なんてことはない。百瀬里都は歳上で、愉快で、背が高くて、強い男が好きだった。
今年で18、ということはつまり里都は高校三年ということになる。公立の学校で、そこそこの成績をおさめ、大学もおそらく近くのところの希望する学部に入学できるだろうとのお墨付きを教師に貰ったばかりの六月。
現在の時はつまり、梅雨にあたる。
「いやー、雨降っとるから当たりませんわ」
『あほ言っとらんとスコープしっか覗き』
雨の中でも防衛任務は変わらずある。
「毎回思うねんけど5人部隊に追加されたら稼がれへんしいいことないよな」
「固定給もろとんとちゃうんか」
「今日は四人隊やで」
恋だの告っただのの話を上層部が耳にするわけもなく。耳にしたとして何かの配慮があるわけでもなく。寧ろいらぬ気をまわしたのか。
「ホンマや」
「信じられへんよな、中間試験やらかして補講やって。単位は取れそうらしいからええけど」
「太刀川さんもらしいっすよ」
「なんや仲ええやん」
『ちゃうやろ。なんで太刀川さんがイコさんと同じ授業とっとんねん』
今日の防衛任務は、里都は生駒隊と一緒になっている。という話である。
正確には混合部隊。ただ里都の隊は寝坊野郎と多忙のひと、家の用事で来られなくなったひとがいるというだけで。シフトが被ったのがこちらも人数の足らない隊だったから合同にしたらいいだろ、と上層部が思ったのかもしれない。
「ホンマやん」
「落として再履修やて。一般教養やから一緒」
「どっちも中間試験あるん忘れとったみたいでフツーに行ってフツーにやらかしたらしいわ」
「ふーん。大学のこと知らんけど大丈夫なんすか、それ」
「期末で決まるみたいやねんけど中間試験ヤバいやつは期末もヤバいやろから補講したろってことやろ。なんとしてでも単位を取らそうとする先生の苦労が見えるわ」
「まさかイコさんがね」
「なんか最近弓場さんとこ通い詰めてて勉強してなさそうやったもんな」
「最近弓場隊の隊室少女漫画いっぱいらしいっすよ」
里都にとっても悪くはない。会話ははずみ、生駒隊に混ざるのは他の所よりずいぶん気楽だ。師匠もいるし、懇意にしているおかげで誰それと気まずいということもない。
今日肝心の生駒はいないが。
「ウソやん」
「外岡くんに聞いたんで間違いないです」
「ホンマっぽいやん」
『え、めっちゃおもろいねんけど』
「弓場さん許してんのや」
「いやいや弓場さんのんかもしれないですよ」
「え、そんなことある?」
「そんなんつまりなに? イコさん少女漫画読むんに夢中になって補講受けとん?」
「……おもろ」
事実である。生駒が借りてきて、里都も来る自分の
とはいえそれを知らない里都たちが想像するのはあの弓場と生駒が二人で少女漫画に夢中になっている図。少女漫画が悪いわけではないし、別に読んでいようと全く構わないのだがそれはそれとして。
「……ホンマおもろいやん」
「ちょっと考える間あったんな」
「想像するやろそんなん」
爆笑するほどのことではない。淡々と、ただ、面白い。その場に出くわしたらじっとそこで笑いを堪えながら観察しておきたくなるような景色を里都は想像した。実際、その景色は
『あ、また来るで』
「お、わたしのお小遣いかな」
「俺のかも」
「おれのんすね」
「名前書いてへんかったら自分のんや言われんから」
門を越えてやってくるトリオン兵に今さら手こずるほどのこともない。伊達に里都はA級二位の部隊に入っているわけではないのだ。ポイントは同い年の男数人に負けているところもあるが、ポイント没収された誰かよりはランクも上だし。
弱いわけでもない。ただあまりランク戦やろーぜと誘ってくれる人がいないだけで。
ほとんどの友達だと自信を持てる程度の友達はオペレーターか狙撃手で、そして里都は面倒くさがり。誘われなければ個人戦ブースに行くこともあまりない。
「あ、待って足滑りそ」
『雨やから気いつけてよ』
それこそ、生駒に師事するまではストレス解消くらいの熱意でやっていたし、生駒にランク戦ブース集合な、と言われなければ防衛任務以外の日にボーダーに来ることもなかっただろう。
……もうそろそろ、補講は終わっただろうか。帰り際でも、ちょっとでもいいから会えたらいいのに。
「そいやモモ、イコさんとどないなったんやっけ?」
「ひゃッ」
「……そんな声出せたんすね」
「足滑りましたー?」
「水上許さん……滑ったやんか」
「滑ったんや」
「屋根の上おるからですよ」
「俺悪ないし」
「トリオン兵は?」
『もう門開くわ』
進展はない。進展はなかった。まったくといって変化はなく、今も生駒は里都に会ったら耳を赤くする。普通に話せるけれど、雰囲気がソワソワしている。
意識は、されていると思う。
多分、生駒も里都のことが好きだ。
しかし今なお返事は保留にされている。でもそういうところも可愛いな、と思ってしまって。もどかしい気持ちはあるけれどもちゃんと考えてくれてるのかなと思ってしまって。
毎日、割に幸せである。
「保留中。けど気にせんで、自分で追い詰めるから」
「おー、水上了解」
百瀬里都と生駒隊の面々(生駒を除く)が任務を終えたのは昼を過ぎた頃。
終ぞ任務に当真勇は顔を出すことはなく、終わった頃に珍しく申し訳なげな電話がかかってきた。スピーカーにして、同級生の水上とひとしきり笑ってやったくらいで手打ちにする。別にいなくて困ったこともなかったので。
一度や二度の寝坊に目くじらを立てるほど里都は一生懸命生きているわけでもない。当真が任務をすっぽかすのも、初めてではないとはいえ早々あるものでもなく。まだやらかしたことはないが自分もいずれ寝過ごすかもしれないなと考えたら、マキリサにも黙っていてあげると約束までできた。
寝起きの当真に感謝されたのは言うまでもない。
「あれ、イコさん。補講おわったんですか? マリオは?」
電話を切ってとりあえず、と生駒隊隊室に向かうと、先行していた南沢が隊室の扉を開けて声を上げた。
里都の気分は上がる。会えないかな、と思っていたからだ。けれど急ぎ駆け込んだり名前を呼んだりはしない。あくまで冷静に。顔を見れたら十分だが
「そら、優秀やからな。マリオはちょっとそこまで」
次いで入るのは隠岐。
「……なんでそんな濡れとんです?」
「そら……雨ふっとるからやな」
最後尾を行っていた里都と水上はその後に続く。はずだったが水上が入り口で立ち止まったせいで里都は入れない。
「んで、服脱ぎはったんですか」
見せないようにしてくれたのか、とはすぐにわかった。嫌ではないし本音のところでは少し……見たい気もしないでもなかったが。
ともかく、里都は立ち止まって部屋の中から見えない位置で息を殺す。
「……そら、今服着ようとしてたからやけど」
「うち別に男所帯ってわけでもないんやからはばかってもらいたいんすけど」
「だからこないしてマリオちゃんにもちょっと出て行ってもらってやな」
黙っていると、つい妄想もはかどる。
見たことはない。一緒に水着を着るような場所に行ったこともない。身体の中身ならトリオン体で、の制約付きではいくらでも見たことがあるが。
それが壁を一枚隔てた向こうに今、居る。らしい。
「モモいまそこ来てますけど」
素っ頓狂な声が聞こえた。
「えっ」
「今日冬島隊と一緒やったんです」
「……てことはめっちゃもったいないことした?」
「はあ、知りませんけど」
「前から決まってたことやないですか」
「補講、受けてた」
「みんな知っとります」
「モモちゃんも?」
「知っとるよ。もう服着ました?」
「え、あ、ちょお待って」
10秒も経たずに「もうええよ」の声が聞こえたので里都は部屋に踏み込む。
「傘持っとらんかったんです?」
着替えていることから想像してはいたがそれよりずっと濡れていた。
いつも逆立っている髪は濡れてもなお立ってはいるが、ぽつぽつと雫が付いている。
「せやねん、前の雨んときに無くしたん忘れとって今日は朝降っとらんかったから行けるかなー思ったんやけど帰りしなに降られてな。家帰るよりボーダー来る通路入る方が近かったからそこまで走ろ! って飛び出したらその瞬間ザー降り出して」
「そういやありましたね雨強い瞬間」
「そう、そんでもう後にも引けへんくなってもてとにかく走るやん。そしたらもう屋根のある頃にはびしょびしょよ」
「そんときでしたっけ、モモさん滑ったん」
「いや、それよか前や思う」
「モモちゃん滑ったん?」
「モモちゃん?」
「……リツちゃん」
「そーですね、屋根からこう、ずる〜ッと」
「はー、気つけなあかんで」
「わかっとります」
「うん。そんで、隊室来たら着替え置いとるん思い出してな。誰か傘持っとるひともおるやろと思って」
「はー、それで」
「うん。それで」
「そうですか」
「そうなんよ」
「へー、大変ですね」
「せやねん。ほんで、誰か……傘持っとる?」
ふい、とまず見つめられた水上が目を逸らす。
「すんません、俺の傘1人用なんで」
「いや、2人用の傘持っとったらびっくりやけどな」
「俺のもっすね〜」
「イコさん入る分はないかな」
「……そんな薄情な奴らやったんか。……泣いてええ?」
泣いてもいいか、と言いつつ泣きまねをしているところはまだ見たことがない。泣くで、泣くでとはよく騒ぐが。
「薄情じゃないのもおりますやん」
ちら、と視線。気にしないでと言ったのに。でも気持ち的にはファインプレーにハイタッチしたい。
「わたしのも1人用ですけど。それでええんやったら」
「だから傘は1人用しか……え、ええん?」
「ええですよ。家の方向一緒やし。いっつも送ってくれるし」
里都の家の方が近い。そこまで一緒で、それから傘は貸したらいい。家には折りたたみもあるし、明日の雨予報も知ったことではなかった。
「……じゃ、お願いしよかな」
生駒が頷く。その後ろの面々のニヤケ顔がウザい。けれど、嬉しい。朝には会えるとかすら考えてもいなかったから。
「あ、その前にどうです? 一戦」
「お、ええな」
「俺腹減ったわ」
「あー、そういやもう昼過ぎてますね」
「じゃ、真織ちゃんも誘ってご飯先行きましょ」
「……そういう感じね」
何度か繰り返すと大体勝敗は4:6に収束する。
今のところ、里都が4で生駒が6だ。
「俺はイコさんが手加減するかなって思ってましたけどね」
「そんなんできひんやろ」
あの日から生駒と里都が対戦するのは初めてだったが、それは今日も変わらず。
「いや、ふつーに負けた」
「でもヤバいで、だいぶ負けそうやった」
モニタから見える様子もいつもと変わらず。
「ふーん、ま、じゃあ俺帰るんで」
生駒と里都を残しておつかれさまです、と言い残して帰る水上もいつもと同じ。他はとっくに帰っていた。
午後六時。
「……どうします」
「か、帰る?」
「帰ります、か」
途端、二人になってしまったのがありありと感じられた。荷物をまとめて、トリガーを
乾かないまま換装したからか生駒の髪はまだ湿っていた。
小学校高学年からずっと使っている里都の傘は白に水玉模様をしている。
「背、高いし差すわ。貸して」
なんとなく落ち着かなく無言で外までやってきたのだが、ここにきて傘を差した里都に生駒が言う。
実際20センチ少しの差のために、里都の腕は大分伸ばされていて、それを見かねたのだろう。
「え、あ……そうですね」
言われてみれば、申し訳なくなる。今になって気がついたが、今までは首を曲げてもらっていたみたいだったし。
傘が生駒の手に渡る。天井が離れる。何も言わず里都の方に傾けられていて、そわそわした。
「濡れるやん、もうちょいこっち来」
背中側に腕がまわされる予感がしたが、途中でそれは引っ込められた。
代わりにもう10センチ近寄って、こっそり上目に生駒を窺う。
生駒の目は前にだけ向けられていて、里都のことは見ていないみたいだった。
目より雄弁な耳を確かめて、何故か恥ずかしくなって俯く。
触れないまでも体温を感じるくらいに近い肌。湿った匂いと混ざった柔軟剤。傘を握る手は大きく、里都より背はずっと高く。
ポツポツ控えめに傘に当たる雨粒の音と、遠くを走る車のタイヤの音。
それより大きいのは自分の心臓。
きっと、他の音に紛れて誰の耳にも届かなかったのだろうけれど。
「……わたし、やっぱりイコさん好きやぁ」
雨も悪くない