チーム〈プルート〉六人目のメンバーが加入して、あたしたちのトレーニング生活はまた新しい賑わいを見せ始めていた。
「あっ、ルピナスさん! タオル、お持ちしますね!」
「テンダーさん、シューズを磨いておきました!」
新しくチームに加わったショコラレインは、よく動き、よく働く。レースを控えたあたしやテンダーライトに対してはもちろん、ホープアンドプレイやレイアクレセントといった他のメンバーに対しても、何かと自ら下働きをして、雑用を片付けてくれている。そのうえで自分のトレーニングも欠かさない。さながらプチ・クラウンセボンといった感じだ。ただひとつ、クラウンセボンと違うところがあるとすれば、それは――。
「やば、ショコラ、めちゃくちゃ速い……っ」
まるでジェットエンジンでも積んでいるのかと思うほどの加速力に、稲妻のような最高速度。もちろん距離を延ばせば追いつけないことはないけれど、加速しきった彼女の圧倒的なまでのスピードには、ついていくのがやっとなほどだった。これまでのチームメンバーとは完全に別次元の世界。ショコラレインは紛れもないスプリンターだった。
「えへへ、ありがとうございます。でも、これじゃまだまだマイルでは通用しませんよね。私、いつかルピナスさんと一緒に走りたいんです。だから、頑張って距離を延ばさないと!」
「あはは、頑張ってね」
正直、冗談じゃないぞ、と思った。こんなスピードの持ち主がマイルにまで対応できるようになったら、いまのあたしじゃ勝てっこない。慕ってくれる後輩ができた嬉しさの一方で、それと同じくらい大きな危機感をあたしはひしひしと感じていた。
「テンダー、もう一本併せお願い」
「う、うん!」
ただ、おかげで次への戦いへ向けた準備にも熱が入る。いろんな意味で、クラウンセボンはいい子を連れてきてくれた。それだけは事実だ。
本番を四日後に控えた最終追い切りの日、毎度のごとく取材陣がチームにやってきた。けれど、その数は予想していたものよりもずっと多い。レイアクレセントのダービー挑戦への取材がメインだろうと思ったけれど、どうやらそうでもないらしい。桜花賞での走りで注目を集めたあたしは、マスコミにとってすっかりおいしいネタになったようだった。
過熱する報道への対応は、アスリートにとって乗り越えなければならない壁のひとつ。だけど、普通の学校で言えばまだ中学生のあたしたちにとっては、簡単なことじゃない。できることと言えば、なるべくチームの集団から離れないこと、何かしゃべるときはトレーナーと一緒に対応すること、それくらいだった。
「はいはーい、ルピナスちゃんへの取材は私を通してからにしてくださいね!」
あたしを守るために、クラウンセボンはこうして網を張ってくれている。けれど、それでも何人かはその網をかいくぐってやってくる。そして、そういうことをするのは、得てしてロクでもないヤツであることが多い。
「じゃあ、ルピナス。ラストの追い切り行こうか」
「うん。その前にトイレ、済ましてくる」
その時のあたしは、いつも以上に気合が乗っていた。新メンバーも入ったし、恥ずかしい走りはできない。今回のNHKマイルカップだって、一生に一度のレース。桜花賞と同じくらい、あたしにとっては重みがある。最終追い切りは、テンダーライトとの坂路合わせ。先行する相手をウマなりでとらえる。桜花賞のときと同じだけど、より高いレベルのタイムが欲しいところだ。
「オッケー。じゃあ、坂路で待ってるからね」
トレーナーの言葉にうんと頷いて、あたしは一人、用を済ませるためにその場を離れた。それはちょっとした油断。いや、追い切りに気が行っていて、警戒が緩んでいただけ。いずれにせよ、これが事件の引き金になるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
「ねえちょっと、話聞かせてよ」
「うわっ、何!?」
その記者は、トイレの出入り口の陰であたしが出てくるのを待ち伏せしていた。ヒドすぎる、と思ったけれど、後から考えれば中まで追いかけてこなかっただけ、まだ良かったのかもしれない。
「何ですか」
あたしはトレーナーたちの待っている坂路へ早足で向かいながら、わざと不機嫌さを隠さずにぶっきらぼうに返答した。相手は人間、走れば簡単に逃げられたのかもしれない。だけどその時のあたしは全然違うことを考えていた。警備員とか、よそのトレーナーとか、誰でもいいからこの光景を見つけて、この記者を出禁にしてくれないかと期待していた。それに、下手に大声を出して、騒ぎにするのも嫌だったから。
「レイアクレセントがダービーに行ったのに、オークスへ向かわなかったのはなんで? マイルカップは厳しいよ? 三冠路線とか、スプリント路線の子からもメンバーが流れてくるんだから」
「あたし、マイルが好きなんで」
タバコ臭い、薄汚れたジャンパーに身を包んだその記者は、なおも突っかかってきた。
「へえ、距離不安? でも、そんな消極的な考えでマイル路線はキツいんじゃない? あ、あれかい? 確か君はクラシックの特別登録をしてなかったよね。追加登録料をケチろうってこと?」
「違います。いまさらそんなこと考えてませんよ」
「ふーん。あと、いまトレーナー助手やってる子、元チームメイトでしょ? 残念だねえ、競走ウマ娘として芽が出なくて」
ついに関係ない話まで始めた。それに、あたしの親友に対してあまりにも失礼な言い草。この時点で、あたしはキレそうだった。でも、ここで暴れたら終わりだ。あたしはレースを控えたウマ娘。事を荒立てればネタにされる。クラウンセボンだってそれは望まないはずだ。あたしは必死に感情を押し殺して、無言のまま歩き続けた。どうしてこういうときに限って誰も通りかからないんだろう。早くこいつをつまみ出してほしいのに。
そんなあたしの我慢など意に介さず、男は無神経に、あたしへの揺さぶりを続けてきた。そして、とうとう。
「――ねえ、そこんとこ、どう思う? やっぱり『やったぜ』ってなるもんなの?
限界がきた。
「アンタねえ!」
思い切り地面を踏み鳴らして、あたしは相手をこれでもかと睨みつけた。それ以上何か言ってみろ、二度とおしゃべりできなくなるまで蹴り付けてやる。
殺気を感じてか、男は一瞬顔をひきつらせた。けれど、すぐにニタニタといやらしい笑みを浮かべて「まあまあ」と何の意味もないセリフを吐き出す。
「ふざけ……」
「ルピナス!」
そこへトレーナーの大きな声が割り込んできた。彼女は全速力であたしのもとへ駆け寄ると、男の前に立ちふさがって、息を荒くしたまま告げた。
「お引き取りを」
男は悪びれる様子もなく、肩をすくめてとぼけた。
「嫌だなあ、何か誤解をなさってらっしゃいますね。僕は……」
「もう一度申し上げます。お引き取り下さい。取材は正規の手順で、正規の方法で行ってください」
トレーナーの口調は、まるで壁のようだった。感情的でもなく、説得するようでもなく、頑として文句を受け付けない機械のようだった。
男はしばらく
「しつけがなってないヤツ。所属のIDを隠してたあたりわざとだね。たづなさんに頼んで、キッチリ調べあげてもらうから……ルピナス?」
トレーナーの言葉は耳に入っている。あたしを慰めてくれようとしているのもわかる。だけど、あたしは反応できなかった。トレーナーはそんなあたしの顔を心配そうにのぞき込んだ。
「どうしたの。何を言われたの」
あたしはただ首を横に振るだけだった。答えたくなかった。たとえあたしが言ったものじゃなくても、あたしの口からもう一度それを音にするのは、絶対に嫌だった。
「大丈夫、行こうよ。追い切りでしょ。早くしないと、時間過ぎちゃうよ」
一刻も早く忘れたかった。それには、走るのが一番。だから、あたしは精一杯の作り笑いで、心配そうにしているみんなを急かした。
「ルピナスちゃん、ごめんね。私がついて行ってあげてればよかった」
それはきっと、心の底から出た言葉。いつものクラウンセボンらしい、優しい心遣いのこもった言葉。だのにそれを聞いた途端、喉が熱く焼かれるような、そんな得体のしれない感覚があたしの身体を襲った。
そんな状態で臨んだ追い切りの結果は、散々なものだった。
「る、ルピナスさん、どうしたの?」
時計の遅さは、併走相手に心配されてしまうほど。着差だけで見ても、僅か一バ身差の追走だったのに、あたしは最後までテンダーライトをとらえきれなかった。結果的に、あたしが遅いせいでテンダーライトのスピードも上がらず、二人そろって二週前のタイムよりも悪い結果になってしまった。呼吸が乱れて、いつものように脚が上がらない。吸っても吸っても、酸素が身体に回らない。
「トレーナー! もう一本」
「ダメ。追い切りは一本って決めてるの。そんな状態で数やっても、負担になるだけ。今回はこれでおしまい」
「でも」
あたしがどんなに頼んでも、トレーナーは頑なに首を縦に振ってくれなかった。
「ルピナスちゃん……」
水筒を差し出してくれるクラウンセボンの顔は、心配を通り越して、信じられないという表情だった。その横で、見学に来ていたショコラレインも同じ顔をしている。
……ああ、あたし、なんてカッコ悪いんだ。そう思った瞬間、激しいめまいがやってきて、あたしは目の前が真っ暗になってしまった。
気が付けば、あたしはトレーナー室のソファの上で、横になっていた。
長い歴史が刻まれている古びた天井のボードを眺めていると、ぼんやりとした意識の中で、今日起きた出来事がまるでループするようにぐるぐると巡り出す。そうするうちに、だんだんと思考がはっきりしてくる。あたし、何をしていたんだっけ。……そうだ、追い切りだ。今日はNHKマイルカップに向けた、最終追い切りの日。大事な日。
むくりと身体を起こして窓の方に目をやれば、外はもうすっかり日が落ちていて、あたしの間抜けな顔が窓ガラスに映っている。
「目が覚めた?」
デスクの前に腰掛けていたトレーナーがすっと席を立ち、あたしのそばまでやってきた。立ち上がろうとするあたしを手で制して、トレーナーは深く膝を曲げると、あたしの手にそっと触れた。
「トレーナー」
「何も言わなくていい。私がいけなかった。また、あなたを守り切れなかった。こんなことばかりだね、私」
あたしは急いで、違うと答えた。あんなところにまで取材に入り込んでくるなんて、予想できることじゃない。あんなのにまで対処しようというのなら、それこそ学園の授業時間も休み時間も、付きっきりでいなきゃいけなくなる。そんなの無理だ。後悔があるとすればあたしの方だ。最初に絡まれたところで、走って逃げればよかった。嫌な奴を捕まえてもらおうと、変な考えを起こしたのがいけなかったんだ。
「ねえ、明日も追い切りはできるでしょ?」
あたしはどうしてもやり直しがしたかった。今日は水曜日、明日の木曜日は追い切りの予備日。ならまだチャンスはあるはずだと思った。
だけどトレーナーは静かに言った。
「私のチームでは、追い切りのやり直しはしないことにしてるの。ルピナスの今週の追い切りは、あれが最後」
「でも、あんなタイムじゃ」
仕上がり切らない。そう言おうとした時間を塗りつぶすように、トレーナーが先回りして答えた。
「ルピナスの具合次第では、出走登録の取り消しも考えてる」
「そんなのやだよ!」
反射的にあたしは声を上げた。こんなことで、こんなくだらないことで出走取り消しなんて、絶対に嫌だ。それじゃあまるで負けるみたいだ。レースにじゃない。あんなヤツの言葉にだ。
「絶対、出るから」
トレーナーはあたしの手を優しく握りながら、落ち着いた声で言った。
「もちろん、出させてあげたい。だけどね、あなたが元気に走れるという確信が持てないのなら、私はトレーナーとして、あなたを止めなきゃいけないの。わかって。ね?」
「大丈夫、あたし走れるから。今日みたいなことには、絶対にしないから」
必死に食い下がるあたしに、トレーナーは微笑むだけでハッキリとは頷いてくれなかった。
「今日は寮まで送っていくよ。廊下で待ってる子も一緒に」
廊下? とあたしが口を開きかけたその時、トレーナー室の扉が開いた。
「あ……」
入ってきたのは、クラウンセボンと、ショコラレインだった。てっきり全員帰ったと思っていたから、あたしは驚いてしまった。
「な、なんで」
「私、トレーナー助手だもん」
クラウンセボンはさらりとそう答えた。彼女らしく、ちょっとおどけた感じで。
「じゃあ、ショコラは」
「うーんと、トレーナーさんは全員帰そうとしたんだけど、ショコちゃんだけはね……」
言いにくそうに言葉を選んでいるクラウンセボンの横で、ショコラレインはきっぱりと言い切った。
「私がどうしても残ると言ったんです。ルピナスさんを置いて帰れません、って。だって、とてもお辛そうだったから……」
「あはは、がっかりしたでしょ。こんな弱虫な先輩で」
「そんなことありません!」
小さな身体を目一杯使って、ショコラレインはあたしの自嘲する言葉を否定した。その瞳はちょっぴり潤んでいる。
「そうだよ。ルピナスちゃんがあんな風になるなんて、普通なら考えられないもの。誰もルピナスちゃんのことを弱虫だなんて思わないよ」
ショコラレインの頭を撫でてやりながら、クラウンセボンは穏やかな表情で言った。
「待ってる間ね、いろいろルピナスちゃんのこと聞かれちゃった。いっぱいいっぱい、カッコよくて、強くて、優しいルピナスちゃんのこと、教えてあげてたの」
いつもなら、恥ずかしいことするのやめてよ、と言うところだったのに、今日はなんだかそれが言えない。そんなことよりも、悔しかった。こんなに素晴らしい友達をあんな風に言われて、言い返すこともできないまま、感情をグズグズにされてしまったことが。そうして、大事な追い切りまで台無しにしてしまったことが。
「心配かけて、ごめん。あたし、ちゃんとするから。もうこんなことに負けないから」
こんなこと、の中身は話していない。けれどクラウンセボンは、まるで全て理解しているかのような顔で頷いた。ひょっとすると、本当にわかっているんじゃないかという気がした。あたしが何を言われたのか、どうしてあんなことになってしまったのか、全部。
泣きじゃくるショコラレインを慰めながら帰る道々、あたしはいつかトレーナーが口にしていたことを思い出していた。
――『私はね、トレーナーにとって一番必要なことは“気付き”だと思うんだ。私はいつも、気付けるトレーナーでありたい』
心優しいクラスメイトの姿は、もうすっかり頼もしいトレーナー助手のそれに変わっていた。
「トレーナーさんの言ったとおりだったね!」
クラウンセボンがそう言って、嬉しそうに手を叩く。土曜日のロッカールームは、打って変わって明るい雰囲気に包まれていた。テンダーライト、八番人気からの快勝。トレーナーの仕掛けた距離延長は見事にハマり、見事二勝目をあげることになった。これからはオープン戦や、重賞にだって出られるようになる。
「ほ、本当に、いまでもまだ信じられないです! 私が、条件戦でもこんなに気持ちよく走れるなんて」
勝った本人も驚いたように目を丸くしている。二バ身先行からの、影も踏ませない押し切り勝ち。まぐれではありえないほどの、強い勝ち方だった。
「折り合いも、ペースのコントロールも完璧。もう少し距離を延ばしても、これなら全然戦えるよ。まずは夏明けのどこか、大きなところをね――」
トレーナーの総評を逐一メモに取るクラウンセボン。すっかり師弟の関係になった二人は、次の戦場の検討にも余念がない。
するとそこへ、小さな芦毛のチームメイトが口を開いた。
「それで、結局どうすんの」
低く静かなその声は、冷たい氷水のように部屋の空気を一変させた。まもなく、GⅠ開催前日の記者会見が始まる。あの日から、トレーナーはずっとあたしを出走させるかどうか迷っているみたいだった。もし出走しないのなら、その旨をURAに伝えなくてはいけない。無断欠席は場合によっては一定期間の出走停止など、制裁を科されることもある。
ただ、あたしの結論は変わっていない。
「出るよ。あたし、どこも悪くないんだから」
そもそも、出走取消には体調不良や怪我等の理由書提出が必須だ。そこへいくと、あたしに出走取消をする正当な理由なんかない。でたらめな理由書を作るのなんてまっぴらだ。
「ルピナス、最後に確認させて」
「なに?」
トレーナーはあたしの目を真っすぐ見つめて、ゆっくりと、一語一語を確認するように言った。
「あなたが走るのは、誰かの名誉を守るため? それとも、走りたくて、勝ちたくてたまらないから?」
「それは……」
桜花賞のときは、胸を張って後者だと言えた。だけど、いまはどうだろう。あたしは、負けられないと思っている。あたしの心を、何より大切な友の名誉を汚すようなことを言った、あの男の言葉に負けないために。でもあたしは、同時にわかっていた。トレーナーは、それを望んでいない。きっと、クラウンセボンも望んでいない。あたしに望んでいるのは、あたし自身が、あたし自身の為に走ること。ただそれだけ。だからきっと、この思いを正直に打ち明けたら、出るなと言われてしまう。
あたしは、嘘をついた。
「走りたくてしょうがないの。桜花賞で負けた悔しさ、早く晴らしたいから」
桜花賞のことなんか、ここ数日すっかり頭から消し飛んでいた。
「それに、みんな気づいてる? あたし、生意気にもGⅠとか出ちゃってるけどさ、まだ重賞ひとつも勝ってないんだよね。今日で実績ではテンダーに追いつかれちゃってるんだよ。……負けたくないじゃん? チームメイトだけど、ライバルだし」
それっぽい言葉をぺらぺらと並べる。クラウンセボンがにっこりと微笑んだ。その微笑みが何を表しているのか、あたしには読み取れない。
助け舟は、意外なところからやってきた。
「あの、トレーナーさん! 私からもお願いです。ルピナスさんを出走させてあげてください!」
それはショコラレインだった。
「私、何にもわかってません。ルピナスさんに何があったのかも、どうするのが正解なのかも。でも、走りたい、出たいって
下級生ながらしっかりとした口調で意見を述べるショコラレインを、みんな驚きの表情で見つめていた。
続いて沈黙を破ったのは、レイアクレセントだった。
「トレーナーさん、私からもお願いします。大丈夫です。ルピナスさんは、不躾な輩の言葉で折れてしまうほど、ひ弱なウマ娘ではありません。……そうでなくては困ります」
トレーナーはクラウンセボンの方をちらりと
「わかった。それじゃあ、会見場に行こうか」
記者たちが揃うまでの間、あたしは出走用の勝負服に身を包んで、ステージの袖に待機していた。多くのメディアスタッフが行き交う現場は騒がしく、その様子を眺めているだけで、否応なしにソワソワとテンションが上がってくる。
ふと、あたしのすぐそばに、ホープアンドプレイが寄ってきたのに気づいた。ボソボソと小さな声で何事か呟いている。でも、周りがうるさくてよく聞き取れない。あたしは身をかがめて、耳を彼女の口元へ寄せた。
聞こえてきたのは、こんな言葉だった。
「二度とつくなよ。あんな嘘」
「え?」
背筋に電流が流れたようだった。
「クセになるよ」
そう言い残して、ホープアンドプレイはその場を去っていった。あたしはというと、その背中をぽかんと見送るだけで、追いかけることもできなかった。
会見の予定時刻まで、あと五分。