土曜日、あたしは寮室で小さなテレビ画面に映ったトレーナーの姿を見つめていた。いよいよ明日に控えたファンタジーステークスの前日記者会見。きっといまごろ、ショコラレインはホテルでクラウンセボンと一緒にレース本番に向けての作戦会議中だろう。
画面の隅に表示されている現時点での人気順では、ショコラレインは1番人気。圧倒的支持率というわけではないけれど、あたしと違って早くから期待されていることがわかる数字。
「——ですから、ここで勝つだけの力はあると思っています。距離は少し延びますけど、今後のことも考えると、今の時点でも千四で十分やれるところを見せておきたいですね」
余裕さえ漂わせた様子で、トレーナーは力強くそう宣言した。
今後のことというのは、ショコラレインがチームに加入して以来ずっと言っている、マイル挑戦の話。その第一歩として今年の最終目標を年末のマイルGⅠ、阪神JFに定めている。スプリンターとしての素質は一二〇〇メートルのデビュー戦で証明した。今回挑む一四〇〇メートルのファンタジーステークスは、距離延長の準備という意味でもしっかりと結果を残したい一戦になる。
(……なんか、ヒマだな)
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。今日は土曜日。学園の授業はない。かといって、あたしは二週間後のマイルCSに向けた調整期間に入ったせいで、遊び歩くわけにもいかない。追い切り以外で消耗しないように、勝手な自主トレも禁止されている。秋学期が始まってすぐの京成杯からこっち、毎週のようにいろんなレースやら何やらで忙しくしていた分、何もしない週末というのは本当に久しぶりだった。こんなとき、ルームメイトが話し相手にでもなってくれればいいのだけれど、生憎そいつは日課の自主ランニングに出かけてしまっている。
仕方ないので、あたしはぼんやりとテレビを眺めながら、グニグニと自分のシューズをもみほぐしていた。夏前のNHKマイルカップ以来、半年ぶりになるGⅠ出走。この専用シューズは新しくおろしてもらったばかりで、まだ硬い。最終追い切りまでに、足首に当たるところを少しでも柔らかくしておきたかった。カチコチのシューズでダッシュなんかしようものなら、怪我につながりかねないから。
——怪我に、つながりかねない。
ハッとして、頭を振る。ああもう、嫌だな。いまはそんなこと考えたくないのに。考えないって約束したのに。
あれからレイアクレセントとは会っていない。あたしとは授業のクラスが違うし、放課後もトレーニングに顔を出さないから、顔を合わせる機会がなくなってしまった。とはいえ、寮は同じ美浦寮なのに、気配すら感じたことがない。まるで、避けられているみたいに。
(部屋、行ってみようかな)
よせよせ、やめとけ。そう自分に言い聞かせて、湧いて出てきたお節介の虫を打ち消した。あたしだって少しは大人になった。いまはそっとしておいた方がいいことくらいわかるし、我慢もできる。
「んあー、走りてーなーもう!」
シューズをいじるのにも飽きたあたしは、誰も聞いてないのをいいことに乱暴な口調で叫ぶと、ベッドの上に大の字になった。行き場のないもやもやを吐き出すように、そのまま天井に向かって脚をバタつかせる。しばらくそうしていると、疲れて脚が重たくなってくる。水泳のバタ足みたいにはいかない。
(そういえば、今年の夏はせっかく海辺の合宿所に行ったのに、あんまり泳がなかった)
今更のように、夏合宿のことが思い出される。あのときは、いまの自分たちがこんな風になっているだなんて、想像すらしていなかった。……ただ、楽しかった。去年の特別合宿も良かったけど、今年はもっとずっと賑やかで、いろんなことがあって、バカっぽい言い方だけど、青春って感じの雰囲気はこの学園に入ってからは一番だったから。テンダーライトやショコラレインとはまた一段と距離が近づいたし、単なるライバルだったはずのトーヨーメリッサとは、ティアラ路線の戦友みたいな関係になれた。本当に、充実していた。心残りといえば、それこそ海水浴ができなかったことくらい。
あたしは何度も何度も、空中でバタ足を繰り返した。夏に泳げなかった分を取り返すように。だったらプールに行けよとは自分でも思ったけど、行ったらそれは勝手なトレーニングになっちゃうから。そんな言い訳をしつつ、次は平泳ぎだと脚を思い切り縮めた、その時だった。
「なにしてんの」
心底呆れたような冷たい声。同室様のお帰りだった。
「お、落ち着かなくって! ほら、勝手に走んなっていわれてるから」
「あっそう」
顔から火が出るって、こういうのを言うんだろうなと思った。
『それでは本日の勝ちウマ娘にお話を聞きましょう。ショコラレインさん、おめでとうございます!』
『ありがとうございます!』
ショコラレインは、チームに起きた事件に振り回されることなく、見事に勝利をもぎ取ってきた。デビュー二戦目、あっという間の重賞勝利。あたしたちの可愛い後輩は、すっかり頼もしい、いやそれどころか恐ろしい新星に成長している。
『素晴らしいレースでした。手ごたえはいかがでしたか』
『そうですね、最終コーナーを回ってきたときはちょっと、大丈夫かなって思ったんですけど。先輩たちにいいとこ見せたくて、頑張りました』
メインレースの後に必ず行われる、テレビ中継の勝ちウマ娘インタビュー。ついこの間あたしも初めて経験したけれど、あのときは疲れていたし、興奮していたしで何をしゃべったか覚えていない。多分、めちゃめちゃなことを言っていたと思う。それに比べて、ショコラレインは呼吸こそまだ少し乱れているものの、落ち着いてきちんと受け答えをしていた。
『大丈夫かな、というのは?』
『思ったより脚に来ちゃってて、んふふ』
愛嬌たっぷりな笑みに、スタジオのタレント達もワイプ越しに「かわいい」という声を漏らしている。
『最後にカメラに向かってメッセージをお願いします!』
『はーい。トレーナーさん、それから応援してくれた皆さん、先輩方、ありがとうございます! あと……お姉ちゃん、見てるー? 私勝ったよー。あはは、以上でーす』
本当にそつがなくて、しっかりしている。おまけにちゃっかりもしている。デビュー戦に帯同した時からなんとなく思っていたけど、ひょっとするとショコラレインは、あたしたちの中で一番の優等生かもしれない。
だけど、中継が終わってテレビを消したとたんにホープアンドプレイが漏らした感想は、あたしのそれとは全然違っていた。
「おかしいんじゃないのか、アイツ」
「は? 何言ってんの?」
ムッとしたのと同時に、驚いた。ああいう雰囲気が好きじゃないのはわかっていたけど、そんな言い方をするなんて、珍しいことだったから。
でも、目に入ってきたホープアンドプレイの表情は、嫌悪感というよりも困惑したような感じで、どうも様子がおかしい。あたしはそれ以上声を荒げる前に尋ねてみることにした。
「なにが、おかしいと思ったの」
「……別に、いいけどさ」
ああもう、だんまりモードだ。だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。ホープアンドプレイが口をつぐむときは、たいていあたしが何か大事なものを見落としているときなんだから。
話すまで許さないぞ、と目で示す。精一杯の怖い顔を作って「ちゃんと言ってよ」と凄んでみせる。置いてけぼりにされるのはごめんだもの。
しばらくそうしていると、根負けしたのか、それとも必死なあたしを哀れに思ったのか、ホープアンドプレイはおもむろにぽつりと呟くように言った。
「前に行ったろ。ああいう嘘は、クセになるって」
「嘘?」
それは、NHKマイルカップのとき。メンタルもフィジカルもボロボロだったあたしが、それでもどうしても出走したくて、元気なフリをしたときに、言われたことだ。
『——二度とつくなよ、あんな嘘。クセになるよ』
だけど、それといまのショコラレインにどう関係があるんだろう。あの時のあたしと違ってあの子は嘘なんかついてない。元気に出ていって、ちゃんと作戦通りに勝ってみせた。利発な受け答えをするのだって、いつもとそんなに変わらない。
「同じだよ。あの時のキミと」
「どういうこと?」
ホープアンドプレイは、もどかしそうに髪をワシャワシャとかき上げて、唸るような低い声で答えた。
「イライラするんだよ。自分のことで本当は手一杯のクセに、他人のために元気なフリするヤツを見てるとさ。ましてソイツが、ボクの——いや、それはどうでもいいけど」
そこであたしは、ふと思いついた。
「ホープ、もしかして心配してくれてるの?」
そのとたん、ホープアンドプレイは口をあんぐり開けて、何か言おうとしているみたいだったけれど、すぐに唇をむすんで、居心地が悪そうにもごもご動かしたかと思うと、それきり何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
待ってよ、という暇もなかった。
「じゃーん、先輩見てくださいよこのレイ! オトナっぽくてカッコいいでしょう?」
翌日、部室に現れたショコラレインは、赤紫色の優勝レイを首から下げて、鼻高々と声を弾ませていた。
あたしはというと、何よりもまずホッとしていた。あたしの目には、ショコラレインは本当に喜んで浮かれているようにしか見えなかったから。やっぱり、昨日のホープアンドプレイが言っていたことは、単なる取り越し苦労だったんだ。元気なフリをしているわけでも、隠し事をしているわけでもない。少なくとも、そう思えた。
「すごいよ、ショコラちゃん! わ、私なんかまだ、重賞勝ったことないもの……!」
テンダーライトが手を叩く。よく考えてみれば、このチームで重賞タイトルを持っているのは、レイアクレセントとあたしだけだ。そのあたしだって、ついこの前ようやく初タイトルを取ったばかり。格という意味では、ショコラレインはあたしたちの中でも上位にあっさり食い込んできたことになる。
「ショコラ、よくやったね」
優勝レイを
「クレセント先輩も、見ていてくれたでしょうか」
「あー……」
なんとも答えにくかった。レイアクレセントの性格を思えば「絶対見てるよ」なんてとても言えない。でもあんまり正直に「見てないと思う」なんて言うのもあんまりで、あたしは困ってしまった。困った挙句、クラウンセボンに助けを求めて目配せすると、気の利く友人はその問いに答える代わりに、ショコラレインの肩にぽんぽんと手を置いた。
「ショコちゃんね、クレセントさんやルピナスちゃんに、元気になってほしいんだって。ふたりに稽古をつけてもらったおかげで、こんなにすごい走りができるようになったんだよーって、見せたかったんだって。ほんとに、すごかったでしょ?」
「……うん、そうだね」
あたしの相槌を聞いて、ショコラレインは満足そうに笑った。
だけど、その笑顔を見たあたしは、畳んで仕舞ったはずの不安にもう一度襲われていた。
「元気になってほしい」と言ったショコラレイン。それが単なる優しい気遣いならいいけれど、もしも自分の気持ちに蓋をした結果生み出されたものだったとしたら。
『おかしいんじゃないのか、アイツ』
思い過ごしなんかじゃない。
「さあ、坂路に行こうか」
「あ、うん」
トレーナーが短い文句であたしをトレーニングへと誘いだす。まるで、さあ切り替えなさい、と言っているかのようだった。
坂路の時計はまずまず。二週間前としては、体重も落ちすぎてないし、増えすぎてもいない。脚の疲労もないし、シューズの具合も良好。肉体的には良いコンディションで本番を迎える見通しが立ちそうだ。
でも、だからこそ、いま抱えた不安は解決しておきたい。目の前のレースに集中するために。余計なことを考えすぎてしまわないために。
二本目の坂路に向かうまでの休憩の時間に、あたしは思い切って行動を起こした。
「ねえ、ボン。アンタ、遠征の間ずっとショコラと一緒にいたんだよね?」
「え? ああ、うん。そうだよ」
結局、あたしは大切な親友の眼力に頼ることにしたのだった。頼ってばかりじゃ嫌だとか、負担をかけたくないとか、カッコつけてる場合じゃない。結果的にあたしがクヨクヨしておかしくなる方が、かえって困らせることになるんだから。
あたしの真剣な様子を察して、栗毛のトレーナー助手も、仕事の顔になった。それを確認して、あたしは昨日、ショコラレインについてルームメイトから言われたことを話して聞かせた。そして、何か思い当たることはないかと尋ねた。もしもあるのなら、きちんと聞かせてほしいとも。
クラウンセボンは黙って話を聞き終えると、掛かり気味になるあたしをなだめるように、ゆっくりと口を開いた。
「そうだね。ショコちゃん、ちょっと無理してるかも」
「それじゃあ」
やめさせないと、と言おうとしたあたしを制止して、クラウンセボンは先を続けた。
「でもね、私は悪いことじゃないと思う。誰かを元気づけたいって思うのって、とても優しいことじゃない?」
「だけど、あたしがマイルカップのとき——」
「あれとは、ちょっと違うと思うよ」
トレーナー助手はきっぱりとそう言い切った。その言い方は、どこかあたしたちのトレーナーに似ている。
「ボンは、ショコラのこと、ちゃんとわかってるんだね」
するとクラウンセボンは、少し遠くを見つめるようにしながら、静かに言った。
「ショコちゃんもね、クレセントさんが怪我をして、当分走れなくなっちゃったの、かなりショックだったみたい」
「ああ、やっぱり、そうだったんだ」
「だけど、それよりももっとショックだったのは、それでみんなの元気がなくなっちゃうことだったんだって。だから、自分がまず頑張らなきゃって思ったんだって。みんながまた元気を取り戻せるように。……優しい子でしょう? とっても」
そう聞くと、確かにマイルカップのときのあたしとは随分違うみたい。あたしはあのとき、自分がなんのために走ってるのか、見失っていた。自分ひとりの勝手な夢や野望のために他人に頼ってばかりの自分が情けなくって、そんな独りよがりな迷いに飲み込まれていた。
ショコラレインは、その点ハッキリしている。目的のために、ちょっとの痛みくらい我慢できると、そう思っているだけだ。
やっぱり、よくできた後輩だ。本当にいい子だ。こんな子供っぽいあたしを慕ってくれているのがもったいないくらいに。
「ボン、ショコラのことも、任せていい?」
「もちろん! ちゃんと見てるよ。ルピナスちゃんのことも」
ありがとう、と答えた直後、あたしはふと、この優秀なトレーナー助手様にお伺いを立てたくなった。
「ね、後輩のために、カッコつけたくなる先輩って、やめた方がいいと思う?」
そのとたん、ビー玉みたいに丸い目をぱちぱちと瞬いて、クラウンセボンは口の端を嬉しそうに持ち上げた。
「素敵だと思う!」
「これで負けたら、カッコ悪いかな」
「全然! 思いっきり勝負に行った結果なら、なんでもカッコいいもん。ショコちゃん、ますますルピナスちゃんのこと、好きになっちゃうんじゃないかな」
相変わらず、おだてるのは上手いんだから。その辺は、もうトレーナーよりずっと上を行ってる。
「でも、そっかあ。……ふふ、よかった」
二本目の坂路に向かって歩くあいだ、クラウンセボンは何度もそう繰り返した。
「何がよかったの?」
「ん? なんとなくー」
「なんだよそれ」
なんとなく「よかった」。なんだそれ、とは言ったけど、ちょっとわかる、とも思った。「よかった」ことは、いろいろある。ショコラレインのことも、あたし自身のことも。そして、ホープアンドプレイのことも。すべてが順調で、何の問題もない、というわけじゃないけれど、ただそのシンプルな四文字は、いまのあたしたちにはちょうどいい。
そして新しい「よかった」がもうひとつ、坂の下に待っていた。
「あ、アンタ……」
白いメンコに、真っ赤な花の耳飾り。綺麗に切りそろえられた前髪が、秋の風を含んでふわりと揺れている。
「お、ルピナスもいたのか」
その後ろから、パンクな樫の女王も顔を出す。
「復帰するの?」
あたしの問いかけに、モモイロビヨリは遠慮がちに微笑んだ。
「クレセントさんも、メリーちゃんも、頑張ってたもん」
「とりあえず一発目、アタシの併走相手から始めようってこと」
ああ、よかった。
口にこそ出さなかったけれど、もう戻ってこないと思っていた相手が、帰ってくる。あたしたちの戦いの舞台に。それは、理由こそ違えど同じように戦線から離脱したあたしのチームメイトにとって、根拠のない希望になる。
根拠のない希望は、頼りないようで力強い。わけもなく信じることができて、百の理屈を並べ立てられたって倒れないから。
「アタシさ、勝てる気がすんだよね。今度のエリ女」
胸の内を読んだわけじゃないだろうけど、トーヨーメリッサの言葉は、いまのあたしの心とシンクロしている。彼女もまた、根拠のない希望で自分を奮い立たせているみたいだった。
「アンタ、エリ女出るんだ」
「おい、知らなかったのかよ。つれないヤツだな」
セリフとは裏腹に、トーヨーメリッサは嬉しそうに肩を揺らした。
「アンタより先に、シニアのGⅠ、いただきだぜ」
「そりゃあ期待してるよ」
エリザベス女王杯は、マイルCSの一週前。
「勝っちゃいなよ。メリッサ」
あたしはやっぱり、追いかけるのが性に合ってる。だから、先を行ってくれる仲間を求めていたのかもしれない。ああ、だから寂しかったんだ。あたしはようやく、自分が何を求めていたのか、本当のところがわかったような気がした。
「メリーちゃん、行こう?」
「ああ」
二人が合図を交わし合って、スタートする直前、モモイロビヨリは不意に視線をこちらに向けてきた。いつもの愛嬌ある顔じゃなくて、凍り付いたような無表情で。
そして、小さな、本当に小さな声で呟いた。
「負けないから」
誰に向けてのものだったのかは、わからない。ただあたしは、坂路を駆け上がる二人のウマ娘の背中を見送りながら、ぞくぞくするような感覚に震えていた。
そして思った。
「ボン、あたし、勝てる気がする」
あたしの一番の親友は、満足そうに頷いた。