白熱灯の明かりが、机の上に並べられた明日のための荷物をぼうっと淡く照らしている。
それがGⅡのものであることを示す、深紅のゼッケン。そこにあたしの名前と、2という数字が刻まれている。いよいよ明日は、チューリップ賞。会場近くのホテルの一室で、あたしはひとり、濡れた尻尾を乾かしながらため息をついた。
「ひっどい枠順」
つい、そんな言葉がぽろりとこぼれる。14人立て、二枠2番。最近のチューリップ賞で、この枠番から勝ったウマ娘はほとんどいない。あたしの脚質から考えても、いっそ大外枠を引いた方がよかった。当然と言うべきか、今朝発行されたレース新聞の予想欄では、あたしに本命の二重丸を打つ人は一人もいない。人気は、七枠に入った見覚えのある名前が吸い上げている。
「……モモイロビヨリ」
「ただいま!」
そこへ、クラウンセボンが帰ってきた。その腕に、ペットボトルを抱えている。さっきまで部屋のお風呂を使っていたあたしの代わりに、ロビーにある自販機まで買い出しに行ってくれていたのだった。
「おかえり。ありがと」
「ううん、それより本当に水でよかったの? 他の味のあるものじゃなくて」
「うん、いいの」
冷たい水を受け取って、喉へと通していく。火照った身体には、これが一番効くんだ。美容にも効果がある……って、雑誌かなんかで読んだ気がするし。
「明日のこと、考えてたの?」
ベッドの上に新聞の出走表が広げられているのを見たクラウンセボンが、そう尋ねてくる。あたしはうんと答える代わりに、逆に聞き返した。
「ねえ、ボン。あたし、勝てると思う? 明日のレースで」
我ながらずるい質問だと思った。そんなこと聞かれたら、嘘でも「勝てる」って言わなきゃいけないみたいだもの。だから、返事が返ってくる前にあたしは自分で答えを出した。
「勝てるか、じゃなくて、勝たなきゃ、だよね」
その言葉を受けて、クラウンセボンは嬉しそうに肩をゆすぶった。
「楽しみだな。明日のレース、ルピナスちゃんがどんな走りを見せてくれるのか」
薄明りの中で目を輝かせる親友の姿に、あたしも少し気が大きくなってくる。
「デビュー戦のときみたいに、ウイナーズサークルで待っててよ」
「うん!」
はじめての重賞。いままで経験したレースとはレベルが違う。それも、ちょっとやそっとの違いじゃない。各チームのナンバーワン候補だったり、授業のクラスの中では一番だったり、言ってみれば化け物クラスしかいない。弱いウマ娘なんて、ひとりもいない。それが重賞のレベルだ。そんな中で勝とうっていうんだから、並大抵のことじゃない。出走表に並ぶ面々を見ていると、それが改めてはっきりしてくる。
「クレセントにも感謝しなきゃね」
今頃美浦寮の部屋で休んでいるであろうチームメイトの名を挙げて、あたしはペットボトルの蓋を閉めた。二週間後の皐月賞トライアル、スプリングステークスに向けて調整中の彼女は、いまのあたしにとって目標であると同時に、自信の源でもあった。彼女は世代でも間違いなく抜けた存在のひとり。そんなウマ娘と一緒にトレーニングを積んできたという事実は、まだほとんど実績のないあたしが大舞台へ挑むにあたって、大きな心の支えになる。
「トレーナーさんにもね」
クラウンセボンがそう付け加える。あたしも「確かに」と頷いてベッドへ横になった。一月末からの過密ローテは、トレーナーの理解と協力なしには実現しなかった。あんまり自覚はないけれど、相当無茶なことをさせてもらっているんだということは、周りの反応で薄々感じている。メンタルに良くないから見ないようにしているけど、ネット上にはあたしのローテーションへの批判的な声も出ているらしい。トレーナーはそのすべての責任をあたしの代わりに負ってくれている。そう思うと、勝ちたい理由はあたしの個人的な夢や目標だけじゃなくなってくる。これが、重賞へ出走するということなんだ。そう思った。
「こうなると、もうチーム全員だね。テンダーも、ホープも、みんなあたしを応援してくれてるもん。ボンに至ってはこうしてわざわざ帯同してもらっちゃってるし」
「――もしかして、プレッシャー、かけちゃってる?」
「まあ、ちょっとだけね」
全然平気、と言ったら嘘になる。応援してくれる人や支えてくれる人の多さはありがたいことだけれど、その分負けてしまった時のことを考えると怖い。期待されないことを恨めしく思っていたのに、いざこうなってみると震えてしまうんだから、矛盾もいいところ。
「でも、嬉しい気持ちの方が、勝ってるかな」
あたしがそう続けると、クラウンセボンがうっすら笑みを浮かべながら顔を寄せてきた。
「嬉しいが勝ってるって、どれくらいの差で?」
「クビ差くらいだねえ」
「うわあ、ギリギリ!」
こんな冗談を言えるくらいの余裕がある自分に、あたしは驚いていた。これも、二日間限りの同室生活にはしゃいでいた栗毛の親友のおかげかもしれない。
不思議とその夜は、これまで経験したレース前夜の中で一番寝つきが良かった。
「それじゃあ、もう一度確認。今回は早い時計になりそうだから、最初の3ハロンは抑えていくこと。追いかけすぎて内に包まれるのも怖いしね」
パドックへ向かう直前、あたしたちはロッカールームで最後のミーティングを行っていた。二枠2番というあたしにとって厳しいウマ番で戦うには、やみくもに走るだけというわけにはいかない。ある程度、策を練っていく必要がある。
「目標は当然モモイロビヨリ。だけど、むこうは七枠11番。遠すぎて、多分マークする位置には入れない。だから、最終コーナーでスパートをかけるまでマークする相手を別に用意する。それが、誰だった? ルピナス」
「えっと、スマイルエヴリン、だね」
四枠6番のスマイルエヴリン。彼女は、阪神JFでモモイロビヨリの3着に入ったウマ娘だ。脚質はあたしとおなじ差し。彼女をマークしつつ一緒に上がっていければ、ラストの直線で勝負しやすい外目への進路確保が期待できる。というより、そうならなかったらキツい。壁を無理やりこじ開けるか、開き直って荒れた内ラチ沿いへ突っ込むしかなくなる。正直どっちも嫌だけれど、ある程度は覚悟しないといけないと思った。すべて思った通りの展開になってくれるなんて、そう都合よくいくはずもないのだから。
「ルピナス、力だけならあなたはここでも十分勝ちの目がある。あとは運と、とっさの判断になる。あなたの考えるクセをいい方向に働かせられるように、とにかくレースの中で相手をしっかり観察すること。そして集中を切らさないこと。内枠で泥ハネが気になるでしょうけど、ここはなんとかこらえてね」
「頑張ってみるよ」
そうして、あたしたちは拳を突き合わせた。
『二枠2番、ルピナストレジャー。七番人気です』
人生三度目のパドック。慣れたものだ……と思ったけど、今日はこれまでの景色とは違った。いままであたしが出走してきたレースは、どちらもその日のメインじゃない。当然注目度はそれほど高くなかった。でも今日は阪神の第11レース。つまり、メインレースだ。訪れる客のほとんどが、このレースのために集まっていると言ってもいい。パドックは、ウイニングライブのときと同じくらいの熱気に包まれていた。いやがうえにも緊張が高まる。
「ルピナスーッ! 応援してるぞー!」
突然、観衆の中から飛んできた声に、思わず身体がビクンと跳ねた。そのあたしの反応が面白かったのか、笑い声が上がる。あたしはできるだけ平静を装って、声がした方へ向かって苦笑いしながら手を振った。それでも、不意を突かれたあたしの心臓はまだドクンドクンと早鐘を打っている。声援自体は嬉しい。だけど、ピリピリしているところへいきなり大声を浴びてびっくりしてしまった。余裕をもって対応できるようになるには、もうちょっと成長しなきゃいけないみたいだ。
「大丈夫?」
失敗したなと思いながらバックヤードへ戻ってきたあたしに、話しかけてくる子がいた。見れば、それは一番人気のあのウマ娘だった。
「ああ、うん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。まだああいうの、慣れてないから」
どぎまぎしながらそう答えると、モモイロビヨリはにっこりと微笑んで頷いた。
「パドックって、なんか緊張するよね。わかるよ」
その姿は思っていたよりもフレンドリーで、あたしは正直拍子抜けした。見た目から抱いていたイメージではもっとお堅い感じだったのに。遠くから見るのと、実際に会って話すのとは別ってことだろうか。とはいえ、これで阪神JFを勝ったウマ娘なんだから、惑わされちゃいけない。そうやって油断させる作戦かもしれないんだから。あたしはできるだけ表情を崩さないように「そうだね」とだけ答えて、いそいそと裏へ引っ込んだ。
バ場入りが始まると、パドックの時とは比較にならない歓声がスタンドから降ってくる。今まで何度も客席から聞いた音量を、ターフの上で浴びるというのは不思議な感覚だった。だけど、この歓声のほとんどはあたしに向けられたものじゃない。上位の人気を占めるウマ娘たちへのものだ。なかでもとりわけ、一番人気の鹿毛へ送られた声援は格別に大きかった。
『11番、ジュニアの女王がいよいよクラシックへと走り出します。汚れ無き桜の女王へ向けて、まずは前哨戦。モモイロビヨリ。3戦3勝、チーム〈シリウス〉所属』
同じ無敗でも、あたしのそれとは格が違う。メイクデビュー、札幌ジュニアステークス、阪神JFと、デビュー戦以外は両方とも重賞。しかもひとつはGⅠ。当然、ここでは大本命だ。あたしが解説者でもきっとそう考えるだろう。
「今日はみんな、よろしくね!」
モモイロビヨリはそうやって愛想よく、周りのみんなに話しかけていく。その様子からはまるでGⅠウマ娘らしい感じがしない。これは単に社交的なだけなのか、それとも圧倒的な自信からくる余裕なのか。あたしの目にはちょっと見わけがつかなかった。
「ルピナスさんも。良いレースにしようね」
「う、うん」
あたしも何か言おう、と思う間もなく、モモイロビヨリは次の出走者へ声をかけに行ってしまった。そこでハッと思い出した。いけない。モモイロビヨリばかりを気にしてはいられないんだった。今回マークすることになっている、スマイルエヴリンのことも考えなきゃいけない。あたしは慌ててゼッケン6番の彼女の姿を探した。
それはすぐに見つかった。あたしよりひと回り大きな体格の栗毛。マークするにはぴったりな目立つ姿だ。向こうはこっちをチラとも見ない。まあ、七番人気なんて眼中にないんだろう。彼女はきっと、阪神JFのリベンジを果たそうと思っているのだから、モモイロビヨリに意識がいっているはず。それならそれで、こっちには好都合だ。
『出走の時間です』
いよいよファンファーレ。そしてゲートイン。嬉しくない内枠とはいえ、偶数番号を引けたのは幸運だったかもしれない。ゲートの中で待たされる時間は短い方がいいから。
『……そして最後に大外、2番人気のイリスアゲートが入ります』
そのアナウンスを合図に、さっきまでガヤガヤと騒がしかったレース場が、ぴたりと静寂に包まれる。まるで時が止まったかのような沈黙。さあ、いつゲートが開いてもいいぞ。
そう思ったその時、隣から、トン、と小さな音が鳴った。
(ん?)
どうやら隣の子がゲートの壁に手を置いたらしい。あたしは思わず、そちらへほんの一瞬だけ視線をやった。それが、いけなかった。
『スタートしました!』
ヤバい、と思った時はもう手遅れ。無情にもゲートは開き、あたしは見事に最初の一完歩を出遅れてしまった。
『ややばらついたスタート、内枠2番のルピナストレジャーが出遅れる格好となりました』
慌てて後を追う。スタートダッシュでは、隊列の最後尾につくのがやっとだった。マークするはずのスマイルエヴリンは三バ身ほど先、順位にして八、九番手あたりを行っている。モモイロビヨリの姿は、いまの位置からは全く見えなかった。
どうしよう、さすがにこの位置じゃ、直線だけの勝負に賭けることになる。前が壁になればジ・エンドだ。かといって、ここから位置を上げるためだけに脚を使ってしまっては、最後の最後でガス欠しかねない。どうしよう、どうしよう、どうしよう……。スタートから計画のすべてが狂ってしまったあたしはもうパニック状態だった。あとで思い返せば、ここであたしはすでに掛かってしまっていたのかもしれない。
(だめだ。このままじゃ終わりだ。後のことなんか考えてる場合じゃないや。何でもいいからとにかく前に行かなきゃ)
頭の中はもうそれでいっぱいになっていた。400メートルを過ぎたところで、隊列の横幅が小さくなったのを見て、あたしは外へ大きく身体を振り出した。最内から大外へ行く距離のロスなんて、考える余裕はなかった。
『――各ウマ娘第三コーナーを曲がっていきます。縦長の展開、先頭は変わらずスイートジンジャーが引っ張って、ジュニア女王モモイロビヨリは三番手を追走、どこで仕掛けるか! 残り800の標識を通過して、三、四コーナーの中間――』
そこで、あたしの右側に目立つ大柄な栗毛の姿が目に入ったので、ハッと我に返った。スマイルエヴリンだ。図らずも、外目からマークする形になっていた。どうやら向こうもスパートをかけ始めている。問題は、あたしもここまで大分脚を使っているということ。手ごたえは悪くない。でも、向こうはもっといい。
(ダメだ。これじゃ負ける!)
直感的に、そう思った。モモイロビヨリがどうのなんて問題じゃない。それどころか、あたしはこのスマイルエヴリンにだって勝てない。だとすると、あたしはよくて三着。いや、この感じだともっと悪くなる。とんでもないハイペースなのに、他の子の脚色も鈍る気配がない。そうしたら、桜花賞は? あたしのティアラは? ……スタートで出遅れた、たったそれだけで?
――嫌だ。そんなの、嫌だ!
『さあ最後の直線へ向いて、先頭は変わってモモイロビヨリ! 内でスイートジンジャー粘るが、先頭はモモイロビヨリだ!』
残れ、残って。あたしの脚! 声にならない声で祈りを叫びながら、あたしは直線へ向けて脚の乗り換えにかかった。こうなったら、頼みの綱はこれしかない。そう思って、踏みかえた右足へ、グッと力を込めた。
その時だった。
「きゃあっ!」
あたしの内側で、スマイルエヴリンが大きな悲鳴を上げた。それと同時に、あたしの方へ身体をぶつけてくる。あたしは思い切り外ラチのある左側へ跳ね飛ばされてしまった。もしも脚の乗り換えがほんの少しでも遅かったら、左足がつっかえ棒のようになって、折れてしまったかもしれない。それくらいの衝撃だった。
「うわっ」
すんでのところで態勢を立て直すことができたので、なんとか転ばずに済んだ。転んでしまったら、怪我をしていなくても競走中止扱いになる。それだけはなんとしても避けたかった。
何が起きたのかなんて確かめている暇はない。このロスで、あたしはますます先頭から離されてしまったのだから。
「クッソォ!!」
全力で前を追った。届け、届け、届け! 何度も、何度も自分に言い聞かせながら。ひとり、またひとりと追い抜いていく。だけど、ああ、わかる。もうすぐ限界が来るってことが。出遅れて道中余計に使った脚、さっきの接触でさらに負担のかかった身体。もう、全身は悲鳴を上げ始めている。だけど、もう少し、もう少しだけ。あと200メートルなんだから!
『集団が大きく広がった! 先頭はモモイロビヨリ! 間を割ってきたのはイリスアゲートだが、外からスマイルエヴリンが追いすがる! 先頭はモモイロビヨリ! 完全に抜け出したが、二着争いは大接戦! 坂をのぼって、モモイロビヨリ一着でゴールイン! 二着はどうだーっ!? わずかに内が態勢有利か!』
シャワーのような大歓声。そして、今まで経験したことがない量の紙吹雪。メインレース後の華やかな景色の中で、あたしはターフの上で膝をついていた。
(終わった……!)
走っていた本人だからわかる。もつれ込むようにゴール板前へ飛び込んだあたしは、二着争いの三、四番手。ほんの数センチの僅差だろうけど、それは間違いない。
ということは、だ。
(桜花賞は、もう、無い)
三着までに与えられる桜花賞への優先出走権。あたしはせいぜい、掲示板をギリギリ確保したところ。届かなかった。一歩、足らなかったんだ。そうと分かったとたん、身体が異常なほど重く感じて、あたしはうずくまったまま立ち上がれなくなってしまった。
「ルピナスちゃん、ルピナスちゃん!」
聞き馴染んだ声が、すぐそばから聞こえてくる。やっとの思いで顔を上げると、そこには、スタンドの最前列で身を乗り出しているクラウンセボンがいた。その隣には、口を固く結んだトレーナーの姿もある。
あたしはすぐに顔を伏せてしまった。いまは、まともに顔を見たくない。いや、見せる資格がないとさえ思った。くだらない出遅れに、焦りからくる判断ミス。すべてが悪い方へ悪い方へと流れた。こんな酷いレースは初めてだった。
「ルピナスちゃん! 見て!」
クラウンセボンはなおもあたしに呼び掛ける。もういい、やめて。そう言おうと思って口を開きかけたところで、思いもよらない言葉が耳に入った。
「まだ終わってない! まだわからないよ!」
どういうことだ、と思って顔を上げると、クラウンセボンは泣きながらどこかを指さしている。その指の先には、電光表示の掲示板があった。そこには、二着から五着までが写真判定になったという表示が出ている。そこまでは想像した通りだった。でも、問題はその上に表示されている文字だった。
「審議……?」
あたしのその呟きに応えるように、場内アナウンスが流れだした。
『お知らせ致します。阪神競走第11レースは、最後の直線で、2番ルピナストレジャーと、6番スマイルエヴリンの進路が狭くなったことについて、審議をいたします。確定まで、いましばらくお待ちください』
そのとたん、別の声が響いた。
「やっぱり! あれじゃレースにならないわ! 危ないったらないもの。反省してるの!?」
その怒りの主は、スマイルエヴリンだった。見れば、別のウマ娘に食って掛かっている。目を凝らすと、その相手のゼッケン番号は14番。たしか、二番人気のイリスアゲートだ。
「そんなに怒んなって。わざとじゃねーんだから」
「あなたね、一歩間違えば大事故だったのよ。わかってないの!?」
「悪かったってば。大声出すなよ、みんな見てんじゃんよ」
イリスアゲートはそう言い残すと、逃げるようにその場を去っていった。残されたスマイルエヴリンはイライラが収まらないといった様子であたりをキョロキョロ見回している。
「あっ」
あたしと目が合った。慌てて目を逸らしたけれど、向こうはいそいそとこちらへ近寄ってくる。
「ルピナストレジャーさん? よね?」
「う、うん」
「大丈夫? 怪我はない? 痛かったでしょう?」
「いや、まあ、それほどでもない、かな」
矢継ぎばやに話しかけられて、あたしは中途半端な受け答えしかできなかった。
「酷いわよね! あんな斜行、あれがセーフなら何でもありになっちゃうわ」
同意を求められても、よく見てなかったあたしにはいまいちよく分からない。その間、あたしはウイナーズサークルで手を振るジュニア女王の姿をぼんやり見つめていた。ああ、彼女は無敗の記録をまたひとつ積み上げたんだな。そう思うのと同時に、あたしはもう負けたんだということがずっしりと背中にのしかかってくる。審議内容がどうあれ、おそらくは優勝が入れ替わることはない。着順がどうなろうと、あたしが無敗じゃなくなったというのは確実だった。
その時、場内からどよめきが上がった。それと同時に、トレーナーの叫び声も聞こえた。
「ルピナス!」
その声にぎょっとして振り向くと、クラウンセボンが無言のまま口に片手を当てて、もう片方の手で掲示板を指さしている。その手は、さっきとは違って少し震えていた。その様子に、あたしの心臓が跳ねる。もしかして。いや、まさか。でも。
『お待たせいたしました。阪神競走第11レースの審議についてお知らせ致します』
恐る恐る掲示板に目をやる。そこに何が書かれているのか、見るのが怖い。こんなに怖いのは、トレセン学園の合格発表のとき以来だ。
あたしは一度深く息を吐きだすと、意を決してそれを視界に入れた。
『第二位に入線した、14番イリスアゲートは、最後の直線コースで外側に斜行し、2番ルピナストレジャー、6番スマイルエヴリンの走行を妨害しました。その走行妨害が無ければ、被害者は加害者に先着できたと認めたため、14番イリスアゲートを第四着に降着とし、着順を変更のうえ確定いたします』
「あ……」
『したがって、三着までの着順は、一着11番、二着6番、三着2番となります。繰り返し、お知らせ――』
その後は聞き取れなかった。スマイルエヴリンの歓声と、クラウンセボンの涙声の間で、あたしは二人に挟まれてもみくちゃにされてしまったから。その狭い視界の片隅で、トレーナーが「ふう」と大きくため息をついたのだけが目に入った。あとのことは、よく覚えていない。