学年混合戦のGⅠ。通称「シニアGⅠ」なんて呼ばれるレースは、その名の通りシニア級のウマ娘たちが参戦してくる、最も過酷で、最もハイレベルな舞台。そこへあたしたちクラシック級のウマ娘が参加するのは、一言でいえば「挑戦」だ。あたしが先月出走した京成杯も混合戦。あれはGⅢだったけれど、それでも、感じた圧は同学年の子しか出てこないレースのそれとは比べ物にならなかった。それがGⅠになったら、どんなことになるかなんてもう想像もつかない。そんな想像もつかない場所に、あたしたちのエースが飛び込んでいく。それも、一番人気を背負って。
「支持率は三割強といったところですか。まあ、こんなものでしょう」
楽屋のモニターに映し出される応援チケットの売り上げ速報値。経験豊富なGⅠウマ娘たちがずらりと並ぶ中で受ける支持にしてはずいぶん大きな数字だ。その数字をさも当然かのように受け入れて、出走者中ただひとりのクラシック級ウマ娘は、勝負服の袖口のボタンをパチリと留めた。それは、絶対的な自信の表れ。
四日前の最終追い切りは、怖いくらいだった。併走したあたしが完全に置いて行かれる圧倒的なスピードに、坂路でも最後の一歩まで垂れない持続力。チーム二度目の夏合宿を越えて、レイアクレセントの力はとんでもないレベルにまで達していた。あたしも成長したはずなのに、その伸び幅には天と地ほどの差がある。ただでさえまぐれでもなきゃ勝てないような相手だったけれど、いまはもう逆立ちしたって敵わない。その雰囲気は、あのレイアフォーミュラにどこか似ている。ただひとつ違うところがあるとすれば、それは背負っているものの形だった。
「勝って来ますね。チーム〈プルート〉のエースとして。ティアラの代表として」
あたしは黙って首を縦に振るだけでよかった。実際のところ、レイアクレセントは桜花賞しかティアラ路線を走っていない。この世代のティアラ女王は、オークスを勝ったトーヨーメリッサだと言ってはばからない人もいる。でも、そのトーヨーメリッサを含めて、あたしたちにはわかっていた。今年のティアラの女王は、紛れもなくレイアクレセントだ。三冠路線組を相手に朝日杯を制し、果敢にダービーに挑んだその背中は、いまやすべてのティアラ組の目標になっている。そして、いつか越えたい背中でもある。だからこそ、他の誰にも負けてほしくない。三冠路線組にも、当然、シニア級の先輩たちにも。
そしてあたしには、レイアクレセントは負けないという確信もあった。今日の彼女は、体調もコンディションも完璧。ダービーからじっくりと時間をかけてきた分、最高の仕上げになっている。府中の二〇〇〇メートルという条件も、快晴という天候も、全てがレイアクレセントのためにあつらえられたみたいに都合がいい。おかげであたしは、いつものあたしではありえないくらいドキドキもハラハラもしていなかった。
数分後、招集がかかった。
トレーナーとクラウンセボンに連れられてパドックへ向かう後ろ姿は、いつもよりもずっと、それこそ背の高いトレーナーよりも大きく見えた。見送るあたしたちは「行ってらっしゃい」と普通の挨拶をするだけで、特別な言葉なんか一言も出てこない。だって、そんなもの必要ないんだから。彼女は当たり前のように走って、当たり前のように勝つ。そう思えるだけの信頼感があった。送り出される彼女も、それがわかっているようで、満足げに笑みを漏らして颯爽と靴音高く去っていく。
マントの裾から、ふわり、と香りが立つ。これはレースに挑むとき、レイアクレセントが必ず身に纏う匂い。今日のそれは、いつもよりも少し強めだった。気高く美しい女王のために仕立てられた、形のない勝負服だ。
「ルピナス先輩? スタンド、行きませんか?」
しばらくぼんやりしていたあたしの背中を、ショコラレインの声が叩く。
「あ、ごめん。そうだね」
どうもふわふわした気分だった。まったくと言っていいほど緊張感が湧いてこない。さすがにどうかしている。ふと見るとホープアンドプレイの眉間に皺が寄っているのが目に入った。だらしない様子を見咎められたと思ったあたしは、いつもより急ぎ足でスタンドへの階段を駆け上がった。
蝶のように遊び気味だったあたしの心を呼び戻したのは、スタンドの席であたしを待ち構えていた、予想外の先客だった。
「こんにちは」
あたしの顔を見るなり、その子はほわほわとした笑顔で手を小さく振って来た。
「久しぶり」
あたしも笑って答えた。本当に、久しぶりだ。
「モモイロビヨリ」
「モモって呼んで」
そう言って、モモイロビヨリは丸い綺麗な目をいっぱいに細くした。髪型といい、赤い花をあしらった髪飾りといい、まるでショーケースの中の日本人形みたいな愛らしい姿は、最後に会ったときと少しも変わらない。
そして、もうひとり。
「よう」
「メリッサさん!」
驚くテンダーライトに、樫の女王はいつものように軽い調子で右手を上げる。
「邪魔するよ」
「あの、あの、札幌記念、おめでとう……! 先輩たち相手に、すごいレースだった」
「どーもどーも。ルピナスにいいバトン、渡せたかな」
肩をすくめてあたしに目配せするトーヨーメリッサ。態度は荒っぽいけど、その気遣いは相変わらずだ。あたしは「まあね」と答えて、ふたりの横に並んで腰かける。
「いよいよだね」
なにが「いよいよ」なのかは、あたしとトーヨーメリッサの間で共有されていた。八月のGⅡ札幌記念。九月のGⅢ京成杯オータムハンデ。そして、十月の今日、GⅠの天皇賞・秋。学年混合戦の重賞で、今年のティアラ組であるあたしたちが、順番に上級生を破って勝つ。それがあたしたちの描いた青写真。これが実現すれば、シニア・三冠組偏重のこのトゥインクル・シリーズに対する、あたしたちレジスタンスの盛大な宣戦布告になる。
顔を見合わせながらそのことを思い浮かべていると、ようやく胸の奥からワクワクとした興奮と少しばかりの緊張感が立ちのぼってきた。
「ただまあ……秋華賞はちょっと、ケチがついちまったけどさ」
「あ、それ触れるんだ」
黙っていようと思ったのに、自分から切り出してきたものだから、あたしは苦笑いしてしまった。
菊花賞の前週に行われた秋華賞で、トーヨーメリッサは圧倒的一番人気を背負いながら、敗北を喫した。しかも敗れた相手は、夏前にはほとんど無名だった、いわゆる「上がりウマ娘」と呼ばれる六番人気の伏兵。
「ワンファートン、とか言ったっけ?」
「そうそう。かっわいい顔してタフなヤツでさ」
ホープアンドプレイの最後の調整に付き合っていたから、あたしは現地で見ることはできなかったけれど、テレビで見た映像は未だに脳裏に焼き付いている。最後の直線、燃えるような赤毛の髪を揺らして先頭に立ったワンファートンは、猛烈な勢いで追い込むトーヨーメリッサをハナ差でしのぎ切り、ティアラの最後の一冠を奪い取っていった。体格は小柄で、ホープアンドプレイよりひと回り大きいくらい。だけどその身体に詰まった根性は相当なものだというのは、画面越しでも伝わってきた。
「油断したわけじゃないんでしょ?」
「そりゃあそうさ。ただ、単純にあと50メートル足りなかったんだよ。つまり、距離が短いのが悪い。アタシは悪くねえ」
自己弁護もここまでくるといっそ清々しい。もちろんトーヨーメリッサは「まあ、あとは相手が良すぎたんだな」と相手を称えるのも忘れなかった。負けた相手のことを話しているのに、その顔は楽しげだった。
こういうところが、すごい。一番人気だったとはいえ、GⅠで二着に入ったトーヨーメリッサを、レース後のメディアは「まさかの敗北」と盛んに書き立てていた。当然、その評判が耳に入っていないはずはないのに、彼女はそんな素振りを一切見せない。あたしが同じ状況になったら、とてもこんなあっけらかんとはしていられないだろうなと思う。
「つーことで、ルピナス。アンタのライバルは、また増えたみたいだよ」
「困るなあ」
「喜べよ。来年のシニアGⅠは、あたしたちティアラ組が支配すんだ。なあ、モモ?」
水を差し向けられたモモイロビヨリは、クスクスと声を漏らして「そうだね」と小さく答えた。そんなあたしたちの様子を見て、ショコラレインが言った。
「えへへ、なんだか、いいですね。そういうの」
「いい?」
あたしが首をかしげると、ショコラレインは大きく頷いた。
「はい。ティアラの皆さんって、ライバル同士のはずなのに、固い絆で結ばれてるじゃないですか。そこがいいなって思うんです。私は適性的に中距離は厳しいので、トリプルティアラを走ることはないかもしれないんですけど、皆さんを見てると、どうしてか、私まで幸せな気持ちになってくるというか」
すると、トーヨーメリッサは「ほう」と呟いて、ショコラレインに顔を寄せると、まるで少女マンガの彼氏役のような気取った口ぶりで語り掛けた。
「お嬢ちゃん、良い素質してるじゃないか。合宿ン時から思ってたんだ。なあ、中距離は厳しいなんて言わないで、来年ティアラ、走ってみないか? 距離のことならアタシが鍛えてやるからさ」
そんなトーヨーメリッサの肩をグイと掴んで、一学年下の後輩から引きはがしたのはモモイロビヨリだった。
「メリーちゃ~ん? あんまり手あたり次第はダメだよ~?」
「ッ……テェ! モモ、手加減しろよ! あとメリーちゃんはやめろ! ……あだだだだ!! クッソ、勘弁しろって!」
温和そうな笑顔のまま、口調も穏やかだったけれど、その手に込められた力はなかなかに強かったらしい。トーヨーメリッサはジタバタと足をバタつかせながら、掴まれた肩をタップしてギブアップの意思表示をしている。
「あはは……結構、やるね。モモ」
何度か見た時の印象では、モモイロビヨリは優等生で、クラウンセボンみたいに愛嬌のあるタイプかと思っていたけど、なかなかどうして怖い一面もあるみたいだ。活発でリーダー気質なトーヨーメリッサとも、どうやら対等以上の関係で付き合っているらしい。
「そうなんよ。コイツ怒るとマジで怖いんだ」
「そんなことないよぉ。メリーちゃんがお行儀よくしてれば、何にもしないもの」
やっぱり怖そうだな、と思いながら、あたしは嬉しかった。もちろん、モモイロビヨリの知らない部分を知れたことが、だ。チューリップ賞と桜花賞のときは、ろくに言葉を交わすこともなかったし、当然互いを深く知り合うこともできずじまいだった。こうして改めて触れ合うと、あのとき心にしまっていた名残惜しさが蘇ってくる。自分がこんなに彼女のことを知りたがっていたなんて、あたしは自分でも気付いていなかった。
当然といえば、当然かもしれない。あのあとは感傷に浸る間もなく、親友の引退話から始まるあれやこれやで、あたしはぐちゃぐちゃになってしまっていたのだから。あれから積極的に関わってくれたトーヨーメリッサにはともかくとして、あれっきりだったモモイロビヨリには、思いを致す余裕もなかった。
再会と発見に気分の高まったあたしは、いつしか自然とこんな言葉を口にしていた。
「ねえ、モモ。アンタ、復帰はいつになるの?」
身体に激しい負担をかけるあたしたち競走ウマ娘にとって、レース中の不整脈はそれほど珍しいことじゃない。いまは医療技術が進んでいるし、たとえ発症したとしても、重篤なものでもないかぎり、ほとんどの子は安全にレース場へ戻ってくることができる。モモイロビヨリが出走しなくなって、もう半年。いい加減、そろそろ復帰戦の話があってもよさそうなものだ。
けれど、モモイロビヨリはあたしの問いには答えず、ターフビジョンに映し出されているパドックの様子を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「嬉しいな。今日はここに、みんな揃ってる。メリーちゃんも、ルピナスさんも、それから、クレセントさんも」
言われてみれば、立ち位置こそスタンドとターフという違いはあるにせよ、あたしたち四人が同じ場所に集まるのはあの桜花賞以来のことだった。あたしたちはこの半年の間、それぞれの道をそれぞれに進んでいたから。あたしはマイル路線を行き、レイアクレセントは三冠組や先輩たちへ挑む道を選んだ。トーヨーメリッサはオークスで女王の座を勝ち取り、そして、モモイロビヨリは療養の日々を送った。もちろん当時のあたしには、こんな未来なんてまるでイメージできていなかったけれど、それにしたってここまで進路が分かれていくとは思いもしなかった。
「何言ってんだ。そんなに特別なことじゃねーだろ。その気になりゃみんな集まるじゃん。アタシたちみんな、トレセン学園の生徒なんだから」
うつむき加減のモモイロビヨリの向こう側から、トーヨーメリッサがそう言った。心なしか上ずって、何か焦っているように聞こえる。妙な胸騒ぎを覚えたあたしは、急いで付け加えた。
「また勝負しようよ。メリッサも、なんならクレセントも一緒にさ。だから、早く復帰を——」
「クレセントさん、ね」
その名前をモモイロビヨリが噛みしめるように呟いたちょうどそのとき、ターフビジョンに、パドックステージでポーズを決めるレイアクレセントの姿が大きく映し出された。
「すごいよね。私が足踏みしている間に、もうあんなに遠くに行っちゃった。……置いてかれちゃったなあ」
ズキン、と胸が痛くなる。その言葉が、ジュニア級のGⅠを制した女王から出たんだと思うと、あたしはなんと返していいかわからなかった。
アンタがそれなら、あたしはどうなるんだ。あたしなんて、まだGⅢを一個とっただけなんだぞ。……いや、それだって、ものすごいことのはずなんだけど。あたしは心の中であれこれと考えをこねくり回していた。——あたしたち四人の中で、まだGⅠのタイトルが無いのはあたしだけ。血統も良くない。みんなみたいにいろんなものを背負い込める強さだってない。そうだよ、置いて行かれてるのはあたし。あたしなんだ。
思考の鍋にいろんなものが放り込まれて、何が何だか分からなくなってきたあたしは、結局、素直に思っていることをそのままぶつけることにした。
「ズルいよ、モモ」
「え?」
「だってそうじゃん。チューリップ賞のときは完全に力負け。桜花賞のときはアンタが具合悪くなっただけ。……そうだよ。メリッサだって、クレセントだって、万全のアンタには一度も勝ってないんだよ。そんなアンタが『置いてかれちゃった』なんて随分だと思わない? どっちかって言ったら、逆でしょ。こんなのあたしからしたら、ただの勝ち逃げだもん。ズルいよ」
モモイロビヨリは両目をぱちくりさせている。あたしの背後で、ホープアンドプレイが吹き出したのがわかった。ああ、また後でからかわれるんだろうな。でもいいんだ。あたしは恥ずかしがる代わりに、逆に胸を張った。こういうときは
「安心したよ」
そう答えたのは、トーヨーメリッサだった。なんのことかと尋ねると、樫の女王は声を明るく弾ませながら自分のこぶしを胸にトントンと当ててみせた。メンコにぶら下げたピアスがチャラチャラと音を立てる。
「すっかり調子戻ったみたいでさ。アタシ、あんたのそういうとこが気に入ってたんだ」
それからモモイロビヨリに向き直ると、真剣な声色で言った。
「なあ、モモ。ルピナスの言うとおりなんだよ。アタシたち、まだオマエに一度も勝ってないんだ。いろいろあんのかもしんないけどさ、戻って来いよ。身体はもう、平気なんだろ?」
左右をあたしとトーヨーメリッサに挟まれて、モモイロビヨリは困ったような表情を浮かべている。でも、嫌がってはいないはずだ、と思った。だって、この席であたしを待っていたのは、モモイロビヨリの方なんだから。レイアクレセントの天皇賞秋、そのスタンドであたしを待っていることに、何の意味もないと思う方が不自然だ。どこかで、こんな話になることを期待していたんじゃないか。そんな風に考えちゃうのは、あたしの傲慢だろうか。
そうこうしていると、本バ場入場が始まった。スタンドにはもう、観客があふれんばかりに集まっていた。誰もが、応援する相手をよく見ようと身を乗り出している。その中の、六枠11番。あたしたちが、そして今日のここ府中に集まった人たちが最も注目しているウマ娘が、姿を現した。
「クレセントだ」
あたしのその声に反応するかのように、レイアクレセントはターフの真ん中でピタリと立ち止まると、探す様子もなく、まっすぐにこちらを見上げてきた。まるで「そこで見ていなさい」と言われているみたいで、頼もしくもあり、悔しいような、歯がゆいような気持ちになる。
「今日が、最後だよ」
ふいに、そんな言葉が聞こえてきた。
「メリッサ?」
「今日が、最後だ。アタシが、アイツを、心から応援するのは」
トーヨーメリッサは、一度唇をキュっと結び、モモイロビヨリの手を握り締めた。
「モモ、よく見てろ。あれが、アタシたちが超えなきゃなんない壁なんだ。アタシたちのヒーローで、アタシたちの一番の敵だ」
手を取られた瞬間、モモイロビヨリはピクリと耳を動かして少し驚いた様子だったけれど、振り払うこともせずにそのまま静かに目線をターフへ移した。
「いつかアイツを倒す。そのためにはモモ、アンタの力が必要なんだよ」
「メリーちゃん……」
ふたりの話は、他人事じゃない。きっと、あたしにとっても今日が最後の日になるはずだ。最後だからこそ、あたしたちの期待は高い。
チーム〈プルート〉の、そしてティアラのエースは、いつだってあたしたちの先頭にいる。先頭を走ったまま、より強い者たちの住む世界へと飛び込んでいった。ダービーに敗れても、その評価は変わらなかった。今日ここで、再び栄冠を取り戻して、あたしたちの女王はすべてのウマ娘たちの女王になるはずだから。ゴール板の前を一番に走り抜けるその瞬間を境に、彼女はあたしたちレジスタンスから巣立ち、向こう側へ行ってしまう。寂しいけれど、誇らしいことだ。
もうすぐ、その時が来る。
クレセントさん、お誕生日おめでとうございます。(1月14日)
P.S.
年末、HDDが壊れました。
すべてのデータが消えてしまいまして、業者に依頼しましたが、復旧もできないそうです。
おかげで更新がとても遅くなりました。申し訳ございません。
ところで、文庫版『ストレイガールズ』第一巻が出版されました。
書き下ろしや設定帳、加筆修正など、いろいろ追加収録しています。
どこかで見かけたら、手に取ってみてやってください。