キッチンから、冷蔵庫の扉を閉める音が聞こえる。ここはトレセン学園の寮じゃなくて、あたしの家。
クリスマスが過ぎて、中央最後のGⅠレース、有馬記念とホープフルステークスが終わると約二週間の冬休み。金杯などに出走する予定でもなければ、オフになる。競走ウマ娘としての、数少ない休養期間。あたしはその間に、実家に帰ってきていた。
「お餅、いくつ焼く?」
にんじんジュースのパックを開けながら、母さんが尋ねてくる。
「ん、一個でいい」
「こら、もう一個くらい食べなさい」
なら聞いた意味ないじゃん、と口を尖らせるあたしに、母さんは厳しい口調で言った。
「母さんね、トレーナーさんから言われてるんだよ。体重増やして学園に返せって。あんた、逆に痩せてない?」
そう言われると、ぐうの音も出ない。本格化してエネルギー消費量の増えたあたしの身体は、正月太りとは無縁だった。むしろ母さんの言ったとおり、学園での食事トレーニングから解放されて、体重は落ちている。
「まったくもう、あんたは黙ってるとすーぐ食べるのサボるんだから」
そう言いつつ、母さんはテーブルに今さっき開けたジュースのパックとグラスを並べてくれた。あたしはというと、その横のソファに身体を横たえたまま、ぼんやりとテレビを眺めていた。黙ってても出てくる食事に、勝手に片付いていく部屋。炊事も洗濯も、掃除まで、母さんに頼りきりの自堕落な正月。親のいる生活って、こんなに楽だったんだと改めて思う。
「ほら、焼けたよ。
「うん」
食事が運ばれてきて、あたしはようやく身体を起こした。小松菜と鶏肉が入ったすまし汁のお雑煮と、海苔を巻いた焼き餅ひとつ。出汁のきいたすまし汁と、ほんのりと甘い砂糖醤油が染みたお餅を交互に味わうと、身体が芯からぽかぽかと温まってくる。これが我が家の正月の味。
テレビには、正月恒例の駅伝大会の様子が映し出されている。いつも見ているターフでの競走とは全然違う、長い長いレース風景。こんなのもたまには悪くない。人間の男の人たちが二十キロも三十キロも走り続ける姿には、毎年驚かされる。確かにあたしたちに比べてスピードはずっと遅いけれど、こんなに長い距離を休まず走り続けられるなんて、まるで魔法みたいだ。
そこへ母さんが洗面所から顔を出して言った。
「ルピナス、そろそろ着替えて。洗濯するし、今日はお友達と会うんでしょ」
「そうだった」
あたしは急いで残りのお雑煮を掻き込んだ。今日はチームのみんなで初詣。毎日顔を合わせていた仲間たちと、五日ぶりの再会だ。いよいよクラシック級へと進むあたしたちの、決起集会という意味合いもある。
歯磨きして、髪と尻尾を念入りに整えて、服を着替えて。そこまで済ませて時計を見ると、待ち合わせの時間まではもうあまり余裕がない。慌てて靴を履いて玄関の扉に手をかけると、母さんがその後ろから声を飛ばしてきた。
「急ぎすぎて無茶しないでよ。月末にはデビュー戦なんでしょう?」
「わかってる」
「気を付けて行ってらっしゃいね」
「はいはい」
あたしは振り向きもせずにそう答えて、マンションの外階段を駆け下りていった。
正月模様の街を走っていると、なんだか無性にわくわくしてくる。新しい一年を迎えて、新しい自分になる……そんな、希望のようなものが漂っているのを感じられるから。それはデビューが決まったあたしも同じ。こうして脚を動かしていると、さっきまで怠けモードだったあたしの心にも熱い血が通い始める。
『月末にはデビュー戦なんでしょう』
出がけに聞いた母さんの言葉を、何度も何度も頭の中で唱える。家に帰ってきて、最初にデビュー決定を伝えたあの時のことが思い出される。サプライズのつもりだったのに、ものすごい勢いで泣き出した母さんに、あたしの方が驚いちゃったっけ。いよいよ始まるんだ。あたしの年が。あたしのレースが。
「ボン、おまたせ」
「あっ、ルピナスちゃん! あけましておめでとう!」
電車で二駅先の集合場所、その改札前に着くと、そこにはもうクラウンセボンが待っていた。
「他は?」
「テンダーちゃんはさっき隣の駅を通過したって。クレセントさんは神社のそばまでタクシーで行くって言ってたから、待たなくていいみたい」
「大変だねえ、クレセントも」
レイアクレセントは朝日杯を勝利した。デビュー二戦目でのGⅠ勝利は、最速記録に並ぶ快挙。その勝利以来、彼女はどこへ行っても握手を求められたり、写真を撮られたり、気の休まらない日々が続いている。
「やっぱりお家に帰って、いろいろサポートしてもらった方がいいと思うんだけどな」
クラウンセボンが心配そうに言った。
レイアクレセントは、あたし達の中で唯一冬休みも実家に帰らず、寮に残ることになった。本家との確執は、未だ続いているらしい。
「本人の気が済むようにしたらいいんじゃない? だいたい、あの家の人たちもクレセントのことは歓迎しないだろうし」
「そうかなあ」
クラウンセボンには異論があるみたいだけど、あたしはやっぱり、レイア家の人たちのことが苦手だった。
冬休み初日に学園の正門前に現れたレイア家の御用車は、レイアフォーミュラを載せただけで去っていった。あたしたちのチームメイトの方には挨拶はおろか、
「その話はもういいや。それより、アイツどうなってんのかな」
「ホープちゃんのこと? 来るとは言ってたけど、どうだろ」
ホープアンドプレイも、今日の初詣には参加すると言っていた。でも、スマホも持っていない彼女とは連絡がとれない。一応待ち合わせ場所は休みに入る前に教えてある。だけど、いまどのあたりにいるのか、そもそも本当に来るのか、それすらも定かじゃなかった。
「困ったなあ、連絡手段が無いと」
「スマホが無いような昔って、待ち合わせも大変だったんだね。……あ、でも恋人同士なら、その方がちょっとロマンチックかも」
クラウンセボンの感性はよくわからない。あたしには不便としか感じられないから。
「さてそろそろ時間だけど……あ」
自動改札機の向こうから、テンダーライトがやってくるのが見えた。
「ご、ごめんなさい! 遅くなっちゃって」
話を聞くと、構内で道に迷ったうえ、人混みに
残るはホープアンドプレイだけ。だけど、一向に現れる様子がない。はじめはいつまで待たせるんだろうという不満が先走ったけれど、十分、二十分と経つにつれて、不満は次第に不安に置き換わってきた。
「ど、どうしたんでしょう。ホープさん、遅刻するような人じゃないのに」
「クレセントさんも心配してるよ。事故にでも遭ったんじゃないかって」
テンダーライトとクラウンセボンがLANEを見ながら口々にそう言った。その思いはあたしも同じだ。なんとかしてホープアンドプレイの動向を確かめる方法がないだろうか。
「あ、そうだ」
あたしはあることを思いついて、トレーナーに電話をかけることにした。
『もしもし? ルピナスどうしたの。あけましておめでとう。ちゃんと食べてる?』
いきなりの小言つき挨拶を無視して、あたしはトレーナーに尋ねた。
「トレーナー。ホープの連絡先、知らない?」
『……何かあったの?』
トレーナーの声色が変わった。あたしは手短に、チームのみんなで初詣に出かける約束をしていたこと、集合時間になってもホープアンドプレイが現れないこと、そして、スマホを持っていない彼女との連絡手段がないことを話して聞かせた。
「トレーナー、アンタホープのことスカウトしてきたんでしょ。アイツの住んでるとことか、連絡つかないの?」
『……まあ、知ってるよ。ちょっと、確かめてみようか』
「お願い。みんな心配してるから」
そうして、通話は切れた。
「ルピナスちゃん……」
「とりあえず、一旦トレーナーの報告を待とう」
それはすぐにやってきた。五分と経たないうちに、トレーナーからの折り返しがかかってきて、あたしは急いで通話ボタンをタップした。
「トレーナー? ホープのこと、何かわかった?」
『はいはい。わかったよ。あの子、家にいるみたい。今日は残念だけど行けそうにないって』
「え?」
その場にいたあたしたちは拍子抜けしてしまった。
『あんまり怒らないでやってね。急なことだったみたいで、本人もごめんって伝えてくれってさ』
「あ、うん。わかった」
『正月から何事かと思ったわ。ルピナスの番号は教えておいたから、そのうち連絡があるんじゃないかな』
「それは、どうも」
通話を切って、しばしの沈黙。
「……あーもう! ボン、これのどこがロマンチックだよ!」
「うーん、でもほら! 無事で良かったじゃん! ねえ、テンダーちゃん」
「え、あ、そ、そうだよ! うん!」
まったく人騒がせな。新年早々、ろくでもない想像をしちゃったじゃないか。今度会ったら、文句のひとつも言ってやろう。いろいろな感情を抱きつつ、あたしたちはため息を付いて、目的の神社へと向かった。
神社の入り口まで来ると、まるで待ち構えていたかのように一台のタクシーがやってきて、あたしたちの前に止まった。
「あけましておめでとうございます、皆さん」
中から現れたレイア家の令嬢は、にっこりと微笑んで挨拶の言葉を述べた。流石は名家の有名人。そして、堂々のGⅠウマ娘。すぐに周りの目が集まるのがわかった。ザワザワとした喧騒の間から、彼女の名を呟く声が聞こえてくる。あたしたちはそれに気付かないふりをして、新年の挨拶を交わした。
「それにしても、先程は大変でしたね」
「ホントだよ。アイツ今度会ったら絶対スマホを買わせてやる」
「さ、さあレッツゴー!」
わざとらしく号令を出したクラウンセボンを先頭に、あたしたちはレイアクレセントを囲むようにして参道を進んだ。正月というだけあって、本殿の前には長蛇の列ができている。なかなか先に進まないその列に並ぶあたしたちを狙い撃ちするように、左右にたくさん並んだ出店から食欲をそそる匂いがただよってくる。
「ボン、よだれよだれ」
「あっ、いけない」
クラウンセボンは慌てて口元を拭った。それでもその視線は屋台に引き寄せられている。
「帰りに寄ろうね」
「うん」
上の空な返事。ちゃんと聞いてるのかな。
「ところでさ、みんな今日は何をお願いするの?」
少しでも屋台から意識が離れるようにと、あたしは心持ち大きな声でそう言った。すると、すかさずレイアクレセントが答えた。
「私は当然、ダービーでの勝利です。ジュニアの舞台ではあの子と直接戦えませんでしたが、ダービーなら、必ずや出走してくるでしょうから」
昨年末のジュニア戦線は、予想外の結末に終わった。阪神JFを制したモモイロビヨリ、朝日杯を勝ったレイアクレセント。そこまではおおむね予想通りの展開だったけれど、意外だったのは、最後のGⅠであるホープフルステークスの結果だった。朝日杯に出走しなかったレイアフォーミュラは、当然ここに出走してくると誰もが思っていた。けれど、彼女の陣営が選んだ結論はまさかの回避。所属チーム〈カペラ〉のチーフトレーナーは、レイアフォーミュラの次走を年明けの共同通信杯にすると発表したのだった。
結果として、主役不在となったホープフルステークスは、パレカイコとオリンピアコスのワンツーフィニッシュとなった。とはいえ、上位の二人はどちらもチーム〈カペラ〉の所属。結局は強豪チームの層の厚さを感じさせるものだった。
「カペラ、ヤバいよね。フォーミュラもそうだけどさ、カイだのオリだの強いのばっかりそろってる」
「だからこそ、崩しがいがあるじゃないですか」
レイアクレセントはいたずらっぽく笑った。朝日杯での勝利は、彼女の自信をさらに深めることになったらしい。このままクラシック路線を突き進む気満々のようだった。あたしは、そんな彼女の横顔を複雑な思いで見ていた。正直な話、言いたいことはたくさんある。でもそれは、あたし自身がそれを言えるだけの立場になってから。それまでは、胸の中にしまっておこう。そう思っていた。
「ルピナスさんはいかがです? やっぱり、ティアラ路線での活躍ですよね」
「ああ、うん。そんなところ」
だから、とりあえずはそう答えた。だけどあたしはその答えの裏に、ひっそりと続きの言葉を隠していた。
(勝って、アンタに勝負を挑むんだ。桜花賞への切符を掴んで、そこであたしと勝負しろって言ってやる)
その野望は、デビュー戦での勝利はもちろん、その後のレースでも全て好成績を収めなければ望めない。桜花賞までは残りわずか三ヶ月。出られるレースは、多くても三レース程度。そのうちのひとつでも大敗すれば、ほぼ間違いなく桜花賞への道は閉ざされる。先は険しい。
「私はみんなが無事に一年過ごせますようにって」
「わ、私も!」
クラウンセボンとテンダーライトは口々に言い合った。ふたりがそう願うのも無理はない。昨年末のグランプリ有馬記念で、出走者のひとりがレース後に屈腱炎を発症し引退に追い込まれたというニュースを目にしたからだ。健康にレース生活を終えることの難しさと、怪我の怖さを改めて思い知らされる結果。ふたりの言葉を聞いて、あたしも自分の野望に「健康」の二文字を付け加えることにした。
「うーん、おいしい! 次はベビーカステラね!」
三十分程の順番待ちを経て、ようやくお参りを済ませたあたしたちは、待ちに待った屋台めぐりに興じていた。クラウンセボンは両手に抱えたにんじん焼きや牛串をあっという間に飲み込んで、次の店へ挑む構えを見せている。
「目指すは全店制覇!」
「よしいけボン!」
いつもだったらやめとけというところだけど、今日は正月休み。たまには、こんなこともいいよねと思った。クラウンセボンがデビュー以来ずっと食事に気をつけてきたのは、あたしたち全員よく知っている。それに、全店の食べ物を食べ尽くすところも、ちょっとだけ見てみたいと思ったから。
「ね、ねえ、悪いおみくじって結ぶといいんだっけ? 結んじゃダメなんだっけ?」
さっきお参りした後に引いたおみくじで、凶を引き当てたテンダーライトがおろおろしている。その必死な顔が面白くって、あたしとレイアクレセントは一緒になって、そのおみくじの内容を茶化して遊んだ。同い年の友達と過ごす、久しぶりの賑やかな時間。あたしはいつの間にか、冬の寒さを忘れていた。
そこへ、あたしのスマホが鳴った。知らない番号。あたしは、さっき話したトレーナーとの会話を思い出した。
「もしもし?」
『……』
電話の相手は、無言のまま答えない。
「もしもし? もしもーし? 誰?」
なんとなく予想がついていたけど、あたしはあえて名前を呼ばずにしつこく聞き返した。しばらくそうしていると、電話の向こうの人物はようやく蚊の鳴くような声で口をきいた。
『……ボクだよ』
「ボクじゃわかりませんね」
「ちょっと、ルピナスちゃん」
クラウンセボンが意見するように声を上げるけど、甘やかさない。ちゃんと名乗らせてやるんだ。
『……ホープアンドプレイ』
「どもども、ホープ。この番号、トレーナーから聞いたんだよね?」
『うん』
「今日はどうしたの。みんな待ってたのに」
返事はすぐには返ってこなかった。じれったくなって「聞いてる?」と言うつもりで口を開きかけた、その時だった。
『ほんとに、ごめん。急な用事で。連絡もしないで』
その態度に、あれっと思った。彼女がこんなにしおらしく謝罪の言葉を口にするなんて、いままでなかった。謝るにしたって、
「……まあ、いいけどさ」
なにがいいんだかわからないけど、そんな返事しかできなかった。なんだろう。何かおかしい。
『……じゃあ、またね』
「あ、ちょっと」
呼び止める間もなく、通話は切られてしまった。あたしたちはみんなで顔を見合わせた。それぞれ、思うことはあるようだったけれど、なんとく口を開くのをためらっているような感じだった。
「どうしたんだろう、ホープちゃん」
はじめに声を発したのは、クラウンセボンだった。続いて、レイアクレセントも首をかしげる。
「急な用事って、ご実家のことでしょうか?」
あたしはドキリとした。そういえば、ホープアンドプレイが親元を離れて暮らしているということは、他のチームメイトは知らない。一瞬、もう話してしまおうかと思った。
「ルピナスちゃん?」
「あー、そういえば前に聞いたような。アイツ、なんか大変らしいよ。いろいろ」
「いろいろ? いろいろって?」
その追及に、思わず口を割りそうになる。これが自分のことだったら、簡単に打ち明けてしまうところ。あたしはすんでのところで自分の軽い口を塞いだ。
「いや、そのへんは詳しく教えてくれなかったんだけどさ。とにかく、大変なんだって」
大丈夫。嘘はついてないし、バラしてもいない、はず。
「……そっか。私たちのわからない、いろんなことがあるんだよね。きっと」
「そ、そんな感じ、かな? あたしはもう別に何にもないけどね。うん」
鋭い。寒いはずなのに、あたしは背中にじっとり汗をかいていた。クラウンセボンはしばらくじっとあたしの顔を見た後、ふっと表情を緩めて両手を突き上げた。
「――よし! じゃあ気を取り直して、屋台制覇の続き!」
「ク、クラウンさん、待ってー!」
急ぎ足でイカ焼きの屋台へと突撃する彼女を、テンダーライトが慌てて追いかける。あたしはその後ろ姿を見つめながら、ホッと胸をなでおろすのだった。
そしてまた、同時にあることを決意していた。