ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#17-ふたりで走る

『強い! 圧倒的な力の差を見せつけ、レイアフォーミュラが今一着でゴールイン! 見事に、本日のメイクデビュー中山二戦、レイア家による勝利独占成りました! 恐るべしレイア軍団! その黄金期は今日ここから始まるのか!』

 

 寮室のテレビには、先月のレースのダイジェスト放送が映っている。あたしたちも間近で見た、あのレース。

 

「いやあ、来年のクラシックが楽しみですね」

「三冠達成も期待してますよ」

 

 観客へのインタビュー映像。ニュースで改めて確かめるまでもなく、レースが終わった直後から、スタンドのあちこちでささやかれていた言葉の数々。

 プツ、とテレビを消して、あたしたちはしばらく無言のまま顔を見合わせた。

 

「すごかったよね」

 

 そんなあたしのバカみたいな感想に、ホープアンドプレイは表情ひとつ変えず答えた。

 

「わかってたことでしょ」

「そりゃあ、そうだけど」

 

 中山、芝2000メートル。それは、あの皐月賞と同じコース。間違いなく、来年のクラシックを見据えたデビュー戦。その勝ちっぷりは、まさに圧巻だった。俗に「もったまま」なんて言われる、余力を残した走り。にもかかわらず、着差は五バ身以上。最初の発表段階では12人いた出走予定者が、当日になって8人に減っていたのも頷ける内容だった。

 

「あたしたちとの模擬レースの時とは、もう全然違った」

 

 あの時だって負けたけど、多分、いまならもっと勝負にならない。あたしたちがまだ本格化を迎えていないとはいえ、差は縮まるどころか広がっていた。それを目の当たりにさせられた衝撃は、一ヶ月がたとうとしている今でもありありと思い出せる。

 

「……いや、それよりもさ」

 

 そう、あたしが話したかったのは、そんなことじゃなかった。それよりももっと大変な問題が、あたしたちチーム〈プルート〉には持ち上がっていたからだ。

 

「クレセント、マジでやる気なのかな」

「さあね」

「さあねってアンタ……」

「結局、本人次第じゃないの。ボクらにどうこうできる問題じゃないでしょ」

「そうかもしれないけど」

 

 デビュー戦に勝利した後、レイアクレセントはちゃんとウイニングライブのセンターをこなした。演目は当然、レイアフォーミュラとのダブルセンターで歌う『make debut!』。観客席は大いに盛り上がったし、新聞各紙にもレイア家二人のセンター独占を大きく取り上げられた。

 コトが起きたのは、レース明けのチーム集合日。レイアクレセントが、こんなことを言い出したのだった。

 

「トレーナーさん、私、クラシック路線へ参ります」

 

 あたしはもちろん、他のみんなも驚いた。距離適性から言っても、彼女はあたしと同じティアラ路線を目指すとばかり思っていたからだ。

 

「クレセント。あなたは賢い子だから、私が何を言いたいか、わかるね?」

 

 トレーナーは落ち着いた調子で、けれど厳しい表情でそう言った。あたしはそれでホッとしていた。大丈夫だ。トレーナーはちゃんとわかっている。いくら本人がそうしたいと言ったって、適正に合わないことを安易にやらせる人じゃない。ちゃんと、あたしたちのことを考えてくれる。レイアクレセントだって、ちゃんと話し合えばそれを理解してくれるだろう。そんな風に、高をくくっていた。

 

「いいえ、わかりません」

 

 だから、彼女がこれほどに反発するとは、思ってもみなかった。

 

「クレセント」

 

 そのトレーナーの声を遮るように、レイアクレセントは大きな声を上げた。

 

「お願いします! どうか、何もおっしゃらないでください!」

 

 重たい沈黙。その場にいたあたしたちは、何も言えなかった。彼女がこんなに取り乱す姿を見たのは、あの立ち聞き事件以来。あの時は扉越しだったから、本当に目にしたわけじゃない。そういう意味では、初めてと言っても良かった。

 

「クレセント、落ち着いて。あなたの気持ちは大切にしたい。私ははじめから、ちゃんとあなたを見て来た。他のだれかと比べるんじゃなく、あなた自身をね。だからこそ、私は言わなきゃいけないの。クレセント、あなたは――」

「聞きたくありません!」

 

 耳を絞り、真っ赤な目をして、レイアクレセントはそのまま部室を飛び出して行ってしまった。あまりの剣幕に、あたしは後を追うことも忘れて茫然としていた。他のみんなも同じだったようで、部屋の中の空気は冷え切っていた。

 

「ボン、後は任せていい?」

「あ、はい!」

 

 トレーナーはそう言って、クラウンセボンにその日の練習メニューを手渡すと、レイアクレセントを探すために部屋を後にしていった。

 

「……じゃあ、トレーニング、いこっか」

 

 いつも元気なクラウンセボンも、これには参ったようだった。

 それからというもの、レイアクレセントはこの件について、全く語ろうとしなくなった。同じ美浦寮ということを利用して、夜に勉強を教えてもらうついでに水を向けても、笑って流されてしまう。こうなると、レイアクレセントは頑固だ。デビュー戦に勝ったのに、抱えた悩みはむしろ悪化したみたいだった。

 

「どう考えても、フォーミュラに対抗してってことだよね」

「アレに対抗ねえ」

 

 ホープアンドプレイはため息をついた。

 

「なんでみんな、そんなにアレと比べたがるのかな」

「そりゃ、アイツがあたしたちの世代では、一番強そうだからでしょ」

 

 すると、小さな芦毛はわからないといった風に首を傾げた。

 

「自分のことだけ考えて、好きに走ればいいのに」

「みんながみんな、アンタみたいにメンタル強くないもん」

 

 チームメイトとして、何とか彼女の悩みを解決する手助けがしたい。でも、どうすればその力になれるのか。難しい問題だった。

 

「もう寝よう。明日、移動だし」

 

 ホープアンドプレイはそう言って、部屋の電気を落とした。そのとおり、あたしたちは明日から阪神レース場へ遠征することになっている。理由は言うまでもない。今度は、クラウンセボンとテンダーライトがデビュー戦を迎えるからだ。チームが不穏な空気になっている中での明るいニュース。せめてみんなで盛り上げようと、出走予定のないあたしたちも帯同することにしていた。

 

「ねえ、ホープ」

「なに」

「ボン、勝てるかな」

「さあね」

「アンタ、そればっか」

 

 ベッドに入りながらあたしが口をとがらせると、ホープアンドプレイは、逆にこちらを(とが)めるような口調で言った。

 

「クレセントの時は、そんなこと聞かなかったじゃないか」

 

 あたしは、何も言い返せなかった。

 

 阪神レース場は、会場に入ること自体初めてだった。府中や中山の楕円形とは違う三角形に近いコース設計は、目の前にしてみると少し奇妙に映る。到着した当日はスクーリングということで、出走する二人はバ場の体験会に参加している。残りのあたしたちはスタンドからその様子を見学させてもらうことになった。

 

「…………」

 

 気まずい。放っておくとあまりしゃべらないホープアンドプレイと、いまのレイアクレセントの間に挟まれるあたし。おしゃべりのひとつでもしようかと思ったけれど、何を言っていいかわからない。何か悪いことをしたわけでもないのに、あたしはまるで針のムシロだった。

 

「は、阪神レース場って、宝塚市にあったんだね。あたし、仁川(にがわ)市だと思ってた。仁川って、市じゃなかったんだね」

 

 あまりにも無意味な発言。自分でも何を言ってるんだと思った。こういうとき、クラウンセボンがいれば場を和ませてくれるはずなのに。頼みの彼女はスクーリングの真っ最中。このままじゃ、本番のレースの時も死んだ目で応援することになってしまう。

 誰か助けて、と思っていると、それは向こうからやって来た。

 

「そんなに固まらないでくださいな。ルピナスさんらしくありませんよ」

「あはは、そうかな?」

 

 半分はアンタのせいだよ、と言いたいのをぐっとこらえて、あたしはぎこちなく愛想笑いをした。それが不自然だったのか、隣でホープアンドプレイが声を殺して笑っている。ちくしょう、アンタも少しは協力しろってんだ。

 

「ごめんなさい、私のせいで。みなさんに気を使わせてしまっていますね」

「あ、うん」

 

 思わず頷いてしまった。芦毛のおチビはもう苦しそうにお腹を抱えている。あたしが慌てて誤魔化そうとするのを手で制して、レイアクレセントは静かに口を開いた。

 

「私、どうかしているんです。この遠征だって、始めは同行する気なんてなかったんですよ。自分の時は皆さんに応援に来ていただいておきながら、仲間の時は自分勝手にトレーニングに集中しようなんて考えていたのですから」

 

 あたしは首を横に振った。確かに彼女の言うことが本当なら、ちょっと寂しい気持ちになる。せっかくの仲間の晴れ舞台なのに、応援に来る気が無かったなんて、つれないことだ。でも、それ以上に思うのは、そんなにも今の彼女には余裕がないんだ、ということだった。

 チームメイトになってまだ半年だけれど、レイアクレセントは決して自分勝手なウマ娘じゃない。それが証拠に、あたしたちはこれまでいろんなことを彼女から教わった。レースの事、勉強、お料理まで。彼女は相手がどんなに下手でも根気よく教えてくれる、優しいウマ娘だ。その彼女が、チームメイトのデビュー戦を放り出してでも自分のことに集中したがるなんて。

 

「でも、ほら、結果的には来てくれたじゃん」

 

 あたしの精一杯のフォローに、レイアクレセントは悲しそうに首を振った。

 

「それも、身勝手な理由からです。デビュー戦の会場が阪神レース場だと聞いたから。――ルピナスさん、『阪神のマイル戦』といえば、何を連想されます?」

 

 突然の問いに、あたしは急いで頭を巡らせた。阪神レース場のマイル戦といえば、まずマイルCSに桜花賞、それから阪神JF、朝日杯FS……。

 

「あ」

「おわかりになりましたか」

 

 阪神JFと朝日杯FSは、ジュニア級の有力ウマ娘たちで争われる十二月のGⅠレース。この二つのうちどちらを選択するかが、ティアラ路線かクラシック路線かの分かれ目となるレースだ。条件は、どちらも芝のマイル戦。これから行われるクラウンセボンたちのメイクデビューは、同じ阪神レース場の芝1800メートルと、1600メートル。レイアクレセントがここへ来る気になった理由が、分かった気がした。

 

「……やっぱり、朝日杯を狙ってるの?」

「トレーナーさんにはそう伝えました。だって、阪神JFと同じコース条件なんですよ? だったら、いいじゃありませんか」

 

 にこやかにそう答えるレイアクレセント。でも、その声にはいつもの(りん)とした感じがなかった。

 

「アレのことを一番気にしてるのは、キミなんじゃないの、クレセント」

 

 突然、ホープアンドプレイがそう言った。あまりに直球な物言い。あたしはびっくりして、反射的に「何言ってんの」と大きな声で叱りつけた。そのホープアンドプレイは、悪びれもせずにあたしをじろりと睨み返してくる。その目に「キミも同じことを考えていたんだろ」と言われたような気がして、あたしはつい目を逸らしてしまった。こんなの、図星だと白状しているようなものだ。

 レイアクレセントは、意外なほど冷静だった。

 

「ええ。そうです。自分でもわかっています。あの子のことを一番意識しているのは、あの子と私を一番比較しているのは、私自身だって」

「だったら――」

 

 あたしの言葉は、最後まで言い終わることを許されなかった。

 

「だからこそ、私は自分で納得しなければならないのです。私はあの子に比肩しうる、いえ、超えられるウマ娘なのか、そうでないのか。その結論も出ないうちに、適性が合わないからティアラ路線に行けだなんて、そんなもの、認められるわけがありません」

 

 彼女の目には、光るものがあった。

 

「私は、あの子と闘わずにティアラの女王になるくらいなら、あの子に挑んで散ったクラシックの塵芥(じんかい)である方が、よほど納得できます。だって、一生にたった一度のことなのですから」

 

 その言葉を聞いたあたしは、頭を強く殴られたような思いだった。なんて覚悟だろう。もしもあたしが同じ立場にいたら、同じようなことを言えただろうか。ティアラ路線で勝てる才能があるのなら、それでいいじゃないか。あたしなら、そう思ってしまう。自分の不利なところへわざわざ飛び込んでいく必要なんてない。勝てる舞台で勝てばいい。……でも、レイアクレセントというウマ娘は、それじゃ満足しない。「レイアフォーミュラから逃げてティアラ路線へ行った」と言われるくらいなら、潔く挑んで敗れた方がいい。そういう覚悟と誇りを持っているんだ。

 

「――すごいね、キミは」

 

 ホープアンドプレイも、それ以上何も言わなかった。

 

「みんなー! スクーリング終わったよ! ホテル、行こう?」

 

 夕日が差したターフの上でクラウンセボンが元気よく手を振っているのが見える。ちょうど終わったところらしい。あたしたちは無言のまま、席を立ってスタンドを降りて行った。

 

「ごちそうさまでした」

「あれ、もう食べないの」

 

 その晩、クラウンセボンは夕食を()()()()()食べなかった。いつもの彼女からすると、心配になるくらいの量だ。

 

「ダイエットするうちに、胃が小さくなっちゃった?」

 

 あたしは()()冗談のつもりでそう言った。()()というのは、実際クラウンセボンはここ最近よく節制しているからだ。食事量を抑えるようになっただけでなく、デビューに向けてハードなトレーニングも積んできたおかげで、ひと月前とは見違えるように締まった体つきになっている。

 

「うん、まあ、そんな感じかな」

「じゃあ、一足先に部屋戻ろうか」

 

 他のみんなはまだ食べ足りない様子で、食事を続けている。終わっているのは、もともと食が細いあたしと、クラウンセボンだけだった。

 

「ルピナス、あとで部屋に夜食を持っていくから、少しだけでも食べなさいね」

 

 釘を刺してくるトレーナーにわかったという意味で手をふりつつ、あたしは二日後にデビューを控えた友達を連れて、食事処を後にした。

 ホテルといっても、ここは民宿のような小さな宿。部屋へ戻ると、日焼けした畳の和室に布団が五つ並んでいた。

 

「合宿を思い出すな」

「私は好きだよ、こういうの。ルピナスちゃんは嫌い?」

「あたしは布団よりベッドの方がいいな」

「じゃあ、次はそうしてもらうように、トレーナーさんに言わないとね」

 

 そう言って、クラウンセボンは敷きたての布団にごろんと転がった。

 

「ルピナスちゃん、今日は隣同士で寝よ?」

「うん」

 

 あたしもその横に転がって、ちらと彼女の方を見る。すると目が合って、あたしたちは互いにクスリと顔をほころばせた。

 それから天井の木目を眺めつつ、ふいに思った。あたしたちがこうして二人きりになるのは、いつぶりのことだろう。去年の今頃なんかは、寮が別々に分かれている分、学園にいる間はずっとくっついていたような気がする。休み時間も、放課後のランニングも常に一緒だった。チーム練習が忙しくなる前は、図書館で勉強を見てもらったこともあった。チームに人が集まり、トレーニングが順調に進めば進むほど、あたしたち二人の時間はどんどん減っていったように思う。いまとなっては、ホープアンドプレイと過ごす時間の方が長くなっている。彼女はあたしのルームメイトだから、当然といえば当然なのだけれど。

 

「……なんか、ちょっと()いちゃうな」

「え?」

 

 ぼそりと呟かれた言葉に、あたしはびっくりして振り向いた。ドキッとするようなセリフとは裏腹に、クラウンセボンの表情はとても穏やかだった。

 

「編入してきてからホープちゃん、いつもルピナスちゃんと一緒なんだもん」

 

 ああ、ボンもおんなじことを考えてたんだ。なんだかそれが妙に嬉しくって、あたしはちょっといじわるしたくなった。

 

「そうかもね。でも、ボンだって、他の子と一緒にいるじゃん。テンダーとか、カイとか。栗東寮同士だとやっぱ距離も縮まるし」

「違うの! テンダーちゃんやカイちゃんとも仲良くしてるけど、ルピナスちゃんは別だもん!」

「ごめんごめん、わかってる」

 

 こんな子供じみたことにも、彼女は真剣に応えてくれる。ちょっと大げさで、たまに恥ずかしくなることもあるけど、それが良いところでもある。同じヒト生まれのホープアンドプレイが特別な存在であることは間違いないけれど、クラウンセボンは、あたしにとっては初めてできたウマ娘の友達。ホープアンドプレイとはまた違う、特別な友達だ。

 

「あたしも思ってたんだ。ボンと二人きりになれること、最近ほとんどなかったなって」

「本当? やっぱり私たち通じ合ってるんだ。相思相愛ってやつだね!」

「ちょっとそれは遠慮しとくわ」

 

 栗毛の親友は、不満そうに頬を膨らませてあたしに顔を近づけてくる。それを押しのけながらも、悪い気はしなかった。こんな風にじゃれ合うのも、久しぶりだった。明後日にはこの純粋な目をした少女がデビュー戦に出走するなんて、未だにちょっと信じられない。

 あたしたちの布団がすっかりしわだらけになったころ、クラウンセボンは満足したように息を大きく吐き出して、大の字になった。

 

「もう、せっかくお風呂入ったのに、アンタの尻尾グシャグシャじゃん」

「ルピナスちゃん、綺麗にして」

「自分でやんな」

 

 そう言って、あたしはブラシを投げ渡した。受け取ったクラウンセボンは、鼻歌を歌いながら尻尾のブラッシングを始める。あたしはその様子を黙って見ていた。

 

「――ねえ、ルピナスちゃん」

 

 しばらくして突然歌うのをやめたクラウンセボンは、まるで閉めた蛇口から水の雫がぽたりと落ちるようにあたしの名を呼んだ。その声色がさっきまでと全然違っている。

 

「どうしたの」

「うん。……私ね。明後日デビュー戦でしょ」

「うん」

 

 明らかに元気がない。あたしはなんだか嫌な予感がした。

 

「今日のスクーリングで、他に出走する何人かとは会ったんだ」

「そうなんだ」

「……うん」

 

 クラウンセボンは何か言いたそうに、だけど何と言おうか、迷っているみたいだった。

 

「テンダーちゃんはね、ちゃんと勝ち負けできると思うんだ。上手くすれば逃げ切れると思うし、たとえ無理でも、きっと入着はできるはず」

「……それは」

 

 なぜここでテンダーライトの話をするんだろう。その不安を振り払うように、あたしは努めて明るく振舞った。

 

「良いことじゃん。ボンのお墨付きがあれば、心強いよ。ボンの予想はよく当たるし。あとで教えてあげなきゃね」

「あはは、トレーナーさんも分かってるから、きっと伝えてくれてるよ」

 

 ブラシに絡まった毛を(ほど)きながら、クラウンセボンは泣きそうな顔で笑った。

 

「……ボン」

「ルピナスちゃん、私ね、ルピナスちゃんと一緒に走りたかったんだ」

 

 それはきっと、練習でという意味じゃない。それくらいは、いくらニブいあたしでもわかる。

 

「ずっとどこかで考えてた。ルピナスちゃんのレベルになんか、私はどうしたってたどり着けないって」

 

 そんなの、わからないじゃないか。本当なら、そう言いたかった。でも言えなかった。ウマ娘のことならなんでもすぐに気づく彼女だ。パッと見ただけで、誰が強いのか、どれくらい強いのか、言い当ててしまう彼女だ。その彼女が導き出す結論は、あたしの根拠のない(なぐさ)めなんかよりも、ずっと説得力がある。

 

「だけどね、結局諦めきれなかった。この間の、クレセントさんのデビュー戦。あんなカッコいい姿見せられちゃったら、私だってもしかしたら、なんて思っちゃって」

 

 あたしは、浴衣の裾から見えるクラウンセボンの脚を見つめていた。締まった筋肉、何度もマメが潰れて、治るたびに硬くなっていった足の裏。一か月前まで付いていた余分なものがそぎ落とされて、完璧に仕上がっている。ふと、あたしはあることを思い出した。

 

「ねえ、ボン」

「なに?」

「トレーニング日記、見せてくれる?」

 

 クラウンセボンはすぐにスマホを差し出した。その中にはあの夏の合宿の初日に見せてもらった、メモ帳アプリが入っている。トレーニング日記と題されたそれを開いて、クラウンセボンのタグを選ぶ。

 

「やっぱり、そうだったんだ」

 

 そこには、あたしたちとのチーム練習の他、早朝や夜間の自主トレーニング、体重や筋肉量の事細かな記録がびっしりと並んでいた。栄養学やら何やら、あたしにはよくわからない難しい言葉もたくさん書かれている。考えてみれば、なんの不思議もない。クラウンセボンは、あたしなんかよりもずっと賢くて、いろんなことをよく勉強している。出走する状態に向けて、どんなトレーニングをすればいいのか、どんな食事をとればいいのか、なんでも知っているはずだ。その甲斐もあってか、身体そのものでいえば、レイアクレセントのデビュー戦の時より、仕上がり具合は上に見える。

 

「あたしがクレセントのこと考えてるうちに、ボンはものすごく頑張ってたんだね」

「そうだよ。気づかなかった? あーあ、クレセントさんにもやきもち妬いちゃうな」

「ごめん」

「冗談だよ。仕方ないよね。だって、それまでの私は、すごくカッコ悪かったから」

「それは違うよ」

 

 あたしは今度こそはっきりと否定した。それは違う。カッコ悪かったなんてことは絶対にない。クラウンセボンは、いつだってあたしたちを前向きにさせてくれていた。励まし、笑わせ、他人の成果を自分のことのように喜んで。チームメイトとして、最高の働きをしてくれていた。それは、誰にも負けないくらいカッコよかった。

 

「私、今回負けちゃうことは怖くない。今までが甘かったんだもん。だけどね」

 

 クラウンセボンはブラッシングの手を止めて、ためらうようにしながら、その先を続けた。

 

「ここからどこまで行けるのか、そっちの方が怖い。だって、いくら考えても、どう贔屓目に見ても、私がルピナスちゃんのところまで行けるって、そんな未来が見えないから」

「ボン……」

 

 こんなクラウンセボンは、初めてだった。あたしはその手からブラシを取り上げた。そして、カラになった手のひらを、あたしの両手で挟むようにして握った。

 

「ルピナスちゃん?」

「アンタにも、()()()が必要みたいだから」

「手当て?」

「いいから、目を(つむ)って」

 

 喜ぶべきことでもないのに、あたしはほんの少しだけ嬉しいと思っていた。あたしはずっと、この大事な友達の明るさに救われてきた。今度は、あたしが手助けしてあげられるかもしれない。だとしたら、こんなのも悪くないと思ってしまう。

 

「ん、ちょっとくすぐったい」

「ボン、静かに。息をゆっくり吸って、吐いて」

 

 今までが甘かった、なんて言っていたけど、それも違う。こうして触れているとよくわかる。肩も、腕も、手のひらまで、一年前のそれとは全然違う。確かに少し食事の管理が乱れた時期はあったかもしれないけれど、決してトレーニングをサボっていたわけじゃない。むしろ、まだ本格化していないあたしなんかよりもずっと、成長を感じる。この一か月だけ急に頑張ったわけじゃない。ずっと、ずっと努力してきたんだ。

 

「ボン、耳触るよ」

「あ、そこ気持ちいい。どこで習ったの、こういうの」

「母さんからね、あたしが小さいころ、よくこうしてもらったの」

「そっか。お母さん、看護師さんだもんね。……じゃあ、私、ルピナスちゃんとおんなじことしてもらってるんだ」

「あはは、何それ」

「嬉しいなって。ルピナスちゃんと一緒だから」

 

 他のヤツにもやったことがあるというのは、いまは黙っておこうと思った。

 

「ボン」

「なに?」

「ちゃんと見てるから。アンタのこと。頑張って追いかけるから」

「ふふ、ありがとう」

 

 そこへ食事を終えたチームのみんなが部屋へ戻ってきた。ホープアンドプレイ以外の二人は、あたしたちを見るなり動揺した様子で、口元に両手を当てて目をキョロキョロさせた。あたしは全く意識していなかったけれど、事情を知らない者からすると、この光景は誤解を生むものだったらしい。おかげで、顔を真っ赤にするチームメイトに、あたしたちは慌てて身の潔白を弁明する羽目になった。途中、ホープアンドプレイとは一瞬だけ目が合ったけれど、お互いに何も言う必要はなかった。それぞれに理由は別々だけれど、あの夜のことは秘密にしておきたかったから。

 ここで消耗したせいではないだろうけれど、あとでトレーナーが宿の人に持ってこさせた夜食のおにぎりは、あたしにしては珍しく、ぺろりとふたつ平らげることができた。

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