ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#26-強くあるために

 診療所を出ると、不安げな面持ちのクラウンセボンが待ち構えていた。あたしは無言のまま拳を差し出すと、そこから親指だけを上へポンと立てる。

 

「ああ、よかったあ」

 

 胸をなでおろす友人の前で、あたしはいそいそとスマホを取り出した。もうひとり、安心させてやらないといけない相手がいたから。

 

『異常なし。全身まるごと無事だよ』

 

 そう記したメッセージに一瞬で既読マークがつくと、安堵したことを知らせるスタンプがふたつ続けて送られてきた。

 

「仕事中だろうに、何してんだか」

「お母さん?」

「そう」

 

 口ではそんな風に強がってみせたけど、実を言うと今回ばかりはあたしも気がかりだった。気づいてないだけで、もしかしたらどこかに怪我をしているかもしれない。丈夫さが取り柄のあたしが、いままで抱いたことのない不安。もちろん、その不安にはちゃんとした理由があった。

 

「スマイルエヴリンさん、かわいそうだったね」

 

 トレーナー室へ向かう途中で、クラウンセボンがそう呟いた。

 あのレースの確定後、ウイニングライブのリハーサル中に足の痛みを訴えた彼女は、そのままライブ本番を欠席することになった。聞けば、その後の検査で足首の剥離骨折が見つかったんだとか。当然、桜花賞への出走はできない。それどころか、レースへの復帰は九月以降になるらしい。

 時速60キロにもなるウマ娘のレースでは、ちょっとした接触でさえ、大きな怪我に繋がる危険性がある。あたしは以前、テンダーライトから聞かせてもらった話を思い出していた。あれはたしか、幼い頃にレース中、足を踏まれ、トラウマになるような怪我をしたという話だった。ひとつ間違えばあたしも同じようなことになっていたかもしれない。それどころか、選手生命を失っていたかもしれないんだ。

 

「あたしは運が良かったんだね」

 

 口をついたその感想は、もちろん無傷で済んだということに向けたもの。ただ、あたしの幸運はそれだけじゃなかった。

 あの事故が起きていなかったら、果たしてあたしは三着以内を確保できていただろうか。レースが終わってからというもの、怪我の心配を除けば、あたしはずっとそればかり考えていた。

 審議では「事故さえなければ三着になれた」という判定になったわけだけど、正直なところ、微妙だったと思う。結局あたしの後ろへ降着になったイリスアゲートも、斜行した分のロスがあったわけだし、今となっては本当のことは誰にもわからない。

 

「きっと、女神様が守ってくれたんだよ。やっぱりルピナスちゃんは――」

「はいはい、そうかもね」

 

 また祝福がどうのと言い出しそうだったので、あたしは覆い隠すように相槌をうってごまかした。

 

「あー、信じてないな」

 

 信じてないというより、周りの目がある学園の廊下でそういう話をするのが恥ずかしかっただけ。あたしは不満げに頬を膨らませるクラウンセボンを尻目に、みんなの待つトレーナー室へと足を速めた。

 

「さて、それじゃあルピナスのクラシック登録をしないとね」

 

 あたしからいつものように診察結果の紙を受け取ると、トレーナーは入れ替わりにクラシックレースへの登録用紙を差し出してきた。

 そういえば、すっかり忘れていた。皐月賞、ダービー、菊花賞の三冠レース。そして、トリプルティアラのうちの二つ、桜花賞とオークス。これら五つは「クラシックレース」と呼ばれるレース。出走するには、事前に特別な登録をしておかなければいけない。実は、その締め切り日はすでに過ぎていた。

 

「追加登録ってことになるよね?」

 

 あたしの問いに、トレーナーは頷いた。追加登録というのは、特例として締め切り後でも登録ができる制度だ。あたしみたいにデビューが遅くなったウマ娘への救済措置として用意されている。ただ、この追加登録には「追加登録料」といって、やたら高いお金を取られる。しかも、レースひとつごとに、だ。まあ、それが払えるくらいの賞金をレースの成績で稼がないと、そもそも出走メンバーになんか入れないわけだけど。

 

「それはそうと」

 

 トレーナーは少し大きな声を出して、ちらと視線を横へ滑らせた。そこには、ソファに腰かけたまま腕を組んでいる、我らがチームのエースの姿があった。

 

「どうする、クレセント。約束通り、ルピナスは桜花賞への切符を取ってきたよ」

「ええ、そのようですね」

 

 やれやれといった風に首を振りながら、レイアクレセントはしばらく黙り込んだ。その返事を、みんな固唾をのんで見守った。あたしの挑戦状は一方的なものだったわけだし、受けなきゃいけない理由なんてない。彼女がうんと言わなければ、いくら騒ごうが諦めるしかない。

 

「……そんなに怖い顔で(にら)まないでください」

 

 レイアクレセントのその言葉で、あたしは自分の表情がガチガチに固まっていることに気付いた。急いで顔を戻そうとして、手のひらでぐりぐりとなで回していると、ぷっと吹き出す声が聞こえた。見れば、レイアクレセントが肩を震わせている。

 

「まったく、仕方の無い方です。そんなに私と勝負なさりたいのなら、受けて立ちましょう」

 

 あたしはその瞬間、握りしめた手を突き上げた。身体中からあふれてくる感情に、そうしないではいられなかったから。許されるのなら、今すぐ飛び出していってターフの上を駆け回りたい気分だった。そんなあたしをなだめるように、レイアクレセントは落ち着き払った声で言った。

 

「もちろん、やるなら全力でお相手いたします。あなたも私の前では一切の抜かりなく、本気で勝つつもりでいらしてください。そうでなくては困ります」

 

 そこには、GⅠウマ娘としての自信とプライドが込められていた。あたしのチューリップ賞での走りっぷりは、レイアクレセントにとっては物足りないものだったはずだ。自分でもそれはわかっている。同じようなことを本番で繰り返しちゃいけない。

 だから、あたしも同じ土俵に立つ者として胸を張った。

 

「大丈夫。あんなショボい走り、二度としないから。あたしのこと甘く見てると、痛い目見るよ」

「あらあら。大した自信ですこと。本番では私をがっかりさせないでくださいね」

 

 お互いに笑顔で交わされる挑発合戦は、とても気持ちが良かった。

 そこへ、ぼそり、と低い声で独り言が放り投げられた。

 

「ルピナスの審議の間、テレビの前で半泣きになりながらお祈りしてたのは、どこのだれだっけ」

 

 突然の爆弾。それを投下した犯人に目線を送ると、そいつは素知らぬ顔でその小さな肩をすくめた。

 

「ホープさん! それは内緒のお話だったでしょう!?」

 

 慌てふためくお嬢様の姿は、名家のGⅠウマ娘からあたしたちの優しいチームメイトへと戻っていた。

 

 

「全く、トレーナーも用意がいいよね」

 

 その夜、寮の部屋に戻ったあたしは、自分のクラシック登録用紙のコピーを眺めていた。とりあえずは、桜花賞の登録だけ。オークスはあたしには距離が長そうだし、急いで登録する必要もないからだ。

 

「キミが出たいって言ったんだろ。それくらいの用意はするさ」

「そうじゃなくって、クレセントの方だよ。五つ全部に登録してあったなんて、ちょっとびっくりした」

 

 三冠路線に進むと言っていたレイアクレセント。彼女が登録されているクラシックレースは、てっきり三冠レースの三つだけだと思っていた。だから、桜花賞に出るにはあたしと同じように、追加登録が必要になるはず。そう尋ねたあたしに、トレーナーは得意げにこう言ったのだった。

 

『その必要はないの。クレセントは全部のレースに登録してあるからね』

 

 そうして、登録者の名がずらりと並んだ名簿を見せてくれた。その「レイアクレセント」の名の横には、確かに五つすべてのレースのマークがついていた。これは、はじめにどちらの路線を行くかで揉めた時に、本人と一緒に決めたことだったらしい。

 

「全然知らなかったよ。あたし、うまくふたりに乗せられちゃってたのかな」

「いいじゃないか。結局、キミが望んだとおりの結果になったんだから」

 

 まあそうだけど、と言って、あたしは何気なく、今後のレーススケジュールのカレンダーに目をやった。

 

「あれ?」

 

 一瞬覚えた違和感。その正体は、カレンダーの日付でわかった。

 

「ホープ、アンタ……」

「なに」

「いいの?」

「今更何言ってんの」

 

 三月。それは、メイクデビュー戦の開催が終了する時期。つまり、タイムリミットだ。これから初出走を迎える子は、未勝利戦でデビューすることになる。

 

「キミは間に合った。ボクは間に合わなかった。それだけのことだよ」

 

 本人はそうやって何でもないことのように言うけれど、あたしは自分のことのように悔しかった。ホープアンドプレイの完成が遅れているのはわかっていたこと。トレーナーからもそう聞かされていたし、覚悟していたことでもある。でも、だからといって平気というわけじゃない。

 

「寝る」

 

 くるりと背を向けてベッドにもぐりこむその姿は、いつもよりさらに小さく見えた。まるであたしの身体の一部が削り取られてしまったような、不思議な痛みだった。

 

「クレセント、もう一本!」

 

 桜花賞へ向けての追い込みは、日ごとに激しさを増していく。あたしは毎日のように坂路を駆け上がり、都合さえつけばレイアクレセントとの坂路併走にも挑んでいた。あたしが先着すれば相手が、相手が先着すればあたしがリベンジを求めてもう一本と要求する。といっても、レイアクレセントはなかなか坂路メニューに参加してくれない。運良く捕まえられた日は、少ないチャンスを活かすべく、あたしは何度も「もう一本」を唱えていた。

 そんなさなか、あたしたちのチームには大きなニュースがふたつ飛び込んできた。

 

「どう?」

「カッコいいよ! ルピナスちゃんにピッタリって感じ」

 

 ひとつ目のニュースは、あたしの勝負服が届いたことだ。黄色いスカーフに、迷彩柄のショート丈タンクトップ。そして赤い襟のジャケット。ボトムスはレザー調のショートパンツと、とにかく動きやすさを重視したデザイン。レイアクレセントが王女様なら、あたしはさしずめ宝探しの旅に出る冒険家だ。チャレンジャーとしての心意気を表現した、大満足の勝負服だった。

 

「ねえ、クレセントさんも勝負服着よう? ツーショ撮るから!」

 

 クラウンセボンの提案で、あたしたちは即席の撮影会を始めることになった。スマホを構えたクラウンセボンがああだこうだといろんな注文を付けてきて、いろんなポーズを取らされる。終わるころには疲れてしまったけれど、悪い気はしない。パシャパシャと写真を撮られながら、あたしはこっそり、いつかチームの五人全員で撮影会ができたらいいな、なんて考えていた。

 勝負服はウマ娘に不思議な力を与える、という話は本当だった。正直あたしは眉唾ものだと思っていたけれど、本番を想定してトレーニングでのテスト着用をしてみたところ、いままでの感触とは全然違う走りができた。スピードも、パワーも、スタミナも、全てが数段上がったような感覚。ひょっとしたら気のせいなのかもしれないけど、気分だけでもこれだけ違えば、パフォーマンスは絶対によくなる。残り一ヶ月を切った本番に向けて、モチベーションも上がる嬉しいニュースだった。

 

 そしてもうひとつのニュースは、まったく予想だにしていないことだった。

 

「え、マジ?」

「だから、クレセントはスプリングステークスを回避して、桜花賞へ直行することにしたの。当初予定していた皐月賞よりも、桜花賞は一週間早いから」

 

 トレーナーはこともなげにそう言った。つまりはレースの間隔が短くなることを避けたいってことだろう。そうは言っても、レイアクレセントはまだデビュー戦を含めても二戦しか走っていない。状況が違うとはいえ、あたしのローテーションとのあまりの違いに驚いてしまった。

 皐月賞へ向けた準備から一転、トライアルを回避して桜花賞へ。そのニュースはマスコミにとっても格好のネタになった。距離不安が出たからだの、実は怪我を隠しているからだの、各々勝手な憶測を書き立てている。それは、本人がいつもの受け流しモードに入ってしまったというのも原因のひとつだった。記者たちがどんなに粘っても「トレーナーさんにすべてお任せしていますから」の一点張り。

 あたしとしても、出走数の少なさは気になっている。一番早くデビューしたはずの彼女が、後からデビューしたあたしたちよりも出走数が少ない。半年で二戦というのは、いくらなんでも少ないなあ、というのが率直な感想だった。

 

 その日あたしは、ジムでのトレーニングに使うチューブを忘れて、ロッカールームへ取りに戻っていた。他のメンバーはトラックでの練習の時間だし、そこにはもう誰もいないはずだった。

 だから、何の気なしにドアを開けた。さっさと忘れ物を取って、ジムへ戻らなきゃと思っていたから。

 

「あれ?」

 

 そこには、とっくにトラックへ行っているはずのチームメイトの姿があった。

 

「クレセント?」

 

 ベンチに腰掛けて、ロングパンツのジャージを膝の上までまくり上げたそのウマ娘は、レイアクレセントだった。

 

「る、ルピナスさん!」

 

 焦ったような顔と声。そして急いで下ろされるジャージの裾。だけど、見えてしまった。たしかにその膝には、サポーターが巻かれていた。ウマ娘用の、それもかなり強度の高いもの。普通、怪我からのリハビリ中か、かなり怪我をしやすい子にしか使わないようなものだ。

 

「クレセント、それ」

「どうしたんです、そんなに急いで」

「いや、チューブを……じゃなくて!」

 

 あたしはドアを後ろ手に閉めた。全部話すまでここから出さないぞ、という圧を目いっぱいかけながら。

 

「脚、悪いの?」

「何ですか突然。不吉なことをおっしゃらないでください」

 

 あきれ顔でそう答えるレイアクレセント。あくまでしらを切りとおすつもりらしい。あたしは少し語気を強めて言った。

 

「アンタには話したことなかったっけ。あたしの母さん、看護師なんだよ。だから、あたし結構知ってるんだ。怪我とか病気のこととか。治療に使う道具とかさ」

 

 するとレイアクレセントは、サッと目を逸らしてうつむいた。やっぱり、あれは()()()()()()だ。間違いない。あたしはすかさず、さっき聞いた質問を繰り返した。

 

「脚、悪いんでしょ」

「怪我をしているわけではありません」

 

 その声は震えていた。あたしはそれで確信した。なぜ彼女ほどの実力者がほとんどレースに出ないのか。一度登録したレースを取り消してまで、短い間隔でレースに出るのを避けようとするのか。それは、そんなことをすれば怪我につながりかねない、リスクの高い脚を持っているからだ。人間とは比べ物にならないほど負荷の強い運動をするウマ娘にはよく起こる、()()()()とかいうやつだ。

 

「クレセント」

 

 呼びかけても、下を向いたまま。そんな彼女に、あたしはだんだんイライラしてきた。

 

「クレセント!」

 

 思わず大きな声が出た。途端にビクッと身を震わせて、ようやく彼女は顔を上げた。頭に血がのぼっていたあたしには、その表情を見ている余裕なんてなかった。

 

「アンタ、こないだ言ったよね。あたしたちはチームの仲間だって。トレーナーに向かってさ。……あれは嘘だったの?」

 

 レイアクレセントはふるふると首を振った。

 

「だったら、なんで言ってくれないの。そりゃ、あたしだって桜花賞目指してること、ギリギリまで言わなかったけどさ……そういうのとは全然違うじゃん! こんな嬉しくないサプライズ、いらないよ! マスコミだって騒ぐし、あたしたちだって、やきもきさせられるばっかりだし――」

 

 その時、ガチャリと音がして、あたしの背後でドアが開いた。

 

「ルピナス! 何してるの。外まで聞こえてるよ」

 

 入ってきたのはトレーナーだった。ちょっと怒ったような声。その後ろからは、クラウンセボンとテンダーライトも心配そうな表情をのぞかせている。

 

「……さて」

 

 他のメンバーを自主トレに行かせたあと、トレーナーはあたしとレイアクレセントだけで話し合いの場を設けてくれた。

 

「脚の問題がはっきりしたのは、朝日杯のあたり。もともとそんなに丈夫な方じゃないのはわかっていたけど、朝日杯が終わった後、なかなか脚の熱感が取れなかったの。その時から、ダービーまでに使えるトライアルは多くても一回。最悪、全部ぶっつけで行くことになると思ってた」

 

 トレーナーが詳細を語る間、レイアクレセントはじっと自分の手元を見つめていた。

 

「そんなに前から分かってたなら、どうしてトレーナーも黙ってたの」

「私がお願いしたんです」

 

 あたしの問いに、レイアクレセントはそのままの格好で答えた。こちらへ目を合わせようとしないその態度にムッとしたけれど、あたしが口を開く前にトレーナーが「まあ、そういうわけ」と間に割って入った。おかげであたしは余計なことを言わずに済んだ。だけど、なんとも煮え切らない。

 トレーナーはそのままレイアクレセントへ視線を向けると、言い聞かせるように優しく語り掛けた。 

 

「でも、いずれはちゃんと言わなきゃダメだよ。みんなをいたずらに心配させるだけだから。それこそ私と同じ失敗をすることになる。私の言っていることがわかる?」

「それは……わかっています」

 

 これは、このあいだあたしがドーピング検査の追試を受けさせられた時の話だ。あたしは心の中で、そうだそうだと相槌を打っていた。悩み事なんて、黙ってたってロクなことにならないんだ。あたしたちはみんな、それを学習したばっかりじゃないか。

 

「ただ――」

 

 するとそこで、迷うようにしながらもレイアクレセントがはっきりとした口調で話し始めた。

 

「勘違いしないでいただきたいのは、私がこのことを秘密にしていたのは、決して、皆さんを仲間と思っていないだとか、そんな理由からではないということです」

「じゃあ、何さ」

 

 あたしが引っかかっていたのはそこだった。

 

「……同情や憐れみなど、真剣勝負の前には無用のものですから」

「はあ?」

 

 それを聞いてあたしはめまいがした。プライドが高いとかなんだとか、そんなレベルの話じゃない。それよりも、あたしは自分が見くびられているような気がした。

 

「あのさ、あたしがそんなことで手加減するようなウマ娘だと思ってるの?」

「そういうわけではありませんが……」

「そう言ってんのと一緒じゃん!」

「やめなさい、ルピナス」

 

 ぴしゃりとトレーナーに一喝されて、あたしは黙るしかなかった。でも、納得できない。弱いところを見せたくないというのはわからなくもないけど、それであたしたちが彼女を憐れむだなんて。

 そんなあたしのモヤモヤをよそに、トレーナーは静かに言った。

 

「でもね、クレセント。言っておくけど、もうボンは気づいてるよ。あなたの脚のこと。その辺のウマ娘や新聞記者はごまかせても、あの子は騙せない。わかっていても追及してこないだけだからね」

「……はい」

 

 ああ、そうか。その会話を聞いて、あたしは以前クラウンセボンが話していたことを思い出した。ローテーションがどうの、一緒に練習していて気になっただのという話。あの時は中途半端なまま終わってしまったけど、多分あれは脚部不安の話をしようとしていたんだ。

 続けて、トレーナーは今度はあたしに向かって話し始めた。その口調は、さっきまでよりも少し厳しくなったみたいだった。

 

「ルピナス。あなたは逆に追及しすぎ。触れられたくないことってのは、誰にでもあるの。あんまりクレセントを追い詰めないで」

「そんなつもりじゃないよ!」

「だとしても、だよ。話したくないっていう気持ちも尊重してあげなさい」

 

 トレーナーが言っていることはわかる。わかるけど、やっぱり受け入れられなかった。だって、明らかになにか良くないものを抱えているということがわかっているのに、知らないふりをするなんて。そんなの、一体何のためにチームメイトになったのかわからない。打ち明けてくれないのだって、まるであたしのことを信用してくれてないみたいだ。実際、レイアクレセントは言った。そうと知ったら同情するだろう、と。なによりそれが悔しくて、やるせない。

 

「なんでよ。わかんないよ。あたしが悪いの?」

 

 あたしはそんな子供みたいなことを言って、自分の髪を掻きむしった。頭の中ではいろんな言葉が渦巻いているのに、うまく口から出てこない。何を言っても間違いだと言われるような気がする。

 

「ルピナス、落ち着いて。あなたが優しい子だってことは、みんなわかってる」

「じゃあ、なんで!」

「落ち着きなさい。深呼吸して。……いい? うちのチームは、みんな何かしら痛みを抱えている。身体だけじゃなくて、心にね。ホープも、テンダーも、あなたやクレセントも。もちろん、ボンだってそう。だけど、その中で、あなたは特別な才能を持ってるの。それが何かわかる?」

 

 掛かりまくったあたしが理解できるように、一言ずつ、ゆっくりと時間をかけてトレーナーは話してくれた。あたしも、熱くなった頭を必死に抑えようとした。ヤケになってこのまま終わるのは絶対に嫌だったから。

 あたしが持っている、特別な才能。なんだろう。一生懸命考えたけれど、思いつかなかった。あたしがとりわけ他の子と違うことといえば、他人のことに首を突っ込みたがること。でもこんなの才能なんてものじゃない。それに、ついさっきそれを咎められたばかりだ。あたしはわからないと言って首を振った。

 トレーナーは、いつの間にか流れていたあたしの涙をハンカチで拭うと、静かに言った。

 

「あなたの才能は、善意というものを、心の底から信じられるっていうこと。心に痛みを持っているのに、それができるっていうのは、特別なことなんだよ」

「……どういうこと?」

 

 よくわからなかった。善意を信じるのが、一体なんだっていうんだろう。

 

「人は傷つくと、傷ついた分だけ怖くなるの。この世に善意なんてものは無いって思うようになる。そうすると、自分の弱みなんて見せられなくなるの。その弱みに付け込まれるかもしれない、そんな疑念が消えなくなるから。逆に、他人の弱みに触れることもできなくなる。たとえそれを癒そうと思っての行動でも、そんな自分自身の善意さえも疑ってしまうから」

「……それって」

 

 まるで出会った頃のホープアンドプレイみたいだ、と思った。周りをみんな疑って、他人の痛みにさえ無関心で、うわべだけの言葉ばかりを並べているみたいな。

 

「でも、クレセントはそうじゃなかったよ。このあいだのことで、あたしのために怒ってくれたもの。ボンだって、テンダーだってそう。それこそホープだって、前より今はずっと優しくなった。あたしたちはみんな、そうやって支えあっていく仲間なんじゃないの?」

「そう。そう思えることが、あなたの才能なの。ルピナス、あなたはそういう風に、みんなの善意を疑わないでしょう。嬉しい言葉、優しい行動、いろんな場面であなたが受け取ったそれを、あなたは無意識のうちに『いいもの』だと信じてるの。ううん、()()()()()()()()()。それは、とても勇気がいることなんだよ」

 

 あたしの考え方を、トレーナーは「勇気がいること」だと言った。正直あたしにそんな実感はまるでない。疑う方がバカバカしいと思っているだけだ。そんなことで疑心暗鬼になっている余裕なんてないだけ。あたしはいつだって良かれと思って行動するし、仲間や友達のことは疑いたくないだけ。それよりももっと意地悪で、嫌なものが世の中にはたくさんあるんだから。

 

「じゃあ、話を戻すよ。ルピナス、あなたは『なぜ黙ってたの』と言ったね。なら、クレセントの脚が丈夫じゃないとわかったら、あなたはどうするの? 何をしてあげられるの?」

 

 そんなの、決まっている。

 

「何もしないよ。いや、違うな。余計な心配しなくなる。ちゃんと理由がわかってるなら、半年レースに出なくたって心配しない。脚に不安があるなら、万全になるまでじっくり準備すればいい。むしろ、そうじゃなきゃ嫌だ。だって、クレセントはあたしたちの中で一番強いウマ娘なんだから。その万全になったクレセントに勝ってはじめて、あたしが一番になれるんだもの」

 

 それがあたしにできることで、逆に言えば、それしかない。あたしはレイアクレセントをまっすぐ見つめて答えた。いつの間にか顔を上げていた彼女は、驚いたようにその深い緑色の目をパチパチさせている。

 

「クレセント、どう?」

 

 トレーナーの問いかけに、レイア家のお嬢様はぽつりとこぼすようにため息をついた。

 

「どうもこうも……これでは、私がバカみたいではありませんか」

 

 そんな言葉を吐き出して、レイアクレセントはもう一度ため息をついた。

 

「私は、弱いウマ娘です。あの子みたいになれと言う周りを嫌悪していながら、私自身があの子のようになりたいと願っている。いつ走れなくなるかもわからないという恐怖にひとりで怯えていたくせに、同情されるのは嫌だと駄々をこねて」

「……やっぱり」

 

 止められるかも、と思いながらも、あたしは口を開いた。

 

「やっぱり、子供なんだよ。あたしたち。あたしも、アンタも。ホープが言ってたみたいに」

 

 そう、あたしは子供だ。だから黙っていられなかった。どうかこれが、彼女の重荷を少しでも軽くする手助けになれば良い。そう願わずにはいられなかった。

 レイアクレセントは「そうかもしれません」と言って、ようやく口の端を緩めた。

 

「はーやれやれ。困ったもんだよ、みんなしてさ」

「こら、調子に乗らないの」

 

 あたしの軽口は、すかさずトレーナーに叱り飛ばされた。

 

「ルピナス、あなたのその才能は、だれかの助けになるかもしれない。だけど、逆に傷つけたり苦しめたりすることもあるの。肝に銘じておきなさい」

 

 言い返したいことはいろいろある。それでもその真剣な様子に、あたしはおとなしく「はい」と答えるしかなかった。

 

 

「ねえ、クレセント」

「何ですか」

 

 その日のトレーニングが終わった後、ロッカールームで再会した彼女に、あたしは尋ねた。

 

「桜花賞では、期待していいんだよね?」

 

 朝日杯の女王は小さくクスリと笑って、当然とばかりに答えた。

 

「ええ。挑んだことを後悔させるくらい、強い私で参ります」

 

 その答えに、あたしは歯を見せて頷いた。

 

 彼女の脚について、あたしが言って回る必要は無かった。四、五日もすれば、彼女自身がサポーターを付けていることを隠さなくなったし、あたしたちの興味はもうそんなことよりも、桜花賞の勝負そのものへと向かっていたからだ。

 

「みんな、買ってきたよ! 月刊『トゥインクル』四月号!」

 

 本番二週間前。桜のつぼみが開きはじめたトレセン学園の校門で、冊子を掲げて駆け込んでくるクラウンセボンを、あたしたちは待ってましたとばかりに出迎えた。

 いよいよ、あたしたちのクラシックが始まる。

 


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