将と王花の対局が始まった。
将は静かに息を吐くと、自分の持てる力をすべて発揮するために、最も得意としている戦型に向けて、飛車先の歩を手に取って歩を進めた。
初手、2四歩。
初手から居飛車を決定させるため、この手から始まると、戦型はいくつかに絞られる。
王花の過去の棋譜を調べると、この初手から始まる将棋は、すべて矢倉、相掛かり、横歩取り、角換わりのいずれかになっている。
王花はこれまで一度も飛車を振った経験がないから、ほぼ間違いなく4つのいずれかの戦型になると思われた。
王花は特に考えることもなく、8四歩と応じた。
王花が駒を動かすと、いつも鋭い駒音が響いた。耳にずっとこだまするよどみのない駒音だった。
その駒音だけでプレッシャーを感じてしまう。将は努めて冷静を保って、いつもどおりの駒組を進めた。
「横歩取り」
戦況を見守っていた桂が独り言のようにつぶやいた。
桂は将棋部の主将なので、本来なら将の味方だが、同時に王花の熱狂的なファンでもある。桂は立ち位置的には王花の応援団だった。
この対局には、王花の友人である美紅も来ており、彼女は完全な王花ポジションだった。対局中、美紅はちらちらと将に敵対の目を向けて来た。
美紅も将棋の心得はそれなりにあるようで、局面をきちんと認識していた。
いま見える中には、将の味方はおらず、将は孤独だった。
しかし、見えざる力が将にはついている。
将の後ろには現世のあらゆるものを超越する存在がいる。
その力は現世最強の棋力を持つ王花さえもなぎ倒すことができる。
だが、その力を振り回して勝利しても意味はない。
将はただ一人で王花に勝ちたかった。
将は背後の圧倒的力に頼らず、駒組みを進めた。
一分将棋だが、お互い30秒も使わず、定跡を進めた。
将も一応は居飛車将棋の最新の定跡をインプットしている。昨日行われたばかりの棋譜もちゃんと並べていたので、定跡の範疇なら、王花と対等に戦うことができる。
将は桂と共に横歩取りを研究していた。新しい手もいくつか用意していた。
その中で一番手ごたえのある手で立ち向かうことにした。
将が新手を放つと、桂がピクリと体を反応した。
その手は王花との対局が始まる前まで二人で研究していた手だった。コンピュータソフトにかけて、ここから20手以上先までは最善種が指せる自信があった。
その手を受けて王花は初めて30秒を超えて思考した。
将の新手にそれなりに脅威を感じているのかもしれない。
手が少し止まったので、王花の付き人である美紅が心配そうに王花のほうを見た。
1分ぎりぎりまで考えると、王花は最善の手で返してきた。
対して、将はプレッシャーを与えるように、ノータイムで次の最善手を指した。このあたりはコンピュータソフトで完ぺきに研究済みだった。
将は指した後、それなりの手ごたえを感じた。
「おー、将さん、絶好調じゃないですか。私の力など必要ないかもしれませんね」
後ろで飛子がそう言った。
飛子の棋力は、将の推定では「8級」程度。
将棋の妖精だが、将棋を少し知っている程度だった。飛子いわく、「私、飛車にしか興味ありませんから。王手飛車をかけられて王手放置して飛車を助けないやつを一生軽蔑します」ということだった。
しかし、それほど甘くはない。定跡の中でわずかにリードしても、それはあくまでも暗記でしかない。
暗記が通用しなくなるここからが問題だった。
次の手。王花は将が想定していない手を指した。これまでよりさらない鋭い駒音を響かせてその手を指してきた。
将はちらりと顔を上げて、王花を見た。ちょうど王花も目を上げて、お互いの視線が重なった。
一瞬の王花の睥睨は多くのことを語っていた。その一瞥の意味は100の文字を語っていた。
王花の指した手はコンピュータソフトにおける最善の手ではなかった。しかし、最も紛れの多い手順だった。
おそらく、王花はこの城跡を完ぺきに心得ていて、将がどう指して来るか確かめようとする手だった。
将は自分の研究手順に王花を引きずり込んで序盤は成功したと確信していた。
しかし、王花の指した手の意味は将の敗北だった。王花はこの手順をすでに完ぺきに踏破していた。
将は王花に対して最善の手を返したが、王花は最善ではない紛れの多い手を選んで返してきた。
10手も手が進むと、ついには将の暗記が行き届かない局面になった。ここからは、自分の力で手を見つけ出さなければならない。
完全に自分の土俵から押し出された形になった。
現局面だけを見れば、将のほうが有利だったが、ここから将は最善の手を自分の力で発見しなければならない。
もし、それができるなら、将はすでにここにいない。とっくにタイトルを獲得している。
さらに10手進むと、完全に局面は逆転していた。
王花の攻めが確実に決まり、将の攻めは王花のものより遅い形になっていた。ここから普通に指すと、1手差で必ず負ける局面になっていた。
力の差は歴然だった。ここからの逆転はなかった。
将もそれなりの実力者だったから、現局面が絶望的であることを悟った。
素人からでは、どちらが優勢かわかりづらい局面だった。
それだけに、背後の飛子は将に尋ねた。
「どうですか、将さん。勝てそうですか?」
飛子はドキドキしながら局面を見守っていた。将の飛車が相手陣地になり込んで竜になっていたから、何となく将が優勢と考えたらしい。
しかし、局面は王花の勝勢になりつつあった。
「100%勝てる局面になったよ」
将はそう答えた。
「本当ですか?」
「ああ、負けはない」
将はそう言った。強がりではない。この絶望的な局面をいとも簡単にひっくり返す力が将にはあった。
だがそれは、敗北を認めることと同じ。将は拳を握り締めていた。やはり自分の力だけでは王花を超えることはできなかった。
「羽生君、50秒です」
桂が持ち時間があと10秒であることを告げた。
将は息を吐くと、魔力を解放することにした。
「飛子、マジックだ」
将は敗北を宣言し、同時に勝利を宣言した。不思議なことに勝利と敗北の味は完全に同化していた。
「私の出番ですね。りょーかい!」
飛子はそう言うと、メガネを外した。メガネを外すと、飛子の雰囲気はがらりと変わる。メガネを取ると人が変わるという漫画表現が飛子にはそのまま当てはまった。
「よく健闘した主よ。あとはわらわに任せるがよい」
豹変した飛子は飛子マジックを解放した。
禍々しい赤い光が周囲を包み込んだ。
飛子は自らの肉体から竜を召喚した。その竜は鋭く赤い眼光で王花をにらみつけた。
飛子マジックは将以外の誰も認識することができない。現に桂も美紅も飛子マジックの演出が見えていなかった。
だが、王花は何かを感じたのか、竜の睥睨を受けて顔を上げた。
「主、飛子マジックが解放された。王神竜が降臨した」
「王神竜? 効能は?」
飛子マジックは多岐にわたり、何が現れるかはその時まで誰にもわからない。飛子本人にもわからないという。
今回は「王神竜」なるものが降臨したという。これは将も初めて経験することだった。
「王神竜は竜神アルマゴートより命じられた竜の王。それは竜とチェス・ナイトの力を持ち、同時に玉を除くすべての駒によって取られることがない」
飛子が王神竜の説明をした。
竜と同じ動きに加えて、チェスの最上位の駒である「ナイト」の動きを持ち、さらに玉以外の駒では取られない。
王神竜は超強力な駒だった。
その王神竜の駒が将の駒台に浮かび上がった。真っ赤に輝く禍々しい駒だった。駒には「王神」の文字が赤く刻まれていた。
飛子マジックで現れた特殊な駒は原則として、駒台から盤上に打っても、1手とはカウントされない。そのため、盤上に打ち込んだ後、即座にその駒を動かすことができる。ただし、その駒を盤上に打った手番の間、その駒以外の駒を動かすことはできないようになっている。
また、王手で盤上に駒を打っても、玉に直接触ることは許されない。
玉という駒は絶対法で守られていて、あらゆるマジックでも不可侵の領域を持っている。
1分将棋だったので持ち時間がもうない。
将は慌てて王神竜を手に取って、盤上に叩きつけた。
「これが飛子マジックだ!」
将は力強く王神竜を叩きつけた。
あたりに衝撃が走った。
この手を受けて驚かない者はいない。
「わおっ!」
思わず、桂が大きな声をあげた。
「えええっ、なんだその手」
桂は盤面に近づいてきて、メガネをかけ直した。
何か錯覚を見ているのかと思ったらしいが、それは現実だった。王神竜が8一に打ち込まれた。時間がなかったので、ともかく相手の8一銀打の厳しい手を受けるために王神竜をぶつけた。
この手にはさすがの王花も驚いたらしい。それもそのはず、これはファンタジーな手である。しかし、マジックの作用により、これらはすべて合法として扱われる。
「ちょっと待て、これって逆転じゃ?」
桂もかなり興奮気味に盤面に顔を近づけて、時間を確認するのも忘れて読みふけった。
紛れもない完全な逆転だった。王神竜は玉以外では取られない。だから、どんな手を指しても、すべての駒を引きはがすことができる。
もう、将の玉に脅威が迫ることはなかった。しかも、打った直後、すぐに王神竜を動かせるから、将はそのまま、相手の攻めの起点となっていた歩を取り払って、自分の玉を安全にした。
インチキとも言える奇手で、一気に将の勝勢になった。王神竜の前では、コンピュータソフトも解析不能。王神竜の存在を認識できないコンピュータはここで停止。
王花はコンピュータソフトに近い精度と人間の意思を持っていたから、対局を続行できたが、さすがに信じられないというような顔をした。
「時間は?」
王花が横目を向けた。
「あ、す、すみません。見てなかった。えっと、22秒です」
「……」
桂は定位置に戻り、王花は一度座り直して、冷静に局面を見つめた。
だが、もう逆転はない。王神竜を想定していないのだから当然。
王花は局面を読むのをあきらめて、顔を上げて将の目をにらみつけた。
将は睨み返すように一瞥を返して、口元を緩めた。
「お前、まさかshow timeか?」
王花は小さな声でそう尋ねた。
その応手は将も想定外だった。
show timeは将が将棋ゲームで使っているアカウント名のことである。この名前を知っているということは、王花も同じゲームをプレイしているということになる。
show timeは有名なアカウント名ではない。フリー対戦で適当に遊んでいるだけである。
王花がshow timeを知っているということは、考えられることはただ1つ。
「花子さん」のアカウント名で知られる驚異的な気力を持つプレイヤーは王花だった。
将は王花の問いかけに首を横に振った。