気がつけば見慣れた森の中にいた。
何処かで見た懐かしい風景。
そして、それが夢だと気づくのにそう時間は掛からなかった。
「それじゃあ、団長が鬼な」
「えー、また俺が鬼かよ」
「いや、だってリーダーが鬼ごっこで逃げる方やると誰にも捕まえられないし……」
目の前には幼馴染達がいて、その姿は妙に小さい。時期的にはおそらく小学四年生よりも前だ。圭が島から出て行ったのは小学四年生の時、そしてもう一つ判断材料があるとするならば、半袖短パンの圭の腕には爪痕がなく、事件のあった小学三年生の頃よりちょっと前だと思う。
だけど、あたしは確証があって断言する。
“あの日”だ。
よく覚えてる。忘れるはずがない。
今日は、あの日だ。
「まぁいいや。十分以内に捕まったやつ罰ゲームな」
「三十秒数えろよ団長!」
「是非もなし!」
「今日こそは逆に圭君に罰ゲームしてあげるからね!」
「全員捕まえられなかったらあんたが罰ゲームよ」
木を背に寄り掛かると数を数え始める圭。あたし達はみんな、それを確認すると我先にと逃げ出していく。全員がバラバラな方へ。じゃないとすぐに捕まってしまうから。
森や山の中では圭はとにかく速い。鬼ごっこで鬼になれば逃げられる者はおらず、逆に逃げれば捕まえられる者がいないほどだ。だから圭が逃げる場合は時間制限を設ける。
「よし、ここで二手に分かれよう」
「亮介と真広はそっちね」
逃げ出して圭から見えない場所に来るとすぐに男女に分かれてさらに逃げる。
「もう三十秒経ったかな」
「かなり遠くに来たはずだけど、まだ油断はできないわね」
「じゃあ、ここで分かれる?」
いつも通り分かれて隠れようとした、その瞬間だった。ガサガサという音が近くから聞こえて二人の間に緊張が走った。
「嘘っ、もう追いつかれたの!?」
「いくら圭君でもそんなはずは……」
気になって息を潜めてみれば、動物達の鳴き声が聞こえた気がした。
「キュケーン!」
「グオォッ、フッシュルゥゥ!」
よく聞き慣れた狐の鳴き声と、聞き慣れない獰猛な野獣の声。
あたし達はそっと草葉の陰から顔を出して、音のする方へ視線を巡らせてみた。
「クォーン!」
森の中にはまるで逃げ出すように走り回る狐達の姿があって、その奥には何やら大きな獣が小さな穴に腕を突っ込んでいた。その獣は稲荷島に生息する獣ではなく、その姿は一度目にしたことがある。
あれは小学二年生の頃、学校の行事で行った動物園でのことだ。あの大きな獣の名は“クマ”。たまに稲荷島に“餌”を求めてやってくるらしく、森や山で遭遇したらすぐに逃げるようにと教わった獣だ。でも、してはいけないのが背中を見せること、走ること、となんだか矛盾した内容だったのを覚えてる。
その獣が、稲荷島にいる。
大人達曰く、あれは狐を求めてやってくるらしい。
人間を襲うこともある、とも言っていた。
その話の通り、小さな穴から腕を引き出したクマの爪には……狐が一匹捕らえられていた。
「ど、どうしよう、気づかれる前に早く逃げないと!」
「そ、そうね、まずは圭達に知らせて、それで……!」
–––パキン。
圭達と合流しようと踵を返した時、枝が折れるような乾いた音が鳴った。不注意にもあたしが踏んだ枝が折れた音だった。そう自覚した途端に身体から嫌な汗が流れる。
「あ……」
振り返った茂みの奥で、クマが此方を見ていた。その口には赤黒く染まった獲物を咥えながら、新たな獲物となったあたし達を見ている。
「い、いやあああぁぁぁぁぁぁ!!」
あたし達は気が動転してクマに背を向けて走った。
すぐ後ろをガサガサと何かが追ってくる。
怖くて振り向けない。あたし達はただ真っ直ぐ逃げた。
逃げて、逃げて……。
焦っていたからか、木の根に躓く。
「きゃっ!」
「琴音ちゃん!?」
転んだ拍子に手のひらを擦りむいて、膝にも鈍い痛みが走って、立ち上がろうとした時には草木を掻き分けるような音が背後まで迫り、クマの巨体が姿を現した。
「「あっ……」」
逃げた。必死に逃げたけどすぐに追いつかれてしまった。相手は野生の獣、それに比べてあたし達はただの人間。逃げられるはずもなく、この後の展開が容易に想像できてしまい、身体の奥から震えがくる。
–––ポキン。
枝の折れたような音……いや、これはあたしの心が折れた音だ。
「フスフスッ」
鼻を鳴らしながらゆっくりとクマは近寄って来る。
口から涎を垂らして、あたしに襲い掛かろうとした瞬間、あたしの脳裏には癪だけどあいつのことしか浮かばなかった。
あいつならなんとかしてくれるって、根拠もなしにそう思った。
あたしを助けてくれる、って信じて。
「––助けて、圭!」
「オラァッ!」
名前を呼んだ刹那、木の上から何かが落ちてくる。それはクマの脳天に文字通りのドロップキックを喰らわして、僅かに怯んだ隙にあたしの腕を掴むとそのまま横抱きにして駆け出した。
「美咲逃げるぞ!」
「う、うん!」
あたしを抱えて走る圭の後を美咲がついてくる。
微かに安心感を覚えながら、自分のことは棚に上げて苦言を呈した。
「クマに背中向けて逃げちゃってどうすんのよ!」
「うるせぇ!蹴ったら一緒だろ!」
ガサガサ。
「ちょっともう追ってきてるわよ!」
「文句があるなら自分で走れ!重いんだよ!」
「はぁ!?重くないし!」
「もー、圭君ってば女の子相手にデリカシーないよ」
「デリカシー一つでクマから逃げられるなら今すぐ習得してやるよ」
お荷物なあたしを抱えながらも圭は木々の間を縫うように走る。でも、流石に人を抱えているだけあって美咲と同じくらいの速度しか出せていなかった。
「あ、前に二人がいるよ!」
逃げている最中に前方でさっき別れた二人の少年の姿が視界に入る。亮介と真広の二人はこんなところにいたようだ。
「げ、団長もう追い付いたのかよ!?」
「だが捕まるわけにはいかない!」
まだ二人は鬼ごっこが続いていると思っているようだ。そんな場合ではないのに。
「逃げて二人とも!」
「言われずとも今日こそは団長から逃げ切ってやるぜ!」
「相手に不覚なし!」
「そんなこといいから早く逃げろおまえら」
圭はそう言いながら、もたついていた二人を追い越した。
「グオォッ!!!!」
その間に草木を薙ぎ倒しながら姿を現した一匹の猛獣。クマを見て、二人が顔面を蒼白にさせる。
「「ぎゃあああああぁぁぁぁ!?!?」」
五人揃って追ってくるクマから逃げる。亮介は並走しながら、状況の説明を求めた。
「何あれ!?なにアレ!?ナニアレ!?」
「気がついたら鬼ごっこの鬼がクマになってたんだよ」
「そんなリアルな鬼ごっこある!?」
「大丈夫だって、ちゃんとタッチはしたから」
「リーダーが鬼の場合は鬼は固定で全員を捕まえるまで、ってのがお約束だろう!」
「っていうか、タッチしたのかよリーダー!?」
「事故だよ。つか、蹴った」
涼しい顔で言い放つ圭に亮介と真広が目を見開く。
「なんで蹴っちゃったの団長!?」
「仕方ねぇだろ。琴音が喰われる寸前だったんだから」
「やだ、俺たちのリーダーカッコいい」
「美咲、琴音、こいつ餌にしよう。なんかきもい」
軽口を叩き合いながら森を駆ける。森、というか斜面だ。実はまだ山の部分で緩やかな斜面を下っていて、転べば簡単には立ち上がれないほどのダメージを受けることになる。それが何を意味するのかはよくわかっていた。
「でも、このまま住宅街まで逃げ切れれば民家に駆け込んでなんとかなるかも!」
「そうだな。逃げ切れればな」
希望を見出したあたしの意見を真っ向から圧し折る圭は、額から汗を流しながら言った。
「本当なら既に俺達はクマの腹ん中だ。逃げられてるのは、狩りを楽しんでるんだよ。つまり、弄ばれてるってこと」
「なんであんたこういう時に限って絶望の底に叩き落とそうとするのよ!」
「事実だし仕方ないだろ」
あたしはすぐにでも確認しようと圭に抱えられながら背後を振り返った。すると茂みや木々の奥から覗く二つの獰猛な目と合い、背筋が寒くなっていくのを感じて、一瞬呼吸をするのも忘れてしまう。
「ちょっ、ちょっともうすぐそこまで迫ってるんだけど!」
「このままじゃ間違いなくみんな仲良くクマの腹の中だな」
「悠長なこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「そうだぞ団長。このままだと琴音嬢と墓まで一緒だぞ!」
まぁ確かに圭とは許婚だし墓まで一緒なのだろう。それは嫌だと思っていたけど、それがクマの腹の中とか冗談じゃない。
「何上手いこと言ったみたいな顔してんのよ!」
「圭君何かないの!」
もう限界なのか、足が遅くなった美咲が荒い呼吸をしながら縋る。それに対して圭はあくまで冷静だった。
「……あるぞ」
圭は言う。クマから無事に逃げ延びる方法があると。そこに僅かな希望を見出し、苦しそうだった美咲の顔が僅かに明るくなる。
「ただし最悪の場合一人が犠牲になるけどな」
後から付け足された内容に沈黙が降りた。しかし、そんな状況下でも圭は淡々と告げる。
「誰か一人が囮になってクマの餌になる。そうすりゃ他の四人は助かるだろ」
「ふざけたこと言わないでよ!」
「じゃあ、おまえが何か代わりの案を出せるのか?」
誰も何も言えなかった。他に思いつく方法なんてなかったのだ。
「確率は五分の一、誰が餌になっても恨みっこなしだ。いいな」
圭は減速しながらあたしをそっと下ろした。そして、全員が無言で頷く。
「絶対に振り返るな。住宅街まで走り切れ。よし、行くぞ」
順当にいけば一番足の遅いあたしか美咲が餌だ。だから、あたしと美咲は必死で走った。
逃げて、逃げて、山を駆け抜けた。
そして、舗装されたアスファルトの道に出た所で一緒に逃げていた美咲と抱き合って喜んだ。
良かった。助かった。なんて泣きながら……同時に森や山から抜けられた安心感で膝から崩れ落ち、荒い呼吸を整えながら周囲を確認する。
「圭達は……?」
「ほら、亮介君達ならあそこ」
美咲に言われて山から出た少し先を見ると亮介と真広の姿が見えた。そう、二人の姿だけ。
「ねぇ、圭は?」
程なくして駆け寄って来た二人に問う。
どうせあいつのことだから先に逃げたに違いない。
そう思っていたけど、二人は首を傾げて問い返した。
「あれ、琴音嬢達と一緒じゃねぇの?」
告げられた言葉にあたしは怪訝な表情を返す。
あたし達は一緒じゃない。あいつらもだ。
極めつけに真広は言った。
「そもそも俺達はリーダーが前を走らないから、倉科達と走っていたものだと思っていたんだが……」
「えっ?」
–––嫌な予感がした。
「まさか……」
圭は言っていた。「誰か一人が囮になる」「確率は五分の一」それで恨みっこなしだと。そこでいつものあいつならこう言ったはずなのだ。「俺が囮になる」と。もちろんそんな提案をあたし達は受け入れない。だから、それがわかっていて……わざと提案しなかった。その可能性が脳裏を掠めて、あたしの中で激情が燃える。
「ふざっけんじゃないわよ!何が確率は五分の一よ!真っ赤な嘘じゃない!」
これじゃあまるで必死で逃げたあたし達がバカみたいだ。仲間を一人犠牲にして、逃げた最低な連中じゃない。
「絶対に振り返るなってそういうことだったの!?」
あいつは自ら囮になることを悟られないように、振り返るなって言ったんだ。
「無事ならさっさと出て来なさいよバカぁ!」
あたしの慟哭に返事はない。森は静まり返っていた。あいつが暢気な顔して出てくることもなかった。
それから十分くらい待っただろうか。突然、茂みが揺れた。警戒していると茂みから一匹の狐が飛び出した。
「コン」
そんな風に鳴いたと思う。何かを待っているかのように山に視線を返し、その茂みの奥からまたガサガサと音がすると、ゆらりと姿を現したのはあいつだった。
「け、圭君!?」
ただ、あいつは血だらけだった。
腕からは血が止めどなく溢れて、着ているシャツは所々破れていた。
あまりにも無事とは言えない姿だが、圭は何食わぬ顔で山から出て来た。
「え、え、えぇ、どうしよう血が!」
慌てふためく美咲がなんとか止血を試みるもただ圭の血で汚れているだけだった。
「取り敢えず、亮介と真広は役所に行ってクマが出たことを知らせて来い。他に犠牲者が出ると不味いからな」
「わかった!」
すぐに亮介と真広は役所の方に走って行く。その姿を見送って、圭はあたし達にも告げた。
「おまえらももう帰れ。危ないから」
「あ、あんたはどうするのよ」
「帰る」
「診療所が先でしょバカなの!?」
圭は無言で歩いていく。その足元は覚束ずふらふらで今にも倒れそう。そう思った時には、あたしは彼の身体を支えるように歩いていた。
「……何してんだよ」
「だって、このまま一人で帰すと倒れそうなんだもん」
あたしと美咲は邪険にされながらも圭を支えた。そして、診療所に入った瞬間、彼は糸がぷつりと切れたように倒れた。