蝉の大合唱に僅かな抵抗をするために、寝返りを打とうした身体が動かない。
「ぅん……?」
情けない猫のような声を上げて、薄く瞼を開けるとそこにはあったのは人の影。見慣れた天井の一つ前、見慣れた女性が寝ている俺の顔を覗き込んでいる。天幕のように垂れた薄い桃色の髪が頰を擽り、彼女の吐息が妙に熱を帯びていて色っぽい。彼女は俺の胴に跨って、朝っぱらから何をしているのだろうか?
「おはよう、圭君」
「あぁ…おはよぅ…美咲」
寝起きと夏の暑さに茹だる脳でなんとか返事をするが、目を覚ますには時間が必要なようだ。
「……なにしてるんだ?」
「ボク?圭君の寝顔見てたけど」
「そうか。琴音は?」
そんなことしていてあいつが許すだろうか、いや許さないと結論づけて問えば、彼女は悪びれた様子もなくこう答える。
「琴音ちゃんは朝食の材料の買い出し。その隙に忍び込んだんだ。鍵開いてたし」
「いや、もうそれ開くの待ってただろ」
「えへへー☆」
笑って誤魔化す美咲に俺は何も言えない。特に言うこともなかった。美咲が忍び込んだところで、不都合なことは何もない。
「ねぇ、圭君」
「なんだー?」
「大好き」
「俺も好きだぞ」
「じゃあ、これにサインしてくれる?」
そう言って脈絡もない告白から美咲は胸の谷間に指を差し入れ、取り出したのは折り畳まれたA 3サイズの赤い紙。赤い鳥居や狐が描かれたこの島限定の婚姻届である。
「どこに隠してんだよ」
「男の子はこういうのが好きでしょ?」
「まぁ、否定はしないが、特に好きというわけでもないなぁ」
婚姻届にサインはちょっと重いなぁ、と思っているとすぐにその紙は彼女は傍に置いていたバッグに仕舞う。
「やだなー、冗談だよー」
「冗談に聞こえなかったんだが」
「それはそうとさ、圭君」
「ん?」
「琴音ちゃんと何かあったの?」
そっちが本題だったようで、のほほんとした雰囲気を崩さず声色が僅かばかり真剣みを帯びる。眼差しは変わらず妖艶な色を秘めていて、見つめていると引き込まれそうだった。
「さて、なんのことやら」
「だって昨日、絶対おかしかったよね?一緒に本土に行った時もそうだったけど、決め手は島に帰ってきて圭君と琴音ちゃんが対面した時かな?」
「別に何もないぞ。何も」
「何もなかったら琴音ちゃん、あんな風に恥ずかしがることないと思うんだけど」
–––正論だ。何も言い返せない。
「ボクにも秘密なの?」
悲しそうな目で見下ろしてくる。
上目遣いなら、陥落していたところだ。
「うっ……いや、別にそれほど面白い話でもないぞ?」
「ふーん。そこまで隠すならこっちにも考えがあるんだけど」
「ほう、どんな手だ?」
「色仕掛けで口を割ります」
彼女はいつぞやのように自らの服に手を掛けて、白い肌、臍がゆっくりと顔を出し–––。
「なぁーにやってるのかしら?」
黒の大人っぽいブラがちらりと見えたところで、第三者の手によって止められた。
「あれ?随分早かったね?あと三十分は戻ってこない計算なのに」
「嫌な予感がして早めに帰ってきたのよ。おかげで汗でベタベタよ」
服を脱ぎ掛けた美咲の背後には、向日葵も枯れ落ちそうないい笑顔を浮かべた琴音が、ビニール袋を携えて立っていた。中身は鮮度抜群の魚介類。あの大きさなら殴打するだけで十分な凶器になる。
ちなみに琴音の着たシャツは汗で濡れて肌に張り付き、下着の色や身体のラインが浮き彫りで目のやりどころに困る惨状であった。仮にも許婚としては複雑な心境だ。
「あーあ、あと一歩のところだったのに」
残念そうに美咲はそう言いながら、俺に覆い被さった。
おっぱいをむぎゅむぎゅと押し付けられて、視界が塞がれる。
「–––って、あんた油断も隙もないわね!?」
「いいでしょこれくらい。琴音ちゃんは毎日してるんだから」
「してないわよ!」
息ができない。もごもごとおっぱいに溺れていると、どたばたと暴れる音が聞こえて、ようやく剥がされたかと思えば美咲は不満そうな顔でぷくーと頰を膨らませている。
「ねぇ、琴音ちゃん。昨日、圭君への態度が変だったけどなにかあったの?」
「へっ!?べ、別になにもないわよ……」
羽交い締めにされたまま美咲は追求する。目に見えて動揺した琴音の顔は見られていないが、美咲が疑いを持つには十分だった。
「怪しい」
「あ、怪しくなんてないわよ」
目が泳いでいる。琴音は必死に誤魔化そうとしているが、美咲も諦めなかった。疑いは確信へと変わっている。ならば、あとはその秘密を暴くだけだ。
美咲相手なら話してもいい気がするが、恋敵としては知られたくない情報だったりするのだろうか。
「昨日おかしかったんだから、一昨日の夜になにかあったんだよね?圭君、琴音ちゃんにえっちなことした?」
「それはまぁ、人によるんじゃないか」
「あ、やっぱり。圭君えっちなこと琴音ちゃんにしたんだー!」
許婚とお風呂に入るのが“エッチ”だと言うのなら、間違いなくえっちだろう。異性と風呂に入るのは間違いなくエッチだ。俺はそう思う。
「……で、具体的にはなにをしたの?」
「一緒にお風呂に入ったな」
「じゃあ、ボクも圭君と一緒にお風呂に入ろうかな」
「ダ、ダメに決まってるでしょ!」
異性とお風呂に入る抵抗はないのか、美咲は顔色も変えずにそう言った。
それを阻止しようとする琴音だが、美咲がその程度で止まるだろうか?
「なんでダメなの?」
「な、なんでって普通ダメでしょ!」
「一回も二回も変わらないと思うけど」
「……は?」
美咲の突然の暴露に、琴音の視線が刃物のような鋭さを帯びた。
「ねぇ、圭……どぉいうことなのか説明してくれるかしら?」
どういうこともなにも事実である。一度、美咲と風呂に入ったことはある。付け加えるなら、だいぶ古い話で小学校に上がる少し前だったから……。
「と言っても小さい頃だぞ。桂音くらいの」
「あたしが初めてじゃなかったのね!?道理であんた手慣れてると思ったわよ!」
それでも許されざる罪らしく、琴音は激昂し吠えた。
「いや、ノーカンだろ?」
桂音ともお風呂に入ったし。それにあの頃は琴音は俺のこと嫌ってたと思うのだが。その点、美咲からの好意も小さいものであったと思う。それに一緒に風呂に入ったのも半分事故だ。
「いやいや、乙女の裸を見た罪は重いよ圭君。ボクはあの時、圭君との結婚を決めたんだからね」
「その理屈だと、俺は桂音とも結婚しなきゃいけなくなるんだが」
美咲の主張を受け入れたなら、俺は琴音、桂音、美咲と結婚しなきゃいけなくなる。男的には嬉しいが財政的にも法律的にも厳しいと言わざるを得ない。最終手段として、重婚OKな国に移住したらどうにかなるかもしれないが。
「……でも、その程度で琴音ちゃんと圭君の仲が気まずくなるかな?」
恋敵に隙あらばいつでも奪うぞ、と挑発的な意味も含めた笑みを浮かべて羽交い締めにしている琴音へと振り向く。美咲の真っ直ぐな視線に気圧されて、琴音は激しく動揺する。
「だ、だって、恥ずかしいじゃない。その……全部、見られちゃうわけだし」
俺の脳内フォルダには余すことなく琴音の裸が焼き付いている。ただ、思い出すととある生理現象を引き起こしそうなので、頭の片隅に押し込めておいた。
「……まぁ、そういうことにしておこうかな」
まるで諦めちゃいない様子で美咲は琴音の拘束から脱する。その瞳には、「圭君教えてね」と執念深い意志が宿っており、ついでに言えばそれは俺に向けられていた。
「じゃあ、デートしよっか圭君」
「な、ダメよ、圭には用事があるから」
「それってどんな用事?」
「圭には昨日、一緒にいられなかった分、あたしと一緒にいなきゃいけない義務があるんだから」
そんな義務があるとは初耳である。否とは言わぬが、状況が状況なだけにどっちの意見も採用しづらい。
「それって琴音ちゃんが圭君と顔合わせるのが気まずくて、本土に用事があるって逃げたからだよね」
「うっ……。別に、逃げたわけじゃ……」
図星だったのだろう。やや視線が下に落ちて、スッと逸らされる。
「じゃあ、勝負しようよ」
「勝負?」
「今日、圭君とデートする権利を賭けて」
「……わかったわよ。で、何で勝負するの?」
「料理対決」
斯くして、第二回台所戦争が行われることとなった。
前回同様互いに一品ずつ料理を作り、勝者を決めるという料理対決。選択を誤れば角が立ち今後を左右してしまう大事なこの一戦。俺はどうすれば丸く治るかなー、なんて考えながら二人が料理を運んでくるのを待っていた。
三十分ほどすると、まず炊かれた白米と味噌汁が運ばれてくる。わかめと豆腐を使ったオーソドックスなタイプで、白味噌を使った味の薄いタイプだ。他にもキノコが入っており、味噌汁の匂いだけで気持ちが安らぐ気がする。
「じゃあ、まずはあたしから」
二人が作ったメイン以外の配膳を終えて、琴音が持ってきた大皿に載っていたのはナスと水菜、ツナを和えて炒めたさっぱりしたメニューである。朝から重くない、ちょうどいい品と言えるだろう。
「ボクのはこれね」
遅れてやってきた美咲が持っていたのは、小鉢だ。入っていたのはタコと海藻、胡瓜を酢で味付けした酢の物。同じく朝から胃に優しい料理である。
「それじゃあ、いただきます」
手始めに琴音の料理に箸を伸ばす。そうして皿に箸を向けるとひょいと避けるように、皿が横に移動した。その犯人の手を見て、辿ると暫し見つめ合う。琴音は自らの箸に自分の料理を携えて、ゆっくりとこちらに向けた。
「はい、あーん」
「ぁ……もぐもぐ」
いちいち突っ込むと料理が冷めるので食べさせられたことはスルーしておく。こうなると美咲も同じ手を使ってくるだろうと予感めいたものを感じながら、俺は黙って咀嚼した。
「うん、美味い」
「あんたナス好きだもんね」
好物ばかりが入った料理だ。嫌いなわけがない。その点、俺が好きな料理を飽きが来ないように作れる琴音のお嫁さんとしての力量を褒めるべきか、好物を作って確実に勝ちに来ようとしている狡賢さには呆れてものも言えない。主に胃袋が掴まれているという意味では、文句も言えないだろう。
味噌汁と白米を交互に食べて人心地ついたところで、今度は美咲の料理だ。
「はい、圭君。あーん」
絶妙なタイミングで美咲が自分の料理を箸で摘み、俺の口へと運ぶ。タコの弾力のある食感と胡瓜のコリコリした食感が酢でさっぱりとした味付けにされており、いくらでも食べられそうである。散りばめられたシラスもいい味を出しており、酢が強すぎない程よい酸味があるいい品だ。
–––どちらも甲乙つけ難い。
また白米と味噌汁、二人の作った料理を楽しんでいると皿が空になる。
「それで圭はどっちを選ぶの?」
琴音を選ぶか、美咲を選ぶか、みたいな選択肢を突きつけてくるのはやめてほしい。これはあくまで料理勝負である。
「ボクとデートだよね?」
首を僅かに傾けて、胸をちゃぶ台に載せるというなんとも羨まけしからん光景に一瞬視線が奪われる。が、なんとか視線を美咲のおっぱいから引き剥がした。
「美咲の勝ち」
「やったぁ!」
「え、ちょっと、なんでよ!?」
喜び拳を掲げる美咲と、納得がいかない様子の琴音。
一応言っておくが、色仕掛けに負けたわけではない。
あくまで厳正な審査の結果である。
「そりゃあ朝からどっちを食べたいかって言われたら……なぁ」
さっぱりしていて食べやすい美咲の料理になるのは当然だ。料理の腕は互角、とくれば判断基準は他のポイントになるであろう。好物を出しとけば勝てる、なんてことはないのである。