将は桂に代わるようにして王花のもとにやってきた。
しかし、王花には2人の取り巻きがいて、特にボディーガードのように周囲に警戒心を振りまいている女子生徒がいて、王花に近づく前に、彼女が将の前に立ちはだかった。
「ストップなのですよ、そこの。王花ちゃんにこれ以上近づくことは私が許さないのです」
女子生徒は将の前に立ちはだかってにらみつけて来た。背の低い少女であり、下から突き上げるような鋭い視線だった。
「真龍に対局を申し込みたいんだが」
「それをダシに王花ちゃんにお近づきしたいのでしょうけど、そうはいきませんわ。第一、王花ちゃんはそこらの馬の骨の相手をするほど暇ではないのです」
彼女の言い分は正論だった。すでに竜王、王将、棋王の3冠王である王花がアマチュアと対局するメリットはなかった。
「おれは素人じゃない。真龍相手にも勝つ自信がある」
将はそう言った。はたから見ると痛い発言に見えるのだが、飛子を引き連れている将は本当に王花に勝てる状態だった。
「はあ、あきれたやつですわね。だったらプロになって正式に対局すればよろしいでしょうに」
「まあそうなんだがな」
「王花ちゃんはあなたのような口だけのろくでなしの相手はしないのです。性急にお引き取り願いますわ」
女子生徒はそう言って将を突き放した。
この女子生徒を突破しなければ王花に近づくこともできなかった。
しかし、飛子は将にしか見えない。将の実力を誇示するには実際に対局するしかなかった。
将はしつこくアプローチを続けた。
「おれがプロにならないのは将棋界のバランスを崩すほどの実力の持ち主だからだ。しかし、どうして真龍と対局したいんだ。一局だけでいい。お願いできないか?」
「しつこい男ですわね。うぬぼれも度が過ぎていますわ」
「うぬぼれじゃない。おれは本当に真龍に勝てる」
将はしつこく食い下がった。
すると、もう一人の女子生徒と動物図鑑を鑑賞していた王花が二人のやり取りのほうに目を向けた。
王花は将の姿を視界にとらえたところで立ち上がった。
「美紅、交代だ」
王花は女子生徒の肩を叩くと、その隣に出て来た。女子生徒の名前は「美紅(みく)」と言った。
「王花ちゃん、いけません。この男、うぬぼれの過ぎる危険人物ですよ」
「問題ない。こいつは知り合いだ」
王花はそう言うと、将のほうに目を向けた。
「お前、羽生将だろう?」
王花は将のことを覚えていた。王花にとっては取るに足らない奨励会員だったが、それでも将のことを覚えてくれていた。将は少しうれしい気分になった。
「おれのことを覚えてくれていたのか」
「私は一度対局した者のことはすべて覚えている。お前とは昨年の11月16日、棋王戦2次予選で対戦している」
王花は驚異的な記憶力を発揮した。プロ棋士は棋譜を一度読むだけで暗記することができるが、対局した日まで完全に暗記している棋士はおそらく王花以外にはいない。
「あれからおれも実力をつけた。どうしても試したい新手があってな。おれと一局、対局してくれないか?」
将は淡々とそうお願いした。しかし、こうして王花と向かい合うと、かつての飛子と出会う前のプロを目指していた自分の心が呼び起こされた。
自然と胸が高まってきた。対局の申し込みであるが、愛の告白をした後のような高揚感が湧き上がってきた。
「奨励会はやめたのか?」
「色々わけが合ってな。いまは将棋部の一部員に過ぎない。だが、プロの道をあきらめたわけではない」
「……」
「王花ちゃん、相手にするだけ無駄ですよ。さあ、戻りましょう、さあさあ」
美紅は王花の両肩を掴むと、席に引き戻そうとした。
しかし、王花は美紅の手を払いのけた。そして、ジッと将の目を見つめた。
将の自信に満ちた目から何かを感じ取ったようだった。
「いいだろう、一局だけ相手をしてやろう」
王花は将の対局の申し込みをすんなりと受け入れた。意外だった。将はダメ元のつもりだっただけに拍子抜けだった。
「王花ちゃん、ダメですよ。しょせんプロにもなれないろくでなし男ですよ。王花ちゃんの体が目当てに決まってますよ」
「美紅、今日のところは舞を連れて帰れ。また明日な」
「ダメです、王花ちゃん。王花ちゃんの身の安全を守るために見届けます」
王花の取り巻きの少女は、王花のボディーガードに熱心なほうが美紅、何となく静かに席に座っているほうが舞(まい)と呼ばれた。
「持ち時間なしの1分将棋だ。それでいいな?」
「ああ」
こうして、王花との対戦が決まった。
◇◇◇
王花とボディーガードらしき女子生徒の美紅が将棋部にやってくると、桂はウキウキ気分で飛び跳ねた。
「ま、まさか、本物の王花様が将棋部に来てくれるなんて。か、感動だ。僕はもう死んでいい。羽生君、グッジョブです」
桂は興奮醒めやらない様子で、王花のために座布団を用意した。
「お、王花様、ここにどうぞ」
「失礼する」
王花は普段クールで、どことなく近寄りがたい雰囲気があるが、将棋盤の前での振舞いはとても丁寧で美しかった。
大きくお辞儀をしてから、音を立てずゆっくりと用意された座布団の上に正座した。その所作は、思わず見とれてしまうほどだった。
王花の隣には、美紅が腰かけた。対して、美紅は将にも桂にも敵対心を向けていた。
「王花ちゃん、どうしてこんな連中の相手をするのですか?」
「気まぐれだ」
王花はそう言うと、将棋盤の上にあった王将を取って、自分の陣地の中央に配置した。鋭く高い駒音が弾けた。誰も真似ができないほど美しい駒音だった。
実際、将が王将を自分の陣地に配置した際の駒音は王花のものと異なっていた。
「気まぐれ……王花ちゃんの心がいまだ掴めないのです」
美紅は誰よりも王花に関心を示していた。どういう経緯で知り合ったのかはわからないが、美紅の王花に対する態度は宗教の神様に対するようなところがあった。
「それでは僕が棋譜の読み上げをさせていただきます。いやぁ、王花様の対局の読み上げができるなんて夢のようです」
桂はそう言うと、照れ笑いした。王花はそんな桂のほうに横眼を向けた。
「わざわざ人を様付けで呼ぶとは丁寧なやつだな。何者だ?」
「僕は桂慶大です。いやぁ、王花様の大ファンでして」
「そうか。ならば、サインでも書いてやろうか?」
「え、本当ですか? いいんですか?」
王花はうなずいた。思った以上にファンに対するサービス精神が旺盛だった。
王花のサインを受け取った桂はさらに嬉しそうな表情になった。
「むふ、むふふふふ」
サインを見て怪しい笑い声をあげた桂に呼応するように、将の後ろに控えていた飛子も似たような怪しい笑い声をあげた。
「この私の手であの偉そうな女を跪かせることができるなんて最高です。将さん、いまにあの女の気取った態度を打ち砕いてやりますから楽しみにしていてくださいね」
「……」
将はまっすぐ王花のほうを見た。
棋王戦二次予選での対局の時に比べると、将は冷静な心持ちで王花を見ることができた。
将は冷静に王花を見れたから、王花の表情を見ただけであることを悟った。
歴然とした棋力の差がある。
当たり前かもしれないが、将はその差を感じ取って、くやしさを覚えた。
一度は追いつき追い越したかった相手、しかしもう決して届かないだけの差になってしまった。
立ち止まってしまった将に対して、王花はこれまで以上に駆け足で棋力を高めていたから、もはやレースにもなりえなかった。
しかし、同時に将は立ち止まっていた自分の足を前に進めたい気持ちにもなった。
こうして王花と向かい合うと、王花を倒してタイトルを取りたいという強い願望がこみあげて来た。
いまや、真龍王花はすべての棋士の目標。将は自分の原点に立ち返ったようだった。
「先手後手、好きなほうをそっちで選べ」
王花はそう言った。
「ならば先手をもらうよ」
将はそう言った。できることなら、飛子マジックを使わず、王花に自分の将棋がどこまで通用するか試したかった。
勝てないことはわかっているが、棋士の片鱗ぐらいは見せたいと思った。