東京レース場。そこはあたしに、たくさんの思い出をくれる場所。
トレセン学園の入学試験。その走力試験は毎年各地の中央レース場で行われている。その中からあたしが選んだ会場は、ここ東京レース場だった。直線が長く、大回り。自慢の末脚が活きる場所。そして何より、学園の門のすぐ近く。当然、他の受験生からの人気も高い。だから合格するのは、よその会場よりも難しい。それでも、どうしてもここで走りたかった。仮に不合格になったとしても「府中で走ったことがある」と言えるなら、それだけで勲章になるから。
はじめてその芝生に降り立ったときの感動と、合格がわかった時の喜びは、きっと一生忘れない。それから、デビュー戦で初めて経験した本気の闘いの熱さも。土砂降りの雨の中の苦い経験も。いい思い出ばかりじゃないけれど、どれも大切な記憶。本当に、ここでは節目節目のいろいろなドラマに巡り合う。そしてこれから、また新しい節目を迎えるんだ。
ゲートの中で、レイアクレセントはとても落ち着いて見えた。冷静なのはいつものことだけれど、今日はとりわけ、そう見えた。あと、二分。そう、たった二分だ。その二分間のために、どれだけの時間を費やしてきたのか、あたしは知っている。11番目のゲートを見つめながら、あたしは小さくこぶしを握りしめた。
『最後に大外、ビリエットがゲートへ向かいます。……さあ、伝統の盾へ向けて、府中の芝二〇〇〇メートル、天皇賞・秋。態勢整って、スタートしました!』
金属的なゲートの音を合図に、歓声のラッパが降り注ぐ。
先手を取ったのは、大外の逃げウマ娘、ビリエットだった。短距離、マイルの二階級GⅠを制したスピードを活かして、枠の不利をものともせず、あっという間にハナを奪ってみせた。後続もそれほど離されることなく、しっかりとついていく。レイアクレセントは、前から五人目の位置。内すぎず、外すぎず。リズムよく追走していっている。いまのところ、周りから圧をかけられている様子もないみたい。相変わらず、ポジショニングのセンスは抜群だ。今年の宝塚記念を制したアルカナエースの背後に回って、仕掛けのタイミングをうかがっている。
「ガムドロップさんは?」
ショコラレインが呟いたのは、事前の検討会でトレーナーやクラウンセボンが最も警戒していた相手。クラシック級の頃からGⅠを勝っているようなウマ娘たちが多数出揃う中で、シニア級三年の今年、小倉記念を勝ったのが初の重賞制覇という遅咲きのウマ娘。ただ、遅咲きとはいっても、去年までは怪我や病気のせいで満足にレースに出られていなかっただけらしく、そのポテンシャルはかなり高いという。
あたしは、ジュニア級でのデビューが叶わなかった自分のことを思い返していた。ガムドロップとは学年も苦労した時間も違うけれど、なんとなく、シンパシーを感じずにはいられない。早くから活躍する同期たちを見て、きっと焦っただろうな。悔しかっただろうなと思う。だからこそ、この大一番にかける思いは相当なものがあるはず。最後方から一気にすべてをぶち抜く派手な追込脚質で四連勝を上げてここへ乗り込んできたあたりに、その心意気が見える。今日もばっちり、後ろから二番目の位置をキープして、脚を溜めに溜めている。レイアクレセントのスタイルでは、マークもしづらくて対策が難しい相手だ。
「これはもう、ペース次第だね……」
あたしはそう答えながら、向こう正面をひた走るウマ娘たちの名前を、隊列の後ろから順に、頭の中で呼んでいった。そのちょうど真ん中、八番目のウマ娘のところで、あたしはもうひとり、気になるウマ娘を見つけた。
(レリーダンス)
その名前は、よく覚えている。レイアクレセントと一緒に、初めて観に行ったレース。去年の皐月賞で見事な勝利を見せてくれた、あのウマ娘だ。あの後、彼女はそのままクラシック級でこの天皇賞・秋を制し、海外遠征先の香港でもGⅠタイトルをつかみ取ってみせた。誰もが認める、去年の年度代表ウマ娘。それなのに、今日はレイアクレセントに一番人気を譲った。若いウマ娘の挑戦が注目されているのが理由の一つだけれど、それだけじゃない。香港から帰って来たレリーダンスは去年の活躍が嘘のように原因不明の不調に陥り、今年はここまでひとつの勝利もなかったからだ。いまの走りを見ていても、明らかに本調子ではないのがわかる。それでも彼女を応援する人たちは多く、二番人気を背負っての出走。
自身が不調とわかっていて、それでも多くの支持を集めながら、レースに向かう気持ちって——ふと、三番人気を背負いながら八着に惨敗した自分のNHKマイルカップが頭によぎった。
(頑張れ……)
あたしは誰にも聞かれないように、声も出さずにその言葉を呑みこんだ。そして、こうも思った。
(だけど、勝つのはクレセントだ)
去年のレリーダンスがそうだったように、今年はレイアクレセントがクラシック級での天皇賞制覇を狙っている。残酷なレースの世界。ここへ出走しているウマ娘たちは、学年もクラスも、チームもバラバラだ。それぞれの物語があって、それぞれの目標があって勝負に臨んでいる。レリーダンスにはレリーダンスの、ガムドロップにはガムドロップの、そして、レイアクレセントには、レイアクレセントの夢がある。
だから、遠慮なんかいらない。レイアクレセントには、あたしたちのエースには、そんなの似合わない。心にそう繰り返しながら、あたしは前方に位置どったグループの動きに目をやった。
先頭を行くビリエットは、ハナに立ってからそれほど飛ばしているように見えない。普段マイル以下の距離を主戦場にしている彼女は、当然スタミナに不安があるはず。スピードは抑えめに逃げるだろうという予想通りだ。他の先行勢も、わりと余裕をもってついていけているようで、これはレイアクレセントにとっても悪い展開じゃない。
と、そこへ場内に通過タイムが表示された。
『前半一〇〇〇メートルの通過タイムは58秒4! 速いペースで飛ばしていきますビリエット! 後続との距離はどうか、このまま逃げ切りを図れるか!』
「おい、大丈夫かよ」
トーヨーメリッサが声を上げた。スタンドからも戸惑うようなどよめきが起こっている。
あたしはすぐに理解した。あたしたちは全員まとめてビリエットに騙されていたんだ。ゆったり逃げていると見せかけて、これはかなりのハイペース。だけどこれは多分、意図的じゃない。トップレベルのスプリンターは、一〇〇〇メートルを55秒代で難なく走ってしまう。短距離のチャンピオンのビリエットにとって、58秒代なんて大して速いものじゃない。距離がかなり伸びる今回は、彼女なりに相当に抑えて入ったつもりのはず。それでも、中距離レースにしてはハイペースになってしまった。ただそれだけ。本当なら、これは先行勢には最悪の展開。抑えたようなそぶりにつられて、早いペースに引っ張られてしまったんだから。後続勢には俄然チャンスがやって来たと言える。
それでも、あたしは動揺しなかった。だって、あたしは知っている。
「大丈夫だよ。クレセントにとっては、こんなのハイペースのうちに入らないから」
レイアクレセントというウマ娘は、スプリンターにだってなれる。それくらいのスピードを持っている。そして、あの超ハイレベルのダービーで三着に入れるくらいのタフさも持っている。コースを捌くのも上手い。弱点なんかないんだ。
『大欅を超えて、隊列が詰まってきました! さあ最後の直線!』
先行勢から疲れの色が見える。レイアクレセントの前を行っていたアルカナエースも、手ごたえが悪い。
「来た!」
トーヨーメリッサとショコラレインが、同時に叫んだ。坂の上りに差し掛かったところで、足取りも軽やかに、レイアクレセントが前に前に出始めたからだ。
「すごい、すごい!」
テンダーライトも、手を叩いて声を弾ませる。
後方から、ガムドロップ以下後方脚質の面々がものすごい勢いで追い込んでくる。ここまで粘っていたビリエットはバ群に飲み込まれていった。
そしてついに、レイアクレセントが先頭に立った。
「————ッ!」
そのとたん、それまでボックス席の中でただひとり椅子に腰を下ろしていたモモイロビヨリが、はじかれたように立ち上がった。身を乗り出すようにして、口を大きく開けていたけれど、何と言っていたのか、わからなかった。大群衆の歓声が、全てをかき消してしまっていたから。
残り四〇〇を切った。ここから先は、差を広げていくだけだ。まだ、レイアクレセントには十分脚が残っている。まるで飛んでいるみたいに、綺麗で、美しくて、鮮やかだった。これまで何度も見てきたように。いつものように。
——そう、いつものように。
いつもと何も変わらなかった。
その瞬間までは。
『坂を上って二〇〇を通過した! 外から追うのはパルコプラートとガムドロップ! 先頭捕らえるか! 最内を突いてチヨノハルカゼ! クレセントは苦しくなったか!』
坂を上り切ったところで、レイアクレセントの脚が止まった。信じられないくらい、ピタリと止まった。何が起きたのかと理解する間もなく、ひとつ、またひとつと順位を下げていく。
嘘だ、と思った。何かの間違いだと思った。そんなわけない。あのレイアクレセントが、これくらいの距離で、この程度のタイムで、脚が止まるわけがない。
『勝ったのはパルコプラート! パルコプラートです! 関東GⅠ初制覇成りました! 勝ち時計は1分57秒5! 上がりの3ハロンは35秒6!』
あたしたちはみんな、呆然と立ち尽くしたまま、一言も発せずに掲示板を見つめていた。レイアクレセントのウマ番、11番が表示されていたのは、上から五番目の枠の中。場内からは勝ったパルコプラートに万雷の拍手が起きている。四番人気の彼女は、大阪杯に勝利した実力をいかんなく発揮して、いつもよりやや後ろめの位置から見事に差し切った。最後方から飛んできたガムドロップは、あと少しのところで差し切れず、三着。間の二着に入ったのは、十一番人気のチヨノハルカゼだった。
そう、それはわかっている。目の前に現れた結果は、しっかりとわかっている。だけど、頭がそれを受け入れられないでいた。
負けるはずがない。追いきりのときだって、レース中だって、レイアクレセントの仕上がりと動きは完璧だった。その力のほどは、誰よりも一緒に走ったあたしが一番よくわかっている。あの桜花賞のときより、ダービーのときより、レイアクレセントはずっとずっと強くなっていた。あんな風に急に伸びが悪くなるなんて、ありえない。
背筋に、寒気が走る。まさかという思いと、違う違うと叫んでそれを打ち消そうとする心が、じっとりとした汗を尻尾の裏側に滴らせる。あたしはたまらず、座席にへたり込んでしまった。
「ルピナス、アンタ……」
トーヨーメリッサの声が聞こえる。あたしは必死に、自分の尻尾を握りしめた。震えているのが自分の手なのか、尻尾なのか、それはもうわからなかった。
「どうしたんだよ。オイ、みんなも。なに暗い顔してんだよ! レースに絶対は無いって、言うだろ。ほら、アタシだって、秋華賞、やられたじゃん。アイツにだってこういうことがあるんだ。ほら、モモ。アイツ、まだそんなに遠くに行っちゃいないみてーだぞ。追いつくよ。追い抜けるよ。そーゆーことだろ? 今日のレースはさ」
言葉を発せずにいるあたしたちを、懸命に元気づけようとするその声は、どうしようもないほど涙声だった。本当に、トーヨーメリッサは良い奴だ。良い奴で、優しいウマ娘だ。今日二着に入ったチヨノハルカゼは、彼女のチームメイトで、ティアラ路線出身の先輩で、自分が札幌記念で負かした相手。そんな人が天皇賞の二着になった。本当なら、もっともっと喜んでいいはずなのに。あたしたちのことなんか放っておいて、出迎えに駆けだしたっていいくらいなのに。それよりも、同期の夢が破れたあたしたちと一緒に、泣いてくれるんだ。その優しさが、あたしは嬉しかった。
でも、トーヨーメリッサはまだ知らない。あたしがどうして、これほど打ちのめされているのか。あたしがどうして、こんなに震えているのか。
「違うよ」
深く、静かに、けれどハッキリと、その音を発したのはホープアンドプレイだった。
「ルピナスは、そんなことで落ち込んでるんじゃない」
「……? どういうことだよ、ホープ」
トーヨーメリッサが目元を拭う。
ああ、やめて。ホープ、お願い。言わないで。心だけが叫んで、身体はちっとも言うことを聞かない。
「多分、クレセントは……」
結局、あたしはその種明かしを止めることができなかった。
なにが起きたのか、すぐに分かった。
ずっと恐れていたこと。できる限りを尽くしたはずだったこと。けれど、避けられなかったこと。
私の賢い助手も、私とほとんど同時に、事の次第を理解したらしい。声にならない悲鳴を上げて、大きな丸い瞳から涙を溢れさせている。
「ボン、行くよ。泣くのをやめなさい」
私は厳しい言葉を投げた。感情に流されてはいけない。私たちは担当の異変に気付かねばならない。そして、気付いたならば、彼女達を守ってやらなくてはいけない。身体だけでなく、その心を。
起きたことの重さを思えば、誰よりも苦しみ、誰よりも絶望に打ちひしがれているのは、レイアクレセントなのだ。私たちが泣いてはいけない。それはただ、いたずらに不安を増幅させるだけなのだから。痛みに寄り添い、頼りがいのある背中を見せなくてはいけない。だから、私たちが弱くなってはいけないのだ。
「ほら、拭いて」
肩を抱いてやる代わりに、ハンカチを顔に押し当てる。ウマ娘とはいえ、クラウンセボンはもう
「ごめんね」
「いえ、大丈夫です」
その気丈さに、私たちは何度救われたかわからない。
「おかえり」
「申し訳ありません。無様な姿を晒してしまって」
出迎える私たちにレイアクレセントが言ったのは、そんな言葉だった。
「思っていたよりも消耗が激しくて。鍛え直さなくてはなりませんね。休養期間が明けたら……」
「クレセント」
隠したい何かがあるとき、彼女は饒舌になる。けれども、そんなことではごまかされない。五着の枠場のふちに右手を乗せて、寄りかかるようにしながら左足を少し浮かせている。普段のレイアクレセントなら、どんなに疲れていてもこんなことは決してしない。
「また、頑張ろう。今日はそれ以上、喋らなくていいよ」
他の言葉は見つからなかった。レイアクレセントは、驚いたように目を見開くと、それからゆっくりと顔と耳を一緒に伏せた。
「こうなるのはもう少し、後のことだと思っていました」
「うん」
そう願っていた。だからこそ私は、そしてレイアクレセントは、トレーニングにも、ローテーションにも、たくさんの制約を設けてきたのだ。勝負服のシューズも、ソックスも、ベルトまで、違反にならないギリギリの範囲で、脚のサポートをしてくれる素材を選んできた。他のメンバーは誰も知らないだろうけれど、フォームの改良だって、ずっと密かに続けてきたのだ。
それでも、避けられないことはある。知らないことではないけれど、素直に飲み込むには苦すぎる味だった。
「今日は、みんな見ていてくださったんです」
「うん」
遠くを見つめるようにして、レイアクレセントはふっと息を漏らした。スタンドで見守っていたであろう仲間たちのことを思い浮かべているようだった。
「私だけが、仕損じて。こんな……」
そう言って、自嘲気味に笑う。不思議と、涙を流す気配はなかった。……いや、不思議でもない。彼女は常に、この絶望と隣り合わせで走り続けてきたのだから。もうそんな段階は、とうに通り過ぎていたのかもしれない。
「あの人もきっと、気付いたでしょうね……本当に憎い人。公式戦で負けたことはないはずなのに、どうしてか負けた気がしてしまうんです。あんな血統で、それなのにあれほど速くて、丈夫で……血が欲しいのなら、いくらでも分けて差し上げるのに。ああもう、憎くて憎くてたまらない……誰のことかは、聞かないでくださいね」
最後の方は、クラウンセボンに向かって微笑みながら言った。栗毛の少女は黙って頷く。誰のことかと尋ねる必要なんて、なかった。
聞かなかったことにしよう。私たちは互いに言葉にせず、目配せだけで合意を交わした。聞くこともトレーナーの仕事だけれど、聞き流すことも、仕事のうちだ。
「後検量が終わったら、診療所に行こう。検査しないと」
「なんて残念なことでしょう。私の応援チケットを購入してくださった皆様に、歌声をお聞かせできないだなんて」
芝居がかった仕草でため息をついてみせる彼女に付き従って、私たちは検量室へ向かった。クラウンセボンが肩を貸そうとしたものの、レイアクレセントは小さく首を横に振るだけだった。
検量室で勝負服のチェックをされている間、私たちは直立したまま待つ。検量室のホワイトボードには、ついさっきのレースの着順が大きく書きだされている。私はあえて、その文字を見つめて、教え子の名前と順位を心の中で唱えた。何度も何度も唱えた。この味を忘れないように。この味を味わわずに済む日が、これから一日でも長く続くように。
それはいつもの何倍も、何十倍も長く感じる、数分間だった。
第4回東京開催9日目 天皇賞(秋) 芝2000m 天候:晴 芝:良
1着 ①パルコプラート(4番人気) 1:57.5
2着 ④チヨノハルカゼ(11番人気) 1/2バ身(+0.1)
3着 ⑧ガムドロップ(3番人気) ハナ(+0.1)
4着 ⑩ヤマトリバティ(10番人気) 1.3/4バ身(+0.4)
5着 ⑪レイアクレセント(1番人気)1/2バ身(+0.5)
書くのがとても辛い回でした。