夏のフェリー乗り場に蝉にも負けない大きな声で泣いている小さな女の子がいた。
「やぁぁだぁぁぁ〜〜〜!!」
チョコレートのような茶髪の白いワンピースを着た少女は、ぐしゃぐしゃに泣きながら駄々をこねていた。
「ごめんね、智代子。お父さんとお母さん急遽、仕事に行かなくちゃいけなくなったのよ」
溢れる涙を何度も拭いながら泣きじゃくる少女の頭を、スーツ姿の女性が優しく撫でながらしきりに謝る。
それでも少女の涙は止まることがなかった。
「おかあさん言ったもんっ。今度の休みは一緒にいてくれるって!遊んでくれるって!家族みんなでおばあちゃんのところに遊びに行くって言ったもん!」
「ごめんな、今度は一緒に遊ぶ時間を作るから。だから、おばあちゃんと留守番していてくれないか」
スーツの女性と一緒に屈み込み、幼児の頭を撫でるスーツ姿の茶髪の男性はそう言って立ち上がる。泣き止まない少女の後ろに立つ白髪の女性に向けて、小さく頭を下げた。
「それじゃあ母さん、頼む」
「はいはい。行ってきな」
「一週間くらいしたら戻るから」
「予定通りに行くといいねぇ」
そればっかりはどうしようもないと諦めた様子だ。孫娘の肩に手を置いて、フェリーに乗り込もうとする息子夫婦を見送る。
それからフェリーが港を出港し、水平線の彼方に消えるまで少女は両親を見送った。涙が枯れるその時まで、大粒の涙をポタポタと地面に落としながら。その一粒一粒は地面に染みて、夏の日差しとアスファルトの熱ですぐに消える。涙の跡は消えても、少女の心にあいた小さな穴はすぐに消えはしなかったけれど。
「さて、家に帰ろうか。ねぇ、智代子」
「……うん……」
–––私は祖母に手を引かれて、港を後にした。
翌日、私は祖母の家の庭で一人遊びをしていた。
土を弄ったり、蟻の行列を眺めたり、石をひっくり返したり。
楽しいというわけではないけれど、やることもなかった私はただ拗ねて一人でいた。
祖母はいたけれど、両親のいない寂しさは埋まらなかった。
そして、一人遊びを始めて十分くらいした頃だろうか。
庭に一匹の狐が迷い込んだ。
島に来てから気になっていた動物が、警戒もなく私の側に。
ゆっくりと近寄ってくると、すんすんと私の足の匂いを嗅ぎ始めた。
「狐さんだー!」
両親が仕事に行った寂しさも一瞬吹き飛んで、私は可愛い動物に夢中になる。
手を伸ばすと狐は大人しく撫でられてくれた。頭を撫でると身を低くして、ただ私が満足するまで撫でられてくれる。その様子が気に入った私は五分くらい撫でていただろうか。
構ってくれる狐が嬉しくて、私はその小さな体で狐に抱きつく。お日様の匂いがして、まるで干したてふかふかの布団に包まれているようだった。
「……狐さんもひとりなの?」
「クゥーン?」
「そっかぁー。私もね、ひとりなの」
首を傾げる狐に私は会話をしているような気になって、私は愚痴をこぼすように話を続けた。
「おかあさんもね、おとうさんもね、夏の休みは一緒にいてくれるって言ったのに仕事に行っちゃったんだよ」
そこまで吐露したところで、狐はピンと耳を張った。顔を上げて立ち上がると私の周りをぐるぐる。それから茂みの方へタッと走り出したかと思うと、少し先で立ち止まり私の方へ振り返った。
まるで「ついてこい」と言っているみたいに。
「んー、いくっ!」
立ち上がって追いかけると狐は反転し茂みの中へ消えていった。家の裏は山に繋がっていて、よく裏から狐が庭に出てくるらしい。そんな獣道を通って、私は狐を追いかけていった。
狐は私が遅れると立ち止まって待ってくれる。その度に「待ってよ」と言いながら、狐を追いかけ続けた。草木をかき分けてさらに奥へ行くと足場の悪い道に出て、狐はこっちにおいでと私を誘う。
「はぁ……はぁ……っ」
それから三十分ほど、追いかけていた時だろうか。
ついに体力の限界がきた私は、その場にへたり込んでしまった。
「ここ……どこ……?」
夢中になっていた。夢中になっていたからこそ忘れていた。そして、ようやく私は思い出したように周りを見回す。
「おかあさん、おとうさん……ひっく……」
気づいたら迷子。いないはずの両親を呼んで、私の視界は涙で潤む。
「うわあぁぁぁぁん!!!!」
ついには大泣きを始めて、私を山の中に誘い込んだ狐はおろおろとしながら戻ってくる。
それから数分の間、狐は私の周りを飛び跳ねたり、座り込んでしまった私の膝に前足を置いて励ましてくれていたが、私が泣き止まないことを悟ると静止した。
そして、天に向けて吠える。
「クォーーーン!!!!」
ひと鳴きした狐はうろうろする。
そして、もうひと鳴き。
それから何やら物音に反応して、ある一点を見つめた。
ガサガサとなる草木の音に、私も泣き止む。
何かがやってくる音に、私はびっくりして泣き声が引っ込んだ。
草木が掻き分けられる。
「おう。呼んだのはおまえか?」
茂みの中から飛び出しのは、私より少し大きい男の子。黒髪黒眼の少し日に焼けた少年は、私に笑顔を向けている。
「見ない顔だな。観光客か?」
「ふぇ?」
「見たところ迷子か?おまえ名は?」
「……ちよこ」
「苗字は?」
「みなと」
「あぁ、そういや湊の婆さんが言ってたな。息子夫婦が孫連れて遊びに来るって」
たった数回の会話で丸裸にされる個人情報。
ただ、私は帰れる可能性に目を輝かせていた。
「おばあちゃんを知ってるの?」
「島民はみんな顔見知りだからな。知らないやつはいない」
そう言って、少年は私の前まで来ると膝をつく。そうして振り返ると、早く乗れと促した。
「家まで送ってやるよ。おんぶしてやるから早く乗れ」
「う、うん!」
私は乗りやすいように屈んでくれた少年の背中に抱きつく。首に手を回すと、彼は私のお尻の下、太ももの辺りに手を差し入れて落ちないように背負った。
「しっかり掴まってろよ」
少年はなんでもないように立ち上がると足場の悪い山を歩き始める。子供の体力を削るには十分な荒い足場も、少年にかかれば少女一人背負ってもなんでもないように。
私はその背中の大きさと、温かさに安心してぎゅっとしがみついていた。
ただ、少しだけ不思議なことがある。
どうしてここがわかったのだろうか?
「ねぇ、おにーちゃん。どうして私を見つけてくれたの?」
そう問いかけると少年は楽しそうに笑った。
「そりゃお狐様が迷子がいるって教えてくれたからな」
「んー?」
「まだわからなくてもいいよ。ただ、この島で迷子になったら俺がまた見つけてやる」
「ほんとう?」
「本当さ」
不思議と少年の言葉には説得力があり、私はその小さな約束に安心する。
少年の心地よい温かさと、程よい揺れに私はうとうとして、そしてそのまま目を閉じた。
「湊のばあさーん」
気がつけば私は少し眠っていたらしい。
玄関先で家主に呼びかける少年の声に目が覚めた。
遅れて、玄関が開く。
そこから私のおばあちゃんが飛び出してきた。
「ちょうどよかった黒崎のぼっちゃん!孫が–––」
「おばあちゃん?」
焦った様子のおばあちゃんと、少年の肩越しから顔を出した私の視線が合う。少し驚いた様子で、それからホッとして肩を落としていた。
「森の中で拾った。あんたの孫で合ってるらしいな」
「そうかい。ありがとね」
「じゃあ、俺は帰るから」
「ちょいと待ちな」
少年が帰ろうとするとおばあちゃんが慌てた様子で奥に戻る。それから戻ってきた手には、小さな巾着袋を持っていて、すぐに少年の手に押し付けていた。
「お礼だよ」
「いらねぇよ別に。俺は狐に呼ばれただけだから」
「持ってき持ってき」
「えー……」
謙虚さからではなく、本当に嫌そうな顔だった。
「ちなみに中身は?」
「南瓜の煮付けと里芋の煮っ転がしだよ」
「だと思ったよ!」
「好き嫌いはしたらだめだよぼっちゃん」
「ありがた迷惑って言葉知ってる?」
なおさら嫌そうな顔をする少年だが、おばあちゃんは気にした様子もない。もう慣れたものなのだろう。
「まぁ、仕方ねぇから食うけどさ。琴音達が待ってるからじゃあな」
今度こそお暇しようと少年が私を下ろして、踵を返した。
「ん?どうした?」
そんな少年の服を、私は掴んで止めた。
「やだ」
「やだって言われてもな。あいつら森に置いてきたんだよな」
遊んでいる途中だっらしく、そんなことを言って困った顔をする。私はわがままにも少年を引き止めようとしていた。
そんな私を見兼ねてか、少年は私の頭に手を置く。
「じゃあ、明日遊ぼうか」
「ほんとう?」
「おう。また明日な。ちょこ」
呼ばれた名前に、私は首を傾げる。
「私の名前はちよこだよ?」
「チョコレートみたいだから、ちょこ。あだ名をつけるのが流行ってんだ。それに特別な呼び名があった方が、お互い忘れなくていいだろ?」
「ちょこ……うん!」
–––それが、私がちょこと名乗るようになった大切な思い出だった。