人生が変わる瞬間、というものは、大抵が突然に訪れる。競争ウマ娘の場合、それは大きなレースで活躍した時と相場が決まっている。あたしのそれは、レイアクレセントとの勝負に挑んだ桜花賞だった。
その日もあたしがトレーナー室へ入るなり、トレーナーが机の上を指さしながら言った。
「ルピナス、今日もあなたにファンレターが来てるよ」
「マジかあ。すごいね」
そこにあるのは、大きな段ボールひと箱に詰め込んでもなお余る手紙の山。もちろん、勝ったレイアクレセント宛にはそれ以上の量が届いている。それでも、これだけ多くの人々があたしを応援してくれているんだと思うと、ありがたいやら、くすぐったいやらだ。
嬉しかったのは、その手紙の中身もだった。
『ルピナストレジャーさんの走りを見て、ゆう気をもらいました』
『たくさんがんばれば、わたしもルピナストレジャーさんみたいにGⅠレースでかつやくできるんだと思いました』
『私はレースの世界は無理だと言われましたが、トレセン学園への入学、諦めないで頑張ります!』
あたし宛へのメッセージには、こんな内容のものがたくさんあった。どの手紙も、差出人は母親のウマ娘にレース経験がないとか、一度も勝ったことがないだとか、そんな子たちばかり。少ないながら、あたしと同じようなヒト生まれの子からの手紙もあった。
あたし自身がずっと感じてきたように、レースの世界は血統主義が根強い。GⅠをいくつとった親の娘だとか、孫だとか、そういうもので期待のかけられ方が全然違う。そして、結果もその期待通りになることが多い。あたしの身の回りを見ても、好成績を上げるような子はみんな、レースで何かしらの成果を上げたウマ娘を家族に持っている。そんな血統主義の網目からこぼれ落ちたような子たちにとって、あたしの存在が明るい材料になってくれているというのなら、それは願ってもないこと。
「頑張らなきゃ、だね」
自然と、そんな独り言が出てきた。あたしの挑戦はまだこんなものじゃない。むしろこれからが本番だ。ふと目をやれば、開いた窓の隙間から、桜の花びらがひらひらと舞い込んでくるのが見えた。満開の桜の季節が終わり、トレセン学園を囲む木々はさわやかな新緑の気配を見せ始めている。あたしたちの教室に掲げられる看板の文字も、クラシックの一冠目を迎えると同時に「B組」から「C組」へと変わった。いよいよ中等部の最高学年。本当の意味で大事な時間の到来だ。
「トレーナー。あたしの次のレースだけど」
「ちょうど、その話をしようと思ってた」
トレーナーは待ってましたとばかりに立ち上がると、あたしに向かって勢いよく二枚のプリントを差し出してきた。ひとつには“王道プラン”、もうひとつには“マイラープラン”と題されたローテーションプランが書かれている。王道プランは、この後オークスへ直行した後、前哨戦を使いながら秋華賞を目指すティアラ三冠完走のプラン。マイラープランは、マイルの重賞に集中的に出走する特化型のプランだ。
「好きな方を選んでいいよ。どちらも同じくらい、良いところと大変なところがあるから」
「そうなの? こんなのマイラープラン一択な気がするけど」
距離適性を考えればそれしかない、と思ったあたしが首をかしげると、トレーナーは立てた指をチッチッと左右に振って、それぞれのプランについて、メリットデメリットを教えてくれた。
王道プランのメリットは、何と言ってもティアラ路線を完走できるということ。桜花賞、オークス、秋華賞。この三つのレースすべてに参加するという栄誉は、限られたウマ娘にしか与えられない。少なくとも今現在その権利があるのは、あたしを含めて桜花賞に出走した十八人だけだ。確かに、そう言われると王道プランを簡単に捨てるのは惜しくなってくる。ただ、これは言われる前からわかっていたことだけど、やっぱり距離の壁が最大のデメリットになる。特にオークスの2400メートルという距離は、あたしにとってかなり厳しい。正直、走り切れる自信なんてない。
一方でマイラープランの場合、ちょうど王道プランのメリットとデメリットが逆になったような話だった。距離という点ではあたしに向いているけれど、オークスや秋華賞への出走チャンスを捨てることになる。それに加えて、マイラープランになるとシニア級の上級生と早いうちから戦わなきゃいけなくなる。
「ぐぬぬ……」
「まあ、好きなだけ考えなさい。今日一日、みっちりね」
「一日だけ!?」
あまりの
「当たり前でしょ。どっちを選ぶにしたって、もう次のレースまで一ヶ月しか無いんだから。明日にもプランに合わせたトレーニングを始めなきゃいけないし、時間なんかいくらあっても足りない足りない」
そうしてトレーナーは「じゃあね」とだけ言い残すと、いそいそとトレーナー室を出て行ってしまった。何だろう、今日は何か予定があったっけ。そんなことを思いながら、あたしはホワイトボードにかけられたカレンダーの日付を目で追った。
「あ」
思い出した。そういえば、今日はホープアンドプレイのデビュー戦に向けた追い切りの日。ちゃんと見に行くって、本人と約束していたはずだった。
「ちょっと、待ってよ」
もう聞こえるはずもないのにそう叫んで、あたしは急いで練習用トラックへと駆けだした。
トラックでは、すでにホープアンドプレイが走っていた。上級生たちに囲まれたひときわ小さな身体が、ウッドチップコースを軽やかに周回している。あたしは精一杯伸びをして手を振った。気づいたところで返事なんてくれないだろうけど、自分が約束通り見に来たということだけは伝えたかったから。
ベンチに腰掛けて、追い切りの様子を眺めていると気づくことがあった。ホープアンドプレイの走りのスピードが、明らかに上がっている。年が明けてからというもの、ずっと自分のことだけで一杯一杯になっていたあたし。気づかないうちに、周りもどんどん成長しているんだと今更のように思わされた。
「仕上がりはどうなんだ」
「え?」
不意に背後から話しかけられて、あたしは振り返った。そこに立っていたのは、つい数日前に皐月賞で勝利した、あのウマ娘だった。
「フォーミュラ」
「菊花賞には間に合うんだろうな」
クラシックの一冠目を無敗のまま手に入れたウマ娘は、するどい目つきであたしに尋ねてくる。
「どうかな。アンタはどう思う?」
「……いまのままでは、スピードが足らん。いくら長距離が得意でも、中距離の重賞でも戦えるレベルでなければ、菊花賞への出走権は得られんぞ。あれでは精々オープンレベルが関の山だ」
あたしは不思議な気持ちになっていた。普段から教室で顔を合わせているけれど、レイアフォーミュラがこんな風に他人に興味を示すところなんて、ほとんど見たことがない。いつも自分が勝つことしか考えてないように振舞っているし、テレビや雑誌のインタビューでも“他人なんて関係ない”と答えていたくらいなのに。
「ずいぶん熱心じゃん。好きなの?」
自分で言っておきながら恥ずかしくなるくらいの、バカな冗談。ホープアンドプレイがここにいたら、きっと呆れられただろう。レイアフォーミュラだって、まともに取り合うはずもない。そう思っていた。
ところが、レイアフォーミュラはアハハと声を上げて愉快そうに笑いだした。
「え、なに……?」
予想外の事態にギョッとするあたしに向かって、レイアフォーミュラは目元を拭いながら答えた。
「そうかもしれん。何しろヤツは、私が生まれて初めて敗北を意識させられた相手だからな」
「――それって、あの模擬レースのこと?」
レイアフォーミュラは笑いながら頷いた。
ちょうど一年前のことだ。あたしとホープアンドプレイは、この世代最強と言われるレイアフォーミュラに無謀にも戦いを挑んだ。2000メートルという、本格化前のあたしたちにとっては長すぎるほどの距離での勝負。当然ながらあたしは完敗。けれどホープアンドプレイは、レイアフォーミュラを敗北寸前まで追い詰めた。そのことが、忘れられないのだという。
「あのレースがもしもあと100メートル長ければ、私は負けていた。もちろん、いまの私であれば2000メートルで負けることなどありえない。だが、3000メートルなら――」
周回を終えても息ひとつ乱さない様子のホープアンドプレイをじっと見つめて、レイアフォーミュラは首を小さく横に振った。
「――どうなるか、わからない。ヤツの力は、私の三冠達成に向けた唯一の不確定要素だ。私の想像を超えるような力を、ヤツなら見せるかもしれん」
「ふーん」
大した自信だ、と思った。ホープアンドプレイが唯一の不確定要素だなんて、他の相手には全部勝つと決まってるみたい。まあ、そう言うだけの実力があることは誰もが知っていることだけど。
「アイツばっかり見てると、足をすくわれるかもよ。例えば、クレセントとかに」
「無いな。クレセントは三冠路線では私に勝てない。彼女はお前と同じく、本質的にはマイラーだからだ」
残酷なまでにきっぱりと、レイアフォーミュラは言い切った。そうじゃないはずなのに、なんだかあたし自身が切って捨てられたような、そんな悔しさがふつふつとわいてくる。
「アンタね――」
その時だった。
「ルピナスちゃーん! シューズが届いたよ!」
あたしのムッとした気持ちを吹き飛ばすような明るい声が、グラウンドに響いた。声のする方を見れば、栗色の髪を揺らしてクラウンセボンがスタンドを駆け下りてくる。頭の上には、ランニングシューズの入った箱を掲げていた。あれは確か、あたしが調整のためにシューズショップにメンテナンスをお願いしておいたもの。
「寮長さんがわざわざロッカールームまで持ってきてくれて――あ」
駆けよってきたクラウンセボンは、そこであたしの隣に皐月賞ウマ娘がいることに気づいた。
「お取込み中?」
「ううん、別に」
あたしが笑ってごまかしていると、その後ろでレイアフォーミュラは何も言わずにその場を去っていった。クラスメイト同士なんだから、挨拶のひとつくらいしていけばいいのに。そう思って口を開きかけたけれど、あたしは急にバカバカしく思えてきてやめてしまった。
「いいの?」
「うん。それより、シューズありがとね」
慣れ合わないただのクラスメイトより、チームメイトの方が大事だ。少なくとも、あたしにとっては。
調整を済ませたシューズは、甲のラインも蹄鉄もあたしの足にぴったりとフィットして、全体的に軽くなったような気がした。同じ重さのシューズや蹄鉄でも、足型に合うか合わないかで感じ方は大きく変わる。軽く感じるということは、調整がうまくいった証拠だ。いままで自分で手入れをしていた分、専門業者の手による仕上げの質の高さがよくわかる。
「いやあ、やっぱりプロの技はすごいね」
「あはは、ルピナスちゃんはもう、専属の装蹄師を雇ってもいいかもね」
「またそんなこと言って。そういうのはクレセントみたいになってからじゃなきゃ」
無敗でGⅠ二勝の称号を勝ち取ったレイアクレセントは、シューズメーカーとのスポンサー契約も手に入れた。メーカーから派遣される専属の装蹄師と、毎日のように意見交換をしている。レイア家が懇意にしているメーカーのライバル企業を選んだあたり、徹底的に対抗意識を燃やしているようだった。
「そろそろ、おうちの人とも仲直りしてくれるといいんだけどな」
クラウンセボンは悲しそうに言った。レイアクレセントが実家ともめている話は、ネットのまとめサイトや週刊誌で格好のネタになっている。ちょっと検索すれば「レイア家 不仲」なんてサジェストがすぐに出てくるぐらいだ。その状況をあたしは不謹慎ながら笑ってしまったけど、クラウンセボンは深刻に受け止めているらしかった。
「まずは向こうが謝らないと。クレセントって、普段は大人しくて優しいけど、プライドのかかった話となるとめちゃめちゃ頑固だもん」
「そう、だね……」
多分、それはクラウンセボンだってわかっている。そんなつもりじゃなかったのに、妙にしんみりしてしまった。あたしは空気を変えようと、まもなくデビューするルームメイトのトレーニング風景に視線を移した。ちょうど、ウッドチップコースから引き上げて、クールダウンのストレッチをはじめたところ。
「それよりさ、ホープの走り、どう思う?」
クラウンセボンはあたしの差し向けた水を受け取って、すぐに元気な調子で答えてくれた。
「とってもいいと思う。もともと骨格のバランスは整ってたし、何より走る子の目をしてるもの。きっと、もっともっと強くなるよ」
「あはは、なんかトレーナーみたいだね」
クラウンセボンが太鼓判を押してくれるなら、心配はいらない。彼女の
「なんなら、その勢いで新しい子をスカウトしてみたら? ほら、あそこにいる子たちとかさ」
トラックのすみっこの方に、合同トレーニングを終えたとみえる下級生たちが自主トレにやってきていた。チームトレーニングにやってきている他のトレーナーのことを、物欲しそうな目でチラチラと伺っている。なんとかスカウトの目に留まろうと一生懸命アピールしているようだ。
「懐かしいね。もう、遠い昔のことみたい」
ぽつり、とクラウンセボンがこぼした。何のことを言っているのかは、あたしにもすぐにわかった。
あそこで自主トレに励んでいる子たちは、ほんの一年ちょっと前のあたしたちだ。とにかく誰でもいいからスカウトしてくれと思いながら、これみよがしに居残り練習をしていたんだった。
「ねえ、ルピナスちゃん」
「なに?」
「私、ルピナスちゃんと一緒に走りたいな」
「お、やる? 併走。もうトレーナーにも走ってもいいって言われてるから、いけるよ?」
ちょうど、新しいシューズの具合を試してみたいところだった。栗毛の親友は、いつものキラキラ輝くような笑顔で、嬉しそうに「うん」と頷いた。
許可をもらって、あたしたちはあの懐かしのウッドチップコースの上に並んだ。強度は軽く、ウマなりで。レースから日も浅いし、おろしたてのシューズでいきなり全力は出せないから。
「じゃあ、行くよ」
ちょんと踏み出して、地面を蹴る。木片が敷き詰められた柔らかいコースの上で、シューズの具合を確かめるように、徐々にスピードを上げていく。
(軽い!)
履いた時点で分かっていたことだけれど、実際に走ってみるとよりハッキリと違いがわかる。本当に、びっくりするくらい足になじんでいる。まるで裸足で走っているみたいに軽くて、これなら次のレースではもっといいパフォーマンスが出せそうだ。
気分よくどんどんと加速していく身体を撫ぜるように、春のさわやかな風が通り抜けていった。
(――ああ、気持ちいいな)
走ることは楽しい。ウマ娘の本能ともいえるその喜びは、もちろん厳しい勝負の中でだって失ったわけじゃない。ただ、ひりつくような勝負を繰り返し、焼き切れそうなほどの熱を帯びたトレーニングは、楽しいだけじゃない。苦しいことも、つらいこともたくさんある。
でも、久しぶりのクラウンセボンとの併走はただひたすらに楽しかった。こんな併走なら一生走り続けていたいとさえ思える、幸せな時間だった。
(ねえ、そうでしょ)
あたしは隣で走る友達に、目で合図した。
けれどそこにいたのは、息も絶え絶えになりながら、必死であたしに食らいつこうとする栗毛の少女だった。
「……ルピナスちゃん」
足を止めてしまったあたしの方へ振り返るクラウンセボンは、ぜいぜいと息を荒くしながらも笑顔だった。
「やっぱり、速いね。もう全然、ついていけないや」
やめてよ。そんなこと、言わないでよ。
「私ね、春になってから、ちっとも記録が伸びないんだ。いっぱい勉強して、いっぱい練習したのに、全然、速くならないの」
聞きたくない。今すぐにでも走って逃げ出して、聞かなかったことにしてしまいたい。こんな気持ちは初めてだった。そんな思いとは裏腹に、あたしの身体はどうしても動かない。クラウンセボンは、さっぱりとした笑顔のまま、大きく息をひとつついた。
「五回走って一回だけ掲示板に載れたけど、それが私の限界みたい」
本当は、前からわかっていたこと。あたしが桜花賞に夢中になっている裏で、クラウンセボンはずっと苦しんでいた。いつもあたしが練習場に行く頃には、もうトレーニングの準備が整えられていて、帰るときも片付けをしないでいいと言われて。それは、別に彼女が雑用係を買って出ていたわけじゃない。彼女が誰よりも早くから練習を始めていて、誰よりも遅くまでトレーニングをしていたからだ。それなのに、結果がついてこない。距離を変えても、ダートに変えても、結果が出ない。そんなことは全部知ってる。だけど心のどこかで、なんとかなる、なんとかなるはずだと思いながら、あたしは必死で考えないようにしていた。
変だよ。どうしてこんな話をしながら、そんなふうに笑ってるの? もっと悔しくてたまらないって顔、すればいいのに。泣いて喚いたってかまわないのに。ああ、嫌だな。その顔、あたし知ってるんだ。見たことあるんだ。去年の四月に。寮の部屋で。
「次の未勝利戦で八着以内に入れなかったら、二ヶ月間は出走停止になっちゃう。そうなったら、終わりにしなきゃ」
なら、まだわからないじゃないか。どうにかして上位に入って、それでまた頑張ればいいじゃないか。言いたいことはどんどん膨らんでくる。だけど、あたしに思いつくことなんて、クラウンセボンなら全部わかってる。わかったうえで、こんな話をしているんだ。ということは、もう心の中ではすべてが決まってしまっているっていうことで。
「ほんとはね、桜花賞の前からわかってたことなの。だけど、言えなかったんだ。大事な大事なレースの前なのに、ルピナスちゃんを驚かせちゃうって思ったから。……ごめんね、黙ってて」
「……嫌だよ」
本当は、強い口調で言ったつもりだった。それなのに、実際に出てきたあたしの声は弱弱しくて、震えていて。
「そうだよね、悩みがあるならちゃんと言えって、ルピナスちゃんいつも言ってたもんね」
「違うよ、そうじゃないよ」
あたしは知っている。こうなってしまったウマ娘を引き留める方法は、もうどこにもないんだってこと。
「夢みたいだった。本当に私、幸せだったんだ。ルピナスちゃん、クレセントさん、テンダーちゃんにホープちゃん。こんなすごい子たちに囲まれて、一緒にトレーニングできて。みんながどんどん速くなっていくの、記録につけていくのがとっても楽しかった。みんなのトレーニングメニューも、食事のメニューも、全部私の大事な大事な思い出。私がここにいた証」
「やだよ、ボン。やだ……」
あたしの抗議は聞き入れられなかった。クラウンセボンはあたしの身体を抱き寄せると、いつかあたしがそうしたのと反対に、あたしの背中を撫でながらそっと囁いた。
「今度の日曜、見に来て。私、走るから。最後にもう一度、芝で」
それは、ホープアンドプレイのデビュー予定と同じ日。
「まさか、ホープと」
「ううん、違うよ。私の出るレースはそのふたつ前。1600メートル。ホープちゃんのレースは、私には長すぎるもの」
東京レース場、芝1600メートル。その条件は、あのGⅠレースと同じ条件。
「勝てるよ。ボンなら。絶対観に行くから」
「ありがとう」
思わず口をついて出たその言葉も、あたしの大事な親友は笑って受け流すだけだった。
「ルピナス! ボン! そろそろミーティングするから、上がって!」
トレーナーの声が聞こえる。だけどあたしはもう少しだけ、二人だけの時間が欲しかった。
「ボン、もう一周だけ、走ろう」
トレーナーの指示を無視したその提案にも。クラウンセボンは嬉しそうな顔で「うん」と頷いた。やっぱり、あたしのことを何でもわかってくれる。日が傾きかけたトラックコースの上で、あたしたちは、あたしたちだけの最終追い切りに入った。