夕暮れの赤が部屋に差し込む。琴音が家を出てからというものずっと座して暇を潰していた。久しぶりに島に帰って来たが、今日ばかりはこのまま何もしたくない。
「もう夕暮れか……明日は取り敢えず、鈴白の婆さんのところに顔を出して。それから……」
挨拶回りを終わらせて、家の掃除をして、それで一日が終わってしまう。
明日の予定を決めていると玄関の戸がガラッと音を立てて引かれた音が響いた。
足音は真っ直ぐに居間に向かってくる。
「ちょっと待ってなさいよ。すぐに夕飯を作るから」
居間に顔を出したのは家に帰ったはずの琴音だった。小さなバッグを背負って、手には買い物袋。その中にはピチピチと跳ねる赤い物体。海老だ。
島は漁が盛んで新鮮な魚介類が手に入る。漁港や魚屋に行けばいつでも新鮮な魚介類が手に入る。それも生きたまま手に入るというのだから鮮度については申し分ない。
問題はそこじゃない。
「琴音、帰ったんじゃなかったのか?」
「ええ、一度帰ったわよ。着替えとか取りに。あとあんたの家、帰ったばっかで何もないでしょ?お米とか色々持って来たのよ」
「それは助かるが……。着替え?」
「あたし此処に住むから」
とんでもないことを琴音は言った。
「ちょっと待て、此処に住むと言ったか?」
「そうよ。何か文句ある?」
「……」
言葉が出なかった。
一瞬、停止した思考を再起動する。
「文句っていうか、問題があるだろう」
「嫌なの?」
嫌かと言われれば、嫌ではない。
嫌ではないことが=好き、でもなければ。
好きじゃないことが=嫌い、というわけでもない。
冷静に考えて、男なら喜ぶべき状況だ。
琴音は綺麗だ。スタイルも良い。そんな女と同棲。嫌がる男はいないだろう。
俺が知っている琴音は過去のものだし、彼女だって七年前とは違うのだ。
そもそも昔の琴音が嫌いだったわけじゃない。
離れていた間、少し考えて、夢に出てくるぐらいには気になっていた。下世話な話になるが本土の友人とちょっとセンシティブな話になった時に許嫁だったからか、そういうことをすることになるんだろうかと一瞬頭を過ったりもした。
長々と言い訳を考えてみたが、これも根本的にズレている。
琴音はそんなやり取りの間にも勝手知ったる何とやらで台所で料理を始めている。土鍋で米を炊き、その間に海老の下拵えを始めてしまっていた。
帰る気ゼロ。
「年頃の男女が一つ屋根の下で生活とか、間違いがあったらどうするんだよ……」
「……あたしは別に構わないけど」
上擦った声が、野菜を切る音に紛れて聞こえた。
次いで言い訳みたいに言い繕う。
「そ、それにあたし達は許嫁だし、そういうことがあってもおかしくないでしょ!?あんたがやりたいなら仕方ないっていうか、あたしも満更じゃないっていうか……」
どんな顔をして言っているのかちょっと気になって、俺は立ち上がって台所に向かった。廊下を挟んで居間の隣にある台所に立ち入って、無防備な背中を見せながら料理をする琴音を観察する。時折見える顔は耳まで真っ赤だ。
「ちょっ、何でこっちにいるのよ!?」
俺に気づいた琴音が悲鳴混じりに驚いた声を上げる。
「なんでって、なんとなく?……そうだな。強いて言うなら、毒を盛られていないか確認に」
「盛らないわよ。あ、それともあたしの料理が食べられるものか疑ってる?」
不機嫌そうに琴音は頰を膨らませた。
「言っておくけど、あんたがいない間、何もしなかったわけじゃないんだからね。おばあちゃんに花嫁修行と称して料理の勉強させられたり色々頑張ってるんだから」
「あの婆さんにか……」
料理の腕は知らないが、あれでも名家で旧家だ。そういうところに厳しくもあり、しきたりや掟、風習を重要視している節があって許嫁なんてものを決めたからには本気なのだろう。
「ん。それってつまり……」
琴音は俺に料理を食べて欲しくて花嫁修行を頑張っていたことなる。俺に嫁ぐために。中途半端にやらない性格だから、それはつまり彼女も乗り気だったということに……。
彼女が俺を好きだという証拠の裏付けが取れてしまった。
「それで何作ってるんだ?」
「海老フライよ。あんた好きだったでしょ」
誤魔化すように夕飯のメニューに話を持って行ったが、裏付けに裏付けが重なる。彼女はわざわざ俺の好物を作ってくれたことになる。好物を覚えてもらっていたことも、それを作ってくれることも、なんか無性に恥ずかしい。
「明日はもっと作ってあげるから」
「ほう。例えば?」
「炒飯でしょ、竜田揚げ、お刺身、ポテトサラダ、肉じゃが、鰤大根、それと狐揚げとか!」
狐揚げは油揚げにいろんなものを詰めて焼いた郷土料理だ。たまにとんでもないチャレンジャーが絶対に合わない、と思うような組み合わせを詰めて作るため闇鍋料理とも呼ばれている。
「ものの見事に脂っこいものばかりだな」
「そうね。もう少し献立を煮詰めないと……そういえば漬物好きよね?それも候補に入れておかないと」
「そんな量作っても食べられなくないか?」
「さすがに二人で食べるわけないじゃない。あいつらも呼んで、圭の帰還記念パーティーするの。きっとあいつらもこの話に乗ってくるわ」
「あいつら、か……」
“あいつら”と呼んだ相手。きっとそれはかつての仲間達だ。会うのが楽しみでもあり、億劫でもある。変わってしまった俺に対してどう思うのか、それを知るのは怖い。
「でも、やっぱり新鮮な魚介類を使った料理が一番よね。せっかく帰って来たんだから」
琴音は楽しそうに明日の献立を考える。
パチパチと弾ける油の音に俺の不安は埋没していく。
◇
琴音の作った料理は驚くほど美味かった。海老フライは衣がサクサクで、中はプリッとしていて歯応え抜群。サラダも新鮮な野菜を使っているからかドレッシングなしでも瑞々しい味がして。味噌汁は赤味噌で夏の食欲低下した胃を元気にさせた。思わず無意識にこの味噌汁毎日飲みたい、と言い掛けてしまった。
……その意味を知らないわけではない。危なかった。
食後に風呂に入り、歯を磨いて、居間に戻る。部屋の掃除を終えていないから使える部屋は此処しかない。そこには琴音が敷いた布団が二組、枕一個分の距離を空けて配置されている。
「……さぁ、寝ましょうか」
風呂上がりで火照った琴音が隣にいた。浴衣に軽い帯を締めただけの格好、これを寝間着というらしく旅館などでも見る服だ。僅かばかりに重ねた布の間から肌が見えており、胸の谷間がチラチラと……。視線を外そうとした瞬間に気づかれたようで、半目で睨まれる。
「なに見てるのよ」
「いや、綺麗だなと思って」
「ふふ、嘘よ嘘。好きなだけ見て」
「揶揄うなバカ」
「気になってるの丸わかりよ」
ひとしきり揶揄われたところで電気を消す。
布団に入って並んで天井を見る。
蝉ではない優しい虫の音が夜の闇に鳴る。
夏とはいえど、海のそばにあって森があるからかこの島の夜は都会と比べて凄く過ごしやすい。
それだけで帰って来てよかったと思えた。
「ねぇ、圭、起きてる?」
声に振り向けば部屋に差し込む月明かりに照らされた琴音の顔が見えた。寝そべっている彼女の顔はあまりにも魅力的で美しかった。視線が合うと琴音は優しく微笑む。
「もう少しだけ、話しててもいい?」
「いいぞ。昼寝のせいか眠気があまりないからな」
とはいえ長旅で疲れ切っている身体はもう既に限界近い。昼寝で少し回復したが、夏の暑さもあって今日何かをする気力はなかった。琴音が来てくれて助かったのは事実だ。
彼女から何を話し始めるのか待っていると、不意に変な笑う声。
「いざ何か話そうと思うと話題に困るわね」
「じゃあ、寝ていいか?」
「ダメ。今日は寝かさないんだから」
「もう少しだけじゃないのか?」
「だって仕方ないでしょ。興奮して眠れないんだから」
怒ったような声で琴音は文句を言う。でも、言葉の節々には嬉しそうな響きが加わっていた。
「……性的に?」
「ち、違うわよ何言ってるの!?」
揶揄うと琴音は顔を赤らめて必死に否定する。そこに追い討ちをかける。
「やっぱり布団は一つにしておくか?」
「だ、ダメよ。そんなことしたら絶対襲ってくるじゃない!」
「嫌なのか?」
「……い、嫌じゃないけど、こういうのは順序っていうか、初めてはキスとか……」
乙女的な理想があるらしい。今の状況は及第点というところだろうか。
「でも、最初に言ったのはおまえだろ」
「そうだけど……」
「普段からエッチなことばかり考えてるのか?」
「ち、違っ」
「彼氏でもいたか?」
「そんなわけないでしょバカァ!」
「冗談だ」
子供の頃はお互いに喧嘩ばかりだった。今のようなやりとりをしていた。……いや、もう少し過激だったかもしれない。さすがにエロだのという話題はなかったが、内容はしょうもなかった。
「揶揄ったわね。……そういうあんたこそどうなの?あたしに隠れて恋人の一人や二人作って……そういうこととか」
琴音が更に頰を赤らめる。恥ずかしいことを聞いている自覚はあるらしい。
「そういう経験があるって言ったらどうする?」
「もう二度と他の女には会わせないわ」
ちょっと変な単語が聞こえた気がした。
「……ご、誤解しないように、い、言っておくけど、あたしだってそういう経験ないから」
妙な告白をして、琴音は「おやすみ」と言って布団を深くかぶった。
夜も深まる頃、急な寝苦しさを感じて目を覚ます。いつの間にか眠っていたようで月の位置はかなり動いていた。時計がないため定かではないが深夜を回った頃らしい。寝返りを打とうとすると身体が動かなかった。
「ん?何が乗って……琴音?」
夜の闇、月明かりに照らされて人影が浮かび上がる。俺の身体に乗っている影は女性、その顔が月明かりに照らされた時、彼女は破顔して呟いた。
「ようやく会えた……圭君」
女性の髪色は桜のような薄い桃色、それをポニーテールに束ねている。薄手のキャミソールに白いパーカー、ホットパンツにニーハイソックスで包んだ脚。全体的に健康的で、彼女の身体は女性として魅力的だった。肉付きはよくキャミソールが程よい大きさの胸に押し上げられ、脚は細くも筋肉と脂肪のバランスがとても良く、肉感がある。
密着した尻から脚が俺の触覚を刺激する。
女性の温もり、肌の感触に脳が犯されていく。
彼女はそっと指を俺の口元に当てた。
騒がないで、と。
「琴音ちゃんが起きちゃうから」
そして、耳元で囁いてパーカーを脱いだ。
「ちょっと待て。何しようとしてる?」
「わかってるくせに。それともボクじゃ嫌なの?」
そう言いながら女性はキャミソールにまで手を掛けた。ゆっくりと捲り上げていき、お腹が、臍が、そしてその上の布地までチラリと見えてしまう。
–––パッ。
突然、部屋に光が満ちた。
「なーにしてるのかしら?」
俺にのし掛かる女性の背後に琴音が仁王立ち。電気をつけて、女性を睨みつけている。助かったと見るべきか、惜しかったと見るべきか、とにかく窮地は脱したようだ。いやむしろ窮地かもしれない。
「美咲」
「琴音ちゃん」
二人は睨み合う。顔は笑っているが雰囲気は殺気立っていた。
「何してるのかしら。あたしの旦那に」
「あはは、まだ違うよね」
「許嫁よ。同じだわ」
「もしかしたら、ボクと結婚しちゃうかもしれないよ」
「面白い冗談ね。夜這いするなんて少しはしたないんじゃないかしら」
「先に抜け駆けしたのはそっちだよね?」
ばっちばちに火花が散っている–––気がする。
すぐに飽きたようで夜這い娘は俺に視線を移した。
「圭君。ボクのこと覚えてる?」
「倉科美咲。懐かしいな」
「嬉しいな。ボクのこと覚えててくれたんだ」
忘れるはずもない。桃色の髪、桃色の瞳、そして自分の事を“ボク”と呼ぶ娘はこの島を探しても……いや、生涯で一人しか知らない。彼女のみだ。
「っていうか、さっさと退きなさいよ。圭もなに鼻の下伸ばしてるのよ」
「えー、いいじゃん少しのスキンシップくらい」
美咲はそう言ってより一層抱き着いた。
「だから離れなさいって言ってるでしょうがぁ!!」
住宅街から少し離れた古い屋敷に、琴音の怒声が響き渡った。