはいなかった。所々補修の後がありまだ人が使っている節がある。
「まぁ、誰かと遭遇したらその時はその時だ」
思い切って扉を開ける。常時鍵はしていないため簡単に開いたドアの中に入って中を見回すと昔と変わらない風景が目に飛び込んできた。真ん中にテーブルがあり、何処からか調達して来たソファー、謎のドラム缶が配置されている。最近も使われているようで小屋の中には埃の一つすら見受けられなかった。昔作ったハンモックもそのまま、泊まるためのベッドもある。普通に雨風を凌げるなら宿としても使えそうだ。
「夏なんだし、誰もいるわけもないか」
普段、使っていたとして。島民であらば夏は自由に海で遊ぶことが出来る。島という絶好の環境を利用しない手はなく、浜辺で水遊びでもしていることだろう。そのいない可能性に賭けて俺は懐かしい場所を一人で巡っていた。
「さて、次の場所に行くか」
あまり長居しすぎて誰かと鉢合わせるのも嫌だ。まだ心の準備ができていない。
俺は小屋を後にして、道から外れた森の中へ足を踏み出した。道なき道をただ進む。木々の間を擦り抜けて、倒木を踏み越え、急斜面を駆け上がって前に進む。蝉の煩い鳴き声が耳を劈く大合唱を響かせるがそれですら懐かしい気持ちになっていく。
童心に帰って山の中を駆け抜けると突然、草原のような場所に出た。泉の中に小高い丘のような浮島、中心に大木が一本生えている。あれこそがこの島の御神木だ。
そこまで行って、木陰に寝転ぶ。
「此処ならいい気分で眠れそうだな」
昔から好きな場所だった。
目を閉じて、思考の海に意識を落とす。
再会した時、あいつらになんて言おうか。
考えている途中で、意識が途切れた。