王将ファンタジスタ   作:やまもとやま

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1、決別

 零れ落ちたのは涙だった。

 対局中に涙が頬を伝うことなどこれまでになかった。羽生将(はぶしょう)はその涙に戸惑った。

 

 くやしさではない。無力さでもない。自分が一体何に涙したのだろうか。

 

 目を上げると、そこには真龍王花(しんりゅうおうか)の澄ました目があった、

 その目は将のことを捉えていない。眼中にないと言った感じだった。さっさとこの退屈な対局を終わらせたいと言わんとするような目だった。

 

 将は目線を盤上に戻した。

 もはや勝ちの筋はない。自分の玉には必死がかかっていた。相手の玉を詰める手はない。

 最後にできる抵抗は角を打ち込んで王手をするぐらい。

 

 相手の応手が間違えれば、逆転。

 

 しかし、そんなことは起こるはずもない。将は投了した。声を出そうとしたが出なかった。

 

 将は目を強く閉じ、最後の涙を絞り出した。もう二度と涙することはない。

 なぜなら……。

 

 この涙は負けたくやしさではなく、長らく付き合ってきた将棋との決別の涙だったからだ。

 

 ◇◇◇

 

 すべてが終わった。将は夕焼けが濃くなった空に映える将棋会館という文字を見ながら黄昏ていた。

 もう二度とこの地を訪れることはない。

 いや、それどころか、二度と将棋の駒を手にすることもないだろう。

 

 将は自分の右手を見つめた。そして、その手を握り締めた。ある限りの力で握り締めた。

 

「羽生君」

「……」

 

 将はかけられた声に反応せずうつむいて黙り込んだ。

 

「どういうことだ、やめるって、いったい……」

「すみません、師匠……」

「羽生君、話してくれ。どうしてだい? 君には才能がある。プロとして必ずやっていける。今日は相手が悪かっただけ。相手が真龍王花さんだったから仕方がないよ」

「……」

 

 将は師匠に背中を向けて歩きだした。

 背後から将を見つめる男、彼は時田流(ときだりゅう)8段。将の師匠で、将が孤児院にいたころから世話になっている。

 時田はタイトル1期を獲得する名棋士だが、現在は一線を退き、後裔の育成に力を入れている。歳は45歳である。

 

 時田は将を追いかけようとしたがあきらめた。

 

「真龍王花……将君の心を粉砕してしまったのか。恐ろしい子だ……」

 

 時田はそう言って将棋会館のほうを見つめた。

 

「たしかに常軌を逸している。女の子とは思えない。もはやトップ騎士は誰も勝てない」

 

 真龍王花。

 史上最年少、弱冠14歳で竜王位を獲得した天才少女。

 異次元のIQの持ち主であり、マスコミも天才美少女として注目していた。

 奨励会に属することなく、アマチュアの将棋界に彗星のごとく現れ、現在最強と言われた藤井4冠を4-0のストレートで下し、竜王位を獲得。

 アマチュア竜王戦から駆け上がった中学生が竜王位を獲得するなど、誰も予想できないことだった。

 

 その後、真龍王花は棋王戦の予選に参加し、同じく天才と称された羽生将とこの日激突した。

 羽生将も若干14歳でプロ棋士になろうとする天才だった。

 

 しかし、真龍王花はそんな将を軽く倒してしまった。

 

 将は真龍王花との対局を前に、最高の研究を用意していた。AIを活用して400時間以上研究した最高の新手を真龍王花との対局にぶつけた。

 そして、真龍王花を止めようと思った。自分の存在を見せつけてやろうと思った。

 

 普段おとなしい将の闘志をそこまで燃え上がらせた背景には、王花が天才としてもてはやされているので、それを倒して注目をかっさらおうという野心以上に、王花への淡い恋心もあった。

 

 将は王花に愛の告白をするような胸中で対局に臨んだ。自分の強さ、棋力を王花に伝えたいと思った。

 

 だが……。

 

 伝わらなかった。王花の目はそもそも将の姿を捉えていないようだった。

 それが、将の闘志を打ち砕いた。

 

 将は激しい失恋に押しつぶされた悲劇のヒロインのような心境で、将棋と決別することを決めた。

 誰よりもこの対局にかけていたからこそ、誰よりも傷ついていた。

 

 ◇◇◇

 

 将は自室に合った将棋盤を打ち砕いた。

 拳で何度も何度も。

 

 拳に血がにじんだ。

 

 狂っていることはわかっていた。頭がおかしい行為をしていることはわかっていた。

 しかし、将は自分の狂気を止められなかった。

 

「ちくしょう……」

 

 将は血まみれになった拳をもう一度将棋盤に振り下ろした。最期の涙にするつもりだったのに、また涙があふれた。

 将棋との決別……同時に王花との決別。

 

 将は自分の人生が終わったことを悟った。

 

「さよなら」

 

 将はさみしそうな目で将棋盤に向けてそうつぶやいた。

 

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