本土の病院の一室。
「ねぇ、琴音。この子の名前は何がいいと思う?」
八月のとある日、妊娠して大きくなったお腹を撫でながらママがそうあたしに問いかけた。
「まだ決めてないの?」
「琴音の名前だって悩んだ末に決めたのよ?」
「威張らないでよ。もう、候補の一つくらいはあるんでしょ」
「それがまったく」
出産予定日までもうすぐだというのに候補の一つも思いついていないらしく、ママは楽しそうに言うのだ。そして、数秒ほど逡巡するといきなりこんなことを言い出す。
「そうだ。琴音が決めてみたら?」
「え、あたしが?」
そう言われて少し考えてみるが、さっぱり思いつかない。
「うーん。……ね、……ね?」
あたしの名前が『琴音』だから、どちらかがついた名前がいいかもと思って考えてみるも中々に難しい。
「ねぇ、あたしの名前はなんで琴音に決まったの?」
今更ながらそんな質問をしてみる。するとママは何も考えていない顔で「そうね」と言いながら天井を見上げた。
「琴の音色って綺麗でしょ。そんな感じ」
「……え、それだけ?」
「そんなものよ子供の名前を決める理由なんて」
ママは人に教えるのが苦手なタイプだった。所謂、感覚派というやつで料理を教える時もこう切るのよとか、こうすればできるんじゃないとか説明を苦手とする人で、直感的なところがあるのだ。
「それに鈴白琴音って名前の響きがなんか素敵じゃない?」
–––ほら、こういう人だ。
「パパは何も言ってなかったの?」
「あの人完全に名前のこと忘れてるわね」
妹の名前の候補について夫婦で談義してもいいと思うのだが、
「っていうか、私も忘れてたのよね」
お互いに忘れていたらしい。
どこか抜けているというかなんというか……。
「なんで誰も気づかなかったのよ……」
あたしも妹か弟ができると知って浮かれていたから、名前のことなんて頭の片隅にもなかった。一言聞けば良かったのに。
「まぁ、それもそうだけど。体調は大丈夫なの?」
「心配しなくても大丈夫よ」
大丈夫なんかじゃない。体調を崩したから病院にいるのだが、ママはあっけらかんと笑ってみせた。その姿にほっとしてあたしも表情を弛緩させる。
「そう。ならいいんだけど」
あたしには経験がないからわからない。でも、あたしが生まれた時だって体調を崩したと言っていたから大丈夫なんだろう。そう思えば一気に不安は晴れた。
「じゃあ、あたし島に帰るね」
「琴音」
「なに?」
「この子の名前、ちゃんと決めといてね。お姉ちゃん」
「うん」
–––これがママとあたしの最後の会話だった。
◇
曇天から大粒の雨が降っている。その雨の中、傘を差した人々が続々と列をなしていた。全身真っ黒の喪服に身を包んだ人達は口々にママの死を嘆きながら、葬儀に参列していた。
「琴音ちゃん大丈夫?」
「妹さんが生まれたばかりだというのに……」
「昔から病弱だったからねぇ」
「まさか、こんなに早く……」
嘆きの声は雨の音に紛れノイズのように耳を通り過ぎていく。ただあたしは呆然と葬儀に参加するばかりでまだ心の整理がついていなかった。信じられなかったのだ。ママの死が。
「琴音嬢……」
「琴音先輩、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫なわけないだろう。今はそっとしておいてやれ」
「うん。その方がいいね」
四人の声も僅かに聴こえてはいたが、近寄ってまで話をする気分ではなかった。
「おまえも余計なことはするなよ。龍之介」
「……僕達に何かできることはないのか?」
「まぁ団長ならきっと何かできたんだろうけどな」
「俺たちはリーダーほど器用でもなければ、お嬢の多くを知っているわけではないしな」
そうだ。あいつがいたらあたしに何をしてくれた?
圭はきっと無神経なフリをしてあたしに話し掛けて。ママの死には触れず何か適当なことでも言い出すんだろう。それでわざとあたしと喧嘩したりして、いつも通りに接してくれるのだ。
……なんとなくそんな気がした。
「……圭なら、こんな時どうするかな?」
そう考えると少しだけ視野が広くなった気がした。今まで見えていた景色が僅かに開けて、葬儀場の全体の情報がやっと入ってくるようになった。
「圭なら……」
『なぁ、こいつなんて名前なんだ?』そう聞いて、勝手に赤ん坊の面倒を見てしまうのだろう。頼んでもいないのに。
そういえばその赤子の姿を見ていない気がする。何処かで泣き声は聞いたはずなのに姿を見た記憶があまりないのだ。妹が生まれてくるのを望んでいたはずなのに。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、今はそれすらもわからず胸が痛い。
雨の中を傘も差さず、あたしは曇天を見上げた。雨音が、身体を濡らす雨の温度が、まるで心に染み込むように消えていくその感覚が心地良くて、ただ呆然と突っ立って。
あたしは決意する。
◇
ママの葬儀が終わった後のあたしの日常は劇的に変化した。学校が終わればすぐに家に帰って家の手伝いをすることにしたのだ。掃除に洗濯、食事の準備とママのやっていたことを全部。
最初の一年は大変だった。
夜は妹の夜泣きに起こされるし、なんで泣いているのか判らなくておばあちゃんに頼りっぱなしで。ママの代わりになれているとはとても言えない状況だった。
中学生になると勉強も難しくなってくる。家事と妹の世話と勉強の両立は大変で成績が中々上がらないことだってあった。
中学時代最後の一年になると受験が近づいてくる。あたしは修学旅行にも行かぬまま妹の世話をするためにわざと病欠した。妹もすくすくと成長しているとはいえど、自分で歩けるようになると興味のあるものに吸い寄せられるせいか目を離すと危なっかしいのだ。気が気でない。
なんとか受験勉強を終えたと思ったら次は高校生だ。その頃からだろうか、妙に男性–––男子生徒に話しかけられることが多くなった。それも初めて話したような相手に告白されるような日々。当然、あたしは許婚がいるからと断った。しかし、それでも諦めの悪い人達は何故か口説こうとしてくる。勉強と家事で忙しくて、相手にしている暇もないのに。
同じクラスの女子生徒達は口々に言う。あんなかっこいい人振るなんて勿体無いと。
あたしからすれば、圭と比べて見劣りする連中と付き合うという発想がないわけで、むしろ要らないからどうぞ貰っていって下さいって言いたいくらいなのだ。
どちらかと言えば興味があるのは教室内で聞こえてくる最近の流行りの化粧品や下着、喫茶店とかの話で、だけどそんな店に友達と行っている暇もないのだ。
駅前の話題に上がった洋菓子店を通った時、あたしはいつも思う。
「……あたしも女子高生らしいことがしてみたかったな」
なんて誰に聞かせるわけでもないけれど。少しだけ羨ましく思ったりもするのだ。たまに智代子や美咲に誘われて寄り道をするけど、それこそほんの少しの時間だけだ。あの二人はあたしに融通を利かせてくれるから。
「あたし、何やってるんだろ」
普通の女子高生になりたい。放課後を友達と過ごしたり、恋をしたり、部活をしたり、まるであいつがいた日のような楽しい日々を。そんな毎日を望んでいる。
本当は今すぐにでも投げ出したかった。
もう疲れたって言いたかった。
誰かに代わって欲しかった。
だけどあたしは桂音の姉なのだ。
そんなの許されるはずがない。
頼るべき相手もいなくて。弱音を吐けるわけもなくて。
縋りたい相手は何処へ行ってしまったのか。あいつの名前を囁くように口にするたび、胸が痛くなる。
「……早く帰ってきなさいよバカ」
届かない願いを口にして、ショーウィンドウに映ったあたしの顔は酷く歪だった。