島に帰って来て初めての朝が来る。太陽が海の向こうから顔を出した頃には蝉の声が聞こえ始めた。一つ、二つと増えていく蝉の鳴き声は大合唱を開始する。
ジリジリと照りつける太陽がアスファルトを焼き、鼓膜を破りそうなほど大きくなった蝉の音はまるでオーケストラのよう。
そう感じさせるのは、深夜から続く壮絶な奪い合いのせいであった。
「ねぇ、琴音ちゃん。此処は一旦停戦しない?」
「そうね。じゃあ、先に離してくれる?」
俺の左右の腕を片方ずつ大事そうに抱き締める二人は、俺の身体を挟んで睨み合っていた。朝焼けの時間が終わり、次第に空が青くなってくるとそう言って二人はより一層腕を強く抱き締めた。
「……」
双方、腕を離さない。
胸を押し付けてむぎゅむぎゅと形を変える。
そんな事をしていれば邪念が入る。
胸の大きさでは僅差で琴音が勝っている。
だが、二人とも紛れもない美人だ。
「あー、気持ちは嬉しいがそろそろ離してくれ」
「圭が嫌がってるんだから離しなさい」
「琴音ちゃんこそ先に離したら?」
これ、いつまで続くんだろうか?
無理やり剥がすべきか?
迷ったところで答えは出そうにない。
この状況を少なからず嬉しいと感じてしまっている自分がいる。
言い訳をするならば、嫌な男なんていないだろう。
「停戦はどうした?」
どちらかが先に離すまで離す気はない、と言わんばかりに睨み合う。
少し名残惜しいが無理やりにでも離さなければいけないだろう。
「……腹減ったな」
夜通し睨み合う二人に付き合っていたせいか妙に腹が空く。そう主張した瞬間には、短距離の陸上選手並みの速さで二人が台所に向かって駆け出して行った。
その先でまた二人は喧嘩を始める。昔は仲が良かった記憶があるが、これが喧嘩するほど仲が良いというやつであろうか。複雑な口論を始め蝉に負けない声で張り合っている。しかし、あそこは台所だ。刃物があれば、火も使う。いくら二人が料理慣れしていると言ってもあの状態では怪我をすることは間違いない。
様子を見に行ってみれば、昨夜の味噌汁の残りを火にかけながら包丁とまな板を奪い合っている。土鍋は既に火にかけられており、米を炊き始めているようである。
–––『腹減った』の一言だけでこの惨状になるのは予想外であった。
「喧嘩しながら料理するな。危ないだろ」
「ねぇ、圭はあたしの手料理が食べたいのよね!?」
「いや、正直食えたらどっちでもいい……」
琴音がショックを受けたように固まる。
「圭君はボクの手料理が食べたいんだよね?」
「俺は昨夜の展開から既についていけてないんだが……」
何故、二人が喧嘩しているのか。よほどの鈍感でない限り気づくだろう。夜這いまでされて気づかないやつはとんでもない馬鹿だ。
「取り敢えず、一人一品作ればいいんじゃないか?」
その一言によって台所戦争はようやく終結したのだった。
台所戦争は終結したがそれは一時凌ぎに過ぎない。米を炊いた後、二人は競うように家を出て二人一緒に帰って来た。ピチピチと跳ねる魚を慣れた手つきで捌き、朝食の一品へと変える。朝の七時には食卓の前に白米と味噌汁、二品の魚料理が並んでいた。鯖の味噌煮と鯵の塩焼きに胡瓜の浅漬け、島という環境を生かした港町らしい献立だ。
「どうかな。ボクの作った鯵の塩焼きは」
「あたしが作った鯖の味噌煮の方が美味しいわよね」
二人の争いを終わらせるために「一品ずつ料理を作る」と言ったわけだが、それは先延ばしに過ぎなかった。むしろそのせいでどちらの料理が美味しいか白黒つける羽目になっている。
さっきまでの争いに比べれば可愛いものだ。俺は食には煩い。だから、容赦なくジャッジができる。
「鯖の味噌煮の方が美味い」
「やった!」
正直、鯵の塩焼きも美味かった。料理の腕に関しては二人とも味付けが違うだけで差はないように思う。勝敗を分けたのは作ったものだ。味覚的にどうしても好みの鯖の味噌煮が勝ってしまった。
小さくガッツポーズをする琴音と、見るからに落ち込んでしまった美咲。だがこの勝敗の付け方に俺は不満がある。そもそも同じ品を作っていない時点で勝負は公平ではない。審判も一人であれば、偏ってしまうのは仕方ないとして、公平性は皆無だ。
「美咲の作った塩焼きも美味しかったぞ。ただ、俺が鯖の味噌煮の方が好きだったから今回は琴音の勝ちになっただけで。同じものを作ったら多分大差ないと思う」
「本当……?」
落ち込んでいた美咲が顔を上げた。
「そっかー。うん、じゃあ今度は圭君の好きなもの作るね」
機嫌が直ったようでにへらと可愛らしい笑みを浮かべる。
その後、二人は一旦落ち着いたようで朝食をゆっくりと食べていった。
第一次お嫁さん戦争は終結。
食後に皿を片付けた後、俺達はちゃぶ台の前に座る。
対面には誰もいない。また、腕に二人はくっついていた。
「……ひとつだけ聞いてもいいか?」
また、最初の状態に逆戻りした。二人は腕を分け合って満足そうな表情。承認欲求的なものが満たされたらしく、争いではなく分け合う事を選択したようだ。
返事を待つまでもなく俺は疑問を口にした。
「おまえら昔は仲良かったよな。昨日だって三人で遊んでたろ。なんでいきなり喧嘩始めてんだよ」
「恋は戦争よ。ねぇ、美咲」
「そうだよ。うかうかしてたら他の人に盗られちゃうし」
恋は戦争–––なるほど、確かに言い得て妙だ。
納得していると美咲が俺の肩に頬擦りをしながら言う。
「昔は圭君、島中の女の子に人気あったんだよ」
「え、嘘だろ?」
「琴音ちゃんの許婚だからみんな近づけなかったんだよ」
「美咲はあたしの許婚相手でも遠慮ないわよね」
「ボクはそんな理由じゃ譲らないよ。恋は戦争だから」
衝撃の事実が発覚した。昔の俺はどうやら島中の女の子にモテていたらしいのだ。そうなると俺のモテ期は遥か昔に去ったはずだが、二人の間でそれはどうやら継続中らしい。
「圭君が帰って来たって知ったらどうなるか……」
「え?なに?俺なんかされるの?」
「大丈夫よ。あたしの恋人だって言えば大抵は手を引くわ」
「不穏な言葉を残したまま話を終わらせるなよ」
捕まったら何をされるのか。興味はあるが、あまり試そうとは思わない。この場は二人の戦争だけで済んだと考えるべきか、この二人が特別だと考えるべきか、悩みどころだ。
「さて、と……」
突然、右腕が解放される。右腕に抱き着いていた琴音が立ち上がって伸びをした。それから表情を切り替えて美咲に視線を送る。
「美咲。あんたがこの事を知っているってことはもう島中に圭が帰って来たことが知れ渡ってるんでしょう?ならきっとあいつらだって集まりたいはずだから。今日の夜、帰還記念パーティーを開こうと思うんだけど」
「むむ。今日は圭君と一日デートしてもらおうと思ったのに……」
「そんなのあたしが許さないわよ」
「じゃあ、ボクは圭君を案内する係で……」
「あんたも料理するの。二人しか料理できるのいないんだから」
「えー、智代子ちゃんは?」
「あの子、圭と面識ないでしょ」
知らない名前が出た。俺の知らない間に島に移住して来た子がいるのか。昨日二人と歩いていた茶髪の子だろうか?
考えを巡らせているうちに琴音は美咲の腕を掴んで立ち上がらせる。
「圭、あたしの家で歓迎会の準備するから挨拶は後でいいから。掃除とか挨拶回りとか適当に終わらせておいて」
名残惜しそうに此方を見る美咲を引き摺って、そのまま琴音は家を出た。