それからの日々は、嵐のように慌ただしかった。私は毎日のように施設へ足を運び、ホープアンドプレイの編入試験に向けた準備として、トレーニング指導を続けていた。
幸いにして、トレセン学園はシビアな世界である。父の事件があって以来、ウマ娘たちからの信頼回復を手助けしてくれる人は誰もいなかった。その代わりに、私のトレーナーとしての権限が制限されることもなかった。今回ホープアンドプレイをスカウト編入させる申請も、なんの問題もなく理事会の許可が下りた。少なくとも、機会は平等に与えられているということだ。
だから、編入試験自体に不安はなかった。最低限の能力はある上に、私のスカウト枠での受験なのだから、まず不合格になる心配はない。試験といっても形式的なものだ。
準備と称して私が彼女のトレーニングを指導していたのは、むしろ合格したあとの身体づくりのためだった。将来的にレースで勝つためには、ホープアンドプレイにはまだまだパワーとスピードが足りない。スピード化の進んだ現代レースでは、スタミナだけでは戦えないのだ。そう思うと、一日も無駄にすることはできなかった。
それと同時に私が進めていたのが、チーム再建のための新しいメンバーの勧誘活動だった。ホープアンドプレイのためにも、自分自身のためにも、一日も早くチームを立て直さねばならない。だがそれには、最低でもあと4人のウマ娘をチームに加えなければならない。それだけの人数を増やそうというのは、普通の状態でも簡単なことではない。
正直なことを言えば、ホープアンドプレイのトレーニングよりも、こちらの方がよほど難しい仕事だった。これだと思う生徒に声をかけても、色よい返事はもらえない。自分の本格化はまだ早い、だとか、もう少し考えさせてほしい、などとやんわり断ってくるのはまだいい方で、なかにはもっと直接的に嫌悪感をむき出しにしてくるウマ娘もいた。
「お願い、少しでいいから話を聞いて」
「やだね。あんたのチーム、担当の子が全員逃げ出したんだろ。誰がそんなとこへ行くかってんだ」
わかっていたことではある。しかし改めて直面してみると、これはなかなかに
リストアップした候補の一覧から、断られたり、勧誘をあきらめたりした子の名前を消していく。みるみるうちに数は減っていった。それとともに私の焦りは増していく。早く何とかしなくては。何とか――。
「お姉さん」
その声にハッと顔を上げた。そこには、無表情なままこちらを見つめてくるホープアンドプレイの顔があった。
「え……あ、なに?」
「ハードルジャンプ20本、終わったよ」
今日は、一月最後の日曜日。編入試験当日が目前に迫っていた。私はいま、ホープアンドプレイのトレーニングのために、彼女の住む施設の中庭へ来ていたはずだった。それなのに、ベンチに座ったまま一向に集まらないチームメンバーのことばかり考えていたのだ。
「ご、ごめんなさい」
「なんで」
「え?」
「なんで謝るの」
「それは――」
自分はなぜ謝ったんだろう。トレーニング中なのに上の空だったからだろうか。チームの立て直しがちっとも上手くいかないからだろうか。それとも、その両方を隠そうとしているから? ……多分、そのすべてだった。
「園長が言ってた。お姉さん、最近疲れてるみたいだって」
「園長?」
「サカイのこと」
ホープアンドプレイは、相変わらず無表情のまま、私をまっすぐ見つめていた。その吸い込まれそうなほど黒い瞳に、心の奥底まで見透かされているような気がした。
「ボク、知ってるんだよ」
ドキリ、と胸が鳴った。ホープアンドプレイはそんな私を前にしても、眉ひとつ動かさない。
「……知ってるって、何を?」
冷静に尋ねたつもりでも、声が揺れた。その答えを聞くのは、怖かった。
「お姉さんのチーム、メンバーがみんないなくなっちゃったんでしょ。それも、自分のせいじゃないのに」
私は何も言葉を返せなかった。
「いま、ひとりでも選手が欲しいんでしょ。それでボクをスカウトしに来たんだ。……でも、まだ足りないんだよね。こないだからずっと、そのことを考えてる」
背中に氷水を流したように、全身に震えが走る。
「どこでそれを」
「一番最初、お姉さんのお父さんがうちに来たとき、そう言ってた。園長も知ってるよ」
考えてみれば、当たり前の話だ。突然「子供をトレセン学園に紹介させて欲しい」なんて言ってくる男が現れたら、その男の経歴くらいは調べるはずだ。そうすれば、その娘である私がいま、どんな状況にあるのかなんて聞かなくたって想像はつく。父がしゃべらなくても、遠からず知られていただろう。
「……だったら、どうして」
どうして私のスカウトを受けいれたんだ、とは言えなかった。それを口にしてしまえば、何か大きなものが自分の内側から崩れてしまうような気がしたから。
「ボクは、なんだっていいんだ。走れるならどこでも。トレーナーがだれでも」
ホープアンドプレイは大きく息をつきながら、そう言った。
「サカイ園長は、それでいいって言ったの?」
本人はそれでいいかもしれない。だが、それだけの理由なら、あれほどホープアンドプレイを大切に扱っていたサカイ氏が、この話を安易に受け入れるとはとても思えなかった。すると、ホープアンドプレイは小さくうなずいて、答えた。
「お姉さんのことなら、心配しなくても、悪い人じゃないから大丈夫だって。そう言ってた」
私にはわからなかった。私が逆の立場だったら、そんな風にはとても思えない。サカイ氏は、何をもってそう判断したのだろうか。
「そういうわけで、ボクは全然気にしてないから。チームのことは気の毒だけど」
ホープアンドプレイは、もうこの話にあまり興味が無いようだった。
「……わかった」
「それじゃ、次の練習メニュー出して」
「じゃあ、リズムスクワットね」
私の疑問と不安は、園内から聞こえてくる他の子供たちの声にかき消されてしまった。
その晩、私はトレセン学園の全生徒データベースにアクセスしていた。新メンバーの勧誘について、より戦略的に、より冷徹になるために。それがいまの私には必要なのだ。
ウマ娘たちに信頼されたい、ウマ娘にとって理想のトレーナーになりたい。そんな夢は、一度忘れることにした。まずは勝負の場に立ち、成果を上げなくては、理想を語ることなどできないのだから。とにかく「チームメンバーを揃える」という結果を出さなくてはならない。もはや猶予は無かった。
私はまず、選抜レースに出走経験があるウマ娘全てを選択肢から外すことにした。そのような選手は実力もある一方で、チームに求める理想も高い。うちのような不祥事があったばかりのチームに入りたがるとはとても思えなかった。狙うは、トレーナーたちから注目されていないようなウマ娘。具体的に言えば、経験に乏しく、血縁にレースで好成績を残した者もいないような、データ的には魅力を見つけにくい選手のことだ。そうした選手は、比較的契約を取り付けやすいだろう。彼女達も、この世界での生き残りのために必死だからだ。
(これじゃまるで、弱みにつけこむみたい)
心の声が聞こえる。でも、いまの私は、そんな声に耳を傾けている暇はなかった。どうあれ、このままでは私のトレーナーとしての存在価値は見えてこないのだから。
現状、どのチームにも所属していないウマ娘となると、必然的に中等部の生徒から探すことになる。だが新年度でC組になる生徒は、そのほとんどがすでに契約済みだ。A組に入ってくる新入生はまだデータがない。ということは、新B組生、つまり編入するホープアンドプレイと同学年になるウマ娘たちの中から探すしかない。
未だチーム契約をせず、選抜レースに出走の経験もなく、データ的に目を付けられにくい生徒となると、その数はそれほど多くない。トレセン学園に入ってきているという時点で、それなりに力のある子がほとんどなのだから。抜き出して並べてみると、候補になりうるのは、せいぜい50人程度といったところだった。
「よし」
そのつぶやきは、私の覚悟の証だった。
翌日から、私は候補に挙げた子たちの自主トレ風景や、教官の合同トレーニングでの様子を観察しはじめた。誰でもいいというわけではない。もちろん、頭数を揃えなければ話にならないのだが、レースで勝てるように育成できなければ、結局は契約を切られてしまう。ただの人数合わせではなく、磨けば光る原石を発掘しなければならないのだ。
求めるのは、ホープアンドプレイとマイルで勝負したら、2バ身差以上をつけて勝てるくらいのスピード量。ホープアンドプレイのようなスタミナタイプよりも、一瞬の加速力に優れたスピードタイプが望ましい。グラウンドでの練習の様子を見ながら、タイムを測り、映像を撮り、徹底して分析を進めた。
だが、その作業をはじめてほどなく、私の頭の中にはある言葉が繰り返し浮かんでくるようになった。
(残酷だ)
現実を思い知る、とはこのことだった。
当然ながら、これまで私が見てきたウマ娘たちと比べて、総じて圧倒的にレベルが低い。トレーナーとしての素直な感想を述べれば、デビューすることすら無理だろうというレベルの子が半数以上だった。
これまで私は、チーム所属のサブトレーナーとしての仕事がほとんどで、チームを離れたところにいる無名なウマ娘たちのレベルをまじまじと観察したことはなかった。もちろん、知識としては知っていたし、条件戦や未勝利戦など、比較的レベルの低いレースを勉強材料にしたこともあった。それでも、私が本当の意味で見ていたのは、チームに所属し、レースで勝利し、時に重賞のタイトルを手にするようなスターたちの世界だけで、そこからこぼれていく者たちの姿は、見ているようで見ていなかったのだ。
(仮にスカウトしたところで、このレベルでは、一勝もできないまますぐに担当を外されてしまう)
勝てない子を勝てるようにするのが、トレーナーの仕事だ。だが、物事には限度というものがある。私自身が未熟であるということを考慮に入れても、彼女たちを勝てるように育てる方法は、見つかりそうもなかった。
しかしそうなると八方ふさがりだ。勝てるような子たちからは拒絶され、誰の手もついていないような子たちでは契約を維持できる見込みが立たない。
助けて欲しい。誰でもいいから。それが素直な感情だった。私は放心したまま、練習用トラックのスタンドに座り込んでいた。
気付けば、日が暮れていた。夕焼け色に染まったスタンドで、冷たい風にさらされた私の身体は、すっかり冷え切っている。あたりにはほとんど人影がなく、日中の騒がしい練習風景が嘘のように静かだった。
結局、今日も成果なしか。声も出さずにそうつぶやいた私の耳に、話し声が聞こえてきた。
「ねえ、ルピナスちゃん、もう帰ろうよ」
「だめ。まだあそこにいるじゃない」
どうやら、グラウンドにまだだれか残っているようだった。静かなぶん、ひとつひとつの物音や声がはっきり聞こえる。
「あの人、全然こっち見てないよ。ずっと遠くの方を見てる」
「いいの。ひょっとしたら、あたしたちをスカウトしようかなって考えてるのかもしれないでしょ」
ああ、スカウトを期待して、自主練に励むウマ娘か。寒い中でよく頑張るなあ、と思ったところで、私はあわててグラウンドへ意識を戻した。他人事のようにしている場合じゃない。声の主を探して目を凝らすと、ウッドチップコースのスタンド前に、ふたりのウマ娘が立っているのが見えた。片方は夕陽と同じ色の栗毛、もう片方は真っ黒な青鹿毛の少女だった。その青鹿毛には、見覚えがあった。私は急いでタブレットを取り出し、候補としてまとめておいたウマ娘たちの一覧に目を落とした。
(見つけた)
私は手元の資料の写真と、いままさにそこで膝の曲げ伸ばしをしている青鹿毛のウマ娘とを何度も見比べた。彼女は、たしかに私がデータベースから抜き出したスカウト候補に名を連ねている。見間違いではないはずだ。
「あ、こっち見た」
「ボン、静かにして。いいから併走もう一回、よろしく」
そう言って、青鹿毛の子はコースに出ていった。栗毛の子も、あわててその後に続いた。
最初のコーナーはウマなりで回っていき、バックストレッチをふたり並んで走っていく。私もその様子を双眼鏡で追いかけた。走行フォームは悪くない。いや、むしろよく訓練されているなという印象だった。特に、青鹿毛の子の方は、適度な前傾姿勢で、腕も良く振れている。身体の使い方からは器用さを感じられた。
(本当にこれが、この時期にスカウト待ちしている子の実力なの?)
にわかには信じられなかった。栗毛の子の方は、手元の資料にそれらしい子が載っていない。ということは、すでに選抜レースを走ったか、どこかのチームに所属しているか、あるいはどこかの良家の生まれのはずだ。にもかかわらず、その栗毛の子よりも、むしろ青鹿毛の子の方がいい走りをしているように見えたのだ。手元の資料が間違っているのかもしれない。あるいは、あそこで今走っている青鹿毛の子は、この資料に載っている子とは別人なのかもしれない。そう疑ってしまう程だった。
第四コーナーを曲がって、スタンド前の直線へ出てきたところで、青鹿毛の子がスパートをかけた。その差をぐんぐん開いていく。栗毛の子も懸命についていこうとするが、徐々に引き離されていった。青鹿毛の子は400のハロン棒をまたたくまに通り過ぎ、上り坂に差し掛かる。
「……すごい」
思わず声が漏れた。坂に入った青鹿毛の子は、脚色を鈍らせるどころか、そこからさらに加速してみせたのだ。目を見張るような切れ味。何より、蹴り足の乗り換えが上手すぎる。いわゆる「手前替え」だ。終盤の加速には必須とも言えるこの技術を、すでにトップレベルに備えている。坂を上り切ったところで、彼女は少しだけ体勢が崩れたものの、そのままゴール板前を通過していった。
「すごい……」
同じ言葉をもう一度繰り返した。その姿を見つめるのに夢中になっていたせいで、タイムを測るのを忘れてしまったけれど、そんなものは必要ない。あの末脚、一気の加速。それだけで惚れ惚れするような走りだった。
いてもたってもいられず、スタンドを駆け足で降りていった。いま見たものが夢でなければ、彼女こそ、私が探し求めていた原石だ。一刻も早く、これが現実であると確かめたかった。
「ちょ、ちょっと、いいかな」
私はゴールした青鹿毛の子へと走り寄った。見ると、その子はコースの上で四つん這いになり、ぜいぜいと息を切らしている。私に気付くと片手をあげて、少し待ってくれという仕草をしてみせた。限界いっぱいまで力を使い切ったようだった。
「ルピナスちゃん大丈夫?」
遅れてやってきた栗毛の子が、心配そうな表情で青鹿毛の子の背中をさする。青鹿毛の子は時折咳き込むようにしながらも、大丈夫だという風にうなずいて、ゆっくりと立ち上がった。
「……見ててくれた?」
私に向かってその子が最初に口にしたのは、そんな言葉だった。
「見てたよ」
青鹿毛の子は満足そうに、少し口元を緩めた。
「あなた、名前は?」
「……ルピナス。ルピナストレジャー」
その名は、私の手元の資料にある名と一致していた。左に付けた金の輪っかの耳飾りも、資料の写真と同じだ。これは夢じゃない。現実だ。
「もしよかったら――」
そこで私は、ぐっと唾を飲み込んで、声を詰まらせてしまった。目の前で息を切らして立っている青鹿毛の少女の顔には、隠しきれない期待の色が現れている。トレセン学園に入ったウマ娘であればだれもが求めるその言葉を待っているのだ。でも、これはきっと、私の素性を知らないからだ。それを知ったあとでも、同じ心持ちでいてくれるだろうか。私はすっかり弱気に襲われていた。
それでも、立ち止まってはいられなかった。私のチームはもう、私だけのものではないのだから。私は、ありったけの勇気を振り絞って、言うべき言葉を口にした。
「あなたを、スカウトさせてほしいの」