山あり谷ありウマ娘 〜気付いたら脱サラしてトレーナーになった話〜 作:ギノっち@カマタラル
主治医「.........」
揺らぎ。そして弾ける炎の音。それを耳に入れながら、私は過去の事を思い返していました。
メジロ家に主治医としてその身を置いた事。マックイーンお嬢様と出会った事。桜木様と、その彼の担当するウマ娘の方々。
そして.........それより以前の事.........
断片的な記憶が一瞬で過ぎ去り、爆発音と銃撃音。血の匂いと震える自分の手。そして、熱を持たない肉の塊.........
主治医「っ.........」
色を持たないその記憶。まるで思い返しても意味は無い。若しくは、自分の無意識が色を抜き、意味の無いようにしたとも言えましょう。
頭を振り、その記憶を振り払った後、私は自分の両手を注視します。
微かに震える両手。ようやくあの記憶から。悪夢から解放されたと思っていましたがそうではなく、ただ単に自分がそれを忘れていた。という事を酷く痛感させます。
自分は結局。あの日から逃げたのだと。
逃げて逃げて、記憶に蓋をし、見たくないものを見ようとせず、ただひたすらに.........自分の都合のいい物だけを見ていた。
「あれ、まだ起きてるんすか?」
主治医「!桜木様.........」
桜木「火の番変わりますよ。明日は試練でしょ?後は俺が見てるんで、チャチャッと寝て備えて下さいよ」
まだ眠いのか、欠伸をしながら彼は私の隣に腰を下ろしました。私はそんな彼の姿をただ呆然と見ていました。
彼のお陰で、今のマックイーンお嬢様が居らせになられる。
しかし、何も特別な人では無い。どこにでも居るような、本当に少し目を凝らして探せばどこにでも居る、そんな好青年。
決して身に纏うオーラや雰囲気からは特別な物を感じさせない彼が、どうしてここまでお嬢様の、そして私達の精神的支柱になってくれているのか、理解出来ずに居ます。
桜木「.........エディ先生とお知り合いなんすか?」
突然、彼はなんの脈絡も無く質問をしてきました。その表情はただ火を見つめ、無表情でした。
私は、医師としての道を志し、そして最初に歩いた道筋を古い記憶の底から取り出し、思い返します。
主治医「.........彼は私の大学時代の講師でした」
主治医「彼はその時から既に医者として名声を上げており、その時は確か、日本の医学界への貢献.........という名目で大学に在籍なされていたはずです」
主治医「彼の教えを受けられたのは、幸運でした」
古い古い、遠い記憶。セピア色に色褪せたそれらに、特別な感情は何も有りません。ただ過去の事。そうとしか思えない自分が、何て薄情なんだと自嘲してしまいます。
結局、その後大したお話も出来ず、私は明日の備え就寝する事にいたしました。
テントに戻る際、彼からの応援を背に受けながら、私はただ、自分に課される試練への不安をひたすら押さえ込みました。
ーーー
『お久しぶりです。[先生]』
かつて知っている顔との再会。嬉しい訳では無い。かと言って、嬉しくない訳でも無い。これと言った感情は、あの時には浮かび上がらなかった。沈殿した物質の様に何かの器に入れられた人生という水に、私の感情は既に刺激を忘れ、沈澱していた。
エディ(.........もう既に、その道は諦めたと思っていたのだがな)
かつてのあの男。記憶に残る姿は青年だった。医者を目指している他の者と何一つ変わらない。医学という人類にとっての革命的な学問を身に付け、人を救うと嘯く者達。その有象無象の一人だった。
だが残念な事に奴にも才能があった。そして愚かな事に、その医学の知識を医者と言う最も愚かな職へと生かそうとした。[彼女]とは違い.........
エディ(何故だ。私は貴様に地獄を見せたはずだ)
エディ(その地獄は、医者等という一人の人間風情が覆すことの出来ない死で覆い尽くされて居たはずだ)
エディ(なのに.........)
そこまで考え、不意にそれは無意味だと気付き鼻で笑う。そんなもの今考える必要は無い。これからの試練で分かる物だ。
ならばその為にも、私はその試練の日を楽しみにしながら眠りにつくとしよう.........
ーーー
桜木「なぁ〜.........まだ掛かる系か〜?」
ナリブ「それは一昨日言っただろ」
木や草が生い茂る山の中。人が通る前提じゃないけもの道の中を気を付けながら、先を歩くご老体のエディ先生の後に着いて行く。流石住んでいるだけあって、身軽さというか、容易さが感じられる。
それでもやはり歩き過ぎだと思い、つい文句を言ってしまうと、うざったいと言う感情を詰め込んだ言葉をブっさんにぶつけられて思わず口を尖らせる。だって長いんだもん。本当に。
エディ「試練の場所は私の仕事場だ」
桜木「えっ、仕事して.........あっ、すんません.........」
ナリブ「失礼だろ」
桜木「だから謝ったんじゃん!!!」
爺や「帰った際は空気読み、そしてデリカシーコースのお勉強も追加ですな」
桜木「分かった!!!もう喋らない!!!」
爺や「その屁理屈も矯正するために講師もお付けしましょう。打って付けの方を知っております。ご安心ください」
桜木「」
なんでだ。俺はただ思った事を口にしてしまっただけなのに、なんでこうもあの子達に会うための時間がどんどん遠くなって行くんだ.........
エディ「ああ、言い忘れていたが今回のシレンは私の大切な知識を使っている。門外不出だから来た所で一緒に居ることは出来んぞ」
桜木「アンタのせいで.........!!!アンタのせいで俺はァッッ!!!」
ナリブ「止めろバカッッ!!!殴ったら悪いのはこっちになるんだぞッッ!!!」
腕を大きく振り上げると、すぐさま俺の行動を見抜いたブっさんに羽交い締めにされる。そんな姿を見ながらエディ先生。いや、クソッタレのクソが全身にこびりついたクソジジイことエディは鼻で俺の事を笑った。
エディ「そんなに嫌なら戻ると良い。幸いまだ20分程しか歩いてない。道なら覚えているだろう?」
桜木「.........行くよ。主治医が帰りにアンタみたいな偏屈ジジイと一緒に居たら泣いちゃいそうだし」
主治医「泣きません」
桜木「なんでそう言えるん?」
主治医「それは私がお嬢様の主治医だからです」
ナリブ「持ちネタなのか?」
爺や「昔はこれを言うとお嬢様が笑ってくれましたからね」
主治医「.........グス」
桜木「ああ.........今泣くんだ.........」
目頭に涙を貯め、それを腕で拭う主治医。きっと過去のマックイーンの姿を思い出し、今の成長した彼女と照らし合わせているのだろう。その泣いている姿は悲しみという感情とは酷くかけ離れていた。
そして気が付けばエディの足が止まる。それに気付いた俺達もその場で立ち止まり、その男の視線の先を見る。
そこには一台のトラックが何かを施設へと搬入し、そして俺達を気にすることなくその場から去っていく。その光景が何故か、異様に思えた。
ナリブ「.........っ」
桜木「?どうした?」
ナリブ「変な.........臭いがする。今まで嗅いできた事ないような物だ.........」
エディ「ウマ娘は鼻が利くからな。ここでは口呼吸の方が良い。私も極力臭いは嗅がないようにしている」
主治医「っ、先生。貴方はここで何を―――」
エディ「[仕事]だ。今回の試練はお前にそれを手伝ってもらう。おあつらえ向きだろう?[医者]としての腕を知るには.........」
男は笑った。寂しげでありながら、諦めすら感じさせる表情で自嘲しながらそう言った。主治医はそれっきりで質問する事無く、施設へと向かうエディへ着いて行く。
その背中を見て、俺達は何も言えない。けれど、何かを言いたかった。
桜木「.........主治医さん!!!」
主治医「?」
桜木「辛くなったら、何でもいい。自分を支えてくれる物を思い出してくれ」
主治医「.........肝に銘じて置きます」
彼は俺の方へと振り返り、軽く頭を下げる。その表情には覚悟が宿っていた。それを知れたのなら、もう心配する必要は無い。後は信じて待つだけだ。
二人の背中が小さくなっていく中、俺達は鼻の良いブっさんに配慮して、ここから少し離れた平地で、主治医の帰りを待つ事にしたのだった。
ーーー
施設の扉に彼の手が掛けられる。年月が経っているのだろう。少し力を入れただけでドアは開き、そして金切り声をあげる。
途端に異臭。もう二度と嗅ぎたくは無かった物が鼻の奥へと通り抜け、思わず手を鼻へと伸ばしてしまう。恐らくは、先程トラックから運び出された物でしょう。
主治医「.........先生。仕事とは一体?」
エディ「[解剖]だよ。死因把握のな」
主治医「っ.........!!!」
やはり。とは思いましたが、実際にそれを聞いた私のショックは計り知れないものでした。もう二度と、それと触れ合うことは無いと思っていたと言うのに.........まさかここに来て、もう一度それをする事になるとは.........
彼はそのまま奥へと平然と進んで行く。それに続く様に足を前へと出して行きますが、奥に進むに連れてその異臭が強さを増していきます。
二人の靴音だけが辺りに響き、その反響音が何故か昔を想起させます。その記憶は.........その記憶こそ。私がメジロ家の主治医である前に居た場所.........
[府中の病院]でした。
エディ「貴様には地獄を見せたはずだ。医者等という、己の力を過信し、死という運命すら覆せると驕り高ぶる存在の為に、私は目の前に突然現れる死の存在を、教えたはずだ」
主治医「.........ええ。貴方が私をMSFへ推薦した時は.........あの現地での時間は、生きた心地がしませんでした」
次々に運び込まれる患者。いつ襲われるか分からない緊迫感。身体以上に心に傷を負い、その影響を受けて行く仲間達.........
その中で私は次第に、この世に人間以上に高望みをする存在は無く、それと同時に人間以下に自らを含む者の死を望む生物は居ない。そう感じさせるほどの地獄を味わいました。
エディ「では何故今も尚医学の道を行く?貴様程の優秀さと器用さならば他の道でも生きて行けただろう?」
主治医「.........」
エディ「.........まぁいい。貴様のその覚悟がどうなるか。ここで見定めてやる。入れ」
そう言われ、開けられた扉の奥を見ます。部屋は完全に闇になっており、電気をつけるまで中がどうなっているのかは分かりません。
しかし、ここでどのような試練が待ち受けているのかを考えれば、決して良くない予感が大きく強さを増していきます。
息を整えつつ、私は自分の足を前へと出し、その部屋の中へと足を踏み入れました。
少し入った場所で立って待っていると、電気を付けられます。一瞬、急な明るさに思わず腕で光を抑え、徐々に目を慣らしてから部屋の中を見ようとしてみると、そこは意外にも、私のよく知る診察室がありました。
主治医「これ、は.........?」
エディ「資料を纏めるならこの形が一番落ち着くからな。こういう形を取らせてもらっている」
エディ「さぁ、試練の時間だ。ゆっくりとして行きたまえ」
ーーー
エディ(.........ふむ)
彼を椅子に座らせ、向かい合わせになった状態で診断資料の要点を話させる。しかしそこは思った通り、昔通りの優秀さを遺憾無く発揮し、その知識は衰えていないと知る結果になった。
エディ「.........所で申し訳ないが、君の名前はなんだったかな?」
主治医「覚えて居なければ主治医で構いません。私も暫く名前で呼ばれていないので、そちらの方が耳慣れしております」
エディ「.........何故まだ医師をしている?」
主治医「.........この遺体の死因は出血ではなく睡眠薬による過剰作用ですね。湯船の中で血管を切った後に使用された物と思われますが、検出された血液に解けた成分量が致死量を遥かに上回っております」
エディ「何故貴様は過去を忘れる?」
主治医「こちらは記述通りの転落死ですが詳細が無いです。目撃者の証言を合わせたのなら恐らく二回目の階段での跳ねが致命的でしょう。後頭部の陥没具合で即死だと分かります」
エディ「逃げるな。偽善者め」
主治医「.........っ、さっきから何を―――」
その場から椅子を倒しながら立ち上がり、私は目の前に居る男の胸倉を掴みあげた。続く椅子の倒れる音。床に落ちていくカルテ。しかしこの状況でもこの男は顔色一つ変えはしない。
その目の奥には、かつての姿には宿っていなかった何かに対する思い、覚悟が備わっていた。まるで、届かぬ願いと執念が織り交ざった、あの頃の―――
エディ「.........余興は終わりだ。次は実践してもらう」
主治医「っ、やはり.........そうなるのですね」
エディ「フフ、まだ癒えて無かろう?10や20の年月では到底治る事の出来ない。貴様にはそれを植え付けたのだからな.........」
まだまだ試練は終わらない。目の前の男の真意を問うにはやはり、これしか無いようだ。ならばそれをするまでの事。
私は診察室の扉を開き、廊下へと出て行く。その後ろへ着いてくる奴の姿を横目で見た後、その覚悟の裏に隠れた本性がどんなものかを楽しみにしながら、私は次の目的地へと向かった。
ーーー
彼に連れられて次に訪れた場所は、この場所のどこよりも先程感じた異臭が強く、充満していた。
その鼻に着く臭いに嘔吐きを感じながらも、私は今、目の前のベッドの上に掛けられた布の下を見定めるべく、それを取った。
主治医「.........ふぅぅ」
それはやはり、[死体]でした。過去に見てきたそれと何ら変わらない、人の姿を象った肉。それが異臭の根元としてここに居る。その事実に揺さぶられそうになり、私は深く息を吐き出します。
どういうつもりなのか。それを問う様に先生の方を振り返ると、彼はまるで日常だと言わんばかりに椅子に座り込み、机に置かれていた封筒を開け、白紙のカルテを机に置きました。
エディ「私達の生活費はこれで稼いでいる。病院より安い料金で受け持っているからな。売り手は付く」
エディ「勿論他の病院もこうした司法解剖を請け負っているが、そんな事をしなくても稼ぎにはなる。win-winという事だ。質問は無いな?」
主治医「.........ええ」
私が質問するよりも先に、彼はこの状況の説明をしました。それに納得し、納得するしかないと自分に言い聞かせながら、私もベッドのそばにある椅子に腰を下ろし、その魂の無くなった身体に触ります。
主治医(.........やはり冷たい)
成人男性であろう身体から感じるのはやはり、無機質な冷たさだけ。この冷たさから私はもう、20年は逃げて居ました。それが今こうして、再び目の前で触れなければ行けない。
目を閉じ、自分の思考を鈍らせながらやるべき事を果たして行きます。この方の死因はなんだったのか。窒息か、外傷か、強打か、病死か、ありとあらゆる可能性を巡らせながら外見を隈なく探ってみますが、これと言った特徴は見当たりませんでした。
いえ、強いて言うのなら.........
主治医「.........腹部強打。内臓破裂でしょう」
痛みによる衝撃か。或いはその部位の機能が働かなくなった事で生命維持が出来なくなったのか。いずれにしても、外見では細かく判断が出来ません。
そう思ったその時、私の頬にひんやりとした物が当たります。それに触れた瞬間。息を飲んでそれがそうでは無いと祈りながら、私はその方向を見ました。
エディ「.........中が見たいのだろう?使うといい」
主治医「.........あり、がとう......ございます.........」
差し出された金属の持ち手を、震える手で掴み、自分の目の前まで持ってきました。
それはやはり、メスでした。もう10年は持って居ないそれを今、こうして持っているという事実に直面し、思考がゆっくりと凍り付く実感を感じます。
主治医(っ、行けません。これを乗り越えなければ私は、桜木様達に顔を向けることなど到底出来ません.........!)
凍りついて行く思考の速度を何とか溶かし、精神を揺さぶられぬよう固定化しながら、私はその手に持つメスで遺体の身体に刃を突き立てます。
生きている者とは違う反発感。手に返ってくる感触。それだけで耐え難い程の苦痛でしたが、それでも何とかその心の苦悶を押し殺し、刃を前へ前へと進めて行き―――
主治医「っ、ぅく.........!!!」
少し開かれたその身体の中身。そして強烈に臭ってくる死臭に思わずその手に持ったメスを地面へと落としてしまいます。
目を背け、口元と鼻を手で覆いながら、私は目の前の光景から逃げ出しました。
乱れる呼吸。色褪せたはずの記憶に色が少し蘇る。
鳴り響く爆発音。絶え間ない銃撃。逃げ惑う人々。転んで逃げ遅れる子供。慌てて伸ばした手。突如光に包まれる視界。
助からなかった方達。助けようとして助けられなかった方達。自分の不甲斐なさを感じながら治療を施そうとし、その途中で亡くなっていく方達.........
そのどれもが、この臭いと共にありました。これが死の臭いだと。人の生に関わって居れば逃れる事の出来ない、運命の物だと悟り、私はこの道を一度諦めたのです。
エディ「.........もう一本あるが、使えないだろう?」
主治医「ハァ.........!ハァ.........!」
震える右腕を押さえ付けようと、その肩を左手で握りました。しかしそんな事をしたとしても、その震えが収まることなく、逆に増して来てしまう。
これが後悔なのでしょう。これが選択なのでしょう。このまま試練を続行し、恥を晒すのか。それともここで棄権し、彼に情けを乞うのか。このままの状態ならば、私の行動はその二つだけです。
主治医(.........申し訳ありません。皆さん)
主治医(私は貴方達の覚悟に見合う人間では、無かったようです.........)
主治医(こんな事なら.........この道を歩まず、別の道を―――)
―――歩んでいたのなら。
私は、果たしてここまでこのトラウマに対して、強く拒絶できたでしょうか?
平穏の中を過ごし、充実した毎日を送れ無かった私は果たして、この記憶とこうして真っ向から向き合えたでしょうか?
いいえ。
私のこの残りの半生は既に、メジロ家に、ひいてはマックイーンお嬢様に拾われた物。
もし仮にあの方達に出会えなかったとしたら、私はこの記憶を封じ込めたまま、次に思い出す時には痛みすら感じる事は無かったでしょう。
それは果たして、克服したと言えるのでしょうか?
私はこのトラウマと向き合えたと言えるのでしょうか?
主治医「.........メス」
エディ「.........なに?」
主治医「.........」
エディ「.........っ、これが残っている最後だ。次落とす事があったのなら、貴様は即刻不合格になるぞ?」
先程と同じような形で持ち手をこちらに向け、それを渡してくる先生。今度は彼の顔をしっかり見ながら、私はまだ若干震える手でそれを取りました。
切断を中止された部分に刃を当て、ゆっくりと息を吐きます。手の震えのせいで硬直した皮膚に当たり、金属音を断続的に出すそれに意識をなるべく向けることはせずに深呼吸をします。
エディ「......どういう、事だ.........!!?」
徐々に収まっていく手の震え。その様子を見ていた彼は無表情から徐々に、その顔の上に驚きの表情を作り始めました。
一人ならば決して、こんな所に来なかったでしょう。
そしてお嬢様と出会い、桜木様と行動を共にするだけの私ならば、ここで脱落していた事でしょう。
しかし、私には使命があります。[約束]があります。
余計に入れられた手の力。それを適切な物になるまでに抜いて行き、私はもう一度刃を突き立てました。力加減も何処まで切るかも、まだ記憶として残されています。
それをしようとしたその時、背後からぽたり、ぽたりと何かが地面で弾ける音が聞こえてきました。何かと思いゆっくりと視線を移動させると、私の背後で彼が冷や汗を静かに流し、そして落としていました。
エディ「何故だ.........!!?何故貴様はそんな事が出来る!!?」
エディ「全ての人を救う等という夢物語を本気で実現させようとし!!!それを打ち砕かれた貴様が何故ッッ!!!自身のそれを打ち砕いた存在に対して平然としていられるッッ!!?」
記憶の中では一度も見た事ない様な彼の困惑ぶりと怒号。そんな場に居ながらも不思議と思考は落ち着きを取り戻し、そして彼の言っていた言葉の意味を考え始めていました。
確かに私は、夢見がちな青年だった。幼い頃から人を助けるという事に憧れを抱き、その憧れのまま、夢を持った。
そしてそれは見事に打ち砕かれ、所詮は[寝て見る夢]に過ぎないのだと痛感した。
―――ですが
主治医「.........先生。貴方は私の過去を知っているようですが、[今]は知らないでしょう?」
エディ「今だと.........?そんなものが一体―――」
主治医「あの頃の私は[私の理想の奴隷]でした。理想になる為ならば、どんな無茶でも押し通す。結果として貴方の推薦に乗り、戦地まで赴く事までした」
主治医「.........ですがもう私は、[私の理想の奴隷]ではありません。私は[主に仕える従者]なのです」
私の理想。それは、[全ての人を救う]と言う一人の人間には到底無理な物でした。
しかし、中途半端に優秀で能力のあった私は、自分の限界が分からず、手が伸びる限りその手を伸ばし、それを追い求めていました。
結果として、自分の理想とは大きくかけ離れた現実の非情さとシビアさに打ちひしがれ、ショックを受けたまま生きてきたのです。
ですが、一度医師を辞めた私の元に、一つの誘いがありました。
それは手術や施術をなるべくする事は無い、経過観察や治療に重きを置いた職。メジロ家の[主治医]として、私は雇われたのです。
自分の道を自分で選び、進む事はさぞ幸運でしょう。しかし、私の様な身の程知らずには、その道を示し、どう歩くべきかを指示する者が居なければ崩壊してしまう者もいます。
私はあの日から、自分の奴隷と言う身分からようやく解放されたのです.........
エディ「それは.........貴様のトラウマを乗り越えられる程の物なのかッッ!!!そんなただの肩書きがッッ!!?」
主治医「違います。[乗り越え無ければならない]のです。メジロの誇りと、意地に掛けて.........」
立てたメスの持ち手を軽く握り直し、何処まで切るかを目視で視認し、最後は力を適切に入れるだけとなりました。
そんな私の後ろで彼は、まだ分からないと言った様子で私の背中を見ていました。その彼の為に、私は私なりの答えを、彼にぶつけます。
主治医「.........何故私が、ここまでできるのか知りたいですか?」
エディ「.........っ」
主治医「.........それは私が、メジロの一員であり、そして―――」
「―――マックイーンお嬢様の主治医だからですッッッ!!!!!」
ーーー
桜木「.........」
ナリブ「.........その貧乏揺すりは辞めろ。癪に障る」
桜木「.........ごめん」
主治医達が入って行った施設から少し離れた場所で、俺達は二人を待っていた。時間にして既に三時間。中で何が行われているのか、試練の行方はどうなったのか、何も分からずに居る。
やきもきした気持ちを無意識に発散しようと座っている俺は右足を縦に揺らす。それを咎められ、申し訳なく思いながら組んだ手を解き、両手を膝に置いた。
爺や「ご心配せずとも、主治医は必ず良い報告を持ってきます」
桜木「.........信用、してるんですね」
爺や「彼はそういう人間ですから」
枯れ木に腰を下ろしメガネを拭く爺やさん。その言葉には長い年月を掛け、熟成された彼にとっての主治医の認識が詰まっており、それが俺達を安心させてくれた。
メガネを拭き終え、それを掛けた彼が試し見に俺の後ろの方を見ると、その目を見開いて立ち上がった。
爺や「.........随分とかかりましたな」
桜木「っ!主治医!!」
ナリブ「どうだった?」
主治医「.........先生?」
エディ「.........[合格]だ。腕は鈍っている所か、あの時よりも数段上がっている。どうだ?私の推薦でフランスの病院の院長にならないか?」
不機嫌そうにエディはそう言ったが、後半の讃賞は本心だと伺える。それを聞いた俺達は思わず主治医の方を見たが、彼はそれを笑い、そして首を振った。
主治医「嬉しい申し出でございますが、私は最早、自分の道を自分で決められる身分ではございません」
エディ「.........それで幸せなのか?」
主治医「ええ。この上なく」
その表情は、今まで見た事がないくらい優しさで溢れ、そして幸福に満ち満ちていた。ここまでずっと無表情を貫いてきた主治医のそんな顔が中々、いい意味でショックを受けてしまい思わずその顔を凝視してしまう。
爺や「.........彼はこう見えて、中々表情豊かなのです」
桜木「えぇ!!?だ、だって今までずっと無表情だったじゃん.........?」
主治医「人見知りなんです」
ナリブ「そ、そうだったのか.........」
まさかの事実にまた驚きを感じながらも、不意に歩き始めたエディに続くように俺達も歩き始めた。
長居は無用。正直あの変な匂いが若干漂ってきている。ブっさんのためにも、俺達もなるべく早く離れる為にそれに着いて行った.........
ーーー
主治医「ふぅ.........」
桜木「お疲れ様っす。ゆっくりして下さいな」
焚き火に枯れ木を与えつつ、彼は沸かしたお湯を粉末の入ったカップの中に少し入れて少しかき混ぜます。
その後、その粉末の溶け具合を確認した彼はエディ先生から頂いた牛乳を並々注ぎ、また少しかき混ぜてから片方を私に渡してくださいました。
主治医「この作り方.........桜木様は相当なココア好きなのですね」
桜木「おっ、分かるんすか?これが一番美味しい作り方だってうちの母親から教わったんです」
主治医「.........頂きます」
彼から頂いたココアを一口飲みました。身体を芯から暖めてくれる熱さを感じながら、ココアのまろやかさと甘さが疲れを癒してくれます。
そんな中で一息ついていると、ふとこの甘さが何かの記憶に引っかかりました。
桜木「?どうしたんです?」
主治医「いえ。以前どこかで、これと似たようなココアを飲んだ気が.........あ」
そこまで言って、その記憶がどんなものだったかをようやく思い出します。
それはまだ、お嬢様がメジロ家のお屋敷に起こしになられて一年も経っていない時期でした。慣れないお屋敷での生活でその時眠れなかったのか、いつも寝ているはずのお嬢様が一人、厨房に忍び込んでココアを作っていたのです。
主治医「.........そう言えば、お嬢様もココアがお好きでした」
桜木「へ〜。今では専ら紅茶一筋みたいな感じだけどな〜」
主治医「今でも恐らく好きですよ。メジロとしての振る舞いを気にしているのだと思います」
その時私は、身体が強くないアルダンお嬢様の為に遅くまで資料を探していた物ですから、仕込みをしているシェフに頼んで何か小腹を満たせる物をと思い、そこに行ったのです。
しかしその肝心のシェフは厨房の外で、何故かコソコソと中を見ていました。何をしているのかと聞こうと思い近付いた所、コソコソとココアを作ろうとしているお嬢様を発見したのです。
『ひゃっ!し、しゅじいさん.........?ご、ごめんなさい.........わたしかってに.........』
『.........いえ。私も丁度お腹が空いて居たのです。宜しければお手伝い致しましょうか?』
『!う、ううん!わたしもめじろのうまむすめだから、ひとりでつくれるようにならないと!』
まだ幼いながらも、既にメジロ家の一員として自覚を持ち、その肩書きに見合うよう努力をしていました。
お嬢様は二人分のココアを。私は、二人分の何かお腹が満たせる物を作りながら静かな時間を過ごしました。不思議と何故か、居心地のいい空気を感じた記憶がございます。
出来上がったココアは正に、今飲んでいる物と差し支えのない出来栄えでした。恐らくお嬢様も、お母様であるティターン様に教えて貰ったのでしょう。
二人で秘密の夜食を静かに堪能していると、不意にお嬢様が不安そうな顔をして私の方を見ている事に気が付きました。
『何かありましたでしょうか?』
『.........きょう、おばあさまがはしってたころのおはなしをきいたの』
『とってもつよくて、はやくて、はるのてんのうしょうもかったけど.........びょうきになっちゃって』
『おばあさまはすごくつよいのに.........わたしじゃむりだよ.........』
ほんのりと明るさを降らせる電灯。まだ見ぬ結末に苦しくなったお嬢様は目元を両手で押え、声を押し殺して泣き始めてしまいました。
確かに、大奥様は凄いお方です。レースは直接見れてはおりませんが、引退した今でも肌に感じるオーラは、今まで会ってきたどの著名人にも無い程、強い物です。
そんな方が当時流行していたウマインフルエンザに掛かり、一命は取り留めた物の.........薬の影響か、はたまた病気の後遺症か、悲しい事にその競走能力は全盛期のそれを失ってしまったと言われておりました。
そんな話を知り、怖くなってしまうのも無理はありません。自分の尊敬するお方が、自らの判断ではなく、病気という外的要因で走る選択肢を奪われると言う事は、ウマ娘にとっては恐ろしい事です。
.........ですが私には、泣いているお嬢様を慰めないと言う選択肢は存在していなかったのです。
『お嬢様。ご安心下さい』
『え.........?』
『貴女様には主治医である私が着いております。何も心配は要りません』
『貴女様を襲う病。そして怪我。その全てをこの私が、必ず祓ってみせましょう』
それが、私とお嬢様が交わした[約束]。
[全ての人を救う]と言う夢と同じように、絶対性は無いのに、出来ると信じ、私はまた手を伸ばした。
ですがこれは、お嬢様を喜ばせる為の[約束]。私が私を[奴隷]にする為の物ではありません。
『.........うんっ!わたしがんばるよ!』
『びょうきになったりけがしちゃったりしても!しゅじいにたのんでなおしてもらうから!』
『.........ええ。治してみせますとも』
出来るはずもない?
いえ。果たしてそうでしょうか?
私達には強い味方がついてくれています。奇跡をも超えると豪語する、心強く、そして誰よりもお嬢様を守って下さる、強い味方がいらっしゃいます。
そして何より、私が[諦めていない]からです。
必ず治せる。そう、信じているからです。
何故かって?
『何故ならば私は―――』
そう、私は―――
『―――マックイーンお嬢様の主治医ですから』
満点の星空が散らばる夜の空。思い出したのは一つの大切な[約束]。
懐かしくも、何処か記憶に無い味を感じさせるココアに二人で楽しみながら、私は今日。一つの[トラウマ]を受け入れ、克服したのでした.........
......To be continued