飛子が将のもとにやってきて1か月が過ぎた。
このころになると、飛子が自分の後ろをついて来ることにも違和感を覚えなくなっていた。
飛子の存在に慣れていくのと同じように、高校生活にも慣れてきた。
将は師匠の時田に将棋部に入ったことを告げた。
「将君なら、どんな環境でもいずれプロになれる。頑張れ」
時田はそう言って、将への支援を継続してくれた。将はみなしごだから、時田の援助を失うと路頭に迷ってしまう身。時田の援助はとてもありがたかった。
しかし、プロになる気はなかった。なる気がないというより、なれる気がしなかった。
もちろん、いま後ろをスナック菓子を食べながらついてきている飛子のマジックを使えば、誰にでも勝てる。
しかし、将は飛子マジックでプロになることに強いためらいがあった。
飛子マジックに依存して勝ち続けても、もし、飛子がいなくなれば、引退せざるを得なくなる。自分の力ではない方法で勝利しても棋士としての栄光を掴むことはできないことを理解していた。
「何言ってんですか、将さん。私の力は将さんの力。私たちの愛の力ではないですか。堂々と胸を張ってればいいんですよ」
飛子はそう言ったが、将の中では、飛子マジックはインチキそのものでしかなかった。
「だいたいですね、将さん。私は将さんを7冠王に導かなければ棋界に戻ることができないのですよ。いえ、もちろん将さんのもとに永遠にお遣いできることはうれしいですけれど、私は二度と立派な妖精になることができません」
飛子は言った。
飛子がここにやってきたのは将を7冠王にすること。たしかに、その夢を叶えるには、飛子マジックを使うしかない。
「それとも、将さんは自分の力だけで7冠王になれる自信があるのですか?」
「ない」
「そんなにきっぱりお認めにならなくても良いではないですか。将さんは羽生家の生まれなのですからチャンスはありますよ」
「まるで関係ないだろ」
「いえ、羽生家の人間は誰にでも7冠王になれる可能性があるのです」
飛子は根拠なく力説した。
「まあでも……おえも7冠王になりたい」
すべてのタイトルを手中に収めること。それは将も一度は夢見た領域だった。
このままいけば、真龍王花は7冠王になれるかもしれないが、将はこのまま王花に将棋界を牛耳らせることに抵抗があった。
飛子マジックを使わず、王花と対等の実力を得たいという気持ちが強くなっていた。
◇◇◇
授業が終わり、将はいつものように将棋部の部室にやってきた。
将棋部が始動して1か月。まだ部員は桂と将の2人だけだった。
将が将棋部の部室にやってくると、いつも桂のほうが先に将棋部にやってきていた。
「羽生君、僕は運命の時に臨もうと思います」
桂は珍しくうつむいて、メガネを曇らせていた。
「どうしたんです、桂先輩?」
桂の調子がいつもと違っていた。少しうつむいて、メガネで表情は見えなかったが、いつもの桂とは対極的に神妙な趣きだった。
「僕には夢があります。わかりますか?」
「学生竜王戦で優勝することですか?」
まもなく学生竜王戦のエントリーが始まる。
団体戦と個人戦があり、部員が3人そろわなくても、個人戦には出場することができる。桂は将と共に学生竜王戦に参加するつもりだった。
「違います。そんなチャチなものではありません」
桂は鋭い視線を向けてそう言った。
「ではいったい?」
「真龍王花様の指導将棋を受けることです」
「……」
将は思わず息をついた。
「もう我慢できません。僕は胸が苦しい。このまま遠くから王花様の活躍を見守っているだけでは苦しいのです。そう、僕は王花様と将棋がしたい。したいしたいしたい。したいのです」
桂はいつものテンションの高い状態を発揮した。
桂は王花の重度のファンで、王花の対局をすべてチェックしているだけでなく、昼休みになると、遠くから恋する視線を王花に飛ばす変質者でもあった。
少し前までは、「遠くから見ているだけで幸せです」と言っていたが、ここにきて、桂の思春期の鼓動が治まらなくなっているようだった。
「羽生君、僕は思い切って王花様にアプローチしてみようと思います。ですので、僕桂の跳躍を見守っていていただけませんか? 桂の高跳び、その結果をぜひ」
「まあ、いいですけど」
「では行きましょう!」
桂は気合を入れ直した。
◇◇◇
王花は5月15日から始まる棋聖戦5番勝負に臨むことになっている。
今年度はここまで負けなしで勝ち進んでおり、デビューからの連勝を33まで伸ばしていた。
竜王戦制覇、王将戦制覇、棋王戦制覇で無傷の3冠王に上り詰めると、棋聖獲得も視野に入れていた。
そんな王花は対局がある日は学校を休んでいるが、そうでない日は毎日学校にやってきていた。
普段どんなふうに過ごしているかは、将も知らない。あえて意識して王花を視界にいれないようにしていた。
まだ、王花に対する恐怖心があって、将は意図的に王花を避けていた。
体育の時に一度だけ見たことがある程度だった。
桂の話によると、王花は放課後になると、すぐに帰宅せず、友人と図書室で過ごすことが多いという。
そのため、桂はその足で図書室を目指した。
将はその後ろ、少し離れたところをついていった。
桂は図書室の先を覗き込んで、そこに王花がいることを確認すると、将に合図を送った。
「では、桂、いきまーす。どうか援護をお願いします」
桂はそう言うと、図書室の中に入って行った。
将は図書室の外から図書室の中を覗くように見た。
「まったく、どいつもこいつもあの女ばかりに夢中になって、私は心外です」
将の後ろでは、飛子が不機嫌そうにしていた。
飛子は王花を女の敵のように見ていて、王花が話にからむといつも不機嫌になった。
「将さん、私の目は節穴ではありません。あの女だけはやめておいたほうがいいです」
「何の話だよ?」
「将さんのあの女を見る目が私を見る目と全然違います。それが許せないのです」
「あのな、おれは別に真龍のことなんて興味ないからな」
「その言葉に嘘はありませんか?」
「ああ……」
言いながら、将は誰よりも王花を意識していた。意識していたからこそ、露骨に王花の姿が視線に入らないようにした。
例の対局で敗れたときから、将にとって、王花は誰よりも特別な存在だった。
飛子は将のそういうところを見抜いていた。
桂はついに王花の席の近くまでやってきた。
ついに、桂の高跳びの瞬間がやってきた。
王花は2人の友人を抱えていた。友人Aは背の低い女子で、王花を憧れの目で見ていた。時折王花に話しかけては、一人でときめきを覚えていた。
友人Bは無口で淡々と本を読んでいた。
王花は動物の図鑑を広げて友人Aと眺めていた。少し意外な光景だった。
「あ、あの、すみません」
桂は緊張を隠し切れない様子で王花に声をかけた。
王花は反応したが、それよりも先に友人Aが立ち上がって、王花の間に立ちはだかった。
「ちょっと、何ですの、あなた。王花ちゃんに話しかけるときは私を通すことになってるんですが」
友人Aは下から突き上げるように桂をにらみつけた。
「そ、そうでしたか、すみませんでした」
「で、何の用ですの? 交際を申し込む愛の告白なら、無条件でわたくしのほうから却下させていただいておりますが」
友人Aは慣れた様子でそのように言った。王花のことだから、これまでにもアプローチしてくる男子がたくさんいたのだろう。そのたび、この友人Aが間に入っていたものと思われた。
「そうではありません」
「では何の用ですか?」
「いやその、僕将棋部の首相でして。ぜひ、真龍王花さんに指導将棋をお願いできないかなと思いまして」
桂は緊張しながらもなんとか目的を伝えた。
「ふーん、そんなことを言いながら下心全開なのでしょう?」
「そ、そんなことありません。僕は純粋に指導対局を……」
「そうはいきませんわ。だいたいですね、そんなに王花ちゃんと対局したいなら、プロになって堂々と対局すればいいのですわ」
「うっ……」
「実力もないくせに王花様にアプローチして、弱いくせに構ってもらおうなんて、男として最低最悪ですわ。出直してらっしゃい」
「うう……」
桂は厳しいところを付かれてこれ以上言葉が出なくなった。
「うわあああああ!」
桂は子供のように叫ぶと背中を向けて走り、図書室を出た。ちょうど様子を見ていた将にぶつかると、そのまま廊下に倒れ込んだ。
「すみません、桂先輩。大丈夫ですか?」
将はかがみこんで桂の様子を確かめた。
桂はめがねを曇らせて消沈していた。
「頭金で詰まされてしまいました……ぼ、僕はもうダメです」
「何言ってるんですか、しっかりしてくださいよ」
「羽生君……どうか僕の思いを君に……どうか王花様を将棋部へ導いてください……」
桂は無駄に悲壮感を振りまきながら語った。そんなことをこんなところで語られても困ってしまうが、将はこのまま桂を連れて将棋部に戻る気にならなかった。
真龍王花。
圧倒的な高嶺の花。その王花を見に来て、このまま退散するのがどこかくやしかった。
桂のためではないが、このまま、王花に何の存在感も示せないまま逃げ帰りたくなかった。
「わかりました、桂さん。何とかおれも勧誘してみますよ」
「お、お願いします」
将は桂から思いを受け取った。
勝算はある。こちらには飛車の妖精がついている。
将は立ち上がった。情けないかもしれないが、王花に立ち向かうためには飛子の力が必要不可欠だった。
「飛子、すまないが、力を貸してくれるか? あいつと対局して打ち負かしたい」
「将さん……その意気です。そうです。あんな女、ぎったんぎったんのぺったんぺったんにしてやればいいのですよ。お任せください、飛子マジックをぶちかましてやりますよ」
飛子はやる気満々だった。飛子も王花を打ち破りたい気持ちを抑えられない様子だった。
「行きましょう、将さん。私たちの愛の力を見せつけてやりましょう」
将よりも飛子のほうがやる気になっていた。