「うわぁぁぁーーーん!!!」
ある晴れた日のこと、泣きじゃくる女の子がいた。
桃色のショートカット、Tシャツにホットパンツ。一見、男の子に見間違うその子は、間違いなく幼いボクだ。
小学校に上がるよりも、前の事だっただろうか。
その日のことはよく覚えている。雨上がりの晴れた日。お気に入りのぬいぐるみを持って散歩に出掛けた矢先、意地悪な男の子にぬいぐるみを奪られて、泣いていたのだ。
–––思い出すとなんだか少し悲しい気持ちになって、同時に懐かしさと切なさが押し寄せてくる。
だってこの日は、ボクにとって特別な日だったから。
「返してよぉー!」
泣きながらボクはぬいぐるみを奪った男の子に抗議をする。が、その男の子は返してくれなかった。
「悔しかったら取り返してみろよ。パス」
「ほいきた」
そう言って男の子はもう一人の男の子にぬいぐるみを投げる。受け取った男の子その2がもう一度投げて、最初の男の子に投げ渡す。そうすれば右に左にボクは右往左往するままで、転けたりして、届きそうで届かない距離に涙が溢れていく。
「ほらよ」
「うぉっ、って、あっ……」
そんな応酬を重ねていくうちに、男の子の投げたぬいぐるみが宙を舞う。それを受け取ろうとした男の子が、受け取り損ねて水溜りの中に落としてしまったのだ。
「う、うぇぇぇぇぇーーーん!!」
お母さんに買ってもらったばかりのお気に入りのぬいぐるみ。それが水溜りに落ちて、汚れて、ボクは大泣きする。
「やっべ」
「ど、どうする?」
「どうするって……おまえが落としたのが悪いんだろ!」
「それなら奪ったかっちゃんが!」
そこまでやるつもりはなかったのだろう。二人は責任の押し付け合いを始めて、どっちが悪いと仲間割れする。
「おらぁぁぁ!」
その時、仲間割れをしていた男の子の一人に、背後から強襲した男の子がいた。ぬいぐるみが落ちた水溜まりとは別の水溜まりに意地悪な男の子を押し倒して、そのまま乱闘を始めてしまった。
「いててっ、なんだこいつ!?」
「弱い者いじめする悪者には正義の鉄槌を!」
日曜の朝にやっている特撮物のヒーローが言うセリフを吐きながら、彼はそのまま拳を振り上げる。
「不意打ちして一方的に殴る奴はヒーローじゃない!」
「うるせぇ!二対一の方が卑怯だろ!それにじいちゃんが言ってた!言って聞かせてわからない馬鹿は殴るしかないって!」
罵り合いながら喧嘩を始めてしまった二人に、背後からもう一人の意地悪な男の子が迫る。しかし、そんな彼に魔の手が届くことはなかった。
「こいつ……あべっ!?」
後ろから割り込んだ男の子に迫ろうとした刹那、足元にいた白い狐にサンダルを噛まれて転び、地面に顔面を強打してしまったのだ。意地悪な男の子まで泣き出してしまう。
「ちくしょう逃げるぞ!」
「お、覚えてろよー!」
「あ、待て逃げんな!こっちこそ顔覚えたかんな!逃げられると思うなよ!」
意地悪な男の子二人を追い払ったボクのヒーローは、追いかけようとして止まる。ボクの方を見て思い悩んでしまったらしい。一度止まった足はもう一度歩き出すことはなく、困ったように視線を彷徨わせて、やがてぬいぐるみに目を止めると水溜りの中から拾って持って来てくれた。
「ほら、これおまえのだろ」
「ひっく、ぐすっ……うん」
汚れたぬいぐるみを見て、ボクの目に涙が浮かぶ。
そんなボクを見兼ねてか、彼はボクの手を握ってこう言った。
「大丈夫だって。そのくらいの汚れなら、うちの母さんが綺麗にしてくれるって。俺よく洋服泥だらけにして帰るけど、次の日には綺麗になってるし!」
「ほんとう……?」
「おう、行こうぜ」
そのまま強引にボクの手を引いて、彼は来た道を引き返した。
ボクが連れて来られたのは島でよく噂されるお屋敷だった。曰く、怖いお爺さんが住んでいると子供達の間では噂されていて、通れば鬼に食い殺されるのだとか。ただボクはそのお屋敷を見上げて、大きな家に驚いて少し目を見開いてすっかり涙は引っ込んでしまった。
「ここが、お家……?大きいね」
「新しい家とかと比べると古いだけでなんもいいことないけどな。広いせいで掃除は大変だし」
掃除を手伝わされるのが大変だ、と彼は愚痴ながら玄関に靴を脱ぎ捨てて、大きく叫んだ。
「ただいまー。母さーん!」
「はーい。もう、さっき出てったばっかなのに……」
奥から女性の声、パタパタと駆けてくる音が聞こえたかと思うと黒髪の綺麗な女性が顔を出した。そして、彼の姿を見ると表情が凍りつく。
「……どうしてさっき出てったばっかなのに泥だらけなのかしら?」
「あ、ほんとだ」
今のいままで気づいていなかったらしく、自分の姿を見下ろして彼は顔色を変える。さっと目を逸らして追求から逃れようとした。
「そ、そんなことより、ほら、これ綺麗にしてくれよ」
その視線の行き着いた先はボクのぬいぐるみ。当初の目的を果たすべく、彼はそう言って母親に汚れたぬいぐるみを押し付けた。
「あら、可愛らしいぬいぐるみじゃない。よく見たら隣の子も泥だらけね。わかったわ。ぬいぐるみは私が洗っておくから、二人ともお風呂に入って来なさい」
「……えっ」
「えー、朝から風呂ー?」
「文句言わない。泥だらけのまま家の中を歩かれる方が迷惑よ」
「ちぇー、行こうぜ」
彼がボクの腕を引く。抵抗する間も無く風呂場前の脱衣所まで連れて行かれてしまう。
「おし、入るぞ」
「きゃあ!」
脱衣所まで来ると彼はすぽんと服を脱いだ。Tシャツを脱ぎ捨てて、下もズボンとパンツを一気に脱いで、全裸になる。
ボクは初めて見たお父さん以外の男の子の裸に、一瞬ドキッとする。
「ほら、脱げよ」
「えっ、と…そのね…えぇと…」
「なんだよー。一人じゃ風呂も入れないのか?仕方ねぇな、脱げ」
「えっ」
彼はそう言うと、ボクのズボンをパンツごとずり下ろした。
そして、そのまま彼はボクの下半身とこんにちわする。
じーっと見つめて、びっくり仰天して顎が外れそうな勢いで叫んだ。
「た、玉がねぇ!?」
ボクが驚く前に彼が驚いてしまったからか、悲鳴をあげるのも忘れて呆然としてしまう。彼は脱がしたズボンとパンツの中にボクの玉がないことを確認して、家の中に救援を呼ぶ。
「お母さーん!大変だー!」
「今度は何よ?」
呼ばれて数分で、彼の母親がやってくる。
「こいつ玉がねぇ!お狐様にお稲荷さん奪られちまったみてぇなんだ!」
「なに訳のわかんないことを……」
そう言って、彼の母親はボクの下半身を見る。
「……ないわね。女の子だったのね……」
「どうしようお狐様に頼んだら返してくれるかな!?」
「元からないもんを返せって横暴じゃない」
「元からない……?」
彼は首を傾げて、母親を見上げる。
「女の子ってお稲荷さんついてないん!?」
「そうよ」
「え、じゃあ女の子ってトイレ行かないん!?」
「そうよ」
「すげえ!」
ふと、彼はボクを見る。
「おまえ女だったのか!?」
「う、うん……」
彼はどうやら気づいていなかったらしく、本当に驚いていた。ただそれで態度が変わるわけでもなく、初めて女の子を見たかのような不思議そうな視線を向けてくる。
「そういえば物心ついた頃にはあんた一人でお風呂に入るようになっていたわねぇ。もう少しそういう違いについて教えておくべきだったかしら……」
驚いたことに彼は既に一人でお風呂に入っているらしい。
ボクはまだ、お母さんと一緒じゃないと入れないのに。
「ごめんねー。この子馬鹿だから。そういえば名前は?」
彼の母親が、彼に訊ねる。
「え、知らないけど」
「おーい、息子ー?ナンパの技術はお父さん譲りかー?」
そこで初めて、ボクはお互いの名前を知らないことに気づいた。
「まぁいいや。君、名前は?」
「……倉科美咲」
「そう。美咲ちゃんね」
「俺は圭。よろしくな」
「ごめんねー。うちの子がアホで。一人でお風呂入れる?」
「ううん。圭くんと一緒がいい」
ボクはいつの間にか、目の前にいる少年に対して心を開いていた。
ついでに汚れてしまった服も洗濯してくれたらしく、夕方になって乾くまで彼の家でお世話になることになった。
代わりに借りた彼の服はぶかぶかで少し大きい。ただそんな彼の服に身を通すだけで、少しだけ幸せな気持ちになれたのは何故なのかこの時のボクには分からなかった。
「なにして遊ぶ?」
「圭君はなんであそこにいたの?」
何をして時間を潰そうか、そう問いかけられたボクは彼に質問を返してみる。何かする予定だったのならそれがいいと思って聞いてみれば、彼は遊びに行く途中だったと答えた。そこでボクに出会ったのだ。
「ほんとはさー、亮介達とヒーローごっこする予定だったんだけどな。代わりの悪役が見つかったしもういいや」
意地悪な男の子達からすれば、とんだ災難である。図らずして台風に直撃することになったのだから。
「美咲は何かしたいことないのか?」
「ボ、ボクね。おままごとしたい。ダメ、かな……?」
男の子はそういうの嫌がるし、彼も嫌がるんじゃないかと思ったがダメ元で提案してみる。すると彼は笑顔で即答した。
「おう、いいぜ。ちょっと待ってろ」
彼は部屋を出て一分もしないうちに部屋に戻ってくる。その手には大きな箱を抱えていて、何やら可愛らしい獣耳がぴょこんとはみ出していた。
「よし、じゃあやろう」
降ろした箱の中には可愛らしいぬいぐるみが四体と玩具の食器が入っている。その中にある白い狐のぬいぐるみを取ろうと手を伸ばした時、それはぴょんと箱から飛び出して来た。
「うわぁ!?」
「あー、また紛れてたのか」
「な、なに!?」
「その白い狐様な、よくぬいぐるみに紛れて脅かしてくるんだよ」
「へ、へー、そうなんだ」
行儀良く座る白いお狐様は尻尾をふりふりと振っている。
びっくりした?びっくりした?と、とても楽しそうだ。
「それで俺は何の役をやればいいんだ?」
「え?うーん、と。その……お父さんの役、とか」
「じゃあ、おまえが俺の奥さんか。これは?」
圭君は静かに座っているお狐様を指さした。
「ペット、かなぁ?」
「きゅうぅ〜ん」
白いお狐様は不満そうに鳴いた。
二人と一匹で始めたおままごとは本当に楽しかった。圭君が意外にもおままごとに文句を言わず、それどころかノリノリで役をやってくれるのでボクからも不満がなかった。その中でも迫真の演技だったのが、お狐様に玩具の人参を出すと皿から避けようとするのだ。ボクも良くやるから、余計に現実味があって面白くて時間があっという間に過ぎてしまう。
「美咲ちゃーん。もう五時よー、帰らなくて大丈夫ー?」
洗濯したボクの服とぬいぐるみを持ってきた彼の母親が帰る時間を報せてくれた。
–––幸せな時間ももう終わり。
名残惜しく思いながらも、帰らなきゃいけない。
玄関先まで送ってもらって、ボクは靴を履いた。
「じゃあな、美咲」
「じゃあな、じゃないでしょ。送ってきなさい」
「えー」
「男の子は女の子を家に送るもんなの。その方がカッコいいわよ」
「行ってきますお母様」
「わかればよろしい」
圭君がサンダルを履いて玄関を開けた。
「行こうぜ」
来た時と同じように腕を引かれる。
外は既に日が傾き始めていて、空が夕焼けに染まっていた。
「……」
ボクは無言のまま彼に腕を引かれていた。
家を出て、道に出て、ふと立ち止まる。
「そういえばおまえ家どこ?」
「えっとね、三角公園の方」
「ふーん。じゃあ、あっちか」
それだけで伝わったらしく彼はボクを先導する。右に曲がって、左に曲がって、公園に着くとボクに道を聞きながらボクの家を目指してまた歩き出す。
そうして、別れを惜しんでいる間にボクの家の前へ。
嫌だ。まだ離れたくない。一緒がいい。
まるで彼とはずっと一緒にいたような気分だった。
ずっと、ずっと前から。
ボク達は一緒だった。なんだかそう思えた。
「じゃあ、また明日な。美咲」
「え……?」
顔を上げられずにいると別れ際そう言われて、ボクは思わず彼を見上げた。圭君はなんてことない表情でボクを見ている。
「また、遊んでくれるの?」
「え、明日も遊ぶだろ?友達なんだから」
当然のようにそう言われて、ボクの顔にも笑顔が戻っていた。
「そう、だね。明日も、明後日も、ずっと一緒にいよう。圭君」
ボクは無意識にも告白めいた言葉を口にして、それから彼の頰に口付けをする。ママがパパにするおまじない。大好きの証。この日、ボクは初対面の彼に友達以上に好意を寄せていたのだった。