その夜、王花は繁華街の歩道橋の上で一人たたずんでいた。
明日、大切な対局があるので早く家に帰るべきだったが、どうしても解決できない問題があって、もどかしさで頭がいっぱいだった。
今日、気まぐれで将と対局した。
将のことはよく覚えていた。王花は基本的に対局した相手のことはどんな末端の存在でも覚えていた。子供のころ、子供大会の予選で対戦した素人の棋譜さえも鮮明に覚えているほどだった。
将は終盤に不思議な手を指す棋士だった。しかし、今回はその不思議が不可解に昇華していた。
飛子マジック。
あの手は不可解としか表現できなかった。あんな手は今まで見たことがなかったし、思いつきもしなかった。なぜ思いつかなかったのかさえわからない。
王花にとって、対局に負けたことはどうでもよかった。それよりも、飛子マジックの謎を解明したかった。
「ダメだ、わからん。どうしても有力な手が思いつかない」
王花は頭を抱えた。王花は珍しく思い悩んでいた。
王花には、飛子が繰り出した飛子マジックがインチキである認識がない。ゆえに、将の繰り出した「王神竜」に対する存在しない応手を探し続けるハメになった。
王花が思い悩んでいると、王花から連絡を受けた白河が歩道橋を上がってきた。
白河は勝率3割台のフリークラスのプロ棋士であり、まったく冴えたところがない。しかし、王花の師匠ということで、最近はテレビに呼ばれることも多くなっていた。
白河の最大の功績は、王花を将棋界に呼び込んだことだった。
「王花ちゃん、心配したよ。突然、どうしたんだい?」
「師匠、来てくださったのですね」
王花は先ほどまでの悩ましい表情を打ち消して、明るい表情になった。
王花は人前でほとんど表情を変えない。口数も少なく、いつもクールにふるまっている。マスコミからもクールな棋士だと思われていて、世間の王花のイメージも同じだった。
しかし、王花は白河に対してだけは、仮面の奥の表情を表した。
王花は白河を将棋の師以上の存在として見ていた。唯一信頼を寄せる存在だった。
「こんなところにいると風邪をひいてしまうよ。明日、王位戦の対局があるのに体調を崩したら大変だ」
「そうですね。それならば、師匠が私を温めてください」
王花はそう言うと、白河の腕に抱きしめるようにしがみついた。
王花の白河への好意は昔からであり、それは白河の悩みの1つでもあった。
王花はまだ高校生になったばかりであり、しかもいまや世界中が注目する名棋士である。すでにいくつもの新記録を達成している。
女性初のタイトル獲得。
史上最年少のタイトル獲得。
史上最年少の棋戦優勝。
史上最年少の竜王、王将、棋王の3冠。
デビューからの公式戦連勝記録42連勝。
王花はデビューから公式戦ではまだ一度も負けていない。このまま、すべてのタイトルを獲得してしまうのではないかと注目されている。
無敗の3冠王、現役女子高生でルックスも高い。ということで、マスコミの注目も高かった。
それだけ注目される王花だけに、白河も気を遣うところがあった。
手をつないでいるところを見られれば、マスコミは必ずスキャンダルとして取り上げるだろう。
だから、白河は王花から意図的に距離を取った。王花のスキンシップには反射的に距離を取るようになった。
それを、王花は自分に魅力がないから拒絶されていると感じていて、いつも不満そうにした。
「と、ともかく車に戻ろう。家まで送るよ」
「師匠!」
「え、何だい?」
「師匠、この前、高市女流二段とはもっと近くで話をしていたでしょう。どうして、私とはそんなに距離を取ろうとするのですか?」
王花は不満そうな表情でそう言って一歩詰め寄った。すると、白河は反射的に後ろに下がった。
「私がまだ子供だからですか? まだ魅力に乏しいからですか?」
「いや、そうじゃないよ」
「ではどうしてですか?」
「と、ともかく車に戻ろう。な?」
「……」
白河としては、王花のためを思っての対応だった。変なスキャンダルが流れたら、王花が将棋に集中できなくなる。それは王花にとっても大きな不利益だ。それに、王花の将来を考えても、もう50になる自分に恋心を錯覚させるのは良くないと考えた。王花にはもっとふさわしい相手がいる。
白河個人のことだけを考えれば、王花に好意をもたれるのは奇跡だった。
47歳になって独身で、恋人もろくにいない。もうフリークラスで、棋士としてうだつが上がることはない。そんな底辺の中年男にすると、王花が近くにいるのは奇跡以外の何物でもなかった。
しかし、白河は自分を制して、王花の将来を優先した。
王花は白河のその思いを理解していなかったから、白河へのアプローチを日に日に強くしていった。
◇◇◇
白河は王花を家に送り届けるために車を発進させた。
王花はいま一人暮らしをしている。王花は孤児であり、親がいない。
白河が王花と出会ったのは、今から10年前のことだった。
当時、37歳だった白河はもうその歳にしてフリークラスに転落しており、将棋界から引退することを考えていた。
そんなとき、懇意にしていた新聞社の記者の山田に呼び止められた。
「私は白河5段の大ファンです。引退は惜しいよ」
「ははは、僕のファンなんて山田さんしかいないですよ。もう僕が将棋界に残っていても意味はありません」
「寂しいこと言わないで」
「いえ、もう今期で引退させていただきます。一応、実家の母の家業を継ぐ必要もありますし、ちょうどいい機会です」
「そうですか……」
山田はさみしそうな顔をした。
「それならば、せめて最後に将棋イベントに参加しませんか?」
「イベント?」
「ええ、藤井3冠を招待して、地元の孤児院で将棋を普及するイベントが企画されてるんです。でも、藤井3冠のタイトルマッチと時期が重なってしまいまして、代役が必要だったんです」
「藤井3冠の代役ですか? ははは、とても務まりませんよ」
「そんなことありません。将棋を愛する白河5段の熱意はきっと子供たちに伝わります」
「そうでしょうか……?」
「ぜひ、お願いします」
白河は山田の善意に応えるためにも参加することにした。そのイベントで白河は王花と出会うことになる。
王花は白河と出会い、将棋を知り、あれから10年。王花は史上最強の棋士となった。
しかし、その史上最強の棋士は浮かない顔をした。助手席にもたれかかって、無言でぼんやりしていた。
先ほどのことで不機嫌になっているのかと思ったが、それ以外に悩みがあるようだった。
「王花ちゃん、疲れたかい?」
白河が尋ねると、王花はぼんやり前を見たまま、
「すごく邪悪な竜に噛まれました」
「え?」
白河は王花の言った意味がわからなかった。
「すごく邪悪な竜です。きっと近い将来、私を食べにくると思います」
「……」
「きっとこのままでは私は食べられてしまいます。でも、このままでは引き下がれません。師匠との約束、すべてのタイトルを獲得するためにも」
王花は約束という言葉を口にして、かつて白河と結んだ約束の時を思い出した。
あれはまだ子供のころだった。
まだ、将棋のイロハを知ったばかりのとき、白河は王花に言った。
「将棋には8つのタイトルがあるんだ。名人、竜王、王位、王将、棋王、王位、棋聖、叡王」
「みんなすごく強そうだね」
まだ幼かった王花にはすべてのタイトルが遠くの高みの存在だった。
「うん、でも王花ちゃんなら、タイトルに手が届くかもしれない」
「取るよ。絶対。名人」
「うん、その日が来れば楽しみだな」
「じゃあ、師匠。私が8つのタイトル全部取ったら、結婚。結婚してくれる?」
王花は子供心にそう言った。子供心だから、白河も何も考えずうなずいた。
「もし、王花ちゃんが8冠王になったら、そのときは王花ちゃんの頼みを何でも聞いてあげるよ」
そのときの白河は、そんなことは絶対にありえないと考えていたが、王花は真剣に8冠王を目指し、それに手が届くまで実力を高めていた。その約束が王花の将棋への原動力のすべてだった。