ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#22-メイクデビュー

 カーテン越しに、人が集まる熱気とざわつきが伝わってくる。東京レース場、パドックの控室。あたしの他に、十五人のウマ娘がその出番を待っている。お互い顔を合わせることも、言葉を交わすこともない。これからデビュー戦が始まるというワクワク感よりも、どこか張り詰めた緊迫感が漂っている。

 考えてみれば当たり前だ。あたし自身そうだったように、ここに集まっているのは、去年のうちにデビューできなかった子たち。通常「メイクデビュー戦」と銘打たれたレースは、三月を待たずに打ち切られる。その後は未出走だとしても、人生最初の公式レースを「未勝利戦」で迎えることになる。一月末のこのレースに出走を決めたあたしたちは、さしずめ「メイクデビュー」への滑り込み組だ。みんな、焦りと不安の中にいる。どうしたって、和気あいあいとした雰囲気になりようがない。

 

『一枠1番、ジュレブランシュ。七番人気です』

 

 アナウンスに従って、最初の子が出ていった。幕が開いて、冷たい風がバックヤードへ吹き込んでくる。それと同時に、ゼッケン一番の黒鹿毛へ送られるまばらな声援も、あたしたちの耳へ届いた。順番待ちのみんなが、ごくりとツバを飲み込んだのがわかる。人気の順位、拍手の量。デビュー戦でのそれは、まだ実績のないあたしたちにとって、大事な意味を持っている。これからの競走生活でどんなキャリアを描いていくのか、その周囲の予想と期待の大きさを、わかりやすく見せつけられるからだ。

 パドックの進行は、そんなあたしたちの感情なんてお構いなしに淡々と進んでいく。いよいよあたしの番になった。

 

『次は、四枠8番、ルピナストレジャー。三番人気です』

 

 やっぱりね、というのが第一印象だった。やっぱり、というのはもちろん人気の順位。追い切りのタイムだけで比較すれば、あたしは今回の出走メンバーの誰にも負けていない。順当に考えれば、レイアクレセントのデビュー戦ほど圧倒的でなくとも、一番人気になったっておかしくないくらいだ。そうならなかった理由を、あたしはちゃんと知っていた。

 直前の取材で、あたしは「ヒト生まれ」であることを明かした。もちろん、ただ珍しいというだけなのでそれほど大きな記事にはならなかったけれど、反響はそれなりにあったらしい。つまりは、血統面のマイナスを見られたんだろう。反対に、物珍しさから応援してくれる人もいる。その両方が合わさった結果が、三番人気という人気順位。

 ウマ番が7番の子が戻ってきて、それと入れ替わるように前へ出る。はじめて見る、本番のパドックのステージ上からの景色。観客の数はまだそれほど集まっていない。学園内の競技大会とか、選抜レースの方が多いくらいだ。今日は土曜日でメインレースも重賞じゃないから、当然だけれど。

 パチパチと聞こえてくる拍手を聞きながら、リハーサルで何度も確認したように、ステージの前へ出る。正面に陣取ったチームメイトたちの姿を確認して、あたしは目一杯カッコを付けて上着を脱ぎ捨てた。

 

(うわ、寒っ)

 

 何かいいポーズでもと考えていたけど、それよりも寒さが勝って、あたしは震えながらぎこちなく笑うのが精一杯だった。規定だから仕方ないとはいえ、一月の寒空の下で体操着とブルマはキツい。パドックが終わったらしっかりとアップしておかないと、身体がちゃんと動かなそうだ。

 ま、こんなもんか。思ったより緊張しなかったな。そう思いながらバックヤードへ戻って一息ついていると、URAの係員があたしに駆け寄ってきた。その手に、見覚えのあるものを抱えている。

 

「ルピナストレジャーさん、次回からは、脱いだ上着は自分で回収してきてくださいね」

「あ……ごめんなさい」

 

 ヤバい。完全に忘れていた。拾ってきてくれたんだ。他の出走者たちの視線が痛い。そりゃそうだ。パドックのステージに上着を置きっぱなしにしてくるとか、次の子に迷惑なことをしちゃったんだから。あたしは、自分がどうやら思ったよりも緊張しているらしいということをようやく自覚した。参ったなあ。こんなの、後で絶対にアイツに笑われる。

 

『まもなく本バ場入場です。出走者の皆さんは、地下バ道を通って、バ場入りを行ってください』

 

 アナウンスに追い立てられ、あたしたちはぞろぞろとパドックを後にした。また一段とピリピリした雰囲気が強くなったのを肌で感じながら。

 

「ルピナスちゃん!」

 

 地下バ道には、すでにチーム〈プルート〉のメンバーが集まっていた。さっきのパドックでも一際目立つように大きく手を振っていたクラウンセボンは、あたしの身体を暖めるように抱きついてくる。

 

「ボン、ありがとう」

「頑張ってね。私、待ってるから。ウイナーズサークルの前で」

 

 その真っ直ぐな言葉が、いまのあたしには嬉しかった。プレッシャーなんて、あたし自身が自分に課したものに比べればなんてことはないもの。

 

「クラウンさん、心配要りませんよ。ルピナスさんは、追い切りの際の併走でも私と互角の勝負をしたのですから。きっと、勝利を手にして戻ってきます」

「そ、そうだよ!」

 

 レイアクレセントとテンダーライトも口々にそう言って、こぶしを握っている。

 

「ね?」

 

 念を押すようにあたしの顔をのぞき込むレイアクレセントの手元には、二週間前の誕生日にプレゼントした新しいネイルが綺麗に仕上がっている。その心意気に(こた)えるように、あたしも親指を立てて返した。

 一方で芦毛の小さなルームメイトは、思った通りニヤニヤした顔をこちらに向けてくる。

 

「さっきの、見てたよ」

「何が?」

 

 あたしはすっとぼけて、わざとらしく聞き返す。パドックでの失態のことを言ってるってのは、口にしなくたってわかっている。

 

「緊張してるでしょ」

「あったりまえでしょ。悪い?」

 

 口をとがらせて応戦すると、ホープアンドプレイは小さく「別に」と呟いて肩をすくめた。

 

「アレが言ってたこと、思い出すなってだけ」

「アレ?」

「言われたろ。『大した自信だな』って」

 

 それでやっと思い出した。たしか、去年の春。あたしたちが出会ってすぐの頃、模擬レースでレイアフォーミュラに挑んだときのことだ。レース前で緊張していたあたしに、レイアフォーミュラが言った言葉だ。自信があるからこそ、緊張するんだという意味だったと思う。あのときはいまいちピンとこなかったけれど、いまとなればなんとなく理解できるような気がした。あたしはこのレース、勝つ自信がある。というより、負けてはいけないと思っている。ここで負けたら、桜花賞へ出走するというひとつの目標が絶望的になるからだ。けれどもそう思えばそう思うほど、脚はすくんで、平常心ではいられなくなる。

 

「ルピナス」

 

 トレーナーが静かに言った。

 

「あなたはよく考える子。だから、考えるな、なんて無理なことは言わない。これから30分間、()()()()()()()のことだけを考えなさい。いい?」

「30分……」

 

 それは、ちょうどレースが終わる頃。

 

「やってみる」

 

 そう答えると、トレーナーは一度だけうんと頷いた。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

 あたしは振り返らなかった。振り返ったら、心が弱くなる。後ろから何事かあたしを励ますような声が聞こえてきたけれど、その言葉の輪郭はつかめなかった。

 

 暗い地下バ道から晴天の場内へ飛び出すと、まるで急に夜が明けたみたいに、眩しい光に包まれる。場内のスピーカーからは、本バ場入場の曲が鳴り響いていた。あたしたちの競走人生のはじまりを告げる、暖かい日の出のような優しい音色だ。

 

『8番、ルピナストレジャー。“ヒト生まれ”の底力は如何に。血統の常識へ、挑戦状を叩きつけます。チーム〈プルート〉所属』

 

 場内アナウンスとともに、バ場へ足を踏み入れる。広い広い府中のターフ。スタンドから注がれる視線。

 

(母さんたち、見てるかな)

 

 あたしはつい、客席の中にその姿を探した。いないということはわかっている。母さんは今日も仕事だし、父さんは遠くへ出張中だ。デビュー戦の日取りを伝えたとき、ふたりともあたし以上に残念がっていたのを覚えている。

 ……いけないいけない。見えてないもののことを考えてた。ついさっき、トレーナーが言ったことをもう無視している。あたしは両手で、自分の頬を叩いた。冷たい空気の中でのそれは思ったよりも痛くて、自分でやっておきながらちょっと後悔。

 

(とにかく、勝つんだ)

 

 あたしは返しウマで走りながら、足の裏の感触を確かめる。軽い芝の東京レース場。だけど今日は少ししっとりしている。良バ場発表だけど、いつもよりはちょっと重め。これは想定の範囲内。冬の芝は夏よりも重くなる。こうなると、後方で内に包まれるのは最悪だ。荒れたバ場の泥が飛んできやすいし、そうなると集中を乱されてしまう。なら今日は外目か前目につけて行こう。幸い、四枠8番はどちらにも対応しやすい枠順だ。

 ゲート前に着くと、あたしのふたつ隣のゲートに入る6番の子と目が合った。たしかこの子は、今日の一番人気の子で、名前はオーベルテューレ。陣営のコメントでは、あたしと同じティアラ路線を目指していると言ってたっけ。鹿毛の毛並みに、左耳の黒いリボン。脚質は、差し。

 あたしは軽く会釈をして、最後のストレッチをしようとしゃがみ込んだ。すると、オーベルテューレが近づいてきて、あたしの目の前に同じように(かが)んだ。どうしたのかと首をかしげるあたしを、オーベルテューレは鋭い目つきでじっと睨んでくる。いわゆるガン付けだ。

 

(うわ、場外戦)

 

 こういうことをしてくる子がいるのは知っていた。レース前に相手を威嚇して、縮こまらせる作戦だ。別に反則じゃないし、この世界じゃよくあること。

 

()められたもんだな)

 

 あたしは一度、レイアフォーミュラの威圧感を間近で浴びたことがある。それだけじゃない。はじめて会ったときのホープアンドプレイのゾッとするような目付きも、はっきり覚えている。あれらに比べれば、こんなものなんでもない。あたしはためらわずに睨み返した。あたしにガンを付けてくるってことは、この子にとってあたしが怖い相手ってことだ。それは逆に自信になる。一番人気様からライバルのご指名をもらったんだから。

 

「あたし、勝つから」

 

 自然と、そんな言葉が口から出た。オーベルテューレは何も言わない。それでも、あたしは自分から目を逸らさないようにした。ここで先に目を離したら、負けだ。あたしはもう、そんなヤワなウマ娘じゃない。喧嘩を売る相手を間違えたって後悔させてやるんだ。

 そのとき、ファンファーレが鳴った。

 

『東京レース場、第6レース。クラシック級メイクデビュー戦。芝1600メートル。まもなく発走です』

 

 いよいよゲートイン。係員に促されて、オーベルテューレはあたしの前から離れた。あたしは最後まで目を逸らさなかった。

 

(勝つから)

 

 心の中で、もう一度くり返す。クラウンセボンと違って、あたしはどの子がどれくらい強いかなんて見ただけじゃわからない。だけど、オーベルテューレの意気込みはわかった。あたしと同じように「負けられない」と思っていたんだ。

 でも、それじゃダメだってことが、この短い時間の間にあたしはよくわかった。「負けられない」じゃダメ。「勝つ」じゃなきゃ。だから、あたしは勝つんだ。そのおかげなのか、ストレッチのおかげなのか、あたしの身体の震えはいつの間にか消えていた。

 奇数番号の子の枠入りが終わって、次は偶数番号。あたしたちの番だ。ゲートは狭くて、閉塞感がある。走りたくて走りたくてたまらない時に、これは結構つらい。周りがどうなっているか全然見えないから、最後の子がちゃんと入ったのかもわからない。とにかく、前だけを見て、目の前のゲートが開くのを待つ。ゆっくり息を吸って、短く吐き出す。

 そして、四回目に息を吸ったところで。

 

 ――ガコン

 

 無機質な音。開ける視界。あたしは思い切り蹴り出して、スタートを決めた。出遅れは無し。よし! と思った。これで前でも外でも、好きな位置を取れる。

 昨日のミーティングで、トレーナーと話した作戦を思い返す。今回のレースは、逃げる子がいない。先行が九人、差し追込が七人。どうせ、遅いペースになる。少し前目から行ったって、スタミナは残る。それなら思い切って、五、六番手あたりに付けたっていい。

 

『まず先頭に躍り出たのは1番のジュレブランシュ。その後、デリジオッソ、スイートオンヒムと続いて、内からエレティスマ。外からルピナストレジャー……』

 

 最高の位置取り。感触として、やっぱりペースは遅い。そんなに頑張って走ったわけでもないのに、自然とここまで上がってこられた。府中のコーナーは息を入れづらいけど、このままなら楽な手ごたえで最後の直線に行ける。

 そのとき、あたしの右ななめ後方から、ものすごい圧力を感じた。何事かと思って振り返る。

 

(あっ)

『外目から上がっていった一番人気のオーベルテューレ。前を伺う格好です』

 

 それはオーベルテューレだった。まくり気味に上がってきて、そのまま先頭へ行く……のかと思いきや、あたしの外に付けたまま、ぴったりと止まった。これであたしは左右両方から挟まれる形になる。おまけにオーベルテューレはあたしの方へ寄ってきた。ぶつかるわけにも行かない。あたしも内側に位置をずらす。すると前の子の蹴り上げる芝や泥が、ピンピンと顔に跳ねてくる。ちくしょう。これが嫌だったから、外目につけてたのに。ああ、うっとうしい!

 あたしはオーベルテューレを睨み付けた。完全に嫌がらせだ。あたしを潰しに来てる。あたしが困っているのを見て、さぞかし笑っているだろう。そう思った。

 

(え?)

 

 その顔は、笑っているというよりも、泣きそうな顔だった。

 

(……そうか。そうなんだ)

 

 どんなウマ娘だって、レースに出たら勝ちたい。そのためにはどんなことでもする。反則にならない限りは、あらゆる手段を使うのが勝負の世界だ。場外戦も、ライバル潰しも含めて、すべてが実力の内。それを楽しむことができる子ならいい。だけど、力と力だけの真っ向勝負をしたい、それで勝ちたいという夢が捨てられない子はどうなるんだろう。

 きっと、オーベルテューレのこの作戦は、彼女のトレーナーの指示だ。重いバ場だと集中力を欠くあたしを潰すため、そう指示されたにちがいない。現にいま、あたしは目の前の勝負とは違うことを考えてしまっている。作戦は成功だ。

 

(まあ、良いトレーナーじゃん。アンタのトレーナー)

 

 思わず笑みがこぼれた。それを見たオーベルテューレは、驚いたように目を見開く。レースはもう、第三コーナーを回っている。

 

(だけど、勝たせてもらうよ)

 

 彼女の作戦につけいる隙があるとすれば、この作戦ではオーベルテューレがずっと外を走らされ続けるということだ。しかも、あたしが最初走っていたところよりもさらに外。ということは、距離のロスは相当に大きいはず。あたしもイライラして無駄に体力を消耗したけど、距離はこっちがかなり有利だ。それなら消耗分は取り返せる。

 それに、あたしはこの一年間、トレーナーのおかげでかなり体力がついた。高地トレーニングはもちろん、大嫌いな長距離ランニングも、インターバルトレーニングもたくさんこなした。マイルなら、削り合いになったって負けるもんか。あたしにはその自信があった。

 

 第四コーナーを回りはじめたところで、前を走っていた子が垂れてきた。そこが壁になって前に出られない。その間に、オーベルテューレが上がっていく。先手を取られた。多分、これも作戦の内。でも、ここにも誤算がある。コーナーで仕掛けるとき、ぴったりと内側の進路を(ふさ)いだまま上がっていくのは難しい。スピードに振られて、外へ膨らんでしまうからだ。実際、オーベルテューレはかなり外に逸れる形でスパートをかけている。こうなると、あたしにとっては進路の確保が楽になる。すかさず邪魔がいなくなった外に身体を持ち出して、後を追いかけた。

 

『さあ、オーベルテューレが外目から前を捉えるか! 内の方ジュレブランシュも粘っているが、ここで先頭はオーベルテューレ! 間から上がってきたのは……』

 

 コーナーを回りきって、蹴り足を右から、左へ! グンと身体が前へ出る。外へ膨らまないように、右足で支えて、さらに左足で蹴り出す! スムーズで理想的な乗り換え。あたしの生命線にして、一番自信があるところだ。

 走るときの足は、左右均等じゃない。どちらかが推進力を生み出して、どちらかが支えるという形になる。ロスのないコーナリングや爆発的な加速には重要な要素だ。ただ、レースの時はその左右をどこかで交代させなくちゃならない。例えば、コーナーに入ったり、直線に戻ったりして、姿勢が変わるとき。それから、片方の蹴り脚に疲労が溜まってきたとき。ここがスムーズに乗り換えられるかで、スピードの乗りは大きく変わってくる。時速60キロメートルの世界で少しでももたつけば、致命的な失速になる。

 

『間から上がってきたのはルピナストレジャーだ! あっという間に抜けた! 一気の末脚! 二バ身三バ身とリードを広げていく!』

 

 長い長い坂を登る。その間に左足が重くなってきた。やっぱり道中のあれこれで、思ったよりも消耗していたみたいだ。だけど、それならもう一度乗り換えるまで。あたしにもう負ける要素はない。

 歓声の飛ぶスタンドに目をやる。これが、あたしのデビュー戦。そして、初勝利の景色だ。その音を、その風景を、しっかりと記憶しておこう。これが最初で最後の、メイクデビューなんだから。

 

『ルピナストレジャー、いま一着でゴールイン! 強いレースでした。チーム〈プルート〉はこれで三人目の勝ち上がりです。若いチームの勢いは止まりません!』

 

 勝った。本当に勝ったんだ。ターフビジョンに、あたしの姿が大きく映し出されている。掲示板にも、一番上に8というあたしのウマ番が表示されていた。

 

『上がり3ハロンは33秒8! 上がりの早い決着になりました』

 

 ふと見れば、約束通りウイナーズサークルの前でクラウンセボンが手を振っているのが目に入った。

 

「ルピナスちゃーん! おめでとう!! 早くおいでよ、みんな待ってるよー!」

 

 それは、きっとウマ娘じゃなくても聞こえるくらい大きくはずんだ声だった。なんだか、ちょっと恥ずかしい。それに、もう少しだけ、じっくりこの景色を目に焼き付けたい。そう思って苦笑いしていると、あたしの後ろから別の声がした。

 

「おめでとう」

「アンタは……」

 

 二着に入ったオーベルテューレが、レース前とは打って変わった様子で、おずおずと話しかけてきていた。あたしと身長はほとんど変わらないのに、なんだか小さく見える。きっと、これが本当のこの子なんだ。

 

「ごめんね。私、どうしても……」

「わかってる。もう、気にしてないから」

 

 全部言わせる必要は無かった。あたしが逆の立場なら、同じことをしていたかもしれないんだから。あたしは手を差し出して、握手を求めた。

 

「ライブでもよろしく。あたし、あんまり歌上手くないけど」

 

 ためらいがちに差し出される手を強引に掴んで、あたしはそう言った。その言葉でようやく口元を緩めた相手に「それじゃ」と告げて背を向ける。するとあたしのその背中に、もう一度声が飛んできた。

 

「あの!」

「ん?」

「……頑張ってね。これからも」

 

 その一言に、なぜか胸がきゅっと苦しくなった。そのわけはきっと、あたしが知る必要はないことだ。考える必要もないことだ。そう、それは()()()()()()()()だから。まだ約束の30分は過ぎていない。

 だから、あたしはこう答えた。

 

「アンタもね」

 

 頷いたかどうかは確認しなかった。それよりも、クラウンセボンのあたしを呼ぶ声が明るく、強く響いていたから。

 

「ルピナスちゃん! どうしたの? 早く早く!!」

 

 あたしは手を一度振り返すと、(にじ)みかけの視界を腕でぬぐって、仲間たちのもとへと駆けだした。

 


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