ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#19-まだ遠くても

 それは、朝日杯が開かれる一週間前のこと。練習をはじめる前のロッカールームで、あたしたちはレイアクレセントの勝負服お披露目会を開いていた。

 

「きれい……」

 

 クラウンセボンが、うっとりとため息を漏らした。それに応えるように、勝負服に身を包んだレイアクレセントが、くるりと回ってみせる。丈の短い深緑色のドレスに、西洋の王族が身につけるような青いマント。そのたたずまいはまるで、本物の王女様みたいだった。

 

「カッコいいよ」

 

 素直に感想を口にすると、レイア家の令嬢は口元に手を当てて、嬉しそうに微笑んだ。ああ、こういう子だからこんな衣装が似合うんだなあ、と思う。

 

()()()()あと一週間、しっかり調整していこうね」

 

 三人とも、というところを強調して、トレーナーはそう言った。一週間後に待っているのは、レイアクレセントの朝日杯だけじゃない。前日の土曜日にはクラウンセボンが中山で、朝日杯の当日はテンダーライトが同会場の阪神で、それぞれ未勝利戦に出走することになっている。

 勝負服を目にして気合いが上がったと見える三人は、口々に元気よく返事をした。レイアクレセントの選択について、みんなが不安無く受け止めたわけじゃない。それでも、それぞれに目標が定まっているいま、お互いのトレーニングを支え合うことを最優先にしたらしかった。

 

「ボン、今日のメニューは任せたよ。私はちょっと、用事があるから」

「はい! 任されました! 今日はみんな、私の言うことをよく聞いてね!」

 

 トレーナーからバインダーを受け取り、クラウンセボンはえっへんと胸を張った。忙しいとき、トレーナーはこうしてクラウンセボンにトレーニングメニューのリストを渡して、その管理を任せている。雑用なら本格化前のあたしやホープアンドプレイに任せればいいのに、と思うけど、いつもきっちりメモを取っている彼女だからこそ、任せられているのかもしれない。

 

「じゃあ、みんな行こうか」

 

 そうして、トラックへ向かおうとしたところで、トレーナーがあたしの肩を叩いた。

 

「ルピナスはここへ残りなさい」

「え」

「私の用事は、あなたに関係があることだから」

 

 あたしはもちろん、他のみんなも驚いたようにトレーナーの顔を見た。

 

「トレーナーさん、ルピナスちゃんは……」

「みんなは早く行きなさい。時間がもったいないから」

 

 クラウンセボンの言葉を遮って、トレーナーがピシャリと言い放つ。普段あまりこんな物言いをしないだけに、なにか理由があるんだろうってことは、全員察知したようだった。尻尾を引かれているような態度を見せつつも、それ以上何も尋ねることなく、あたし以外のメンバーはロッカールームを後にした。

 みんなの足音が聞こえなくなったところで、トレーナーはパンと手を叩いた。

 

「さあ、ルピナス」

 

 なんだろう。あたしに関係ある用事って、もしかして本格化のことだろうか。あたしが足りない頭をぐるぐる回していると、トレーナーはやけに明るい口調で言った。

 

「デートしようか」

「……は?」

「は、じゃない。出かけるよ。5分待つから、着替えておいで」

 

 問答無用な感じでそれだけ言うと、トレーナーはどこから出したのか、鞄を手に外へ出て行った。

 何が何やらわからない。着替えろと言ったって、ここにあるのは今身につけている体操着と、ここへ来るときに着ていた制服だけだ。――仕方ない。とりあえずあたしは制服姿に戻って、ロッカールームを出た。

 

「トレーナー?」

「よし、行くよ」

 

 待ってましたとばかりに、トレーナーは勢いよく歩き出した。慌ててその後を追う。

 

「行くって、どこへ」

「ちょっとそこまで。ほら、乗った乗った」

 

 追い立てられるように車に乗せられる。待て待て、車に乗ってる時点で「ちょっとそこまで」じゃない。いったいあたしをどこへ連れて行くつもりだろう。車はそんなあたしの疑問をよそにどんどんと走って行く。その間あたしは、どこへ行くのか何度も尋ねたけれど、トレーナーははぐらかすばかりでちっとも教えてくれない。

 

「さ、降りて」

「え、ここ……」

 

 車が止まったのは、やけに広い駐車場。看板には「羽田空港」の文字。

 

「行くよ」

「ちょちょ、ちょっと待ってよ」

 

 あたしは確信した。これはやっぱり、絶対に「ちょっとそこまで」なんてものじゃない。遠出も遠出、あたしはこれから飛行機に乗せられるんだ。

 

「あれ? ルピナスは飛行機ダメな子だった?」

「いや、乗ったことないからダメとかないけど……じゃなくて!」

 

 さすがにここで抵抗しておかないと、あとで後悔するかもしれない。

 

「行き先をちゃんと言ってよ」

 

 ちゃんと教えてくれなきゃ、テコでも動かないぞ。本気になれば、本格化前とはいえウマ娘のあたしにトレーナーが敵うわけ無いんだから。

 トレーナーは観念したのか、思いのほかあっさりと口を割った。

 

「阪神レース場」

「へ?」

「これから私たちは、阪神レース場へ行きます。飛行機で大阪の伊丹空港へ行って、そこから仁川へ。もうチケットは取ってあるから。OK?」

「お、おっけー?」

 

 テキパキとこれからの行程を話すトレーナー。その勢いに押されて、あたしは考える前に、思わず頷いてしまった。

 

「じゃあ、行こう」

 

 それからはあっという間だった。搭乗手続きを終えて昼前に飛び立った飛行機は一時間後には大阪へと到着し、あたしたちは売店で買ったサンドウィッチを片手に阪神レース場へと歩みを進めていた。

 

(こわ)。よくわかんないうちにここまで来ちゃった」

 

 仁川へと向かう電車に乗り込みながらあたしがそんな独り言を呟くと、トレーナーはようやくこの急な遠出のわけを話してくれた。

 

「今日はルピナスだけを連れ出したかったの。他の子には内緒で」

「だったら、事前に言ってくれればよかったのに」

「口が軽いあなたは当日まで黙ってられないでしょう? 話が漏れたら、ボンなんかは一緒に来たがるじゃない。大事な時期なのに」

 

 痛いところを突かれた。だけど、あたしにだって返す刀がある。

 

「大事な時期だってのに、トレーニングから離れていいの?」

「よくないよ。でも、あなたを今日ここに連れてくることも同じくらい大事なことだから」

 

 見事に打ち返されて、あたしは黙るしかなかった。トレーナーはスタンドの指定席チケットを取っていたらしく、あたしは初めてレース場のボックス席に入ることができた。コースでは、ちょうど第9レースのゲートが開いたところだった。

 

「ふう、なんとか間に合ったね」

「で、トレーナー? なんであたしをここに連れてきたの」

 

 この予定を黙っていた理由はわかったけれど、根本的なところをまだ聞いていない。本来なら来週行くはずだった阪神レース場に、どうしていまこのタイミングで連れてこられたのか。

 

「え、わからない?」

 

 トレーナーは不思議そうな顔をした。

 

「今日は朝日杯の前週。阪神JFの日だよ。入り口のとこにも書いてあったでしょ」

「それで?」

「この戦いは、ちゃんと現地で見ておいた方がいいと思ったの。特にルピナス、あなたはね」

 

 それって、つまり……。あたしは、自分がものすごく都合のいい解釈をはじめていることに気付いた。もし、トレーナーがそう思ってくれているのなら。いや、虫がよすぎるか。期待してはそれを打ち消す言葉が、あたしの中で交互に浮かんでくる。トレーナーの言葉を、あたしはどう受け止めたらいいんだろう。

 その答えは、尋ねる前に教えてくれた。

 

「私はね、ルピナス。あなたがいずれ、ここに出走しているような子たちと戦っていくことになると思っているの。大きな、その週一番注目される舞台で。だから、どうしてもここへ連れてきたかった」

 

 その週一番注目される舞台。それは、重賞の中でも一番大きなレース。観客数も、賞金数も、ライブのチケットの売り上げも、一番大きくなる舞台。GⅠレースのことだ。

 

「……本当に?」

「ウソついてどうするの。私、これでも一流のメンバーが集まるチームのサブトレーナーだったんだよ。担当するウマ娘の力がどんなものかくらいは、ちゃんと見極められる」

 

 周りの歓声が一段と大きくなり、第9レースのゴールインが迫る。そんなざわめきの中で、静かにトラックを見つめているトレーナーの横顔を、あたしはじっと見ていた。あたしには、クラウンセボンのような観察眼も、ホープアンドプレイのような勘の鋭さもない。それでも持てる眼力の全てを使って、その言葉に偽りがないだろうかと目を凝らした。

 トレーナーは、そんなあたしを見つめ返して、穏やかに言った。

 

「パドックが始まる前に、出走表を見ておこう。いいね」

 

 いつのまにか、その指先で阪神JFの出走表が揺れている。ああ、お勉強タイムだ。しかも今回は、トレーナーと一対一の。

 

 

『11番、モモイロビヨリ。一番人気です』

 

 阪神JFのパドックでは、みんなGⅠ用の華やかな勝負服に身を包んで登場する。あたしと同期の、優秀なウマ娘たち。クラシック路線組が多いあたしのクラスメイトはひとりもいなかったけれど、模擬レースや競技大会なんかでちらほら聞いたことのある名前が次々とコールされていく。

 

「トレーナー、さっき言ったこと、本当なんだよね? あたしが将来、この子たちと戦えるようになるって」

 

 一度確かめたはずのことを、あたしはもう一度尋ねた。それは、みんなの仕上がり具合を見てしまったから。トモの張りも、肩も、胸も、今のあたしとは比べものにならない。いままでGⅠレースはいくつも観てきたけれど、それはみんなあたしよりも上の学年、年上のお姉さんたちの戦い。どこか他人事のようで、実感を覚えるのはむずかしかった。でも今目の前で繰り広げられているのは、同世代のGⅠレースのパドック。その壁の高さが初めて鮮明に感じられた。

 それでも、トレーナーに迷う様子はなかった。

 

「もちろん。ルピナスはスピードも、加速力も、ここにいるだれにもひけをとらないよ。これまで取り続けてきたあなたのデータがそう言ってる。信じなさい」

「……うん」

 

 とにかく今はそれを信じて、目の前の同期達の戦いを目に焼き付けよう。少なくとも、トレーナーはあたしに嘘をついたことはないんだから。

 

「ルピナス、さっき出走表を見ながら教えたこと、もう一度思い出して」

「えっと、たしか『一番強いウマ娘の後ろから行く』だっけ?」

 

 あたしの脚質は差し。つまり、最終的には前のウマ娘をかわしてゴール板前を駆け抜けなければならない。力の劣る子を前に置いてレースをしてしまうと、スパートをかけたいときに前が詰まってしまう。それよりも、伸びる脚を持っている強い子についていく形で、一緒に上がっていきたい。だから「一番強いウマ娘の後ろ」が基本的にはベストなポジションになる。

 

「となると、あなたがこのレースに出走するとしたら、ターゲットになるのは?」

「ええと、一番人気のモモイロビヨリ?」

「正解。彼女の脚質は先行。クレセントと同じ。相手が突然戦法を変えて逃げを打ったりでもしないかぎり、ルピナスはあの子を観ながらレースをすること。それが基本戦略」

 

 トレーナーの指示を聞きながら、あたしは必死に一番人気の彼女を目で追った。名前の印象通り、ピンク色で和装のようなシルエットの勝負服。純白のメンコに、毛先を真っ直ぐ切りそろえられた鹿毛の尻尾と髪の毛が、いかにも優等生ですと言わんばかりの見た目。どこか、レイアクレセントと似た雰囲気を持っている。

 ふと気になった。

 

「ねえ、トレーナー」

「なに?」

「もしここにクレセントが出走していたら、それでもやっぱりあたしは、あのモモイロビヨリを追いかけるべき?」

 

 トレーナーはすぐに答えた。

 

「まさか。クレセントを追いなさいって、そういうつもりだったよ」

「――そう。わかった」

 

 その回答を聞いて、あたしは不思議と勇気が湧いてきた。自分はこんなところで戦えるようになれるだろうかと思っていた弱気は、いつの間にかどこかへ消え去っていた。ここに出てきている子たちより、レイアクレセントの方が強い。少なくともトレーナーはそう見ている。なら、あたしがもしもここに出走していたとしたら、絶対に負けるわけにはいかない。

 GⅠどころか、デビューすらできていないウマ娘にしては、あまりにも大それた考えかもしれない。でも、なぜだかあたしの中には、今までに感じたことがないほど「この子たちには負けたくない」という感情が立ち上がっている。どうしてだろう。どうして、そんな風に思うんだろう。パドックを見終わってボックス席に戻るまでの間、あたしはずっとそれを考えていた。

 

 

 大歓声の中、ファンファーレとともにその時はやってきた。

 

『さあ、ティアラ路線へとつながるジュニアの女王を決める戦い、阪神ジュベナイルフィリーズ。阪神レース場、芝1600メートル。まもなく出走です。天気は晴れ、良バ場条件です』

 

 自然と、つばを飲み込んで身構える。いつものように、あたしもここへ出走するつもりで。――目標のモモイロビヨリは18人立ての11番。やや外目。スタートでどこへ行く?

 

『態勢整って、スタートしました!』

 

 ひとり大きく出遅れた。あれは7番の子。あたしもスタートは上手じゃない方だけど、多分あの子よりは上手く出た。モモイロビヨリは……ピンクの勝負服で、わかりやすい。外目四番手の位置。あたしはバ群を避けて、少し外目から彼女の後ろをうかがいたい。距離のロスは気になるけれど、冬の阪神レース場は内ラチ沿いが荒れている。最内を無理して取るより、外で楽に走った方が脚が持つ。……って、トレーナーも言ってたし。

 

『おっと、出遅れた7番、スイートジンジャーが上がっていく! 一気に先頭を奪う構えか』

 

 うわ、すごい脚。まくり戦法? それとも出遅れたせいで焦って掛かったのかな。

 

『隊列は団子状態です。第3コーナーへ一斉に入っていきます』

 

 さらに外からいろいろ来た! なんだこれ。ごちゃついてる! 想定ではもうちょっと縦長になるはずだったのに。この分だと、あたしは完全にバ群のど真ん中に包まれる形になってしまう。これじゃペースも何もあったもんじゃない。上がっていくこともできないし、下がることもできない。流れに身を任せるしかない。最後の直線でヨーイドン、って感じ?

 そこでハッと我に返った。そういえば、モモイロビヨリはどこへいったんだろう。あっちこっちに気が散って、すっかり目標を見失っていた。

 

『最終コーナーを回って最後の直線へ。横へ大~きく広がっています。ここからだれが抜け出すか! 先頭はスイートジンジャーが粘っているが、手ごたえはどうか!』

 

 見つけた。バ場の四分どころ、真ん中より少し内よりの場所で、脚を伸ばしはじめている。そのすぐ後ろには、別の子がもう入っている。多分、あたしが出走していてもこの位置は取れていない。これは、作戦的には失敗。よそ見をしたのが痛かった。

 

『さあ、来た来たモモイロビヨリ! 師走の風を切り裂いて、ジュニアの女王へ! 内からはスマイルエヴリン! スイートジンジャーは一杯になったか! 外からはトーヨーメリッサも来ている! しかしモモイロビヨリだモモイロビヨリだ!』

 

 だけど、最後の直線に入ってからの光景を見ても、あたしにはあまり悲観的なイメージが湧いてこなかった。なぜって、先頭に抜け出したモモイロビヨリの脚色は、毎日毎日見続けてこの目に焼き付けたレイアクレセントのそれに比べれば、一歩足りないような気がしたから。この展開だったら、レイアクレセントならもう二、三バ身は先にいるはず。

 それなら、あたしの末脚があれば届く。あたしは生意気にも、そんな確信を得ていた。隊列は一度団子状態になったおかげで、みんな進路を求めて横へばらけていく。これなら間を割るスペースはそこそこある。多少強引にでもこじ開けて、前へ出れば――。

 

『モモイロビヨリ、一着ゴールイン! 二着にトーヨーメリッサ! 世代最初のGⅠ制覇はモモイロビヨリ! 冬の阪神レース場に一足早い桃色の花が咲き誇りました! この道は来年のティアラへ続く道!』

 

 場内に響き渡る歓声。飛び交う紙吹雪。ウイナーズサークルで誇らしげに手を振る同期のGⅠウマ娘。

 いつの間にか、あたしの目からは涙がこぼれていた。けれどそれは、熱戦を目の当たりにした感動からくるものじゃない。悔しかったからだ。イメージの中では、見事な差しきり勝ちができた。でも現実のあたしは、この舞台に立つことすらできていない。もしも出走が叶って、もしも本当に勝つことができたなら、アイツに堂々と言えたのに。

 

 ――「クラシック路線に行きたいなら、あたしを倒してから行け」って。

 

「ああ、そうか」

 

 そこで、わかった。勝ち負けどころか、レースのスタート地点にすら立てていないあたしが、どうして今日の出走者たちを見て「負けたくない」なんて思ったのか。

 

「あたし、アイツに勝ちたいんだ」

 

 声に出さずにはいられなかった。ずっと、心の奥底にしまい込んでいたその答え。本当は、最初からわかっていたはずだったのに。

 

「ルピナス?」

 

 どうしたのかといった感じで、トレーナーがあたしの名を呼ぶ。

 

「トレーナー。……あたし、勝ちたい。ううん、ただ勝つだけじゃ嫌だ。クレセントに、勝ちたい」

 

 あたしは今ここにいないチームメイトの名を出して、縋るようにトレーナーの袖を掴んだ。

 トレーナーは、あたしのその手を優しく握り返してくれた。

 

「まだ始まったばかりだよ、ルピナス。レースと一緒。いまはじっくり脚を溜めて。来年からが勝負なんだから」

「うん」

 

 涙を拭いて、頷く。それを確かめたトレーナーは満足げにあたしの肩をポンと叩くと、すっくと席を立ち、声の調子を切り替えて言った。

 

「よし、じゃあ急いで帰るよ! 飛行機の時間まで、あんまり余裕ないからね」

「えっ、ウイニングライブは」

「今回はナシ!」

 

 余韻も何もあったもんじゃない。実際そうしないと、寮の門限までに帰り着けないんだから仕方ないけど。

 そうして、あたしの阪神JFは終わった。

 

「実はね、今日の用事はもうひとつあるんだ」

「え?」

 

 飛行機の中で、トレーナーはやけに真剣な面持ちで切り出した。

 勘弁してくれ、と思ったのが最初。今日はもう移動に次ぐ移動でへとへとだったから。

 

「用事といっても、週明けのことであなたにお願いがあるだけなんだけど」

 

 なんだ、そんなことかと思った。そうして、また油断していた。気のない返事で「なに?」なんて、軽く聞き返してしまった。

 

「クレセントの最終追い切り、併走相手をしてくれない?」

 

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。

 朝日杯に向かうことが決まってから、彼女の併走トレーニングはクラウンセボンやテンダーライトが相手することになっていた。本格化前のあたしと、すっかり本格化したレイアクレセントとでは、価値あるトレーニングにならないからだ。

 その併走相手をあたしにやらせるということは……。

 

「それって……」

「その様子だと、まだ気付いてなかったみたいね。……来てるんだよ。本格化の予兆が」

 

 ああ、もう。それならそうと早く言ってくれればよかったのに。あたしが今日流したあれやこれやは一体なんだったのか。嬉しさと恥ずかしさとで、あたしはぐちゃぐちゃだった。それにしてもこんなところで言うなんて。今すぐ走り回りたいのに、機内じゃ怒られちゃうじゃないか。あたしはせめてもの反抗として、トレーナーの足をつま先で何度もツンツン(つつ)いてやった。


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