山あり谷ありウマ娘 〜気付いたら脱サラしてトレーナーになった話〜 作:ギノっち@カマタラル
黒津木「.........」
夜の空気が充満し、家の中は酷く冷え切っていた。もう夏になるというのに、俺の肌に当たるそれは、なんだか冷ややかな、まるで人の視線のようだった。
黒津木(.........見えないカウントダウン。それを考慮せずに、あの娘をただ走らせていた訳じゃない)
机の上に置かれた理論。書き起こされ紙の上に乗っている文字は既に、机上の空論などでは無くなっていた。
これさえあれば。これが実現されるのならば、彼女は確実に助ける事が出来る.........だが、それは俺にとって、許されざる行為に等しいものだ。
冷ややかな視線のような空気。感じた覚えのあるそれが妙にリアリティのあるものだと言うことは、それが無意識的に俺のトラウマになっているということだろう。
『そんな事ありえない』
『君はもう少し勉強すると良い。まだ若いだろう?』
『この論文は受理しない。学会ではそう可決された』
黒津木「.........っ」
フラッシュバックの後、嘔吐く。あの日を境に、俺の医者としての人生はハードモードからハードコアへと難易度移行した。人間、どんなに高等な進化を遂げようとも、その本質は村社会とは一切変わりない。
噂は広まる。病魔を取り除く[ゴットハント]と言われた俺も、気が付けば夢と現実の境目が無い[夢追い人]と揶揄されるようになった。
それだけならば良い。どうせもう関係も無い人間達だ。今更何を言われようが何も感じはしない.........
.........だけど。
『見損なったよ。黒津木くん』
黒津木「っ、タキオンはそんな事言わない.........!」
黒津木「言わない.........筈なんだっ.........!!!」
あの娘にだけは。俺にとって[大切な『存在』]であるアグネスタキオンにだけは、そんな言葉を投げ掛けられたくない。彼女はきっと、俺がこんな物を[寄り道もせず]に作り上げた事を、軽蔑するだろう。
[寄り道]と言うのは、ただ一直線に目標に向かう事はせず、見つけた可能性を全てしらみ潰しにして行く事だ。それこそが研究者の本懐であり.........そして、[医者]としてすべき第一優先事項だ。
黒津木(.........アイツらはきっと、こんな事で悩んでる俺を笑うんだろうなぁ)
いつまでうじうじと、何を悩んでるんだ。そんな俺を嘲笑う声が聞こえて来る。こんなの俺の妄想だ。アイツらだって、笑いやしない。
いくらそんな事を頭から振り払おうとしても、その声が止むことは無い。目を瞑り、必死にその声から意識を遠ざけていると、不意に温かさが部屋の中に広がり始めた。
黒津木「.........はは、朝かよ」
寝ていたのか、寝ていないのか、夢だったのか、現実だったのか.........そんな境界線は曖昧で、今が自分の世界じゃないなんて言う確証は無いに等しい。それでも、時計を見れば等間隔に動く針は、妙に現実的で、規則的だった.........
ーーー
桜木「と、言うわけなんです。何かエディ先生のデータに、それっぽいのかありませんでしたか.........?」
タキオン「.........」
タキオンがレース引退を一旦取り止めたその日。俺はすぐさま行動を取った。保健室に居る俺の元居た会社に居た先輩。俺より先に会社を辞め、フランスの病院で働いていた安心沢さんに会いに来た。
テイオーの骨折の時も、この人が居たおかげで菊花賞に出走する事が出来た。今回もその力を借りることさえ出来れば.........アグネスタキオンの走りを、終わらせる事は無いはずだ。
安心沢「.........桜木くん。結論から言うわ」
「不可能よ」
桜木「えっ.........?」
タキオン「.........やはりそうだろう。私が血眼になって探した物だ。そう簡単に近くにある訳が無い」
俺の隣に座る彼女は、分かりきっていたと言うような素振りで、軽くその事実を流した。流せていないのは、俺だけだ。
安心沢「良い?その子の脚は既に崩壊が始まっているの」
真剣な表情で、俺達に向けてそう言葉を発してくる先輩。その衝撃的な事実に、俺は思わず、隣に座る彼女の方を見てしまった。どんな顔をしてるかなんて、分かりきっているはずなのに.........
タキオン「薄々察しては居たさ。なんせ最近は走った後に違和感が酷くて大変なんだよ」
桜木「.........あれ?」
やれやれ、と言った素振りで頭を振り、呆れたような様子を見せるアグネスタキオン。どうやら俺が思っていたより、彼女は大丈夫そうだった。
しかし、頼みの綱は消えてしまった。こんな事では、夏の間に彼女の脚を何とかしてみせるなんて言うことなど夢のまた夢だ.........
タキオン「.........まさか君、私をダービーに出したかったとでも思ってるんじゃないかい?」
桜木「ギクッ.........そ、ソンナコトハ......」
疑惑に満ちた目を無言で俺に向けてくる。いや。流石の俺もこうなってしまったら諦めざるを得なかったが、それでもそれは彼女の引退宣言を聞く前の話だ。今はもうその希望は手を離している。
それでも彼女は溜息を吐き、呆れながら口を開いた。
タキオン「あんなものあげてしまえばいいだろうあの子に.........ほら、あの子だ。ジャングルターザンくん」
桜木「違うでしょ.........いや、俺も名前覚えてないけど.........」
デビュー後のレースであるラジオたんば杯。そこでタキオンを強くライバル視してくるウマ娘が居たけど.........誰だっけ。名前を思い出せない.........
「ぅうあぁぁぁい!!!」
桜木「違うな。絶対違う」
ふと頭の中で何故かとあるお笑いトリオのリーダーの声が聞こえてきたが、何故出てきたんだ。
まぁ思い出せない子の名前を無理して思い出すのはやめよう。もし間違えてる名前で思い出したら可哀想だ。今度会った時にそれとなく聞いておこう。
タキオン「なぁに、もし上手くいかずに引退したとしても、私はチームに残るつもりさ。君の周りは退屈しないだろうし。[プランB]候補は山ほど居る」
桜木「.........そうならないよう頑張るよ」
恨みがましく、誰に言うでもなくそう静かに呟いた。一瞬、[祈っている]と言いかけた自分が居たからだ。
タキオンが今こうなっているのは、俺が前もって対策をしていなかったからだ。そんなの、祈られた方も自業自得だと切り捨ててくるだろう。
だから、俺が何とかしなくちゃならないんだ。俺が[桜木玲皇]としている為に。トレーナーという[役割]に、しがみつく為に.........
ここで燻っていても仕方がない。そう思い、俺は重い腰を上げ、保健室の外へ出ようと歩を進めるが、彼女の気配が近くに無いことを感じ、振り返った。
桜木「?行かないのか?」
タキオン「ああ、私は少し[彼]と話したいから、君は早くマックイーンくん達の所に行ってあげたまえ。寂しがっていると思うよ?愛しの愛バがねぇ?」
桜木「うるへぇ!!!そこまで俺をからかう元気あんなら安心して置いてけぼりに出来らぁ!!!」ガララッ!
ったく、なんでこんなシリアスな時にも俺の心を弄んでくるんだあのDr.目が濁ってるは!!!お陰で心配する気がちょっとだけ失せたわ!!!
勢いよく閉めた扉の奥から、先輩とタキオンがクスクスと笑う声が聞こえてくる。そこまで面白いか。人の色恋が。自分は早々とゴールを飾ったからってやっていい事と悪い事があるだろう。
恐らく、彼女が言う[彼]と言うのは黒津木の事だろう。正直こんな状態の俺より、恋人であるアイツの方が彼女の心を癒してくれるはずだろう。
俺は俺の出来ることを.........そう思い、俺はその足でまた、チームルームへと戻って行った。
ーーー
黒津木「うい〜っす。WAWAWA忘れも―――」
タキオン「やぁ」
黒津木「のうわっ!!?」
安心沢「ワオ☆古臭い驚き方ね♪」
しばらくの間、安心沢保健室医と談笑に浸っていると、なんの前触れも無く彼は保健室の扉を開いた。私の顔を見た瞬間、見たくなかったものを見るような顔で彼は驚きの声を上げる。
タキオン「おぉ〜?なんだいなんだい、まるでお尋ね者を見たような顔をして〜。まさか私に会いたくなかったのかい?[恋人]である、この、[アグネスタキオン]に?」
黒津木「い、いや。会いたいか会いたくないかで言ったら.........」
黒津木「.........今は、ちょっと」
言葉を濁し、私から目を背けた。彼からこういう反応をされるのは初めてなので、少し驚いた。もう少し弁えない人間だと思っていたが、それはどうやら私の思い違いだったらしい。
ならば、こんな状態の彼なんて未知の存在だ。それを楽しまずにいるのはとても勿体ない。私はそう思い、彼に近付いた。
黒津木「っ、な、なんだよ!!?」
タキオン「いやいや、あのクールな立ち振る舞いで通ってる君が、そこまで取り乱すとは.........そんなに私が心配かい?」
黒津木「.........ああ」
タキオン「私に会いたく無くなるくらい?」
黒津木「ああ.........!!!」ガシッ!
タキオン「っ.........!」
彼をからかい、面白がっていると突然、私の肩が抱き寄せられる。それが彼のした行動だと気付くのに、時間をほんの少し有した。
それは壊れそうなガラス細工を扱うような物ではなく、なりふり構わない彼の必死さが伝わるほど、強い力で私は引き寄せられた。
黒津木「.........俺には、お前のしたい事が分からない」
タキオン「そんなの、当たり前じゃないか。恋人と言っても所詮は他人。お互いを繋ぐ何かが一つ増えただけで心の内を知れるなんて.........私は息苦しく思うよ」
強く。それはもう強く抱き締められているはずなのに、何故か物足りなくなってしまう。まだ力が足りないと思ってしまう。それはきっと、私自身が彼等彼女等に、色々と絆されてしまったからだろう。
繋がるだけで心の内が見えるようになる。素敵な話だ。よくある創作にあるそれは、きっと最初は素敵な発明に違いなかった。
だけど、心というのは常に上向いた気分のものでは無い。そう出ない時、決して人に見せられない言葉や感情が、心の底から顔を出す時。それはきっと、煩わしくなるに違いない。
タキオン「.........それでも、私の心の内を知りたいのだったら」
「君は何を代償に払ってくれるんだい?」
黒津木「代、償.........?」
タキオン「ああ。君の好きな言い方をするんだったら、[等価交換]とも言うね」
1だけで何かを見出す場合。普通は1以外の何かは生まれない。もし生まれたとするならば、それは1に見えていただけで、蓋を開けてみれば2、3、果てには10や100だったという可能性もある。
私の[1]を知りたいのならば、彼の[1]を差し出してくれなければ不公平だろう。心というのは、思想や思考などといった抽象的な物ではなく、その者が原則としている決まり事だ。
黒津木「俺はただ、タキオンが心配で.........」
タキオン「何故、どうして、どうやって、どのようにして心配してるんだい?それを、教えてくれはしないのかい?」
黒津木「.........」
するり、と彼の手が私の肩から離れて行く。私だって本来ならば、こんな彼を虐めるような真似はしたくはなかった。それでも、彼には最近、何とも言えない不信感が募っていたんだ。
それを解消しなければ、とてもでは無いが[恋人]なんて言う楽しい関係に戻れそうには無い。
タキオン「.........君はどうして、私にそこまで肩入れするんだい?」
そう言って、今度は私が彼の肩を掴んだ。今の私以上に脆い心であろう今の彼を、そっと労わるように。私は彼の肩を、そっと撫でるように掴んだ。
それでも.........彼はまだどうやら、私に言いたくないらしい。意固地というか、頑固とも言うべきか、彼は私の手を優しく払った。
黒津木「.........ごめん」
タキオン「.........いや、良いんだ。私も悪かった。少し意地悪が過ぎたようだ」
黒津木「.........今はまだ、言えないけど。言えたら言うから」
彼は隠せなくなった弱さを隠そうとしながら、自分で払った手を、包み込むように両手で掴んだ。まだ多少の疑問は残っているが、彼に対する心配は無くなった。
不意に、私の頭に手が乗せられ、等間隔で優しくポンポンとされる。普段触るなと言っている耳に触れないようにそうしてくれる彼が、なんだか嬉しかった。
黒津木「.........またちょっと空けます。留守番お願いしますね。安心沢先生」
安心沢「あっ、忘れてなかったのに目の前でアレしてたのね.........いいわよん☆ゆっくり悩みなさいな」フリフリ
優しく微笑みながら手を振り、彼女はずっと私達に向けていた視線を机へと戻した。仕草だけを見れば大人だ。見た目のセンスは壊滅的だが、トレーナーくん達よりかは遥かに大人びている。
名残惜しそうに離れて行く彼の手と彼を見送りながら、私もその目を、黒津木くんが保健室から出ていくまで離すことは無かった。
タキオン「.........羨ましいよ」
安心沢「え?何が?」
タキオン「私にも、君のような余裕が有ったら、あんな事を言わずに済んだかもしれない」
柄にも無く、自分がした事を振り返る。実証実験のレポートならば兎も角、再現性の無いただ一つの会話でそんな事をするなんてバカげている。
だが、それでもそう思ってしまう。最近は本当に良く思ってしまうんだ。これもきっと、トレーナーくんやマックイーンくん達と過ごした年月がそうさせているのだろう。
そんな自分に少々呆れていると、クスクスと笑う声が彼女の方から聞こえて来る。何かと思い、安心沢くんに視線を送ると、そこには優しく、そして悲しげな笑みで私を見ている彼女が居た。
安心沢「大いに悩みなさい?若いんだから」
タキオン「.........そうだね。そうしてみるよ」
彼女にも、彼女なりの悩みを抱き、それをどうにかしてきた人生がある。その積み重ねが、今の彼女を形成しているのだろう。
こう言っては語弊が産まれるかもしれないが、彼女は私にとっての目標だ。研究者として、そして女として、私はまだ彼女の足元にも及ばない、年端も行かない少女なのだ。
若干胸の内に生じる悔しさを噛み締めながら、私は自分の脚に目を落としていた。
ーーー
黒津木「.........はぁぁぁ」
噴水の流れる水の音を背後に、俺はそれをかき消すほどの大きな溜息を吐いた。それでも、この不安と焦燥感は取り除かれない。
誰かの病魔を取り除けても、自分のはどうにも出来ないなんざ飛んだお笑い者だ。かの有名なブラックジャックでさえ、自らの腹を搔っ捌き、手術して見せたというのに.........
黒津木(.........まぁ、そんな[創作]地味た真似は、流石に出来ねぇなぁ)
乾いた笑い声が静かに響く。それが耳に入ってくると、自分も随分老いたと感じてしまう。俺にはもう、何でも出来るという若さだけの根拠など残っていない。
そんなことはさておき、俺は先程の彼女との会話を思い出す。何かを探るような目と口調からして、彼女は恐らく.........
黒津木(.........気付いてんだろうなぁ)
俺が彼女に対して、何科を隠していることに気付いている。そして、それを言いたくない理由。それを隠している事も、勘づいている。
どうすれば良いか。何をしないべきか。それがただ頭の中でグルグルと巡っていると、不意に隣に座ってくる気配を感じ取った。
ゴルシ「よう」
黒津木「.........どうした?怪我でもしたのか?」
ゴルシ「いんや?ただ噴水から辛気くせー雰囲気が爆漏れしてるってゴルシちゃんキングダムの衛生管理局からテルられてよー!!調査に来たんだ!!」
それは、いつも通りのゴールドシップだった。どこか掴めない、掴ませてはくれない彼女の。いつも通りの姿。ニカっと笑う姿が、アイツと重なって見えてくる。
.........なんでだろうか。何故かは知らないけど、コイツは俺の事を話しても、笑いはしないだろう。そんな事を、直感で感じてしまった。
ゴルシ「なーなー!!天下の[ゴットハント]黒津木センセーもなんか悩みがあんのか!!?」
黒津木「はは、人生歩いてる奴なら、道に迷うことくらいあるさ」
ゴルシ「ほぇー!!そこはアタシと同じ人間なんだな!!」
黒津木「お前は悩みとか無さそうだけどな」
ゴルシ「なにおー!!こう見えても沢山、それこそ夜空に浮かぶ星座の2億倍の数は悩みが多いんだぞー!!!」
そう言って、ゴールドシップは指を折り、俺に悩みを打ち明けてくる。
カレーを食べる時に福神漬けをそのまま食べるかカレーと混ぜるか。
寿司に付けるわさびの適量をネットの海に委ねるか今から寿司屋に駆け込んで大将を締め上げて聞き出すか。
マックイーンの雪見だいふくを何回奪えば怒り出すのか。
おっちゃんとマックイーンの距離を縮める為になんかしねーと出られない部屋に閉じ込めるか。
そんな俺にとってはくだらない悩みを真剣に話してくる。けれど、その全てが下らないにしても、俺はそれをバカにする気にはならなかった。
もしかしたら、俺の悩みも他の奴が聞いたら下らないと思うだけで、真剣に聞いてくれるかもしれない。
黒津木「.........俺も、話していいか.........?」
ゴルシ「お?おう!!!」
まるで太陽の様な笑みを向け、ドンと来い。そういう様に胸を叩く。そんな彼女を見てると、本当に今まで一人で悩んでいた事が、バカバカしくなってしまった。
俺は込み上げてきた笑いを鼻で笑うだけに収め、自身を追い詰める元凶を、そっと口から出して行った。
黒津木「分からないんだ」
ゴルシ「?何がだよ?」
黒津木「.........[医者]としてを取るか、[恋人]としてを取るか」
俺は、迷っている。正直今、人生のターニングポイントだとはっきり感じている。それ程までに、重要な局面に立たされているのだ。
自分の立場と、自分のやりたい事が今、完全に正反対の方向に向かっている。身体は一つしか無い。行ける場所も、一つしか無い。
黒津木「俺は、アグネスタキオンを助ける事が[できる]」
黒津木「けれどそれは、[医者]としては一番[しては行けない]ことなんだ」
ゴルシ「.........」
誰かを助ける。それは[医者]にとって、それになる為に必要な絶対条件だ。誰かを助ける事が、この職業の本質であり、本懐であり、目的なんだ。
だけど、それは誰かを助けるのと並行して[みんなを助ける]選択をしなければならない。個人一人を助けようとするのは、医者では無い.........
そんな事は分かっている。ならばそれをすればいい。けれどそれをしている内に、彼女は.........
そこまで考え、葛藤が最大限に高まってくる。気が付けば汗は大量に溢れ出し、呼吸も苦しくなってきている。組んだ両手に頭を押し付け、何とかそれが収まるように望んでいた。
「知らねぇよ」
黒津木「え.........?」
普段聞き慣れている声の、聞き慣れない調子の声。俺は驚いて、その声が聞こえた方を振り返ると、先程までのおちゃらけなんて一切感じさせないゴールドシップの真顔が、俺を真剣に見ていた。
ゴルシ「誰かを助けたい。皆を助けたい。別に良いじゃねえか」
ゴルシ「けどな、そんな自分だけのポリシーだとかなんだとかで悩んでる奴は、本気でそいつの事考えられてねぇと思うぜ?」
黒津木「っ、俺は本気で―――」
考えている。その最後の言葉を言おうとして、それを飲み込んだ。苦い味が、口の中に広がって行く。考えれば考える程、ゴールドシップの言う通りだと、分かってしまうんだ。
彼女はつまらない話を聞いたというように、最初の元気さの欠片も無く、気だるげに立ち上がり、伸びをする。俺はそんな姿をただ見ているだけで、謝る事も、訂正する事も出来ていない。
そうして俯いて、自分の愚かさを蔑んでいると、彼女は背を向けたまま、俺に声を掛けてきた。
ゴルシ「じいちゃんは言っていた」
黒津木「.........?」
ゴルシ「[好きな子の笑顔は何があろうと第一優先].........ってな!!!」
黒津木「.........!!!」
彼女はそう、またあの笑顔を俺に向けて言ってきた。屈託の無い、太陽の様なあの笑顔を.........
全く。心身共に弱りを見せると、自分の頼りにしているものが良く見えてくるものだ。今度は、姿だけじゃなくて、声すらも再生されやがった。
.........そうだよなぁ。日本男児はいつだって、ヒロインを守るのが.........大好きだもんなぁ.........
黒津木「.........ありがとうよ。お陰で、吹っ切れた」
黒津木「いや。元々そうするつもりだったのかもしれない。誰かの後押しを欲しがってたのかもな.........」
こんなにコロッと方向が決まると言うことは、俺は元々そうする予定だったのかもしれない。ただ、一人で決めるには、俺はまだ半人前だっただけだ。
まだ大人じゃないこんな娘に背中を押されて覚悟を決めるなんて、本当に格好付かない。そんな自分に呆れを感じながらも、俺はそのまま立ち上がり、彼女に礼を言った。
黒津木「ほんと、サンキューな」
ゴルシ「へへっ、良いってことよ!!楽しい[未来]を見せてくれるんだったら、アタシはなんでもするぜ!!」グッ!
サムズアップ。親指を立てて笑ったゴールドシップは、そのまま無駄話をすること無く、颯爽とその場から駆けて離れて行った。
俺も.........この覚悟を決めた内に彼女と話を付けたい。
黒津木(俺には、まだ分からない)
黒津木(.........けど、それで良いのかもしれない)
世の中、分からないことばかりだ。そしてそれを解明するために、研究者というのは存在している。何も最初から、分かっていて研究している程退屈な存在では無い。
だったら、分からないなら分からないなりに、これから歩んで行けばいい。分かろうとすればいい。そう思い、俺は重苦しい空気を深呼吸と共に肺から出し、新鮮な空気を取り込んでから、噴水の音から自ら遠ざかって行った。
ーーー
桜木「よし。今日の振り返りはここまで。明日からはそれぞれの目標レースに向けて本格的にトレーニングメニューを.........」
夕方特有の茜色が射し込むチームルーム。暖かさに平和を感じ、目の前にチームの皆を座らせながら、俺は予定表の紙を捲っていく。
メジロマックイーン。
次走は宝塚に向けてのトレーニング。長距離より展開の早いレースになるのが予想される為、スピードとパワーをいつもより重視。
ライスシャワー。
GI続きでメンタル的に不安。よって次は一つグレードの低いGIIのレースに向け、調子を整えるトレーニング。
ミホノブルボン。
未だ脚は万全では無いため、出走は避ける。早ければ年末。遅くても来年には走らせたい為、身体の状態を見ながらメンタルや上半身を鍛える。
ハルウララ。
レースの位置取りや競り合いになった時の焦点や発想がようやく良くなってきた。次からはラストスパートからではなく、最初から通しで模擬レースをして行く。
アグネスタキオン。
桜木「.........っ」
マック「.........トレーナーさん?」
心配そうな声を掛けてくるマックイーン。そうはさせまいと笑顔を作り応えてみるものの、それがぎこちない事は自分がよく知っている。
アグネスタキオン。彼女のメニューがまだ出来上がっていない。何をどうすればいいのか、分かっていない。こんな事では到底、彼女のトレーナーなんて名乗れやしない。
一人ずつ、目標とトレーニングの方針を印刷されたプリントを持っていく。遂にタキオンの番が来た時、俺は思わず、その手を引いてしまった。
タキオン「?トレーナーくん?」
桜木「.........いや、悪い。実は―――」
気持ちの悪い汗が背中を伝う。彼女に言えば、きっと許してくれるだろう。だが、それはきっと彼女の[期待]を裏切る事になる。俺ならばと着いてきてくれた彼女を、裏切る事になる。
それでも俺は、弱い人間のままだった。俺の期待も、彼女の期待も裏切ろうとも、嘘をつく事さえ出来ない弱い男だ。俺は、彼女にそれを話そうとした。
その時だった。この時間帯、普段誰も来ないはずのチームルームの扉が開いた。そこに立っていたのは.........
黒津木「.........っ、う」グッタリ
タキオン「黒津木くん!!?」タッ!
桜木「お前、どうしたんだ.........?」
そこに立っていたのは、何故か疲れきった黒津木の奴だった。壁に手を当て支えていたが、掌の汗で滑り、そのまま前のめりになって倒れ込みそうになったのを、タキオンが慌てて支えた状態だ。
奴はそうなりながらも、支えてくれたタキオンに礼を言うように、頭を優しく撫でていた。これがきっとモテる奴の行動なのだろう。僕にはとても真似出来ない。
マック「い、椅子ならここにあります!!タキオンさん、座らせて上げた方が.........」
タキオン「分かった。助かるよマックイーンくん」
自分が座っていた椅子を差し出し、俺の隣に来て二人の様子を見るマックイーン。こうしてみると、介護をしてる場面に遭遇した気持ちだ。
静まった空間の中、どうしてこうなったという気持ちで、俺達は疲れきっている黒津木を見ていた。
黒津木「.........」
桜木「.........座りに来た訳じゃ、無いんだろ?」
座り込み、俯いているコイツにそう投げかけると、それに応えるように、俺に向けて、疲れた顔で笑って見せた。
その顔に何かを感じる前に、ゆっくりと立ち上がり、テーブルの前までやってきた。
黒津木「ずっと。迷っていた」
黒津木「俺の立場では、絶対にやっちゃ行けない事だ」
黒津木「.........けれどもう、関係無い」
自らのポケットを漁り、何かを掴んでテーブルへと置いた。それが何なのか最初は分からなかったが、その形状を見て、それがなんなのかを理解していくに従って、俺は目を見開いて行った。
桜木「お前.........それ」
黒津木「.........[可能性を超える]為の、第一歩だ」
マック「!それって.........!!!」
皆がその発言の意味を察し、驚いている中、黒津木はゆっくりとタキオンの方へ歩いて行く。先程までおぼつかない物だったはずなのに、今ではそれがしっかりした物だと錯覚してしまう。
静かに立ち、不安そうな顔を見せる彼女の手を取り、その額を彼女の頭に押し当てた。
黒津木「.........やっちまったよぉ」
黒津木「これで俺は晴れて.........マジモンの[医者モドキ]になっちまったぁ.........」
泣き言、嘆きと懺悔の言葉であるが、その声はどちらかと言えば、疲れ切っていながらも、清々しい程嬉しそうであった。
タキオンはそんな黒津木に何を言うでもなく、黙ってその手を背中に回し始めた。その手は、震えていたように見える。
黒津木「.........でも、一つ約束して欲しいんだ。タキオン」
タキオン「.........ああ、ここまでしてくれたんだ。なんでも言ってくれ」
黒津木「.........俺がこれを作る為に、見えていたけど[捨ててきた可能性]を、拾い直してくれ」
黒津木「[お前だけを助ける為に作った物]を、[他の皆が助かる可能性]にしてくれ」
一人が助かるだけの物を、他の誰かが助かる可能性にする。その道が、どれほど険しいものかは分からない。それでも、それがどれだけ大事なのかは、素人の俺でも分かる。
それに言葉で応えることはせず、タキオンは静かに頷くことで了承した。その姿を、俺達はしっかりと見ていた。
マック「.........良かったです。解決の糸口が見えて」
桜木「ああ、長丁場の泥沼にならなくて.........俺も助かったよ」
黒津木「何言ってんだ?」
隣に居る彼女に言うようにそっと呟いた筈なのだが、どうやら聞こえていたらしい。俺は思わず、視線を彼女から外して黒津木の方をもう一度見た。
黒津木「俺が託したのは、タキオンだけじゃなく、お前にも託したんだぜ?[トレーナーさん]よぉ?」
桜木「.........はぁ」
マック「頑張ってくださいね♪トレーナーさん♪」
桜木「マックイーンまで.........もぉぉぉぉ」
なぜただの一般トレーナーがそこまでのことをしなけりゃならんのじゃ。マックイーンを筆頭に、俺の活躍に期待を掛けるチームメイト達。本当、飛んだブラック学園に所属しちまったもんだ。
だけど、なんだか悪い気持ちはしない。結果として、 なんとかなる可能性は出来上がったんだ。だったら後は.........
桜木「可能性は出来た。時間もまだある。だから後は―――」
「「「「「「「[奇跡]を超えるだけ!!!」」」」」」」
桜木「ぅおいっ!!!」
タキオン「君の言うことは分かりやすいんだよ。トレーナーくん」
デジ「今のは比較的新参のデジたんでも分かりましたよ!!」
クスクスと笑い始めるウマ娘達。そして俺をバカにするように笑う男一人。そんな現状にげんなりとしているが、不思議とそれに悪い気はしていない。
マック「ふふ。皆さん一緒に過ごしてきた年月が長いって事です」
桜木「.........はは、それもそうだな」
長い年月をかけて、築き上げてきた絆。皆の顔を見ているとハッキリと分かってくる。ここに来るまで、それぞれ取り繕ったり、何を考えているか分からなかったり。泣いていたり、表情が変わらなかったり。オタクだったり。
.........まぁ、一人は相も変わらずまるで太陽の様な愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいている春の子が一人いるのだが、それでも分かる。
五年。子供にしたら、七五三が二回目を迎える年月だ。チーム[スピカ:レグルス]も五歳。育ち盛りの未来が楽しみになってくる年齢だ。
桜木([奇跡]を超える.........それさえ出来れば、なんだって.........!!!)
乗り越えられる。例えどんな困難や絶望が待っていたとしても、俺は.........いや、俺達はそれを越えられる。
そう思い、ふと窓から差し込む光が弱くなっている事に気が付きその方を見ると、外は静かに、雨を降らせていた.........
......To be continued