ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#28-桜の女王へ(後編)

 まさか、こんなことになるなんて。

 パドックのステージ上で立ちすくみながら、あたしは小さく震えていた。浴びせられる割れんばかりの拍手。迫りくるざわめき。耳のてっぺんから尻尾の先まで、まるで電流が流れているみたいにビリビリとしびれが走る。

 

『八枠17番、ルピナストレジャー。八番人気です』

 

 阪神レース場のパドック。チューリップ賞と何も変わらないはずのその場所は、初めて見る景色のようで、緊張を通り越して怖いとすら思えた。腕を振り、身体を揺らして声援を送ってくれる人たちの塊が、高波のようにうねって、あたしを取り囲んでいる。この中にはチームメイトたちがいるはずなのに、もはやどこに誰がいるのかなんてわからない。

 この世代でティアラ路線を選んだ子たちの中で、たった十八人だけが許された、桜花賞への出走。その十八人の中に、あたしの名前がある。頭ではわかっていたことだけれど、この事実がどれだけの重みを持っているのか、ようやく実感したような気がする。

 

――無様なレースなんて絶対にできない。

 

 とっさに頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。

 ダメだ、そんなこと考えちゃ。あたしの中の自分が慌ててそう叫ぶ。でも、遅かった。一度その方向へ傾いてしまった思考は、あたしの悪い癖と重なり合ってどんどん良くない方へと流れていく。もしも、このレースで恥ずかしい走りを見せてしまったら、あたしはいったいどうなるんだろう。集まったメンバーはみんな一流の競走ウマ娘。あたしがここへ来られたのは何かの間違いだったとしたら。そんな実力もないのに、単なる運で来てしまったのだとしたら。――そんなはずない。そんなわけがない。いままで積み上げてきたものを振り返って、何度も何度も自分に言い聞かせる。あのルームメイトの言葉を思い出して。

 

――余計なこと、考えるなよ。

 

 わかってる。わかってるってば。だけど一度襲われてしまった弱気に、あたしは勝手に追い詰められていく。嫌だ嫌だと思っても、余計な不安が積み重なってあたしを押しつぶそうとしてくる。

 誰かがあたしに話しかけているのが聞こえる。聞こえるけど、何を言ってるのか全然聞き取れない。話しかけてきているのが誰なのかも、どこへ返事をしたらいいのかもわからない。

 

「ルピナス!」

「あ」

 

 気付けば、目の前にトレーナーの顔があった。もうパドックは終わって、あたしたちはいつのまにか地下バ道へと連れてこられていた。いつそんなアナウンスがあったのか、どうやって歩いてきたのか、ほとんど何も覚えていない。

 

「他のみんなは」

「スタンドへ行かせたよ。クレセントももうバ場入りしてる」

 

 そう言って、トレーナーは静かにあたしの肩を抱き寄せた。

 

「ルピナス、怖い?」

「……うん」

 

 あたしはトレーナーのジャケットを握り締めた。子供じみた振る舞いだけど、いまのあたしはそうしないではいられなかった。

 

「なにが怖い?」

 

 その問いかけを聞いたとたん、あたしの中で何かがはじけた。

 

「……負けちゃうのが、怖い。やっぱり、ヒト生まれは勝てないんだって言われるのが、怖い。母さんに、勝ったところを見せられないのが、怖い。せっかくクレセントが来てくれたのに、それを裏切っちゃうのが怖い。あたしを拾ってくれたトレーナーに、まだ何にも返せてないのに、恥をかかせたくない」

 

 後の方はもうグズグズだった。自分でもこんなことになるなんて、思ってもみなかった。まだスタートすらしていないのに。覚悟はしていた。イメージトレーニングだって、たくさんしてきた。迷いも恐れも、全部なくなったはずだった。それなのに実際の舞台を前にすると、こんなにも震えが止まらないなんて。トレーナーはそんなあたしの背中を優しくなでながら、耳元でそっと囁いた。

 

「そんな心配いらないよ。私はもう、あなたに十分お返しをもらってるから」

「え?」

「私にとっては、あなたがここにいて、元気に走ってくれることが、一番のお返しなの。――きっと、あなたのお母さんも、同じことを言うんじゃないかな」

 

 あたしをなでるトレーナーの手つきは、いつか母さんにしてもらった()()()のそれと似ていた。

 

「だからね、ルピナス。あなたは、あなたの為に走りなさい」

 

 その口調は柔らかく、けれどきっぱりとした強さを備えている。

 

「あなたはとっても優しい子。だから誰かの為に走ろうとする。それはとっても素敵なことだよ。だけど、今日だけ。今日だけは、自分の為に走ってごらん」

 

 顔を上げると、トレーナーがにっこりと微笑んでいるのが目に入った。

 

「自分の為?」

「そう。今日まで頑張ってきたあなたのご褒美に。今日はわがままになっちゃおうよ」

 

 なんだかおかしな話だった。桜花賞へ出たいというのだって、あたしのわがままだったはずなのに。そんな疑問を押し流すように、トレーナーはすかさず問いを重ねてくる。

 

「あなたはどうしたい? この桜花賞で、どんな結果が欲しい?」

「……勝ちたい。一番になりたい」

「じゃあ、それだけ。それだけでいいんだよ。今日はね」

 

 余計なことを考えるな、というのと言ってることは同じだ。だけど“それだけでいい”という言葉でまとめられると妙に簡単に思えた。

 

「あ、もちろん作戦は忘れずにね?」

 

 いたずらっぽく笑うトレーナーに、あたしは大きく頷いた。さっきまで頭から吹き飛んでいた大事なものが、次第に戻ってくる。あたしが本当に考えなきゃいけなかったこと。今日ここで勝つために、作り上げてきた身体と作戦。それを精一杯発揮すること。

 

「いける?」

 

 あたしはベチョベチョになった顔をグシグシと拭って、ただ一言「うん」と答えた。

 

「行ってらっしゃい。待ってるから」

 

 頷くあたしの耳に、ようやく本バ場入場の曲が聞こえてきた。

 

『さあ、遅れて登場して参りました。その青鹿毛は、母譲りの黒髪か。ヒトとウマ娘の夢を乗せて、桜の女王へ。八枠17番、ルピナストレジャー。チーム〈プルート〉所属』

 

 静かだ、と思った。スタンドからの歓声は聞こえるけれど、もう気にならない。それよりも、足下から伝わってくるターフの感触が心地いい。勝ちたい。この芝の上で、勝ちたい。ただそれだけを思えば、周りの音も空気もあたしの邪魔にはならない。

 

「ずいぶん待たせてくれましたね」

 

 その声に振り返ると、両手を腰に当てたレイアクレセントが立っていた。深い緑色のドレスと青いマントが、太陽を浴びてキラキラ光っている。その立ち姿はまさに女王の貫録。だけど、もう負けない。あたしは彼女をその玉座から引きずり下ろすために、この場所へ呼び出したんだから。

 

「お待たせ」

 

 そしてこういうとき、勝つのは後から来た方だと相場は決まってる。あたしが短くそう切り返すと、女王は満足げな表情を見せた。

 

「いい顔になりましたね。そうでなくては困ります。先ほどの様子ではどうなることかと心配しましたよ」

 

 それからくるりと背を向けて、あたしだけに聞こえるような小さな声で、女王はぼそりとつぶやいた。

 

「全力で来なさい。私も全力で、叩き潰して差し上げます」

 

 その背中からは、凄まじい気迫が湧き上がっているのがわかる。けれどなぜかしら、怖いとは思わなかった。あたしはあたしの為に、あたしのわがままで、いまからこの強者に戦いを挑むんだ。そう思うと楽しみで尻尾がゾクゾクしてくる。

 

「オッケー」

 

 それ以上の言葉はいらなかった。

 

 ゲート前でストレッチをしながら、あたしは最後の確認をしていた。

 今回のペースはおそらく、前半と後半でそれほど大きく変化しないはず。逃げウマ娘は二人いるけれど、その後ろから行く先行型のモモイロビヨリとレイアクレセントとは力量に差があるからだ。十分にスピードのある彼女達なら無理せずとも逃げ勢を追いかけられるし、ペースコントロールも上手いから、後半に力を蓄えることもできる。速くなりそうだからといって放置していれば、簡単に押し切られてしまうことになる。つまり、あたしたち差しウマ娘は、道中ある程度脚を使ってでもマークし続けなくちゃいけない。かなりタフなレースになりそうだ。

 マークしたいのはもちろん、四枠8番のレイアクレセント。絶好の枠順を手に入れた彼女は、間違いなく最初の直線で好位置につけてくる。理想的なポジションはその外寄りの斜め後ろということになる。ただ、そううまくいくはずもない。向こうもそれを嫌って少し前目に位置をとるはず。三、四番手あたりに行かれてしまうと、あたしの戦法ではそこまでは近寄れない。となると、代わりのマーク相手を探さなきゃならない。

 

「どもどもー。アンタがルピナストレジャー?」

 

 それが、いま握手を求めてきたトーヨーメリッサだった。黒鹿毛のあたしより一回り小さなウマ娘。四番人気の差し脚タイプ。

 

「モモから話は聞いてるよ。アタシも勝負してみたかったんだ」

「モモ? モモイロビヨリのこと?」

 

 握手に応じつつあたしが尋ねると、トーヨーメリッサは肩をゆすぶりながら、屈託のない顔を向けてきた。

 

「そう。ヒト生まれだけど、ガチで強い子がいるって」

 

 そう言えば、彼女はモモイロビヨリと一度阪神JFで勝負していたんだっけ。きっと、よく知る間柄なんだろう。

 

「ゆーて、まずモモがエグいし。何て言うんだっけ? 英才教育ってやつ?」

「ああ、わかる」

 

 うちにも英才教育がいるなあ、と思いながら苦笑い。それにしてもトーヨーメリッサはGⅠの舞台だってのに、微塵も気負う様子がない。本人の気性のせいなのか、一度経験しているからなのか。こういうタイプは厄介かもしれないなと思った。

 

「しっかし、アンタんとこはヤバいね。ヒト生まれのアンタに、レイア家のお嬢様まで。トレーナー、かなりのやり手なん?」

「あはは、そうかもね。……言っとくけど、お嬢様に勝たすつもりなんかないよ。あたしは、勝ちに来てるから」

「お、マジ? いいじゃん、そーゆーの。アタシも容赦なく行かせてもらうから」

『発走時刻です』

 

 ファンファーレの音とともに、トーヨーメリッサは「じゃっ」と軽く手を挙げて後ろへ下がっていった。六枠12番、偶数番号の彼女のゲートインは後半になる。思えば、あたしは17番の奇数。人生初の先入り番号だ。ゲートで待つ時間が長いのはちょっと嫌だけど、大外18番の隣だから、ゲートが開くタイミングは測りやすい。そんなに不利じゃないだろう。

 

「奇数番の方はゲートインをお願いします」

 

 係員に追われるように、狭いゲートの中へ身体を滑り込ませる。最後にちらっと振り返ったところで、トーヨーメリッサがウインクを飛ばしてきたのが目に入った。あたしも返そうと思ったけど、上手にできなかった。それが面白かったのか、小さく笑う声が聞こえてくる。

 思わぬ形でリラックスできた。あとはスタートを決めて、作戦通りに進めるだけ。想定としては、レイアクレセントの姿を遠目に見ながら、トーヨーメリッサの外目につけて、最終コーナーから一気に仕掛ける。焦りと出遅れだけは禁物。左の空いたゲート内に、最後の出走者が入ってくるのを待つ。そのゲートの入口が閉まれば、いよいよ出走だ。

 

『順調に枠入りを済ませます。最後に18番のナッツシェルが入って、態勢整いました』

 

 時が止まったような静寂。自分の心臓の音だけが、低く耳に響いてくる。首筋がすこしくすぐったいような不思議な感覚。ひとつ呼吸をして、前を見据える。そして――。

 

(今だ!)

 

『スタートしました! まずまず揃ったスタート、先行争いはやはり内枠の2番スイートジンジャー、そして6番のエクスタシスがハナを奪いに行きます。その後ろから、おお、この位置に8番レイアクレセント、その外9番モモイロビヨリ。ピッタリと、マークするように圧倒的一、二番人気が競り合います。その後ろにつけたのは大外から上がっていった18番ナッツシェル……』

 

 想定通りの展開。あたしはというと、ホッと胸をなでおろしていた。というのも、スタートした瞬間、外からナッツシェルが進路を内側に切れ込むようにして前へ出ていったからだ。一瞬ドキリとしたけれど、素直に前に行かせたおかげで接触は避けることができた。無理にレイアクレセントをマークしに行っていれば、ぶつかっていたかもしれない。危機をひとつ回避したことで、あたしは少し落ち着いて周りを見られるようになっていた。

 

(見つけた)

 

 マーク相手のトーヨーメリッサは、低い姿勢でバ群の中を走っている。それほど大きくない身体であそこへ割って入るというのは、相当勇気があるウマ娘だ。あたしはその外目後ろにつけて、じっくり脚を溜める。ここまでは、完璧なプラン通りだった。

 

『……その後ろ六番手に10番マイエルリンク、外13番フェアリーフェスタ。さらに固まって内から1番セントヴェローナ、間に12番トーヨーメリッサ。その外4番ブライトミーティア、ちょっと口を割っているか。その後ろ17番のルピナストレジャー、15番トゥエミニヨンに、14番ソーブリオ。外枠の三人を前に見て11番ベリーベル、16番バルデパラディ、内で3番イリスアゲート、今日の折り合いはどうか。少し離れて7番クロマティック、最後方5番のネサランと、こんな態勢で第三コーナーを曲がっていきます。前半800の通過タイムは――』

 

 速い。それも、少し速いなんてものじゃない。恐ろしいほど速い。前の様子はちらちらとしか見えないけど、前の二人を捕まえるような勢いで先行勢が競り合っているのか、びっくりするほどのハイペースで流れている。体感的に、あたしの位置でさえかなり速く感じるということは、前はとんでもないことになっているはずだ。ということは、あたしにかなり有利な展開ってことになる。いくらなんでもこれなら、最後の直線、坂にかかったところで前は止まるはずだ。これで止まらなかったら化け物どころの騒ぎじゃない。

 その時、トーヨーメリッサがこちらへ振り返るように視線を送ってきた。口元がニヤリと笑っている。彼女も気づいたんだ。この殺人的なハイペースに。そして多分、これは仕掛けの合図。かかってこいと挑発しているんだ。

 

(なら、乗ってやる)

 

『45秒3! 先行勢の手ごたえはどうか。さあ最後の直線! 先頭は変わってレイアクレセントかモモイロビヨリか! 無敗同士の一騎打ちになるのか! しかし後方勢が襲い掛かる! 突っ込んできたのはトーヨーメリッサにソーブリオ! 内からはセントヴェローナも伸びてきている! 先頭は抜け出したレイアクレセント! 朝日杯から桜の女王へ、仁川の舞台を駆け上がる!』

 

 脚の乗り換えを済ませて、まず一人目。トーヨーメリッサは捕らえた。不利はなし。軽いバ場のおかげであたしの脚はまだまだ動く。気のせいか、チューリップ賞のときよりも外目の芝はさらに軽い。自分でも怖いくらいのスピードが出る。これなら坂なんか関係ない。

 

(――見えた!)

 

 ついに見えた。バ場の三分どころで後続を突き放していくレイアクレセント。その青いマントが、颯爽と駆けていく。脚色はまだ衰えていない。恐ろしい相手だ。本当に。あれだけのハイペースで、落ちないだなんて。他の先行勢は総崩れしているというのに。

 

(だけど、あたしの方が速い!)

 

 近づいている。確実に、近づいてきている。息遣いが聞こえる。レイアクレセントの激しい呼吸。その音から察するに、脚は動いているけれど、おそらくもう限界が近い。これなら届く。届いてみせる!

 

「ああっ……」

 

 それは、彼女から発せられた、うめくような声。決して振り返りはしないけれど、気づいたんだ。あたしの存在に。追い詰められていることに。勝利はもうすぐそこにある!

 

『大外から一気にルピナストレジャー! 後方勢を置き去りにして、ルピナストレジャーが猛然と突っ込んでくる!』

 

 肺が苦しい。あたしの脚もどんどん重くなってくる。だけど、あと200メートルだ。ほんの10秒ちょっとのことだ。勝つんだ。絶対に勝つんだ! その為なら、脚が折れたって構わない!

 

『間に合うのか! 届くのか! レイアクレセント逃げる! レイアクレセント逃げる! ルピナスか、クレセントか! 三着以下を引き離してこれはもう間違いない! 新生〈プルート〉のワンツーフィニッシュになる!』

 

 最後の三完歩は、まるでスローモーションのように見えた。一歩踏み出すごとに、あたしとレイアクレセントの距離は近づいていく。手を伸ばせばすぐそこに、桜の女王の冠がある。

 

 

 

 

 だけど。

 

 

 

 

 それでも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『勝ったのはレイアクレセント!! 朝日杯に続いて桜の冠を戴きました。これで文句なしでしょう! 世代の旗手(きしゅ)に堂々の名乗りを上げました! 勝ち時計は、1分31秒6! 非常に速い決着となりました』

 

 届かなかった。距離にして、あと半バ身。ほんの少しだった。

 

「ああ!」

 

 大の字になって、芝生に倒れ込む。全力を出した。いや、全力以上のものを出した。完璧な流れ、完璧な展開。何一つ不利も失敗もない、完全な真っ向勝負。そして、あたしは負けた。ほんの少しだけ、届かなかった。それはつまり、完全な力負けということ。

 

「うわああ!」

 

 真っ青な広い空に向かって、あたしは渾身の力を込めて叫んだ。勝ちたかった。この悔しさは一生晴れることはないだろう。だって、これで桜花賞はもう二度と、走ることができないんだから。たとえこれからの人生で百の勝利を重ねたとしても、たったひとつの桜花賞のタイトルとは引き換えられない。一生に一度のチャンスを、あたしは失ったんだ。いま、この瞬間に。

 悔しい。悔しくて悔しくて仕方がない。だけど、同時にあたしは妙にすがすがしい気持ちになっていた。真正面からぶつかって、見事に跳ね返された。何の言い訳もできない。だからこそ、逆に気持ちがよかった。

 そんなあたしの視界に、ぬっと顔を出す者があった。

 

「よっ」

 

 それは、トーヨーメリッサだった。

 

「いやー、マジでヤバかったよ。お疲れっ」

 

 そうして差し出された手を、あたしはぎゅっと握り返した。

 

「ありがとう。えーと……」

「あ、アタシは三着。アンタたちがいなきゃ一着だったんだけどさ。ま、時代が悪かったってことやね」

 

 おどけて肩をすくめるトーヨーメリッサに、あたしはもう一度礼を言った。

 

「いいからいいから。ほら、そんなのより、お嬢様がお待ちだよ」

 

 彼女の指さす方向には、肩で息をしているレイアクレセントの後ろ姿があった。

 

「ほら行った行った」

 

 背中を押され、あたしはヨロヨロと桜の女王に近づいていった。女王はみんなと離れたところでひとり立ち尽くしたまま、掲示板の表示を見つめている。

 

「……クレセント」

 

 あたしの声に応えるように、くるりと振り返るその顔に、あたしは息を飲んだ。勝者はまぎれもなく笑顔だった。けれどもその頬に、一筋の光る跡がはっきりと刻まれている。

 

「ルピナスさん……」

「……バカ。なんで勝ったアンタが」

 

 それが言い終わる前に、レイアクレセントは倒れ込むようにしてあたしに抱き着いてきた。色とりどりの紙吹雪が舞う中で、あたしはしばらく、涙にぬれた女王様を抱きかかえながら、大歓声のシャワーを浴びていた。

 

『若きトレーナーに導かれたふたりのウマ娘が、互いを(たた)え合います。新生〈プルート〉強し! チーム〈プルート〉は、これでチーム初の桜花賞制覇になります……』

 

 

 

 ウイナーズサークルに勝者を残して、あたしはレースの余韻冷めやらぬターフの上を後にした。ウイニングライブが始まる前に、少しだけ一人になる時間が欲しかったからだ。コツコツと、蹄鉄の音がやけに大きく耳に響いてくる。抑えきれないものが溢れてきてしまいそうで、あたしは大きく息を吸い込んだ。

 あたしが向かったのは、ロッカールーム。だれもあたしに近寄れない場所だ。ガチャ、と重い音を立てて開く。

 

「……え」

 

 あたしは自分の目を疑った。一人になるよりもずっとずっと嬉しい人が、あたしを待っていたから。

 

「ルピナス」

「母さん……見てたの?」

 

 ウマ娘の耳も尻尾も持たないその人は、あたしの真っ黒な耳をなでて、笑顔で頷いた。

 

「トレーナーさんに、無理言っちゃってね」

「母さん……」

「よく頑張ったね。本当に、よく頑張ったね」

 

 何度もそう繰り返す母さんの姿は、瞬きするたびに(にじ)んでいった。

 春の阪神レース場は、あたしにとって一生忘れられない、ほろ苦い思い出の場所。

 

 

 阪神11R 桜花賞(GⅠ)

 八枠17番 ルピナストレジャー 二着 1/2バ身差 1.31.7(33.2)

 

 


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