「上杉君、二乃たちの説得は任せてください!」
「どうした、急に」
五月の姉妹が帰った後、五月はなぜか残ってくれて、風太郎に力強くそう言った。
風太郎に顔を近づけて、今にも顔のどこかが触れあってしまいそうなほどである。
「一旦離れようか」
「は、はい」
風太郎が制止をかけると我に返った五月も咳払いをして、一歩後ずさった。遅い時間でよかった。周囲に他の生徒の気配はなく、今の軽いハプニングを見られることはなかった。
己惚れるわけでも、しょうもない感情に流されているわけではないが、さっきの五月との距離は恋仲の様に映ってしまっただろうから、変な勘違いをされないことに風太郎は安堵した。
「なんだか、上杉君とは距離感が難しいです」
「俺も偶にそう思うよ」
風太郎の場合は、あまり人と関わることがなく、その上、五月の様な女子との距離感などわかるはずもない。
「えっと、話を戻すのですが、私が姉妹を説得してみせます」
「それは助かるが、お前は勉強に専念してても良いぞ?」
「いえ! 私がやりたいんです。上杉君みたいな先生は初めてですから」
「まぁ、俺はプロじゃないからな」
「そういう訳ではありません。今までの先生は仕事だからこそ、二乃のキツイ言葉に立ち向かわずにいつの間にかやめてしまいました」
依頼人の機嫌を損ねる様なことは普通はしないだろうな。
風太郎もこの仕事をクビになる訳にはいかないが、まだ子供なのだったのだろう。単純に売り言葉に買い言葉で、ムキになってしまったのだ。
「それに、二乃に言い返す時に私の方を見てましたよね?」
「あ、あれは……」
「大丈夫です。変な意味じゃないのはわかっています。言葉はありませんでしたが、『絶対にやめないから』って言われている様な気がして、すごく嬉しかったですよ」
「き、気のせいだろ」
「ふふ」
ダメだ。五月の顔を直視できない。折角、丁度良い解釈が自分の中でできていたというのに、あの時の心情が完璧に五月に伝わってしまっていたのが恥ずかしすぎる。
「だから、私にできることは何でもします。一緒に頑張りましょう」
五月は手を差し出してきた。それは五月なりの決意表明の様だ。
風太郎も羞恥を一旦、心の奥に追いやって、五月の決意に応えた。
「……」
「どうした?」
「上杉君の手、男の人の手ってすごく心強いんですね」
「……」
五月が変なことを言うので、風太郎も手の神経に集中してしまった。五月の手は自分の様な手ではなくて、柔らかくて少し力を入れれば、非力な風太郎でも潰してしまいそうだ。
否応なく、身体の違いが風太郎に意識させる。
目の前の少女は自分の生徒であり、同級生の異性であるということを。
五月は風太郎がそんなことを思っているなんて、考えもしないのだろう。きっと風太郎のことは純粋に同じ目標を掲げる仲間だと、この奇麗な瞳には映っているに違いない。
そんな気持ちを裏切るような考えに対して、羞恥を感じた風太郎は心の中で謝罪した。今からはできるだけ、この純粋な気持ちに応えよう、なんて柄にもなく決意するのであった。
「いらっしゃい! さっきはごめんね。やっぱり改めて考えたら、アタシも勉強したいなって!」
「は?」
ドアを開いた途端、風太郎は完全に思考を停止した。
一時間、だ。目の前で気持ち悪いくらいの笑顔を貼り付けて風太郎に喜々として話しかけてきたのは、先ほど風太郎に侮蔑の籠った視線を向けてきていた二乃だ。
隣に立つ五月も想像していなかった展開に声が出せない様だった。
「ささ、入って」
呆気にとられたまま、風太郎は二乃に押されて中に入った。
「あ、フータロー君お疲れー」
「上杉さん! こっちですよ!」
「……」
残りの三人もテーブルに筆記用具を用意して待っていた。若干一人は退屈そうにヘッドホンで音を完全に遮断していたが、一応風太郎のことを待っている。
「五月、こいつらどうしたんだ?」
「ち、近いです。……四葉はともかく他の三人の態度は姉妹の私から見ても異質です」
五月の耳元に他の四人に聞こえないくらいの音量で囁く。五月は一瞬頬を染めたが、風太郎の問いかけに答えた。
あれだけ風太郎が家庭教師になるのを反対していたのが、完全に手のひらを返して、風太郎歓迎ムードになっている。この状況は非常においしい。しかし、あまりにも都合がよすぎて怪しい。
「だがまあ、利用しない手は無いか。よし、じゃあ全員席に着いてくれ」
「はいはーい」
二乃は素直に風太郎の指示に従い、姉妹の横に腰を下ろした。五月も怪訝そうにしていたが、遅れて腰を下ろした。
「それでは、今日は全員の学力を確認する為の小テストを行わせてもらう」
このテストは本来五月用に風太郎が作っていたものだ。その為、一枚しか用意が無かったので、学校からここに来るまでにわざわざコンビニでコピーしたものだ。
風太郎にとって、僅かではあっても予定外の出費だったので、どうしても受けさせたかったのだ。
「出来次第持ってきてくれ」
一応、制限時間として三十分とったが、五月の学力と残りの四人が似たりよったりなら、制限として意味を為さないだろう。
「あ、そこに先生用に飲み物置いといたから!」
テストを初めてすぐに二乃がそう言って、指さした。
「そうか。ありがとう」
遅くに学校を出たこともあって、急いで来た風太郎の喉はカラカラだった。それを予測していたとは思えないし、用意が出来過ぎている様な気もするが、疲れていた風太郎は己の欲求に従い、一気に飲み干した。
「俺も自分の勉強するか」
どうやら真面目に取り組んでいる様だし、目を離しても問題ない、という判断だった。
この判断が間違っていた。五人に目を向けることなく、カバンから取り出した単語帳に集中していたせいで、風太郎は気づかなかった。
風太郎がコップに口をつけた瞬間に、二乃の口角が上がっていたことに。
風太郎の瞼は次第に重くなっていく。
「上杉君、終わりま……上杉君?」
二十分程過ぎたころ、五月が代表して五人分の用紙を持ってきた時には風太郎はテーブルの上に突っ伏していた。
「あれ、もしかして疲れちゃったのかしらね?」
そんな二乃の煽り口調も完全に意識を手放した風太郎には届かなかった。