「ホープ、大丈夫? あたしに、なんかできることない?」
「何度も聞くなよ」
ホープアンドプレイは、自身のゼッケンの紐を締めなおして、呆れたようにため息をついた。今日はGⅡ神戸新聞杯。三冠レースの最後、菊花賞に出るための最後のトライアルレースだ。これから一世一代の一発勝負に出るとは思えないほど、当の本人は落ち着いている。
「相変わらず、キミはボクより神経すり減らしてるな」
そう言って笑う余裕があるほどに。
「まだ先週のこと、引きずってんのかい」
「それは――!」
図星を突かれて、あたしは思わずその先の言葉を呑んでしまった。
『セントライト記念、スタートしました!』
「いけえ、テンダー!」
つい先週、あたしは重賞初勝利を手にした京成杯と同じ中山レース場で、今度はスタンドからレースを見つめていた。
菊花賞トライアル、セントライト記念。神戸新聞杯よりも、今年はこちらの方が比較的戦いやすい相手が多いというのが、トレーナーをはじめとしたみんなの見立てだった。出走したテンダーライトにとっては菊花賞の切符を獲りに行くレースとしてこっちをえらんだのは当然の選択でもあり、これが重賞初出走という意味では賭けでもあった。
テンダーライトは作戦通り勢いよく飛び出すとスタート直後の坂を駆け上がり、一気に先頭に立った。そのまま第1コーナーを回っていく。
「いいポジションを取れた! あとはそのまま落ち着いて……」
あたしの横で、トレーナーは祈るようにそう呟いていた。九月の中山レース場は前残りしやすいバ場。特に2200メートルを走る今回の場合、その傾向はより強くなる。この勢いで、下り坂になる向こう正面で息を入れられれば、がぜん有利になる条件はそろっていた。
けれど、異変はすぐに起こった。
「待って、飛ばし過ぎじゃない?」
向こう正面に入ってからも、テンダーライトの走りは緩まない。2、3バ身ほどの差を保ってレースを進める予定が、4バ身、5バ身とどんどん差が開いていった。通過タイムを見ても、明らかにオーバーペースなのがわかる。
何かおかしい、と思った。事前のミーティングで、中間のペースは落としていくことを確認し合ったはず。テンダーライトは不器用なほうではないし、直前に言ったことを忘れるようなポンコツでもない。この状況はどう考えても変だ。そう思った。
「どうしてあんなに」
「ああ、
その時のトレーナーの絶望的な表情は忘れられない。あたしもそこで思い出した。その事前ミーティングでトレーナーが言っていたことを。
『ハナを獲ったら、ペースダウンに意識を向けなさい。中山コースは向こう正面で長い下り坂に入るから、そこで脚を持っていかれないように』
先頭に立つことが勝利の絶対条件であるテンダーライトは、最初の400メートルでなんとしても前に出ないといけない。ただ、レース場は人間の陸上競技のように平坦なコースばかりじゃない。特に中山レース場の2200メートルは、スタート直後に急な上り坂がある。そこでハナを奪うには、スタートダッシュが肝心だ。
ただ、ここにはひとつ罠がある。それは、上り切ったあと、コーナーを挟んで向こう正面に入ると、すぐに長い下り坂に差し掛かるということだった。
「位置取り争いの勢いのまま向こうの下り坂に入ったせいで、脚を緩めることができてない。意図しないで勝手にペースが上がって……多分、まだテンダーは気づいてない」
トレーナーはそう言って、こぶしを握り締めた。事前に確認していたのだから、このコースの注意点はテンダーライト本人もわかっている。おそらく自身ではペースを落としているつもりになっているはずだ。それなのに加速が止まらない。トレーニングで培ってきたペース感覚が完全に狂っているようだった。
「テンダー! 抑えて! 速すぎるよ!」
周りの歓声にかき消されるのだから、届くわけがない。でも、そう思っても叫ばずにはいられなかった。こんなとき、スタンドにいるあたしたちには何もできない。もどかしさに震えていると、そんなあたしの気持ちを察したかのように、ひときわ大きな声がレース場のスピーカーから響き渡った。
『ぐんぐん飛ばすテンダーライト! 1000メートルの通過タイムは58秒9! これは速い! 前走から一転大逃げを打ちました!』
その瞬間、それまで前だけを見て走っていたテンダーライトが、初めて後ろを見た。さすがに聞こえたらしい。いや、場内実況の声がはっきり聞こえてしまうほど、後方バ群を引き離しているということだ。二度、三度と何度も確かめるように振り返っている。遠目で見てもわかるほど、テンダーライトは慌てふためいていた。トレーナーが思っていた通り、いまのいままで全く気付いていなかったらしい。自分のペース感覚が、実際のレースでこんなにズレてしまうなんて、初めての経験だったんだろう。
そこからのテンダーライトは、見ている方が気の毒になるほどだった。
曇り空の稍重バ場は、後を追うウマ娘たちにとってタフな条件になる。でも、ハイペースで逃げたウマ娘を易々と逃がすような、そんな甘いバ場じゃない。第四コーナーに差し掛かったところで捕まったテンダーライトは、そのままじわじわと順位を下げていった。明らかなガス欠。最後はほとんど歩くような格好でブービーの14着入線となった。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
デビュー六戦目にして、初めて掲示板を外したテンダーライト。楽屋に引き上げてきてからは、泣きじゃくるばかりだった。
「心配しないで。こんなことはよくあるものなの。この悔しさは経験に変えていこう。ね?」
その優しい口調とは裏腹に、敗れたテンダーライトの肩を抱きかかえるトレーナーの表情は固かった。この結果では、テンダーライトの菊花賞出走はかなり厳しい。皐月にもダービーにも出られなかった彼女にとって、菊花賞は三冠レースに挑戦する最後のチャンス。望むレースに出走することすら叶わない、という現実が立ちはだかる現場を目の当たりにするのは、あたしにとって、クラウンセボンのレース引退以来の出来事だった。
そのショックを引きずったまま、あたしは今日の神戸新聞杯の応援にやってきていたのだった。
「せっかく夏合宿で、良い感じになってたのに」
「そんなのみんな同じだよ。良くなったって上手くいかないことだってあるさ」
ホープアンドプレイは、どこまでも冷静だった。
「そうはいったって、テンダーはボクよりポイント稼いでるだろ。オープン戦も取ってるし。登録してみたら、うっかり通過するかもしれないよ」
まあやらないだろうけど、と言いながら、ホープアンドプレイはシューズの裏の蹄鉄をコツコツ鳴らした。どこか他人事のようにさえ聞こえるその言葉に、あたしは不満よりもすっかり感心してしまっていた。
本人も言っているように、これまでの成績ポイントはテンダーライトの方がたくさん稼いでいる。つまり状況としては、ホープアンドプレイの方がずっと厳しい条件でこのトライアルレースに挑むことになる。それなのに、テンダーライトの大敗に微塵も動じた様子はない。
「なるようになるさ」
小さな芦毛のルームメイトはそう呟いて、楽屋の席を立った。ちょうどそこへ、トレーナーとクラウンセボンが、彼女をパドックステージへと呼びに来たところだったから。
「じゃあ行ってくる」
「う、うん」
他のチームの仲間なら、楽屋を後にするとき一度は見送る者の方に振り返る。でも今日の出走者は、一切そんな素振りを見せることなく去っていった。あたしはポカンとしたまま、あとに残されたクラウンセボンと共に、遠くなっていく背中を見つめていた。
そうしていると、ふいに口からこんな言葉が飛び出した。
「ボン、ホープはこのレース、勝つつもりがないのかな」
「え?」
栗毛のトレーナー助手は驚いたような声を上げた。驚いたのはあたし自身もだった。自分でも、なぜそんなことを口にしたのかわからない。でも、なんとなくそんな気がした。あの雰囲気は、勝つことがわかっているから出てくる余裕というよりも、勝てないことがはじめからわかっているような感じに思えて仕方がなかった。
「やっぱり、“アレ”が出ているから?」
あたしは、ホープアンドプレイがいつもそう呼ぶように言ってみた。手元の出走表には、フルゲート割れながら14人の錚々たるメンツが並んでいる。その中に、ひときわ輝きを放っている名前があった。
「……勝ち負けの話をするなら、フォーミュラさんの存在は、やっぱり大きいよ」
クラウンセボンはトレーナー助手らしく、落ち着き払った様子で頷いた。一部の予想では、ダービーから前哨戦を使わずに直行するのではないかと言われていたレイアフォーミュラ。だけど、やはりここはセオリー通りに出走してきた。ホープアンドプレイが出走登録を宣言した翌日にそれを発表したのは、偶然にしてはできすぎたタイミングだったけれど。
レイアフォーミュラの陣営は、直前の記者会見で「上がりウマ娘との力関係を測りたい」と言っていた。それは間違いなく、ホープアンドプレイを意識した発言だ。無敗を継続するためにも、勝負付けを済ませるためにも、向こうは勝ちを譲る気はないだろう。
「ボンも、勝つのは厳しいと思う?」
「どうかな。いまのホープちゃんにとっては、2400メートルも、少し短いから」
あくまで結論は口に出さない。でも、いつも前向きな言葉であたしたちを引っ張ってくれる彼女がそうしているというだけで、それがどういう意味を持つのかは、いくらあたしでも想像がつく。
そうか、やっぱり、難しいのか。あたしがそんな弱気をこぼしそうになったところで、その口を、クラウンセボンは塞いでくれた。
「でもね、ホープちゃんは強いよ」
「本当?」
「うん。きっと、三着以内には入れる。そのために必要なトレーニングは、十分に積んできたはずだもの」
クラウンセボンの口調はきっぱりとしていて、何かを誤魔化しているようには聞こえなかった。
「だからね、そういう意味ではフォーミュラさんは関係ないの。ホープちゃんは、きっとそれがわかってるんだと思う」
それは、今回のレースが完全に「出走権狙い」であるということ。フォーミュラとの勝負は二の次ということだ。考えようによっては消極的で、屈辱的でもある判断。あたしだったら、そんなのは耐えられない。負けてもいいから出走権狙いだなんて、そんな考え方ではまともに走ることなんかできないだろう。クラウンセボンが言う「ホープちゃんは強い」という言葉の本当の意味が、ここにあるような気がした。
まあそれも、本当に出走権を獲れたなら、の話だけど。
『さあ菊の舞台への最終トライアル、神戸新聞杯、阪神芝2400メートル。まもなく出走の時間です。注目は何と言ってもここまで無敗の二冠ウマ娘、
スタンドに行くと、すでにトレーナーが腕組みをしながらスターティングゲートを見つめて立っていた。あたしたちがやって来たことに気づいても、トレーナーは視線を動かすことなく、そのままの姿勢で静かに言った。
「はじまるよ」
その表情はやっぱり険しい。心なしか、組んでいる腕にもいつもより力がこもっているように見えた。図らずも、今日の芝コンディションは先週のセントライト記念と同じ、稍重。嫌な記憶がよみがえった。
「頑張れ、ホープ」
あたしはそれを振り払おうと、おまじないのようにその言葉を唱えた。
ファンファーレが鳴り響いてから、ゲートインが完了するまでの時間はとても長かった。まるで1時間も2時間も待たされたような、そんな時間だった。
『スタートしました!』
わあっと歓声が上がる。一番人気が素晴らしいスタートを決めたらしい。でもあたしたちの目は、そこへは向いていなかった。
小柄な身体が、他のウマ娘たちの間を縫うように、後ろへと下がっていく。上手く揉まれずに最後方の位置を抑えられたことを確認して、あたしたちは小さく頷いた。無敗の三冠ロードが続くことを願って沸き立つこのスタンドで、レイアフォーミュラのことを見ていないのは、きっとここにいる三人だけだ。
『レイアフォーミュラ三番手! 非常に良いペースで走っているようです。もはや死角なしといった状態か。やや縦長の隊列、ここからの出走権争いにもご注目です』
場内実況はもう勝つウマ娘が決まっているかのような言葉を並べている。いいんだ、いいんだ。あたしは自分に一生懸命言い聞かせた。本当の勝負は淀の3000メートル。いまはとにかく、そのための権利を勝ち取ることがすべてなのだから。
「来た!」
クラウンセボンが叫ぶ。
「ホープ!」
あたしも叫んだ。第3コーナーの手前、残り1200メートル。最後方から、小さな小さな芦毛の頭が、じわりじわりと位置を上げ始めた。1200メートルを走って、ようやく加速がつき始めたらしい。外、外を回って、明らかに距離はロス。それでも、稍重にしては比較的良い状態の青々としたバ場を踏みしめ、着実に順位を上げていく。
周りはまだそれに気づいていない。優勝候補がひた走る前方の方しか見ていないのだから、当たり前だ。
『さあ最後の直線! レイアフォーミュラ抜け出した! 後続を引き離してこれは強い!』
実況は勝利の
でも、それだけじゃ終わらない。終わらせないのが、あたしたちチーム〈プルート〉だ。
仁川の直線、後方から追い込んでくるウマ娘。それは、ちょうどあの桜花賞のときのあたしと似た格好。違うのは、毛並みの色と、切れ味の鋭さ。一瞬で最高速までスピードを上げたあたしと、ゆっくりゆっくりアクセルを踏み込んだホープアンドプレイ。けれども、前を追いかける執念は、同じだ。
「行け! 行け!」
後ろでもがくウマ娘たちの中で、その脚色はひときわ輝いていた。
「お、おい……」
スタンドにいる誰かが、戸惑うような声を上げたのが、はっきりと聞こえた。それを聞いてあたしは自分の口元がニヤリと緩んだのがわかった。
「よし!」
つい、そんな声が出た。今日もホープアンドプレイのスタミナは十分だ。あの模擬レースのときと同じように、最後の最後まで加速が止まらない。2400だろうが、稍重だろうが、関係ない。小さな身体に似合わない大きなストライドが、信じられないほど速いテンポで回転していく。これは間違いなく、抜けた。先頭を走るウマ娘に置き去りにされたバ群からただひとり、白い芦毛の髪が、絶対王者に追いすがっていく。
『後方からひとり飛んできたのは……ホープアンドプレイだ! しかし前との差はまだ5、6バ身ほどある!』
さすがにダメだ。届かない。それはわかった。前方のウマ娘はもうセーフティリードをとっている。ここから流しても勝つ。それでも、ホープアンドプレイは脚を緩めることはなかった。それだけの価値が、この一戦にはあるからだ。
圧勝する一番人気に対する歓声に混じって、ザワザワとさざ波のようなどよめきが広がっていった。7番人気の小さなウマ娘が、風のようにゴール板へと飛び込んでいく。その姿は、ここでレースを目撃した観衆の中に、わずかながら、けれども確かな揺らぎを生んだ。
『レイアフォーミュラ一着でゴールイン! 道悪も全く問題なし! 菊花賞での勝利の方程式、ここに完成か! 無敗の三冠に向けて、夢は淀へと続きます』
「やったやった! ほらルピナスちゃん、言ったとおりでしょ! ホープちゃん、ちゃんと出走権獲ったよ!」
「よかったぁ! ボンもトレーナーも、ホントすごいよ!」
場内アナウンスが三冠達成への煽り文句を並べ立てる中で、あたしたちふたりはハイタッチしてチームメイトの好走を喜びあった。トレーナーの表情を横目で伺うと、ふうと大きく息をつくのが見えた。
「とりあえず、よかった。ほんとに」
ホープアンドプレイの一発勝負という賭けは、トレーナーにとっては二発目の賭けだった。それは、あたしが想像するよりもずっと苦しいものだったに違いない。
そんな苦しさから開放されたあたしたちをよそに、走り終えたホープアンドプレイは涼しい顔でターフに立っていた。レースを終えたウマ娘たちの中で、膝に手をやらずに立っていたのは彼女と、勝ちウマ娘のふたりだけ。タフなバ場、タフな距離での力具合は、ふたりがずば抜けている。
さすが、と思うのと同時に、恐ろしいとも思った。去年一緒に走った模擬レースでは、2000メートルで脚があがっていたというのに、いまのレイアフォーミュラは、仁川の2400メートル、しかも稍重の舞台をしっかり走り切ることができている。菊花賞はさらに距離が延びるとはいえ、不安要素などどこにも無いように見えた。少なくとも、普通の相手であれば、三冠達成は固いだろうと思える。
そう、普通の相手なら。
「なあ、あれやっぱり脚余してたよな」
「余したってか、ズブいんだろ。すげー追い込みだったし。こりゃ菊はどうなるかわからんぞ」
ちらほらと、
誇らしかった。ダービーでは叶わなかった王者打倒の夢が、別の仲間によって引き継がれる。そんな瞬間を目にすることができたのだから。それだけじゃない。あたしの胸の中には、出走権を獲得できたというものとは違う、何かピンチに陥ったところを救われたような、そんな種類のホッとした気分が湧きたっていた。
『キミが勝ってくれれば、少なくとも、希望にはなるだろ』
それは、あたしの桜花賞のとき、アイツがあたしにかけてくれた言葉。なんとなくわかったつもりになっていた言葉。だけど、あたしは今日ここで、初めてその本当の意味を知ることができたのかもしれない。
「ねえ! 迎えに行こうよ!」
いてもたってもいられなかった。いつもならクラウンセボンが取る音頭を、あたしが奪う。意外そうに目をぱちくりさせた栗毛の親友は、それでもすぐに頷いて、トレーナーとあたしの手を取った。
地下バ道へと急ぐ道中、やけにあたしの腰のあたりへ、バサバサと栗色の尻尾が絡んできたけれど、あたしはわざと無視してやった。そうしていないと、浮かれすぎて帰って来た勇者に冷やかされるのが目に見えていたから。
明るい光の中から現れた小さな影は、帰ってくるなりさっさとゼッケンを脱ぎ捨てると、口々に好走を称えるあたしたちをよそに、なんでもないような顔をして、小さく頷くだけだった。