将は飛子と名乗る飛車の妖精と名乗る謎の生命体に出会った。
詳細はまったく不明だが、特別な存在であることだけは間違いなかった。
飛子曰く、飛子マジックなる謎の魔法が使えるらしい。
それがどういうものなのか確かめる唯一の方法が将棋を指すこと。
強い決意のもとやめた将棋だったので、もう一度盤面に向かい合うのには抵抗があった。
しかし飛子という謎の生命体を探るためには、将棋を指すほかない。
「将さん、ひとつお尋ねしたいのですが、どうして将さんは将棋をやめてしまわれたのですか? 将棋は大変美しい儀式です。そんな儀式をやめてしまうなんて私には考えられません」
将棋部の部室に向かう道中、飛子が尋ねて来た。
話せば長くなるし、話したくなかったので、将は何もしゃべらないでいた。
「きっと深い事情がおありなのでしょう。これ以上は詮索いたしません。ですが、将さんが今一度将棋界に戻っていただければ、わたくしとしましては大変うれしい限りです」
「……」
将は飛子の話を聞いていて気づいたことがあった。
飛車の妖精なる不思議な存在を確かめたいという気持ちで将棋部に向かっている。
それが将が今一度将棋を指す動機ということになっているが、それはまったく違うのだということに気づいた。
純粋にもう一度将棋を指したい。
この気持ちは将棋をやめると決意したその日からずっと続いているものだった。
しかし、将はそれを意思の力で抑えとどめていた。
素直な気持ちになれば、将はもう一度将棋を指したいという気持ちだった。
しかし、将棋のことを少しでも考えると、真龍王花のことを思い出してしまう。
体の芯から戦慄するような王花の視線を思い出すと、体が震えた。震えて、駒を掴むことさえできなかった。
世間は将棋界のアイドルだと言って王花を持ち上げているが、将には将棋界のデーモンにしか見えなかった。
対局した者にしかわからない恐怖心。将は誰よりもその恐怖心を味わっていた。真剣で斬られたかのように、将の心は王花を恐れるようになっていた。
◇◇◇
将はようやく将棋部の部室にたどり着いた。
「たしかここだな」
「ここで将棋が指せるのですか? 楽しみですね」
飛子は将の後ろで嬉しそうにしていた。飛子の姿は将にしか見えない。ここにたどり着くまでに色々な人とすれ違ってきたが、誰も宙に浮いた飛子に意識を向ける者はいなかった。
将は将棋部の扉を開いた。
静かな空間に刺すような駒音が響いた。
そのほうに目を向けると、将棋部の首相である桂慶大がきれいな正座の姿勢でたたずんでいた。
「あっ、羽生君!」
桂は将に気づくと嬉しそうに飛び跳ねて、こちらにやってきた。
「将棋部への入部を決心してくれたのですか? ぜひウェルカムです」
桂はさっそく将の手を取って目を輝かせた。
「いや、まだ入ると決めたわけではないです。ちょっと見学に来ただけです」
「あ、そうですか。それは早とちりして申し訳ありませんでした」
桂は苦笑した。
「いつもそうなんです。僕、昔から早とちりで奨励会でも早とちりで逆転されてダメだったんです。僕の人生は桂の高跳び歩の餌食の連続です」
桂は独特の方法で自虐した。
「でも今度こそやってみせます。2五への桂の高跳びを華麗に決め、羽生君を将棋部に導いてみせます。とりあえず、どうぞ」
桂はおとなしそうな顔をしているが、変なところでテンションが上がる性質があった。
桂は将を中に案内した。
「部員は先輩だけなんですか?」
「そうなんです。幽霊部員があと一人いるのですが、不登校のままで音信不通。顧問の先生も囲碁部と兼業で、部員が8人もいる囲碁部にゾッコンなんです」
将棋部はまさに廃部寸前のようだった。
「部として認可されるためにはあと2人部員が必要なんです。あと2人。そう、僕が桂馬、羽生君が飛車となれば、あとは銀があれば攻めがつながります」
「おれはまだ入ると決めたわけでは……」
「大丈夫。最悪ニート飛車でもけっこうです。王花様は前回の順位戦、角換わりの将棋でなんとただの一度も飛車を動かすことなく、角、銀の攻めで見事に勝利されました。最悪、幽霊部員でお願いします」
将は桂のテンションになかなかなじめなかった。
「見学と言っても見るものは何もありませんからね。一局お手合わせお願いできますか?」
桂はそう言うと、将棋盤の前に座った。
将棋部の部室には、立派な将棋盤が2つ置かれている。10万円はするであろう立派な将棋盤だった。このまま廃部になって処分されるにはあまりにもったいない。
将棋の駒も既製品と違い、手書きであるとわかる年季の入った駒だった。
「まあ、なんて立派な駒なのでしょう。この駒を造られた棋聖はきっと一流の職人に違いありませんよ」
飛子は駒を見て目を輝かせた。
「特にこの飛車。美しくってかわいくって、キュンキュンしちゃいますよ」
飛子はそう言って、飛車にほほえましい視線を向けた。飛子は全体的に古風なイメージのある少女だが、現代人のような感覚も持ち合わせていた。
「将さん、これならば立派な飛子マジックをお見せできると思います」
「そうか。その飛子マジックとやらを見せてもらおうか」
将は桂と向かい合うような形で座布団に座った。
畳のにおい、将棋盤のにおい、そのすべてが懐かしかった。同時に、それらを感じるほどに将棋を指したいという願望が高まった。
将はゆっくりと恐る恐ると言った感じで駒に手を伸ばした。
その手が玉を掴んだとき、将はこみあげてくるものを感じた。
目に涙がにじんだ。
ずっとこの感触を追い求めていた。初めて将棋に出会ったときから、この感覚は特別なものだった。最も安らぎを与えてくれる感覚だった。
将は噛み締めるように駒を並べた。
将の放つ駒音は高く鋭かった。
「僕より羽生君のほうが格上ですからね。先手をもらってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「よーし、成長した僕の将棋を見せるぞ」
桂は丁寧に背筋を伸ばすと、「お願いします」とていねいに頭を下げた。
そして、桂は歩を掴み、進めた。
8四歩。
角道を開ける歩が前に突き出された。
将は見慣れた光景をどこか懐かしく見ていた。
「で、飛子マジックとはなんだ?」
「時が来ればお伝えします。とりあえず、どんどん進めてください」
言われたので、将は普通に駒を進めた。
お互いに角道が開き、飛車先の歩を進めていく。
角換わりか相掛かりか横歩取りの戦型に進んでいった。
最終的に横歩取りの戦型が決まった。
横歩取りは非常にポピュラーな戦型だが、将の得意戦型でもある。
将に引導を渡した王花も横歩取りを得意戦型にしている。
桂も居飛車党であり、王花を尊敬しているためか、横歩取りの研究はかなり進めているようだった。
しばらく定跡通りの手が続いた。
そのとき。
「将さん、来ましたよ。来ました」
「ん?」
後ろで飛子が騒ぎ立てた。
「飛子マジック、発動できます」
「そうか、ならさっそくやってくれ」
「わかりました。飛子マジックを開放します」
飛子はそう言うと、かけていたメガネを取った。
メガネをかけていた飛子はどこか可愛らしい顔をしていたが、メガネを取ると、180度変わって、鋭い視線が光った。
「主よ、聞きなさい」
将は豹変した飛子に丸い目を向けた。
「飛子マジックが開放された。時は止まった」
「どういうことだ?」
「見なさい」
飛子はどこから取り出したのか、センスを手に持つと前に突き出した。将は前を見た。
全体的に空間が赤みがかって見えた。
何より驚いたのは、桂が静止画のように止まっていたことだった。
「桂先輩?」
尋ねても、桂はまったく反応しなかった。
「そういうことだ。飛子マジックが開放されている間、すべての時は止まる。そして、わらわは飛車の妖精として、棋譜に介入する権限を持つ。導かれた権限は「飛車の覚醒」だ」
飛子は先ほどまでとはまったく変わって、凛々しい顔つきをしていた。
「飛車の覚醒?」
「飛車の覚醒の権限はいたってシンプル。飛車を続けて二度動かす権限である」
「……」
飛車を続けて二度動かす。文字通り受け取れば、それは明確な反則だ。
「それは反則だろ」
「飛車の覚醒においては合法となる。百聞は一見に如かず。指してみるがよい」
「……」
もし、いま飛車を続けて二度動かせるなら、敵陣になり込めるだけでなく、桂馬と角の駒得まで確定する。相手が王花であったとしても勝てる。
だが、それができないから将棋なのだ。いま、将の飛車の先には角がある。その角を取っても、銀で取り返される。その場合、先手有利が確定する。
「本当に二度続けて指せるのか?」
将は思い切って、相手の角を取って、飛車を敵陣になり込んだ。これは常識的に見ると悪手。
だが……もう一度動かす権利があるなら別。
そのまま桂馬を取れば、角と桂馬を得しながらも飛車を龍にできる。
将は反則覚悟で続けて相手の桂馬を取り、8九龍とした。
すると……。
赤みがかっていた空間がもとに戻った。止まっていた桂は動き出した。
「えーーーーーーーーーーー」
開口一番、桂は大きな声を上げた。やはりそうだ。反則なのだから。
しかし、桂は不自然なことを言い始めた。
「気づかなかった。そうか、こんな手があったのか。これはもう羽生マジックだよ。いやー、角桂損で香損も確定。すごい手だ」
桂は反則だと認識していなかった。
「やっぱすごいね、羽生君は。もう勝ち目ないな。投了します。負けました」
インチキだったはずだが、結果は圧勝という形になった。こんなことが許されるなら、誰にだって勝つことができるだろう。
「見たか、主。これが飛子マジックだ。わらわが必ず主を偉大なる棋士へと導こう」
飛子はそのように言って胸を張った。
これが飛子マジックか。
将はいまだに信じられない様子だった。