「では、ルピナストレジャーさん、半年ぶりのGⅠ出走に向けて、意気込みをお願いいたします」
無数のカメラがあたしを取り囲む。このレンズのひとつひとつの向こう側に、何百という人々の目がある。
「——勝ちたい。ううん、じゃなくて、勝ちます」
記者たちの間からどよめきが起きる。当然かもしれない。出走前にあたしがここまで強気な発言をするのは、初めてのことだったから。
怖くない、といえば嘘になる。本当は、逃げ出したくなるほど怖い。でも、恐れているのはどこの誰とも知れない赤の他人の目線じゃない。あたしの大切な人たちと、あたし自身だ。公の場でこんなこと言って、描き出した未来図と現実がイコールにならなかったら。あたしを応援してくれる人たちが肩を落とす姿を見るのは、とてもつらい。そうでなかったとしても、あたしはあたしを許せないかもしれない。
そんな考え、やめた方がいいなんてことはわかってる。これまでだって、何度もそれで失敗してきた。結局、いつだってあたしを一番責め立てているのはあたし自身。そんな自分を救うために、身の回りの仲間から肯定の言葉をかき集めて、すがりついている。不器用で、面倒くさいやつ。だけど、性分だから仕方ない。落ち込んだら、その時は、その時だ。また周りに迷惑をかけちゃうかもしれないけど、何度だって立ち直ればいい。そうやって開き直れるくらいには、あたしも成長した。
「とのことですが、河沼トレーナー、いかがですか」
「そうですね、もちろんまだ成長途中ですけど、もうシニアの一線級とも勝負できると思います。ですから、私としても期待していますよ」
そして、あたしのことを語る上ではどうしても外せないあの話題は、今回も当然触れられることになった。
「ここで勝利となりますと、ヒト生まれのGⅠ制覇という大きな記録をひとつ達成することになりますが、そのあたりどう捉えていらっしゃいますか。トレーナーさんでもご本人でもお答えいただけますと……」
ちらり、とトレーナーがあたしの方を見る。あたしは目で「自分で答える」と返した。答えにくいな、と思うのは確かだけれど、以前ほど面倒だなとは感じない。ヒト生まれってことばかりが注目されるのは困ってしまうときもあるけれど、おかげで応援してもらえるという一面もある。だから、こういう質問はありがたいと思うくらいでいないといけない。こんな機会でもなければ、思いの丈を再確認することなんて、そうそうできないのだから。
「はい、やっぱりGⅠを勝つことには、あたし自身、他の子とはちょっと違う特別な思いってのがどこかにあると思います。育ててくれた両親とか、全国にいる、少ないですけど同じヒト生まれの子とか、うーん、そういう人たちに、なんというか『やったよ』って、言えるような。そんなひとつのわかりやすい結果だと思うので。本気で、獲りに行こうと思います」
メディアにとって撮れ高のあるきれいなコメントかどうかはわからない。でも、これが混じり気のない今のあたしだ。横目でステージの袖にいるクラウンセボンの方に目をやると、満足そうな顔で静かに拍手の仕草をしていた。ちょっと照れくさいけど、悪い気はしない。自然と、自分の頬が緩むのがわかった。
無事に記者会見を終えてホッとしたのもつかの間、あたしたちはそのすぐ後に開かれるGⅠレースの前夜祭に出席することになっていた。NHKマイルカップのときは体調を言い訳に参加しなかったから、桜花賞以来ということになる。しかも、そのときはこういうパーティー慣れしているレイアクレセントの後ろにくっついていただけ。煩わしい挨拶なんかは全部代わってもらっていたし、今回があたしにとって実質初めての前夜祭と言ってもいいくらいだ。
実質初めて、というのには、もうひとつ理由があった。
「まあ、いいわねこのお洋服。どちらで仕立てなすったの?」
会が始まってすぐ、胸にURAのピンバッジを付けたおばさまがそう言って近寄って来た。
スポーツ新聞やニュースで時々見かけた、ディナードレスに身を包んでGⅠ前夜祭に出席するウマ娘たち。あたしも今回初めてその一員になった。前回は学園の制服で済ませてしまったから、どうにも場違い感が拭えなかったけれど、これでようやく、本格的にGⅠに出走するウマ娘になったような気がした。これもひとつの勝負服みたいなものかな、なんて思ったりする。ただ、レースの勝負服を初めて着込んだときとは違って、わくわくよりも緊張の方が勝ってるけど。
「え、えと、クレセントの紹介で」
「ああ、レイアさんの? あすこはね、デザイナーが代々ウマ娘の方なのよ。だからよろしく仕上げてくださるでしょう? よくお似合いよ」
「ええまあ、ほんと、助かります」
適当な相槌。あたしが見ていたのは、目を細めてドレスを褒めてくれるおばさまの後ろで待機している人だかりだった。血統的な意味でも、前走で学年混合戦の重賞を勝っているという意味でも、あたしに話しかけようとしている人の数は多い。
「あらやだ、ひとり占めしちゃいけないわね。それじゃ、楽しんで」
あたしの視線の先に気づいたおばさまは、クスクスと笑いながら別のテーブルへと去っていった。
「どうかね、調子は。会見での威勢もよかったし、手ごたえを感じているようだけど?」
「マイルカップはイマイチだったけど、今回は存分に暴れまわってちょうだいね。あなたが活躍すると観衆の反応が違うんだから」
「ヒト生まれが勝つっていうのは話題的にも大きいしね。河沼の一件もあったし、ナギサちゃんにとっても、そっちに話題が行ってくれるのはありがたいと思うよ」
「そうそう、ほんとにナギサちゃん、あんなことがあった後も頑張ってるもの。私たちには何にもしてあげられないけど、ルピナスちゃんたちが頑張るのは、いろんな意味でいいご恩返しになるんじゃないかしら」
あたしに群がって来た人たちは、グラス片手に口々に勝手なことを言って盛り上がっていた。URAのバッジを付けた人もいれば、スポンサー企業の人や、出版社の役員っぽい人もいる。あたしが返事しにくいようなことも平気で言うんだから、ちょっとうんざり。でもまあ、周りの目線や期待なんてこんなもんだ。それに、談笑している大人たちの姿は本当に楽しそうで、悪意なんて微塵もないんだということがわかる。みんな本気で、あたしを彼らなりに激励しようとしているだけ。
ただ、ひとつだけどうしても引っかかることがあったあたしは、よせばいいのに余計な反発を企てた。
「それはもう。ナギサ
よく言った、と手を叩くおじさまにつられるように、みんな歓声を上げた。本当に言いたかった部分は伝わらなかったみたいだけど、伝わらなくてよかったかもしれない。自分でしかけたくせに、あたしは妙にドキドキしていた。
「皆さんどうも、ルピナスがお世話になったみたいで」
どうしよう、なんて続けよう。そんなことを考えていたところへ、トレーナーがクラウンセボンと一緒に現れた。ちょうど、他のチームのトレーナーへの挨拶回りを終えたところみたいだった。
「おお、ナギサちゃん。いやお世話だなんて。トレーナー孝行なウマ娘をもってナギサちゃんは幸せだなと、そう言ってたところなんだよ」
「ええ、もう少しわがままなくらいでもいいと思ってますけど。こう見えて繊細な子なので」
トレーナーは笑顔で大人たちへ会釈しながら、あたしの耳元で囁いた。
「ルピナス、あなたに会いたいっていう子が来てる。行ってきなさい」
そうして、肩をぽんぽんと叩くと、集まっていた人たちを離れたところへ引き連れて行ってくれた。正直、そうしてくれて助かった。そろそろ限界かなと思っていたところだったから。
ふうとため息をついていると、一緒に残ってくれたクラウンセボンがあたしの顔を覗き込んで来た。
「ルピナスちゃん、怒ってる?」
「なんで?」
「お耳と、尻尾」
その言葉にハッとして、あたしは知らず知らずのうちにイライラと振り回していた尻尾を両手で抑えつけた。それを見たクラウンセボンは小さく喉を鳴らして笑った。このわかりやすさはちっとも直っていないみたい。
「ぼ、ボン、それであたしに会いたい子って、誰?」
恥ずかしさをごまかすために、あたしはきょろきょろとあたりを見回しながら尋ねた。
「僕だよ」
「うわっ」
背後から聞こえた声に振り返ると、すらりと背の高いショートヘアのウマ娘が立っていた。
「驚かせちゃったかな。明日はよろしく」
「い、いえ! こちらこそ、よろしくお願いします」
相手の顔には見覚えがあった。たしか、今年の安田記念の勝者で、ついこの間のスプリンターズステークスでも二着に入った、いまの短距離界で最も注目を集めているウマ娘のひとり。
「プレストアジタート、さん、ですよね」
「ああ」
学年は二つ上の高等部二年。身長は多分、トレーナーと同じくらい。そんなに年は離れていないはずなのに、顔の位置が高い場所にあるだけで、ずっと大人に見える。
「会えて嬉しいよ。君には興味があったからね」
口調こそ柔らかかったけれど、涼しい切れ長の目が、鋭くあたしを突き刺してくる。
「スプリンターズステークスに、君の同期が来ていてね。たしか、ソーブリオ、とか言ったかな。その子から聞いたんだよ。同じ学年に、ヒト生まれの快速マイラーがいるって。君のことだよね」
「ああ、えーっと、多分、そうです」
あたしの中途半端な返事に、プレストアジタートは小首を傾げて笑みを漏らした。
「かわいいね、君。記者会見では随分強気だったから、もうすこしやんちゃな子かと思っていたけど」
「あっ」
自分の顔がカーっと熱くなる音が聞こえた。すっかり忘れていたけれど、あれを見るのはファンやテレビの視聴者だけじゃない。他の陣営の子たちだって、みんな見ていたはず。だとすると、相当生意気なヤツに映ったんだろうな、と思った。だけど、それならとあたしは目一杯背すじを伸ばすことにした。今更しおらしくするなんて、おかしいもの。
プレストアジタートは、そんなあたしを品定めするようにまじまじと見つめて、ふむと一息ついて、それからおもむろに口を開いた。
「ただまあ、無理そうだね」
「は?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「毛ヅヤを見るに、調子は良好。だけど、肩も、トモも、まだまだ子供だ。そんなんじゃあ、シニアGⅠでは通用しない。魔法のような何かが起きない限りはね」
予想だにしないレベルの辛辣な言葉。全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。頭の中はまるで感電したみたいにしびれて、何の反論も思い浮かばない。ただ必死に、一度伸ばした背中を丸めてしまわぬように、全身に力を込めていた。ここで負けてたら、本番前にレースが終わってしまう。あたしが頼れるのは、そんな意地のようなものだけだった。
「ルピナストレジャーは、勝ちますよ」
その声は、ショートした頭にもハッキリと聞こえてきた。
黒い礼服姿の栗毛のウマ娘が、ツカツカと前に歩み出て、あたしとプレストアジタートの間に身体を滑り込ませる。そうして、もう一度、まっすぐな声色で言った。
「勝ちますよ。ルピナストレジャーは」
あたしの位置からは、後姿しか見えない。だから、いまクラウンセボンがどんな表情をしているのか、わからなかった。けれど、自分よりも二回り以上大きな相手に相対しているはずのその背中は、自信に満ち溢れているように見えた。
一方の相手は、そんな反撃に動じる様子もなく、むしろ愉快そうに口の端を上げて、先を続けろと促すように目で答えた。
「魔法のような何かが起きない限り通用しない、とおっしゃいましたね。……そうかもしれません。確かにルピナストレジャーは、まだあなたほど盤石なウマ娘じゃありませんから。でも、だからこそ起こるんです。魔法のような何かが。彼女は、そういうウマ娘なんです」
「なるほど」
二人のやりとりを見つめながら、あたしはこれまで感じたことのない新しい感情が自分の中に芽生えてきたのを感じ取っていた。
クラウンセボンがあたしのことを特別なウマ娘だと言い張る場面には、これまで何度も遭遇してきた。そのたびに、嬉しいけれどどこかむずがゆいような、居心地の悪いような、そんな思いに駆られるのがお決まりだった。そうでなくても、お世辞みたいなことを言わせた自分が情けないと思ったり、悔しく思ったり。
だけど、今日は違った。まるでトレーナーに認められたときのような純粋な喜びと、安心感。そして、あたしの味方でいてくれることへの感謝。それを同級生の親友に対して抱いているという、不思議な感覚。嬉しいのにどこかセンチメンタルな気持ちが、あたしから言葉を奪っていた。
「ルピナストレジャーさん」
名前を呼ばれて、思考はパーティー会場に呼び戻された。気づけば、プレストアジタートはあたしに向かって頭を下げていた。
「僕はどうやら、随分と失礼なことを言ってしまったようだね。すまない」
「いやまあ、別に」
「あはは、嫌われてしまったかな」
そういうわけじゃなくて、単にとっさのことでそっけない返事になっただけだけれど、あたしは否定も肯定もしなかった。
「ひとつだけ、お節介を焼いておこう」
去り際に、プレストアジタートは真面目な顔で言った。
「この子の目が確かなら、君は本当に魔法のような何かを起こすウマ娘なんだろう。でもね、魔法は敵を作りやすいんだ。……君が気を付けなくてはいけない相手は、僕ひとりだと思わないことだよ」
「ご忠告ありがとうございます」
あたしの代わりに、クラウンセボンが答えてくれた。短距離界のスターウマ娘は、それを聞くと満足したように頷いて、軽く手を振るとその場を後にしていった。
しばらくそのまま呆けたように立ち尽くしていると、トレーナーが急ぎ足でこちらに戻って来た。
「ルピナス、お疲れ様。どうだった? プレストアジタート。大物でびっくりしたでしょう」
ドッキリ大成功、とでも言わんばかりにいたずらっぽく笑うトレーナーの顔を見た瞬間、なぜかホッと息が抜けて、がくんと膝の力が抜けた。大して動き回ったわけでもないはずなのに、まるで坂路を三本駆け上がった後みたいに、力が入らない。たまらず、そばに付き添ってくれていたトレーナー助手に寄りかかってしまった。
「わわっ、ルピナスちゃん、ダメだよお行儀よくしなきゃ」
そんな小言を無視して、仕立ててもらったおろしたてのディナードレスがしわくちゃになる勢いであたしはクラウンセボンの肩に腕を回した。
「どうしたの、大丈夫? 具合、悪い?」
「違う。疲れちゃっただけ」
心配の声を上げるトレーナーに、ほんのちょっとだけ、本音を隠して答えた。疲れた、というのは本当だけど、親友に抱き着いたのはそれが理由じゃなかった。上手く言えないけれど、ひどく心細かった、というのが一番正しい言い方かもしれない。
この会場の中で、あたしは、あたしがどんどん偽物の何かになっていっているように感じていた。ここにいる人たちはみんな、あたしを見ているようで、見ていない。それは最初に集まって来た大人たちも、その後に現れた先輩ウマ娘も同じ。ルピナストレジャーという名前にくっついている、それぞれのイメージとおしゃべりしているだけで、本当のあたしなんかどこにもいなかった。それどころか、あたし自身でさえ、あたしが本当の自分でいることを許していなかったような気がする。ここにいるトレーナーと、クラウンセボンを除いて。
あたしは、自分が本当に本物のルピナストレジャーなんだということを確かめたかった。強がりで、だけど弱っちくて、思いだけは一丁前なウマ娘。周りに支えられながら何度も何度も自分を奮い立たせて、ようやくゲートに向かうことができる、自分のことで一杯一杯な子供。
「心配いらないよ。私たちは、ルピナスちゃんのこと、信じてるから」
その声で呼ばれる名は、間違いなく、あたしのことだ。
それからは、ひと通り他の出走者に挨拶を交わして、あたしはホテルに引き上げることになった。さっき寄越された意味深な忠告が頭にチラついて、どうなることかと身構えていたけれど、案外みんな優しく相手してくれた、と思う。なかにはウマスタに上げる写真を一緒に撮ろうと言ってくれた人もいた。ひょっとしたら、プレストアジタートの忠告は、あたしを不安にさせるための作戦だったのかもしれない。
ホテルに戻ったあと、寝る前にスマホのチェックをすると、LANEの通知が目に入った。表示されたアイコンは、あたしに大事なことを思い出させる。
「……やば」
思わず、声が出た。レース前にはいつも連絡を入れることになっていたのに、すっかり忘れていた。
『忙しいのかな。とりあえず、勝手に応援しておくからね。行ってらっしゃい、ルピナス』
届いていたメッセージはそれだけ。
ああ、そうだった。ここにもうひとり、いたんだ。あたしを、あたしのまんま見つめてくれている人が。なんで、頭から抜けてたんだろう。連絡を忘れていたことよりも、そっちの方がいけないと思った。
急いでポチポチとメッセージを打ち込む。明日のレースの出走時間、テレビ中継の放送局と番組の放送時間、そしていつごろ東京に帰るという事務的な情報。それと最後に「行ってきます」の文字。これで終わり、なら、いつもの連絡パターン。
だけど、今日はそれだけじゃ物足りないような気がした。罪滅ぼしのつもりじゃないけど、最後の行にもうひとつ、なにか加えたい。ルーティーンにないことをしようとするもんだから、言葉なんて何にも浮かんでこない。送信ボタンを押せないまま、五分、十分、と時間が過ぎていく。
このままじゃラチが明かないと、考えるより、手を動かした。意味のない言葉をあれこれ書いて、消して、何度もそれを繰り返す。それでもやっぱり、ピンと来るひとことが見つからない。やがてそれにも飽きてきて、もうやめようかな、と思ったその時だった。
「あ」
何気なく打ち込んだ四文字の文字列が気になった。ひどく短いその文字はシンプルで、あまりにも陳腐。だけど、一番素直で、一番そのまんまなその言葉が、一番よかった。
『見ててね』
送信ボタンを押して、即座に返って来たスタンプのキャラクターは、力強く親指を立てていた。