ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#12-秘密

 その夜、あたしは消灯時間の過ぎた美浦寮のラウンジで、英語の教科書とにらめっこしていた。

 

「ルピナスさん、もうそろそろ休みませんか? もうすぐ日付が変わってしまいますよ」

 

 そう言いながら、レイアクレセントは眠そうに目をこすった。

 

「ごめん、もうちょっとだけ付き合ってよ」

 

 夏休み前の期末テストが一週間後に迫っている。あたしは苦手な英語の試験に向けて、最後の追い込みをかけているところだった。

 

「もっと計画的に勉強しておけばよかったではありませんか」

「苦手な科目は後回しにしちゃうの。アンタだってそうでしょ」

「そう、でしょうか……?」

 

 レイアクレセントは理解できないと言いたげに首をかしげた。くそう、優等生め。

 

「今回ばかりは赤点取るわけにいかないからさ、本気出さないと」

 

 いつもなら赤点のひとつやふたつ、気にしないあたしだ。だけど、今回はそういうわけにいかない。試験の後にやってくる夏休み、ここで我らがチーム〈プルート〉は学園主催の夏合宿から離れ、特別な合宿をすることになっている。なんでも、トレーナーの学生時代の先輩が所有する別荘を借りた、長期の計画らしい。赤点を取ると、補習授業を受けに行かなくてはいけなくなるので、トレーナーからは絶対に赤点を取るなと厳命されている。

 

「ホープさんは見てくださらないんですか?」

「アイツ冷たいから」

 

 あたしがラウンジで勉強しているのは、寝るから電気を消させろというルームメイトに部屋を追い出されたからだ。本当ならレイアクレセントの言うように、自分の部屋で、ルームメイトに見てもらうのが一番いい。

 

「勉強できるんだから、ちょっとくらい見てくれたって良いのにね」

 

 そんなお門違いな恨み節を呟いた。去年まで一般の中学に通っていただけあって、ホープアンドプレイはどの教科もよくできる。編入して最初の中間テストでも、すべて平均点以上だった。ただ、その頭脳をあたしのために使うつもりはないらしい。今頃ヤツは、ひとり静かな部屋でぐっすり寝ている頃だろう。

 

「クラウンさんは栗東寮ですしね」

「そ。だからアンタがこっちにいてくれて、ホント良かった」

 

 クラウンセボンはあたしたちの中でも特に試験の成績が良い。それにホープアンドプレイと違って、頼めばきっと親切に教えてくれるはずだ。ただひとつの問題は、あたしと所属寮が違うこと。トレーニングやら食事やら、その他いろんなことを済ませて、さて勉強でもと思う頃には、大体寮の門限を過ぎてしまう。そうなると、寮館の行き来なんてできないので、どうしても一緒に勉強というわけにはいかなくなる。それで、寮が同じで優秀なレイア家のお嬢様に、家庭教師代わりをお願いしているというわけだ。

 

「うちのチームはみんなお勉強ができるから、ありがたいもんだよ」

「そう言いますけど、ルピナスさんだって、国語は得意でしょう? 言葉の科目という意味では同じなのですから、英語もできるようになりますよ」

「英語は難しいんだよ。あたし、純国産だから」

 

 あたしのくだらない冗談に、レイアクレセントは真面目な顔をして「なるほど」と頷く。そう真に受けられるとこっちが恥ずかしくなるけれど、知らんぷりして教科書の例題に視線を戻した。

 

「えーと『私は明日小倉に行くつもりです』?」

「穴埋めですね。さっきやった未来系ですよ」

「んー、I will……」

「いえ、この場合はwillではなくて……」

 

 先は長そうだ。それからしばらくの間、静かな寮のラウンジの中は、あたしがペンを滑らせ、ページをめくる音だけが響いていた。一度だけ寮長さんが様子を見に来たけれど、あたしの手元をひょいと覗いただけで、何も言わずに帰っていった。そういえば、寮長さんも勉強はあまり得意じゃないって言ってたっけ。

 

「ねえ、ちょっと聞いていい?」

 

 いくつか確認したいことがあって、レイアクレセントの顔を見ると、お嬢様は目を閉じたまま船を漕いでいた。ふと時計を見れば、もう午前0時を過ぎている。続きは明日にして、そろそろ寝た方がいいかもしれない。あたしは半分夢の中にいるレイアクレセントの肩を支えて、部屋まで送っていくことにした。

 

「遅くまでありがとうね。今度、ベスト・クレープのスペシャルメニュー(おご)るよ」

 

 聞こえているかどうかはともかくとして、お礼は言っておこう。そう思って、あたしはひとまず、彼女の好物の名前を出した。すると、レイアクレセントは口をもごもごと動かして、何やら返事した。眠くて呂律が回らないのか、よく聞き取れない。

 

「なに? なんか言った?」

「……も付けてください」

「え?」

「ル・クプル・ガニヨンのチョコレートも付けてください」

「あーわかったわかった」

 

 結構細かい注文を付けてきたな。まあ、おかげでどうやらテストはなんとかなりそうだし、それくらいなら安いもんだ、と思った。にしても、るくぷるナントカのチョコレートってなんだろう。後で調べておかないと。

 

 

 レイアクレセントを無事送り届けたあと、自分の部屋の前へ戻り、扉を開けようと、ゆっくりドアノブへ手を近づけた。中で先に寝ているであろう、気難しい同居人を起こさないようにするためだった。

 

(ん?)

 

 物音を立てないように、と思っていたあたしの耳に、あたしが立てたものじゃない音が聞こえてきた。どうやら部屋の中から鳴っているらしい。ごそごそ、もぞもぞと、何かが動いているような音。それに混じって、かすかに声のようなものも聞こえる。

 なんだ、起きてるのか。そう思って、あたしは遠慮せず扉を開けた。

 

「ホープ、起きてたの?」

 

 けれど、返事はなかった。かわりにあたしの目に飛び込んできたのは、ベッドの上で丸まって、身体をガタガタと震わせている小さな芦毛の少女の姿だった。あたしは一瞬、何が起きているのか理解できず、急いで中へ入ると、その光景を周囲から隠すように扉を閉ざした。後から思えばおかしな行動だったかもしれない。でも、その時のあたしは、とにかくこれを誰かに見られてはいけないような、そんな気がしたのだった。

 

「ホープ、大丈夫? どうしたの?」

 

 呼びかけても反応がない。頭をかばうように抱えたまま、窮屈そうに足をじたばたと動かしている。蹴飛ばされたと見える掛け布団は、あたしのベッドの方にまで飛んでいっていた。ホープアンドプレイの口の端からは、うなるような言葉にならない声が漏れている。悪い夢でも見て、うなされているんだろうか。

 

「ホープ?」

 

 とりあえず、一旦起こした方がいいかもしれない。あたしは震えるホープアンドプレイの肩に、そっと手を触れた。

 

「! ――やだっ!」

 

 次の瞬間、差し出した手は勢いよく()ね返された。パチン、と乾いた音がして、あたしの右手に痛みが走る。寝ぼけたルームメイトに、したたかに引っ叩かれたようだった。予想だにしなかったことで、あたしはしばらく呆然としたまま、じんじんと痛む右手をさすっていた。

 すると、のどの詰まりが取れたように大きく息を吐きだして、ホープアンドプレイはビクンと身体を大きく揺らした。どうやらあたしの手を叩いた衝撃で、目を覚ましたらしい。あたしが声をかけようとするより早く、ホープアンドプレイは勢いよく身体を起こすと、まるで今しがた(さら)われてきた子供のようにあたりを見回した。月明かりが差し込む部屋の中で、汗をにじませ息を荒くしている彼女は、かつてないほど憔悴(しょうすい)して見えた。

 

「――なんだ。キミか」

 

 開口一番、ホープアンドプレイはその聞きなじんだ言い回しとともにため息をついた。けれど、それが平静を装った仕草ということは、いくら鈍いあたしでも気づくことができる。あたしを叩いた小さな小さな手のひらが、まだ小刻みに震えているのだから。

 

「そうだよ、あたしだよ。どうかしたの?」

 

 いつもと違うルームメイトに、あたしはいつもと同じように話しかけた。

 

「別に、どうも、してないよ」

 

 その目が、明らかにおかしい。あの冷めたような、感情を表に出さないような目つきじゃない。相手を威嚇(いかく)するように(にら)みつけ、それでいてどこか弱弱しさを感じる目だった。

 あたしは、その目に見覚えがあった。

 

(ああ、あの時と同じだ)

 

 それは、はじめてあたしたちが会話を交わした時。あたしが「ヒト生まれって、本当なの?」と聞いた時。あの時、あの教室で、あたしに向けてきた目だ。

 

(そうか。そうだったんだ。ボンの言っていた通りだ)

 

 あの時のあたしには、ホープアンドプレイが怒っているようにしか見えなかったけれど、クラウンセボンは、あれは()()()()()()()だと言っていた。今ならわかる。ホープアンドプレイは、何かにひどく怯えている。その正体はつかめないけれど、とにかく恐ろしいものに出会って、助けを求めている。ようやくあたしにも、それがわかった。

 

「怖い夢でも見たの?」

 

 ホープアンドプレイは答えなかった。答える代わりに、あたしが叩かれた右手を(さす)っているのに目をやって、一言「ごめんなさい」と呟いた。彼女らしくないその言葉を聞いた途端、あたしはどうしてか胸が苦しくなった。右手の痛みなんか、もうどこかへ消え去っていた。

 悪い夢を見たようだということは疑いようもなかった。同時に、これはただの悪夢なんかじゃない、と思った。あたしよりもずっと大人びていて、冷静で、理知的な彼女が、単なる夢でこれほど取り乱すはずがないのだから。

 

「ホープ」

 

 何か言いたい。でも、何も思いつかない。あたしは自分の気の利かなさにイライラしていた。こんな時、クラウンセボンならなんと言うだろう。

 

「ねえ、手、握っていい?」

 

 言うべき言葉が見つからなかったあたしは、別のやり方を思い出した。看護師をしている母さんに教わった、あたし自身がしてもらったこともある、こういう時の()()()の方法だ。

 

「嫌なら、しないよ。ちゃんと教えて。あたし、言われないとわかんないから」

 

 念入りに尋ねた。母さんが言っていたからだ。「手当て」をするときは、相手によく確認すること。触られることが嫌な子には、絶対にやっちゃいけないから、と。

 ホープアンドプレイは、怯えた顔のまま「平気」と小さく答えた。触ってもいい、ってことだ。少なくとも今この時は、あたしは彼女の味方でいさせてもらえる。それが、嬉しかった。

 

「じゃあ、触るよ」

 

 ベッドの横の床に腰を下ろして、視線をホープアンドプレイよりも低くする。そして、柔らかい人形を取り上げるように、傷つけないように、ゆっくりとその手に触れる。断りを入れ、了承も得たはずだけれど、触れた瞬間、ホープアンドプレイが身を強張(こわば)らせたのがわかった。べっとりと汗にまみれて、氷のように冷え切った手。さっきまで眠気を覚え始めていたあたしの火照った手とは、正反対だった。

 

「大丈夫。あたしは、アンタを傷つけないから」

 

 何があったのかなんて知らない。どうしてこれほど怯えているのかも。ただ、とにかく今のホープアンドプレイには、手当てが必要だった。それだけはハッキリしている。

 静かに、指先に意識を集中させて、手の甲を()でていく。手首から指先へ向かって、二回、三回。あたしの手から、体温を伝えるように、四回、五回。そのうち無言に耐えられなくなったあたしは、ひとりでぺらぺらとおしゃべりを始めていた。

 

「アンタにも散々言われたけどさ、あたしって、小さいころからバカのクセに、あれこれ考えすぎるんだ。そうするとね、夜、頭の中が一杯になっちゃって、眠れなくなるの。そんな時、母さんがいつもこうしてくれたんだ。手だけじゃなくって、耳や背中を撫でてくれるの。そうするとね、気持ちがだんだん落ち着いてきて、眠くなってくるんだ。母さんが言うには、気のせいじゃなくって、本当に薬みたいな効き目があるんだって。――ね、腕もいい?」

 

 ホープアンドプレイは、あたしにされるがまま、腕を差し出してくる。部屋着の上から、同じように撫でていく。肩から指先へ向かって。悪いものを優しく洗い流すように。あたしのルームメイトを怖がらせた、何者かの影を追い出すように。

 

「……一緒だ」

 

 かすれた声で、けれど確かに、ホープアンドプレイは言った。

 

「一緒?」

「サカイも、こうしてくれた。ボクが、いまよりもっと、ひどかったころ」

 

 サカイ、というのは知らない名前だ。

 

「最初は、誰にも触らせなかったけど。蹴っ飛ばしたり、騒いだりして」

 

 何の話、と聞きたいのをぐっとこらえて、あたしは「手当て」を続けた。

 

「ね、耳、触ってもいい?」

「……ごめん。そこは、まだ、無理」

「わかった」

 

 なんとなく、そんな気がしていた。本当なら一番効果の高い耳に「手当て」をしたいところだけれど。嫌がるのなら、無理に触れる必要もない。

 

「あと、尻尾も、やめて」

「うん。わかった」

 

 尻尾に触るつもりはなかったけれど、絞り出すようなお願いの言葉に、あたしは精一杯、深く頷いてみせた。

 

「わけわかんないよね、ボク。ほんとに、バカみたいだ」

「ううん。そんなことない」

 

 むしろ、ありがたかった。腕だけでも、あたしが触れることを許してくれているのだから。ホープアンドプレイは言葉を詰まらせながらも、一生懸命言葉を紡いでくれる。それも、あたしには嬉しいことだった。どんな言葉であれ、これは心がほぐれていっている証拠だ。

 

「聞きたいんでしょ。ボクがどうして、こんなふうに……」

 

 あとの方は消え入るようになって、ほとんど聞き取れなかったけれど、あたしはわざと、普段と変わらない調子で答えた。

 

「そりゃ聞きたいよ。気になるよ。大事なルームメイトだもん」

 

 すると、あたしが撫でている腕に、ポタポタと(しずく)がふたつ落ちてきた。何だろうと思って思わず上を見上げると、そこには、うつむいたホープアンドプレイの顔があった。その真っ黒な瞳が、夜の闇の中で光っている。

 あたしは、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、あわてて視線を落とした。

 

「……ルピナス」

 

 そうあたしに呼び掛けるホープアンドプレイの声は、心なしか震えている。日頃「キミ」としか呼んでくれない彼女が、あたしの名を呼んでくれたのは、随分久しぶりのことだった。

 

「なに?」

「ルピナスは、ウマ娘として生まれてきて、よかったって、思う?」

 

 その問いは、これまでホープアンドプレイの口から出たどんな言葉よりも、感情がこもっていた。でもあたしは、すぐに答えることができなかった。この質問はあたしたちにとって、特別な意味を持っている。考える時間が必要だった。だからあたしは、少し違う方法で返事した。それなら、考えるまでもなく答えることができるから。

 

「あたしは、ホープがウマ娘でよかったって思うよ。だって、そうじゃなかったら、あたしたち出会わなかったかもしれないんだから」

 

 その答えに、ホープアンドプレイはしばらく押し黙った。想定外の返事に戸惑っているのかもしれない。床に座ったまま「手当て」を続けるあたしをベッドの上から見下ろしていた彼女はやがて、ふふっと小さく笑い声を漏らすと、あのいつものしゃべり方で、言った。

 

「クラウンセボンみたいなこと言うね。キミらしくない」

「そう? 影響されたかな」

 

 あたしはわざとらしくとぼけた。芯から出た言葉だったけれど、そう言われてみると気恥ずかしい。それをごまかすように、心の準備ができたあたしは、元の質問にきちんと答えることにした。

 

「――嫌になったこと、あるよ。自分が、ウマ娘として生まれてきたこと」

 

 あたしは、トレセン学園に入る前の自分を思い返していた。

 小学校に上がったばかりのころのあたしは、ことあるごとに「ウマ娘に生まれて、よかった」と言っていた。それは、トゥインクル・シリーズの舞台を目指せるからだ。もしも人間に生まれていたら、それは夢見ることさえできない。あの頃のあたしは本当に、ウマ娘として生まれてきた自分が誇らしかった。

 それが変わったのは、あたしが本格的にトレセン学園を目指すと決めたころからだった。学校の先生に相談すれば、やめた方がいいと言われたし、どこのランニングスクールに話をしても、入会を断られた。理由は、母親が人間だから。家系に、競走ウマ娘がいないから。見込みがない夢をみるくらいなら、普通の学校に行って、普通に仕事をした方がいい。レースの世界に行かないウマ娘だって、たくさんいるんだから。みんな口々にそう言った。体育でも、運動会でも、あたしは一度だって他の子に負けたことはなかったのに。

 

「それで、つい、母さんにぽろっと言っちゃったんだ。『こんなことなら、ウマ娘なんかに生まれなきゃよかった』って」

 

 その時の母さんは、あたしが他にどんな悪さをした時よりも怒った。力加減を誤って壁を蹴飛ばし穴をあけた時も、遊んでいて友達に怪我をさせた時も、あそこまで怒ったことはない。

 

「母さんの前じゃ言えないけど、今でもときどき、思うことはあるんだ。『もしも人間だったら、こんなにあれこれ悩まなくて良かったかもしれない』って」

 

 あたしが話し終えると、ホープアンドプレイは、静かに呟いた。

 

「――キミとボクとは、本当に、どこまでも正反対だね」

「え?」

「その言葉、ボクは、ボクを生んだ人間から言われたよ」

「……え?」

 

 その言葉の意味は、すぐにはわからなかった。嘘だ。本当はわかったけれど、認めたくなかっただけだ。だってそんなのって、あまりにもショックが大きすぎる。そんなこと、ありえないと思った。あっちゃいけないことだと思った。

 母親が、子供に向かって、その生まれを呪うだなんて。

 

「そんなの、ホープ、ごめん。アンタの母さんのこと、悪く言いたくないけど」

「ボクに母さんはいないよ。ボクは生きるために、家を捨てた子だからね」

 

 その答えが全てだった。

 あたしの頭の中を、色々なことが駆け巡った。どうして、最初にヒト生まれだと言われた時、ホープアンドプレイは怯えた目つきで睨んできたんだろう。どうしていつも、すべてが他人事のような冷めた態度でいたんだろう。どうして、特別な才能があるのに、地方のトレセン学園でもなく一般の中学から編入してきたんだろう。今日見た悪夢は、どんな夢だったんだろう。なぜあのとき「やだ」と言って、あたしの手を払いのけたんだろう。なぜ、耳と尻尾に触られたくないんだろう。そのすべてが、あたしの想像もできないほどの苦しみから始まっているのだとしたら。

 

「ホープ!」

 

 あたしはもう、居ても立ってもいられなかった。あたしより二回りも小さなその手を握りしめたまま、抑えきれない感情が溢れだしてきた。

 

「なんでキミが泣いてるのさ」

「アンタだってさっきまで泣いてたくせに」

 

 申し訳程度に言い返したけれど、あたしの顔はぐしゃぐしゃだった。

 

「今日は久しぶりに、悪い夢を見たんだ。勉強熱心なキミを追い出したバチが当たったのかもね」

 

 そう言って、ホープアンドプレイはいつもの乾いた笑いをこぼした。

 

「ホープ……」

 

 あたしはもう、何も言えなかった。

 

「キミは、ボクがウマ娘でよかったって、言ったよね」

 

 ただ頷いた。何度も何度も頷いた。それでホープアンドプレイの傷が消えてなくなるとは思えないけれど、誰かが言うべきだった言葉なのだから。あたしじゃ代わりにはなれないかもしれない。それでも、届いて欲しかった。

 

「そこだけは、ボクも同じだ」

「同じ?」

「ルピナスが、ボクと同じウマ娘で、よかった」

 

 その願いは、きっと届いたと思う。

 

 

 翌朝目が覚めた時、あたしたちはお互いの顔を見て笑った。ふたりとも、ひどく腫れぼったい目をしていたから。顔を洗って少しマシにはなったけれど、それでもやっぱり赤みが差している。

 

「昨日のこと、誰にも言わないでよ」

 

 出がけに、ホープアンドプレイはあたしに向かってそう言った。

 

「うん。あたしたちだけの、秘密ね」

 

 あたしも頷いた。多分、あの話をこれ以上することはないだろう、と思った。少なくとも、ホープアンドプレイというウマ娘の過去について、これ以上詮索する必要はない。いつかまた、彼女自身が自分で話せる時が来るまでは。昨日は、事故みたいなものだったんだ。

 教室に行くと、あたしたちの充血した目について、クラウンセボンが尋ねてきた。それを予想していたあたしたちは、ふたりで遅くまで勉強していたことにして、なんとか誤魔化したのだった。完全な嘘ではない、よね。

 

 ところで、家庭教師代としてレイアクレセントからリクエストされたル・クプル・ガニヨンのチョコレート。後で調べたところ、オーダーメイドの蹄鉄をワンセット作るのと同じくらいする超高級品だと知って青ざめたのは、()()()()()()()()


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