ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#21-約束の数

 初詣の翌日、あたしは再び電車に乗っていた。昨日と違うのはその目的地。それと、隣りにいる同行者だった。

 

「まさか、あなたからデートのお誘いがくるとはね」

 

 列車の振動に合わせて体を揺らしながら、トレーナーがそう言った。別にあたしが誘ったわけじゃない。昨日の晩、ホープアンドプレイに会いに行くから、住んでいるところを教えてほしいとお願いしたら、トレーナーの方が「私も一緒に行くよ」と言い出したんだ。あたしはひとりで行くつもりだったのに、それを許してくれなかった。

 それから、トレーナーはすぐさまホープアンドプレイから訪問の許可をとりつけ、一方的に予定を決めてきた。その手際といったら、あたしを阪神レース場へ連れ出した時と同じくらい強引で、素早かった。

 

「ひとりで行っちゃダメなとこなの?」

「別に、そんなことないよ。私も今日あたり、あの子のとこへ行くつもりだったから。そのついでと思っただけ」

 

 本当かよ、と思いつつ、あたしはこのずるい大人の言いなりになるしかなかった。

 品川を通過して、大井町で乗り換え。どこからか、かすかに漂ってくる潮のにおいがツンと鼻をつく。トレーナーは全然気づいていないみたい。ヒトの鼻が鈍いのって、やっぱり本当なんだな。

 降りたことの無い駅の改札を通り抜け、歩いたことの無い道を()く。トレーナーの案内に従って歩きながら、あたしはアイツに会ったらなんて言おうかと考えていた。昨日かかってきた電話の様子のから察するに、何かただ事じゃないコトが起きているに違いない。アイツのことだ。どうせ素直に話したがりはしないだろうけど、こっちもそう簡単には引き下がらないつもりだった。悪い癖と言われても、首を突っ込まずにはいられないのがあたしだから。

 そんなことを考えているうちに辿(たど)り着いたのは、想像していたのとはまるで違う場所だった。

 

「さてと」

「トレーナー? ここって……」

 

 そこは病院の前だった。母さんの勤めている大学病院ほどじゃないけど、大きくて立派な総合病院だ。あたしはホープアンドプレイに会いに来たはずなのに、なぜこんなところへ連れて来られたんだろう。そう思うと、とたんに不安になった。

 

「どういうことなの? まさかアイツ、大ケガか何かしたんじゃ」

 

 あたしの急き立てるような問いをなだめるように、トレーナーはゆっくりとかぶりを振った。

 

「大丈夫。ホープは無事だから。ケガもしてないし、病気もしてないよ」

 

 ならどうして、と尋ねるあたしに「まあまあ」と言いながら、トレーナーはそのまま病院に入っていった。とにかくわけが知りたいあたしは、急いでその後を追いかける。受付を済ませ、トレーナーは迷うことなく入院病棟へと足を進めた。母さんの働いている病院以外では、こういうところに立ち入るのは初めてだった。なんだか妙に緊張して落ち着かない。

 やがてトレーナーは、ひとつの病室の前で立ち止まった。その部屋の名前欄には「堺」という文字が書かれている。

 

(さかい……?)

 

 どこかで聞いたことがあるような気がする。けれど、あたしがそれを思い出すよりも早く、トレーナーが病室の引き戸をノックした。

 

「失礼します」

 

 そう言って戸を開くトレーナーの後ろから、あたしも首を伸ばして中の様子を伺う。

 

「あっ」

 

 あたしは思わず声を上げた。そこに、目的の相手を見つけたからだ。といっても、ベッドの上じゃない。ベッドの上にいたのは、初めて見る小柄なお爺さん。あたしが見ていたのは、その横の椅子に腰掛けている、さらに小柄な芦毛の少女だった。

 

「ホープ!」

 

 その名を呼ぶと、ホープアンドプレイはこちらをちらりと見て、小さく「ああ」とだけ答えた。

 

「ホープ、アンタどうしてこんなとこに」

 

 身を乗り出してかかり気味に尋ねるあたしを制するように、トレーナーが咳払いをひとつした。そういえば、ここは病室。あんまり騒いじゃいけないところだったのを思い出して、あたしは慌てて口を閉じた。気付けば、ベッドの上の老人があたしのことをじっと見つめている。そりゃそうだ。他人の病室で騒ぎ出す知らないウマ娘なんて、どう考えてもヤバいヤツだもの。

 

「サカイさん、ご無沙汰しております」

 

 病床の老人にトレーナーが大人の挨拶をすると、彼は表情を穏やかにしてゆっくりと頷いた。

 

「ナギサさん、よく来てくれましたね。その子が、例の……」

「ええ。ホープの同室の子です」

「ああ、そうですかそうですか」

 

 サカイ、と呼ばれたその人は、目を細めて何度も「そうですか」をくり返した。一体この人は、ホープアンドプレイとどういう関係なんだろう。トレーナーとはどうも知り合いらしいし。

 

「ねえ?」

 

 蚊帳(かや)の外に置かれているのは嫌だ。あたしはトレーナーの袖を引っ張って、この人が何者なのか、尋ねようとした。すると、それよりも先に、本人がその答えを教えてくれた。

 

「はじめまして。私はサカイといいます。この子の世話をしている者です。もっとも、いまはこのとおり、逆に世話をされてしまっていますがね」

「笑い事じゃないよ」

 

 にこやかに冗談を言うサカイさんとは対照的に、ホープアンドプレイはうつむき加減のまま、覇気のない声でぼそりと呟いた。

 

「サカイさん、お加減はいかがですか」

 

 あたしの代わりにトレーナーが尋ねる。サカイさんは何でも無いという風に手を振って答えた。

 

「心臓をね、少々悪くしまして。ご心配をおかけしましたが、幸いにも軽く済みましたからね。もう大丈夫ですよ」

「それは良かったです。サカイさんにはお元気でいていただかないと」

 

 トレーナーは安堵のため息を漏らした。状況はまだよく飲み込めないけれど、あたしも一緒になって、愛想笑いを浮かべた。

 と、そんなあたしの腕を掴む手があった。見ると、いつの間にかホープアンドプレイがあたしの横に立って、病室の引き戸に手をかけている。

 

「ナギサ、ちょっとサカイのこと見てて」

 

 ホープアンドプレイがいつになく弱々しい声でそう言うと、トレーナーは静かにうんと答えた。

 

「行こう」

 

 どこへ、という間もなく、あたしはホープアンドプレイに袖を引かれて病室から連れ出された。

 連れて行かれたのは、病棟の休憩所。大きなテレビに、昨日往路を放送していた駅伝の復路の様子が映し出されている。あたしたちはその(すみ)のベンチに並んで腰を下ろした。

 

「どういうことなのか、ちゃんと話してよ」

 

 あたしの頼みに、ホープアンドプレイはこくんと頷いた。

 

「サカイがね、大晦日の朝に倒れてさ。あれこれ大変だったんだ。昨日、やっと面会できるようになって、いまあんな感じってわけ」

「……そうだったんだ」

 

 どうやら、ホープアンドプレイは年末からずっと、あのサカイさんに付き添っていたらしいということはわかった。初詣に来なかった理由も、だいたいそんなところだろう。だけど、それだけで終わりじゃ困る。あたしにはまだわからないこと、聞きたいことが他にもたくさんあった。

 

「サカイさんって、アンタの何なの」

 

 どうも血縁じゃなさそうなのは、その口ぶりでわかる。昨日まで面会できなかったのだって、多分それが原因だ。ホープアンドプレイはなかなか答えなかった。口を小さく開けては何も言わずに閉じ、また開けては閉じを繰り返している。なにか、迷っているようだった。

 

「……言いたくないなら、無理には」

 

 いつものあたしなら、教えろと食い下がるところ。だけど、ことがことなだけにそうも言っていられない。きっと、これは彼女の生い立ちや環境に関係があることなのだから。

 けれども芦毛の少女は首を横に振った。覚悟を決めたような表情で一度きゅっと口を結ぶと、それからゆっくりと話し始めた。

 

「サカイはね、この病院のすぐそばにある、子供を保護する施設の園長なんだ。ボクは、そこの入所者。サカイには色々と世話になってる……わかるだろ。()()()()ってやつだよ」

 

 ああ、そうだったんだ。それが、あたしの最初の感想だった。自分でも不思議なほど驚きは感じなかった。どちらかといえば、ホッとしている。彼女の霧に包まれていた謎がひとつ、解けたような気がしたから。

 

「じゃあ、アンタにとって大切な人なんだ。サカイさんは」

「――そうだね。ボクのことを、邪魔者扱いしなかったのは、あの人だけだからさ」

 

 呟くようにそう答えるホープアンドプレイの声は、どこか苦しそうだった。

 サカイさんは、心臓を悪くしたと言っていた。はっきりした病名はわからないけど、心臓で倒れたというのなら、命の危険があったはずだ。以前、母さんに聞いたことがある。突然倒れて死んでしまう病には、心臓の病気が多いんだとか。激しい運動をするウマ娘もリスクは高くなるから、ちゃんと毎年検査を受けるようにと言われている。お年寄りならなおさらだ。この数日、ホープアンドプレイの心は、大事な人を失うかもしれないという不安に襲われていたに違いない。よく見ると、その眼は腫れぼったくて、髪はいつも以上にボサボサとしている。どうやらあんまり寝ていないようだった。

 

「ねえ、ホープ」

 

 呼びかけても、ホープアンドプレイは自分の手元から視線を動かさない。それでも耳がピクリと動いた。大丈夫。ちゃんと届いてる。

 

「あたし、ボンやアンタみたいに、カンが働くヤツじゃないからさ。ホントのとこ、よくわかってないんだけど……アンタ、変わったよね。出会った頃と比べるとさ」

 

 以前の彼女なら、今日のようにあたしが会いに来ようとしても、断られたような気がする。たとえ、トレーナーが一緒だったとしてもだ。あの秘密の夜や夏合宿を経たことで、あたしたちの距離は着実に近づいている。今日の一件は、それをまた一段と確信させてくれるものになった。

 

「こんな時に言うことじゃないのかもしれないけど、あたし、ちょっと嬉しいんだ。アンタが苦しい思いをしているときに、そばにいさせてもらえるなんて」

「……キミは、いいやつだね」

 

 その言葉は、前にも言われた覚えがあった。その時と同じ、どこか(あざけ)るような響き。でも今日のそれは、あたしにじゃなくて、彼女自身に対して向けられているように聞こえた。

 

「ボクは、まだキミを疑ってるのに」

 

 ああ、やっぱり。それは、出会って時からそれとなく感じていたことだった。ホープアンドプレイというウマ娘が見せる、皮肉めいた態度。他人事のようにスカした物言い。そのどれもが、疑う心から生まれているのだということ。彼女はいつも疑っている。相手が自分の敵じゃないか。嫌ったり、憎んだりするんじゃないか、痛めつけてくるんじゃないか……そんな風に。

 

「ホープ、あたしは」

「わかってる。わかってるよ。キミがボクのことを、傷つけるつもりなんかないってのは」

 

 ホープアンドプレイは背中を丸めて、自分の襟元を握り締めた。その仕草も、声も、どこか怒っているようだった。その怒りも、さっきと同じように、あたしじゃなくて彼女自身へ向いている。

 

「ボクは嫌なやつだよ。キミの善意を、真正面から受け止める度胸もないんだから」

「違うよ」

 

 あたしは(さえぎ)るようにそう言った。

 

「違うよ、ホープ。それは絶対に違う。だって、アンタはこうやって苦しんでる。他人を信じられないってことを、こんなに悩んでるじゃない。嫌なやつなら、そんな風に考えたりしないもの」

 

 あたしは次々と思いをぶつけた。ホープアンドプレイが余計なことを考える前に。自分を否定するようなことを言いださないように。あたしには、たった一言で全てを解決できるような、そんな魔法のようなセリフは作り出せない。お節介で、単純で、バカ正直なただのウマ娘だ。だったら、直線一気のストレートが、あたしのやり方だ。

 

「それに、アンタはまだあたしを疑ってるって言ったけど、ならどうしてあたしは今ここにいるの? アンタが信じてくれたからでしょう?」

 

 燃え上がった熱は、頭のてっぺんから尻尾の先まで、あたしの身体を熱く火照らせる。その熱はどうやら芦毛の少女にも届いたようで、彼女はあっけにとられたような顔であたしを見つめていた。

 

「あたし、何度でも言うから。あたしはアンタの味方だって。ううん、あたしだけじゃない。ボンも、クレセントも、テンダーも、チームのみんなが、アンタの味方なんだよ。あたしたちはみんな――」

 

 そこへ、転びながら走り続ける駅伝選手を実況する声が大きな音量で聞こえてきた。一瞬そちらへ気を取られ、その拍子に熱はすうっと冷めていった。

 それから、気まずい沈黙がしばらく続いた。先に口を開いたのは、ホープアンドプレイの方だった。

 

「ルピナス、キミは何のために走るの」

 

 唐突な質問に、あたしは面食らった。けれど、その答えはどんなテストの問題を解くよりも簡単だった。

 

「あたしは、母さんと父さんのために走るよ」

 

 「ヒト生まれは走らない」なんて言葉に傷つけられてきたのは、あたしだけじゃない。あたしを産んで育ててくれた母さんや父さんも、その言葉を耳にするたびに心を痛めてきた。その傷を塗り替えるために、あたしができること。それが、走ってレースで勝つことだ。だからあたしは走らなきゃならない。走って勝たなきゃならないんだ。

 当然、それはあたし自身のためでもある。母さんたちのために走ることが、あたし自身のためになる。ホープアンドプレイは、そんなあたしの答えを聞いて、ふっと声を漏らした。

 

「ボクは、全然違った。他人のことなんかどうでもいいって思ってた。ボクが勝とうが負けようが、他人には関係ないんだからって。ボクはただ、ボクのためだけに走ればいいって」

「……いいんじゃないかな、そういうのも」

 

 それはそれで、カッコいいと思う。たったひとり、自分のことだけを考えて勝負に挑む。誰かのためだとか、そんな御託(ごたく)のない、まっすぐな情熱。ある意味では、一番ウマ娘らしいと言えるかもしれない。けれどホープアンドプレイの考えは、いまは変わってきているらしかった。

 

「ウマ娘って、人間との繋がりで力を発揮するんだって、言われてるよね」

「そうらしいね」

「多分、キミにとってのそれは、キミの両親なんだよ」

 

 そう言われてみれば、そうなのかもしれない。母さんたちへの思いは、あたしの力の源で、あたしの脚を動かしてくれるもの。勝ちたい、という欲望の原点だ。

 そこでようやく、ホープアンドプレイの言いたいことが分かった。

 

「サカイさん、なんだね。アンタのそれは」

 

 ホープアンドプレイは、自嘲気味に笑った。

 

「よかったよ。()()が無くならなくてさ。もしものことがあったら、ボクはもう、トレセン学園なんか辞めちゃったっていいんだから」

 

 冗談じゃない。そう何度もルームメイトに居なくなられてたまるもんか。あたしはわざと不機嫌そうに顔をしかめてみせた。でも、怒る気にはなれない。これはいつものホープアンドプレイらしい、ニヒルな言い方。今日は妙にそれが嬉しい。

 

「ホープ、元気出たんじゃない?」

「走りに行きたくなるくらいにはね」

 

 すっかり調子が戻ったらしい。あたしはそれならと、吹っかけてみることにした。

 

「じゃあ、勝負しようよ。すぐそこの運動公園で。1600メートル一本勝負」

「ずるいな。キミに有利すぎるよ。10キロランニングで行こう」

 

 それこそずるい。ホープアンドプレイは駅伝選手にだって負けないくらいのステイヤーなんだから。本格化のアドバンテージがあったって、そんな長距離じゃかないっこない。

 

「意外とアンタ、負けず嫌いだよね……あ」

 

 ふと、ある考えが浮かんだ。

 

「ねえ、ホープ」

「何」

「あたしたち、いつか公式戦で勝負しようよ」

 

 あたしの方はデビューが決まったとはいえ、いまはまだ、未出走同士。なら、宣戦布告の権利はあるはずだ。

 ホープアンドプレイは、目を一度大きくぱちくりさせた。距離適性の違いすぎるあたしたち。驚くのも無理はない。だけど、あたしのこの提案には続きがあった。それを聞いたらもっと驚くだろうと思うような、そんな続きだ。

 

「勝負するなら、一番大きいとこ。そう、GⅠの舞台で。ね。約束しよう」

 

 思った通り、芦毛の友達は二度、三度と繰り返し目を瞬いている。ああ、こいつの驚く顔、好きだな。いつも先回りされるあたしが、一本取ってやったような気分になれる。

 

「――それ……」

 

 さて、なんと返ってくるかな。あたしはいろいろと想像した。いつものように「なにバカなこと言ってるんだ」だろうか。それとも「怖いもの知らずだね」みたいな皮肉だろうか。どっちにしても、無理やりにでもこの約束は取り付けてやると思った。

 その答えは、どちらでもなかった。

 

「条件は、どうするの」

「え?」

「条件だよ。マイル戦なんか、ボクはごめんだよ。さっきも言ったけど、キミに有利すぎる。でもキミじゃ長距離レースなんて無理だろ」

「……だから、中距離戦でやればいいんだよ。ほら、秋の天皇賞とか、宝塚記念とか」

 

 あたしはとっさに、さも想定していたかのようにそう答えた。本当は勢い任せで言っただけで、全然考えてなかったんだけど。ホープアンドプレイは「ふうん」と言って、あたしを例のなんでも見通すような眼で見つめてきた。ああ、どうせ何も考えてなかったってバレてるんだろうな。でもいいや、と思った。

 

「これであたしたち、走る理由が増えたよね」

 

 それが狙いだった。適性距離の全然違うあたしたち。それでも、この約束をしてしまえば、それがお互いの走る理由になる。

 

「大した自信だよ。全く」

「アンタだって、条件聞いてくるなんて、やる気あんじゃん」

 

 ようやく飛んできたシニカルな言葉も、きっちり打ち返してやった。いまはこれくらいの距離が丁度いい。考えたことは同じみたいで、いつの間にかあたしたちは、どちらが先というでもなしに笑っていた。

 

 

「ねえ、トレーナー」

 

 帰りの電車の中、あたしはトレーナーに聞きたいことがあった。

 

「どうしたの?」

「正直に言って。あたし、どこまで行けると思う?」

 

 トレーナーは、あたしの質問の意味をすぐに読み取ってくれた。

 

「はじめにあなたを見た時、こんなすごい子がまだ残っているなんて、ものすごい幸運だって思った。これなら重賞も狙えるって。でも今は――」

「今は?」

 

 あたしは食いつくようにその続きを急かした。重賞なんかじゃ足りない。あたしはGⅠを獲りたい。レイアクレセントに勝つことと、ホープアンドプレイとの約束、その両方を成し遂げるには、そこまで届かなきゃいけない。あたしのその思いが伝わったのか、トレーナーはにっこりと口の端を上げると、あたしが待っている言葉を迷わず口にしてくれた。

 

「GⅠタイトルだって、きっと獲れる。マイルなら、あなたの能力はクレセントにも負けてない。あなたはあなたが思っている以上に、力をつけてきているから」

「じゃあ、ホープは?」

 

 あたしの約束には、あたしだけじゃだめだ。正直、さっきは勢いで言っちゃったけど、簡単に果たせる約束じゃないことはわかっている。あたしとホープアンドプレイ、両方がGⅠの舞台に辿りつかなきゃならないんだから。

 今度の返事には、少しだけ間があった。

 

「時間はかかると思う」

 

 トレーナーは言葉を選ぶように、そう答えた。

 

「何より、身体がまだ仕上がってない。能力はあるはずなんだけどね。一線級で戦えるようになるのは今年の秋か、ひょっとすると来年の春になるかもしれない」

「じゃあ、時間をかければ行けるの?」

 

 この問いは、もうただの質問じゃなかった。時間をかけてでもいいから、絶対にそこまで連れていけという要求だった。無茶苦茶なことを言っているのは百も承知。だけど、これは譲れない。あたしたちの走る理由が、ひとつでも多く残るように。すでにデビューした他のチームメイトに追いついて、一日でも長くみんなで一緒に走るために。トレーナーにも、約束に加わってもらわなきゃ。

 トレーナーは目を閉じると、静かに息を吐きだした。ひとつ、ふたつ。そして、みっつめが終わったところで、くるりとあたしの方を向いて、言った。

 

「私を誰だと思ってるの。『長距離の河沼』の娘なんだからね」

 

 あたしはそれで、満足した。


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