ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#27-桜の女王へ(前編)

 チューリップ賞から本番までの五週間。その時間は長いようで短かった。身体の回復、そしてトレーニング再開。はじめてのGⅠに向けて、本格化したあたしの身体はどんどん強く、そして速く成長していく。それがあたし自身にも実感として感じられるだけに、明日はもっとよくなるという欲が尽きることはない。夢の舞台をいまかいまかと待ちわびる思いは、次第にもうちょっと待ってほしいという贅沢な悩みに変わってきていた。

 

「いい時計だよ! この脚が使えれば、本番だって行ける!」

 

 トレーナーの鼓舞する声と現れてくる数字に乗せられて、きつい練習でさえ苦にならない。より前向きに、より積極的に。目指すは最高の瞬発力。直線一気のスピード。阪神芝1600メートル、人生最初で最後の桜花賞というたったひとつの目標が、いまのあたしにとってはすべてだった。練習以外でも、授業中は教科書に隠して、ミーティング中は蛍光ペン片手に、月刊『トゥインクル』の桜花賞特集とにらめっこする毎日。今度はチューリップ賞のときのような失敗はしない。絶対に勝ちたい。そのためにできることなら、なんでもやろう。頭の中は、そんなことでいっぱいだった。

 そして、その日はやってきた。

 

「ルピナス、明日の最終追い切りの併走相手だけど」

「うん」

 

 最終追い切り。その単語が、今までにないほど魅力的に聞こえる。相手は誰だろう。もしかすると、本番前にレイアクレセントと一発勝負とか、あったりして。

 

「坂路で、ボンと。ウマなりでね」

 

 それはまったく予想外の相手だった。しかも、強度はウマなり。つまり、かなり軽めの追い切りになる。ここまでかなり追い込んで来たというのに、土壇場でトーンダウンしたような感じ。正直、思っていたのとは全然違った。

 

「そんな顔しない。大レースの前は軽めに整えるのが私流なの。それに忘れてるかもしれないけど、あなたはここまで他の誰よりも厳しいローテーションで来てるんだから」

「あー、つまんないなっ」

 

 トレーナーの言ってる理屈はわかるけど、それで物足りなさがなくなるわけじゃない。その名の通り、最終追い切りが終われば、レース本番まで負荷のかかるトレーニングは行われなくなる。もっともっと、思い切り走る機会が欲しかったというのが本音。どうやらそれは、本番までお預けになりそうだ。

 ロッカールームに戻ると、その併走相手が満面の笑みで話しかけてきた。

 

「嬉しいな。ルピナスちゃんの併走相手ができるなんて。今年になってからは初めてだね」

 

 そういえばそうだった。クラウンセボンとは、デビューする前までは一緒に練習することも多かった。でも、最近では同時にトラックに入ることも稀になっていた。あたしの相手はレイアクレセントになることが増えたし、クラウンセボンの相手はテンダーライトが務めるようになっていたから。

 

「しかも、桜花賞の最終追い切りだなんて、一生の思い出になるよ」

「大げさだなあ。そういうのは、アンタ自身の追い切りのときまでとっときなって」

 

 相変わらずオーバーな言い方をするなあ、と思ったのが正直なところ。だからあたしは、軽く流してこの話を終えるつもりだった。さあ、クレープ屋にでも寄って帰ろうか。着替え終わって、そう言うつもりで振り返ったあたしが見たのは、穏やかな、けれどまじめな表情で首を横に振る親友の姿だった。

 

「ちっとも大げさじゃないよ。だって、名前が残るんだから。桜花賞に出走した『ルピナストレジャー』の最終追い切りの相手として、私の名前が。本当に、一生の思い出なんだよ」

 

 あたしはハッとした。そうだ。あたしにとって最初で最後の桜花賞であるように、クラウンセボンにとっても、これが最初で最後の桜花賞。本当なら、彼女だって出走したかったはず。だけど、それは願ったからといって叶えられるものじゃない。たった十八人というその枠に入ることができなかった彼女が、その名を刻むことができる唯一の場所。それが追い切りの併走相手だ。自身の出走が実現した喜びに夢中になっていたあたしは、頭をピシャリと引っ叩かれたような感覚だった。何を舞い上がってるんだか。物足りない、なんて言ってる場合じゃなかった。明日の最終追い切りは、あたしにとって大事な本番への準備であると同時に、あたしの大切な友にとっては、一世一代の晴れ舞台なんだ。

 

「しっかり、やろうね」

 

 寮棟の前で別れる前に、あたしたちはそう誓い合った。

 吹き抜ける風が少しだけ温かく感じたのは、多分、春の訪れだけが理由じゃない。

 

 

 

「どうしたの」

 

 歯ブラシを手にしたままぼうっとしていたあたしは、その声で我に返った。見れば、すっかり就寝準備を整えたルームメイトが、訝るようにあたしを見つめている。

 

「ああ、うん。ちょっとね」

 

 愛想笑いでごまかす。その裏で、あたしはあの言葉を思い出していた。

 

『トゥインクル・シリーズって、人によって全然違うんだね』

 

 それはちょうど一年前、あたしたちが初めてみんなでレース観戦に行った時、帰りの車内でホープアンドプレイが口にした言葉だった。

 いまあたしは、まさにその現場に立っている。クラウンセボンとあたし、二人にとって全く違う意味を持っている桜花賞。それだけじゃない。ここにいる小さなルームメイトもまた、その違いを象徴するような存在だった。あたし以上に本格が遅れ、メイクデビュー戦への出走機会を失った彼女。自分から口に出すことはないけれど、きっと誰よりもその重さを感じているはずだ。

 そんなことを考えていると、ホープアンドプレイは呆れ顔でため息をついた。

 

「キミ、また余計なこと考えてるだろ」

 

 図星。そんなことない、なんてバカバカしい嘘をつく気にもなれなかった。ホープアンドプレイは、今度は睨み付けるような顔であたしを見た。

 

「そんなんでクレセントに勝てるとでも思ってるの」

 

 痛いところを突かれたあたしは、何も言い返せなかった。確かにこんなことではいけない。ただでさえ、あたしは本命じゃないんだから。下剋上を果たそうと思っているのなら、彼女の言うように、いまは他のことに気を回している暇なんかないはずだ。

 それきり、あたしたちの部屋は無言の時間に包まれてしまった。ただ一言相槌を返せば済むことだったはずなのに、一度タイミングを逃してしまうととても難しい。こうなると、衣擦れの音さえ立ててはいけないような気がしてくる。

 そんなあたしたちに助け舟を出すように、備え付けの冷蔵庫がブオンと短く音を立てた。その舟に最初に乗ったのは、ホープアンドプレイだった。

 

「勝てよ」

「えっ」

 

 その言葉は短くて、だけどまっすぐだった。よもやの直球をあたしが受け取り損ねていると、相手はもう一度短く、けれど少しだけ強さを増して、同じ球を投げてきた。

 

「勝てよ。ルピナス」

「ど、どうしちゃったの急に」

「心外だな。ボクがキミに勝ってほしいって思うのは、そんなにおかしいの」

 

 おかしくはないけれど、それを口に出して言うなんて、彼女らしくないと思った。そういうのはあたしやクラウンセボンみたいなのがやることで、ことホープアンドプレイには似合わない。

 

「いつも決まったやつが勝つなんて、ちっとも面白くないじゃないか。それに――」

 

 ホープアンドプレイは一度言葉を切って、何かためらうように自分の手と手を組み合わせた。普段からあまり目を合わせないで話す彼女だけれど、今日のそれはなんだか恥ずかしがっているみたいに見えた。もしかしたら、あたしが「似合わないな」と思ったのが、また顔に出ていたのかもしれない。

 続きは、前半よりも少し小さな声だった。

 

「それに、キミが勝てば、証明されるだろ。“ヒト生まれだって勝てる”って」

「ホープ……」

「ボクにとっても、その方が都合がいいし」

 

 付け加えるような一言に一瞬、結局そういうことか、と思いかけた。でも、よくよく考えてみれば変な話。

 

「あたしとアンタは()()()()()なんじゃなかったの?」

 

 はじめに出会った時、他ならぬ彼女から言われたこと。すると今度は、乾いた笑い声が低く響いた。

 

「確かにそうだった」

 

 それから、また沈黙。だけど今度は、それほど長い時間にはならなかった。

 

「……でも、ボクももうすぐ、デビューになりそうだからさ」

「本当!? いつ? 今週?」

 

 あたしは掛かり気味に尋ねた。それはあたしにとって、自分のGⅠ出走と同じくらい待ち望んでいたことだったから。

 

「まだだよ。ちゃんと決まったわけじゃない。少なくとも、桜花賞が終わってから」

 

 だからさ、とホープアンドプレイは重い荷物を下ろしたような声を漏らして、先を続けた。

 

「キミが勝ってくれれば、少なくとも、希望にはなるだろ」

 

 希望。それは、ホープアンドプレイの口からは今まで聞いたことの無い言葉だった。なぜだろう、ただそれだけのことが、とても嬉しい。あたしの勝利に託されたものとは関係なく、彼女自身の身体から飛び出したその音が、とてつもなく大切なものに思えた。

 そして同時に気づいた。焦りも恐れも、レースに対しては少しも見せてこなかったホープアンドプレイだけど、その内心はあたしや他のウマ娘と同じように、不安に(さいな)まれていたのかもしれない。今の今まで気づけなかった自分の鈍感さが恨めしい。それでも、あたしは二度も頷くタイミングを逃すほど間抜けでもなかった。

 

「そうだね。勝てば希望になる。あたしたちの、ね」

 

 この同意にただひとつ付け加えたのは、()()()()()という言葉。桜花賞で勝利を手にすることができたなら、それで得られる希望はホープアンドプレイだけのものじゃない。同じヒト生まれであるあたし自身にとっても、そして、そんなあたしを支えてくれた全ての人にとっても、希望になるはずだ。

 

「勝って、証明するんだ。ヒトから生まれたウマ娘の力を」

 

 自分自身で確かめるように、あたしはそう呟いた。

 次の日の最終追い切りは、これまでにないほどの仕上がりで終えることになった。五バ身後方からの追走で、最後はクビ差先着。ウマなりでも、十分に(しま)いの脚を使うことができた。誰に見せても恥ずかしくない、最高の出来。併走に付き合ってくれたクラウンセボンも、まるで自分のことのように喜んでくれた。

 

「いよいよですね」

 

 一足先に単走の追い切りでまとめたレイアクレセントも、そう言って口角を上げた。やれることは全てやりきった。あとは結果で答えるだけ。あたしたちチーム〈プルート〉は、全員で意気揚々と阪神レース場へと乗り込んだ。

 

 GⅠレース。それは、数あるレースのうち最も格が高く、最もレベルの高い、文字通り「最高峰」のレースだ。そのGⅠレースの中でも特に歴史と伝統のある、いわゆる八大競争の一角。ティアラ路線のクラシックレース。桜花賞の大きさや重さを語る言葉は、どれだけ並べたとしても足らない。いままであたしは、何度もその舞台を見つめてきた。スタンドで、テレビで、一観客として。そして、その場所へ憧れを抱くひとりのウマ娘として。外ラチで隔てられた向こう側の世界に、自分もいつか立つことを夢見ていた。

 その夢の景色は、想像していたよりもずっと慌ただしかった。

 

「では次に取材の方へお願いします」

 

 やることは山ほどあった。会場入りするなり、息をつく間もなく始まる枠順抽選に、食事会、そして取材対応。あたしみたいにGⅠ出走が初めてになる子にとって、戸惑うことばかりだった。

 あたしが幸運だったのは、同じチームのレイアクレセントが、すっかりこの光景に慣れているということ。あたしはまるでレースでマークするみたいに、その後をひたすらくっついていけばよかった。

 

「ルピナストレジャーさん! こちらへ」

 

 引っ張られるように連れ出されたのは、見たことが無い数の照明と、カメラのレンズに囲まれたインタビュースポット。トレーナーと、あたしと、レイアクレセントというたった三人に対して、その何倍もの数の記者たちがマイクを突き付けてくる。ちら、と助けを求めるように袖に目をやると、こぶしを握るクラウンセボンと、お祈りするように手を合わせるテンダーライトの姿が目に入った。もうひとりの小さなチームメイトは、その後ろに隠れているのか、姿が見えなかった。

 

「ではさっそく質疑に入らせていただきますが、まずはチーム〈プルート〉トレーナー、河沼ナギサさんへ――」

 

 それからしばらくトレーナーへの取材が続いたけれど、正直、全然頭に入ってこなかった。たまに路線変更だの、チームの立て直しだの、そんな単語が飛び飛びに聞こえてくるけど、何を言ってるのかわからない。緊張で頭が真っ白になるっていうのは、こういうことかと思った。

 

「――では、ルピナストレジャーさん」

「わっ、はい! 何ですか!?」

 

 真っ白になっているうちに、いつの間にかレイアクレセントの分も終わっていたらしい。いよいよあたしに番が回ってきた。

 

「……緊張されてますか?」

 

 記者の物腰は柔らかかったけれど、あたしは引きつった顔のままうまく返事ができなかった。

 

「なるべく手短にお願いします。初めてのことでちょっとナーバスになっていますので」

 

 トレーナーがアシストしてくれる。その少しの()をとれたあいだに、あたしはブンブンと頭を振った。この取材映像は、きっと母さんも見ることになるはずだ。しっかりしなきゃ。

 

「大丈夫です。お願いします」

 

 トレーナーの目配せにうんと頷いて、あたしは姿勢を直した。

 

「まずはGⅠへの初出走、おめでとうございます。この条件はご自身でも得意だとおっしゃっていましたが、勝算はありますか?」

「えーと、まあ、チームメイトがバカみたいに強いので。それでも練習では結構勝負になってるんで、何とかなるんじゃないかなって」

 

 こういうときの言葉遣いなんかわからない。それでも、思いつく限りの答えを口に出した。

 

「なるほど。ここまで短い間隔での出走が続いていましたが、体力的にはどうですか?」

「全然問題ないです。トレーナーもよく見てくれてるし、えーと、とにかく、大丈夫です」

 

 ありきたりな問いに答えているうちに、だんだん落ち着きを取り戻していたあたしは、()()()()はいつ来るだろう、なんて考えていた。それについて聞かれたら、言おうと思っていたことがあったから。

 果たして、それは質問の最後にやってきた。

 

「――そして、ルピナストレジャーさんといえば久しぶりの“ヒト生まれ”によるGⅠ出走ということでも注目されているかと思いますが、最後にそのあたりの意気込みをお願いします」

「え、注目されてるの? クレセントの方がずっと……あ、いや、ゴホン」

 

 余計なことを言うところだった。あたしが話したかったのはそんなことじゃない。

 

「いやその、うん」

 

 そうして、あたしは大きく深呼吸をひとつして、いままでずっと温めていた言葉を、全部吐き出した。

 

「えーと、ほんとに、ここまで来られたこと、感謝してます。母さんにも、父さんにも、トレーナーにも。チームメイトにも。その……今までたくさん、言われてきたんです。“ヒト生まれは走らない”って。それで、なんとかそれを見返したいと思って、頑張ってきたんです。だから、ただ出るだけじゃなくて、勝ちたい。支えてくれた人に、恩返しをしたい。――あ、そうなるとクレセントには悪いことするみたいだけど」

「大丈夫です。そこは譲りませんから」

 

 すかさずレイアクレセントが笑いながら乗っかってくれた。ともかく、言いたいことは全部言えた。あとは記者たちが好き勝手に書くだろう。拍手の中で礼をひとつして、あたしたちは足早にその場を退場した。あたしがレース前にしなきゃいけないことは、これで一通りおしまい。まだ他のチームのスタッフとの会合が残っているトレーナーを残して、あたしたちは一足先にホテルへと引き上げることになった。

 

『さてナカザワさん、いかがですか桜花賞の展望は』

『そうですねえ、私はやっぱり、レイアクレセントが力としては一段も二段も上のように思います。もともとこのウマ娘はね、マイルに強い適性があるんですよ。本人は三冠路線を希望していましたけどねえ、やっぱり私は一番力を発揮できる舞台での活躍が見たいですから。それをファンも望んでいると思いますよ。直前で桜花賞へ変更したというのはね、これはまあ、トレーナーの強い説得があったのか、あるいは何か本人に思うところがあったのか。その辺は聞いてみなければわかりませんけれども』

 

 ホテルの部屋で、あたしたちはテレビから流れてくる桜花賞の特番を見つめていた。見ない方が良いかも、とは思ったけどやっぱり気になる。気になって仕方が無いのなら、潔く見た方がすっきりするだろう。ということで、みんなで一緒にテレビの前へ並ぶことになった。ついさっき終わったばかりの取材の様子も出てきて、あたしのガチガチに緊張した顔も映った。なんだかちょっと恥ずかしい。

 予想通り、番組の話題の中心はレイアクレセント。スタジオの予想でも、圧倒的な優勝候補として取り上げられていた。その分、色んな媒体ですでに語り尽くされたことを繰り返すばかりで、正直聞き飽きたような話がほとんどだった。

 

「むう、ルピナスちゃんの話はまだ?」

 

 クラウンセボンは口をとがらせた。あたしの名前は最初に出走リストを読み上げた時に一度出たきりで、まだほとんど触れられていない。でも、それも仕方ないと言えるメンバーがそろっている。レイアクレセントを抜きにしても、阪神ジュベナイルフィリーズとチューリップ賞を勝った未だ無敗のモモイロビヨリの他、前哨戦のひとつでもあるGⅡフィリーズレビューの勝ちウマ娘、ソーブリオ。出世レースのエルフィンステークスで圧勝したトーヨーメリッサに、ジュニア級ですでに重賞を勝っているナッツシェルなど、名実ともにスターだらけの桜花賞だ。それに比べればあたしなんて、メイクデビュー戦と、プレオープン戦をひとつ勝っただけのウマ娘。現時点での人気順位も、二ケタ順位だった。

 

「何にもわかってないな、この人たち。ルピナスちゃんはクレセントさんと同じくらい強いウマ娘なのに」

「ク、クラウンさん、落ち着いて。怖い顔してる」

 

 イライラしながら椅子を叩くクラウンセボンに、怯えたような声を上げるテンダーライト。そんな二人を見つめながら、残りのあたしたち三人は苦笑いを浮かべていた。

 

「焦らなくたって、明日になればみんなわかりますよ。ルピナスさんの実力は」

「ルピナスが焦らなければね」

「ホープ、ヤなこと言わないでよ」

「待って! 静かにして!」

 

 クラウンセボンが人差し指を口に当てた。スタジオの会話の中に、あたしの名前が挙がったからだった。

 

『ところで、レイアクレセントのチーム〈プルート〉と言いますと、ルピナストレジャーも忘れてはならない存在だと思いますが、いかがですか?』

『ええ、このウマ娘も力そのものは十分にあると思います。追い切りの様子なんか見ますとね、非常に良い切れ味を持ってるんですよ』

「わあ、最終追い切りの映像! 私も映ってる!」

 

 興奮気味にテレビ画面を指さすクラウンセボン。静かにと言ったくせに、一番騒がしい。

 それにしても、あたしの良さを他人が語ってくれている場面を、あたしは生まれて初めて見た。鼻の奥がくすぐったくなるような、不思議な感じだった。

 

『それからね、このウマ娘はとにかく器用なんです。デビュー戦を見た時に私驚いたんですよ。初出走にして、すでにシニア級のウマ娘にもひけをとらないくらい、フォームが良いんです。特別身体が柔らかいわけではないんでしょうが、しなやかで力強い。乗り換えも非常に上手い。素質としては一級品ですよ』

「そう! そこなの! この人よくわかってる!」

 

 クラウンセボンの露骨な手のひら返しに、あたしたちは必死で笑いをこらえた。

 

『またこのルピナストレジャーは“ヒト生まれ”であることも少し話題になっていましたよね』

 

 そのワードが出たとたん、先ほどまで饒舌に語っていた老齢の名解説者は、うーんと唸るような声を上げた。

 

『私としてはね、あんまりそこに触れてやるのは気の毒に思いますよ。よく言うんですよ。“ヒト生まれは走らない”なんて。聞いたことありますでしょう?』

 

 クラウンセボンがあたしの方へ心配そうな顔で振り返った。あたしは黙って首を横に振る。ちゃんと聞いておきたい。いまさらこんなことで揺らぐようなあたしじゃないから。

 

『確かに、日本のレースとなると、ヒト生まれの活躍はほとんど例がないですね。海外ではいくつかありますが』

『あれはね、ヒト生まれは総じて、体質が丈夫な代わりに成長が遅くなる傾向があるからなんです』

 

 老解説者の博識ぶりに、あたしはへえと頷くばかりだった。確かに、活躍しないとはよく言われたけど、それがどうしてなのかなんて聞いたことがなかった。思えば、あたしもホープアンドプレイも、本格化は遅かった。ホープアンドプレイはまだデビューできていないし、あたしだって多少の無茶をしなければ、桜花賞へは間に合わないところだった。

 自分の生まれが関係してるんじゃないかと思ったことはあったけれど、改めてそれが事実だと言われると、不思議とかえって安心する。嬉しくない内容だとしても、原因がハッキリしていた方がいい。

 

『だけどこの子は偉いなあ。頑張ってここへ間に合わせてきたわけでしょう。ティアラの一冠目ですよ? これは皆さんが考えているよりもずっとすごいことでね。相当な努力と素質がなければあり得ないことなんですよ』

『大絶賛のナカザワさんですが、そうなると彼女にも勝機はあると見ていらっしゃいますか』

 

 そこでガチャリと音がした。

 

「ただいまー。明日の作戦会議、はじめよ……」

 

 それは、会合を終えたトレーナーが戻ってきた音だった。あたしたちが桜花賞の特番を見ているのに気づいて、トレーナーはニヤリと歯を見せて笑った。

 

「勉強熱心で何よりだね。ほら、テレビ消して」

 

 結局、どさくさに紛れてあの老解説者の結論は聞けずじまいになったけれど、あたしにもう迷いはなかった。

 出走時刻まで、あと20時間。

 


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