ストレイガールズ   作:嘉月なを

57 / 80
#50-本当の意味

 GⅠレースの勝負服は、ウマ娘にとって、限られたものにしか身につけることを許されない、特別な勲章。

 

 ここはパドック裏の控室。色とりどりの勝負服が、あたしをぐるりと取り囲んでいた。その勝負服に身を包んだウマ娘たちは、誰ひとり声を発さず、だたステージが幕が開くのを待っている。

 

 ぞくり、と寒気がした。カーテンの隙間から吹き込んでくる秋風のせいじゃない。これから闘う猛者たちから漂ってくる不穏な雰囲気のせいだ。彼らは睨むでもなく、凄むでもなく、ただじっと互いを見つめあっている。身動きひとつせずに。

 

 その中に混じっているふたりの同期へ、助けを求めるように小さく手を振る。NHKマイルカップ以来だね、なんてメッセージを無言の中に込めて。だけどその途端、ふたりとも目を逸らして咳払い。いまはぬるい空気にしたくないって感じだ。

 

 他の先輩たちの様子は、特にピリピリしている。昨日の前夜祭で挨拶したときとは全然違う。たった一夜でこれほど雰囲気が変わるなんて、思ってもみなかった。

 

 そんな沈黙を破ったのは、前夜祭で交わした会話がまだ記憶に新しい、今日の本命ウマ娘だった。

 

「なんだなんだ、今日はみんな、随分ナーバスになっているみたいじゃないか」

「プレスト」

 

 あたしの隣に立っていた淡い空色の勝負服のキラナが呆れたようにため息をついた。

 

「貴方こそもうちょっと危機感を持った方がいいわ。自分でわかってるでしょう? 貴方はみんなのターゲットになってるのよ」

「僕は普通に走れば、問題ないからね」

「普通に走れると思ってるの? 私たちが貴方を普通に走らせるとでも?」

 

 そのとたん、プレストアジタートの目がギラリと光った。

 

「君にそんな度胸があるのかい、キラナ」

 

 キラナは動じない様子でフンと鼻を鳴らして答えた。

 

「私はここでの結果次第で、海外遠征の予定が決まるの。そのためにはここで何としても貴方に勝たなきゃいけない。何だってするわよ」

 

 プレストアジタートは腕を組んだまま、眉をクイと上げて肩をすくめた。いつのまにか、みんなの視線がふたりに集まっている。そのどれもがチリチリとした熱を持っていて、それでいて氷のような冷たさも感じる。そんなものを目の前で見せられているあたしは、居心地が悪いったらなかった。「もうやめない?」なんて言いたいところだったけれど、いま声を出したらこっちにも火の粉が飛んできそうな気がして、あたしは黙ったままゴクリと唾を飲み込んだ。

 

『それでは本日のメインレース、GⅠマイルチャンピオンシップのパドックステージです』

 

 まるで格闘技のラウンド終了を知らせる鐘のように、場内アナウンスが割って入って来た。その声に、ホッと胸をなでおろす。ステージに出る緊張なんかより、この変な空気感の中にいる窮屈さの方がよほどイヤだったから。こんなこと、初めての経験だった。

 

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃーい」

 

 1番のエルソイラルナが先陣を切ってステージへ上がっていくと、順番待ちの子たちが拍手と共に声を送って見送る。形式的なやりとりだけど、これで少し場の空気が丸くなったのがわかった。パドックは観客へのアピールタイム。お互いに飛ばし合っていた殺気も収まって、これでようやく一息つける。

 

『6番、ルピナストレジャー、七番人気です! クラシック級ながら、秋のマイルGⅠの舞台に——』

「行ってきます」

 

 名前がコールされて、あたしもステージへと向かう。みんなと同じように挨拶して、みんなと同じように見送られる。

 

 ただ気のせいだろうか、あたしのときは、心なしか見送りの声や拍手がまばらだったような気がする。……まあ、ここに出走しているのはほとんどが学年の違うシニア級の子たちばかりだし、あたしと特別親しい友達がいるわけでもないのだから、そりゃそうだとも思うけど。

 

 それでも、心のどこかに、昨日プレストアジタートから聞かされた、あの言葉がよぎった。

 

『——魔法は敵を作りやすいんだ』

 

 まさかね。あたしは一度大きく瞬きをして、余計な考えを打ち消すことにした。

 

 第一、あたしは今回本命でもなんでもない。人気順位でいえば七番、よくて六番人気くらい。実際、さっきの話を聞く限り、みんなから一番警戒されているのはプレストアジタートで間違いない。あたしを目の敵にしている暇なんかないはずだ。

 

 アピールを終えて、バックステージに戻ってくると、さっきプレストアジタートと不穏なやりとりを交わしていたキラナが、にこやかに出迎えてくれた。彼女も、すでにあたしのひとつ前に出番を終えていた。ゲートではあたしの隣になる。

 

「お疲れ様。……さっきはごめんなさいね。こいつら何やってんだ、とか思ったでしょう?」

「あ、はい」

 

 はいじゃない。とっさのことで何も考えないまま素直に頷いてしまったあたしは、あわてて首を横に振った。

 

「違います違います! ちょっと驚いただけで……」

「あはは、可愛い。私貴方みたいな素直な子、好きよ」

 

 恥ずかしさで顔が火照るのを感じた。キラナはひとしきり笑ったあと、少し背伸びをするようにして、あたしの耳元に小声でささやいた。

 

「ちょっと、ムキになっちゃったのよ。ほら、アイツ……プレストアジタートね。アイツ、私の同期なんだけど、春に安田記念取って、随分調子に乗ってるみたいでさ。ここでも勝たれちゃったら、今年のURA賞は決まったようなもんじゃない」

 

 確かに、ライバルとしては何としても阻止したい気持ちはわかる。でも、そうなるととても気になることがあった。

 

「あの、何をするつもりなんですか」

 

 さっき、キラナはプレストアジタートに向かって、勝つためならどんなことでもするみたいなことを言っていた。作戦に関わることなのだから、聞いたって教えてくれないかもしれない。だけど、反則まがいの妨害でもしようと思っているのなら、事前に知っておきたかった。先輩相手に文句は言えないにしても、せめて関わり合いにならないようにしたいから。

 

 あたしの不安げな様子が伝わったのか、キラナは苦笑いするように表情を緩めた。それからゆっくりと、周りを気にするように見回してから、グッと顔を近づけてくる。その穏やかな顔に、あたしはすっかり油断していた。投げかけた質問の答えに、きっとあたしを安心させるような優しい一言をくれる。それとも、冗談でも言って笑わせてくれるだろうか。

 

 現実は、どちらとも違っていた。

 

「おいで」

「え?」

 

 言うが早いか、キラナはあたしの手を取ると、そのままバックステージをするりと抜け出した。

 

「あっ、キラナさん? どちらへ——」

「すぐ戻るから!」

 

 呼び止めようとした係員に適当な返事を投げつけて、キラナはそのままあたしを楽屋の方へと連れて行った。あたしはというと、何事かと面食らうばかりで、抵抗しようという気すらも起きず、ただされるがままに手を引かれていた。

 

「入って」

 

 なかば押し込まれるように招き入れられた楽屋には、腕や脚に巻くバンドみたいな形をしたものから、身体をすっぽりと覆うくらいのカプセルみたいなマシンまで、見たこともないような機械がずらりと並んでいた。その物珍しさに、いったい何に使うものなんだろう、なんてのんきなことを考えてしまう。

 

 だけど、そんな能天気なあたしとは対照的に、キラナはどこか引きつったような顔をしていた。

 

「ルピナスちゃん、だったわね」

「ええと、はい。そうですけど」

 

 確かめるような問いに、少し戸惑いながら頷くと、キラナは閉じた部屋の中なのに、キョロキョロと辺りを見回すと、内緒話をするみたいに声をひそめた。

 

「手短に言うわ。貴方、今日のレースは気を付けた方がいいわよ」

「え?」

 

 どういうことか、わからなかった。

 

「さっき、私はプレストに『勝つためなら何でもする』って言ったでしょ。あれはね、嘘。嘘なの。私は別に何もしないわ。正々堂々と戦って、アイツをやっつけるつもり」

「そうなんですか」

 

 正直、ホッとした。先輩たちの混じったこのレースで妨害合戦なんかされたら、たまったものじゃない。

 

 でも、だったらなんであたしをこんなところへ連れ込んで、気を付けろなんて言うんだろう。あれがブラフのつもりだったなら警告の意味はないし、本当のところをあたしに教えるのだって損なだけだ。勝負に徹するなら、あたしを不安にさせておいたままにした方がいいだろうに。

 

 あたしの考えていることは、キラナにはお見通しのようだった。

 

「そうよね、よくわからないわよね。……別に、ハッタリのためにあんなこと言ったんじゃないのよ。貴方に気付いて欲しかったからなの。他のみんなが、貴方に対して、何を企んでるか」

 

 最後の一言は、とりわけ低く、重々しく聞こえた。それを合図に、あたしの頭の中をいろいろな考えが一気に駆け巡り出す。

 

 昨日のプレストアジタートが言っていたこと。「勝つためなら何でもする」というセリフ。そして、気にしないことにしていたまばらな拍手。

 

「もしかして、あたしがターゲットなんですか?」

 

 キラナは頷くことも、否定することもなかった。ただ静かに、あたしの肩へ手をやると、震え加減の唇で言った。

 

「貴方の同期の子たち以外では、プレスト、私、それとアスクレピアデス先輩。今日のレースで、ゴールだけを見て走るのは、この三人だけ。あとは負けたくない相手のことに気を取られているわ」

 

 背すじから尻尾の先まで、冷たいものが走った。キラナが教えてくれたのは、あたしは今日ここで、十人以上の先輩たちからターゲットにされ、潰しに来られるかもしれないということ。やろうと思えば簡単だ。あたしの前に壁を作って、横の進路も塞いでしまえば、それで終わり。そんなやり方ではレースに勝つことはできないだろうけれど、あたしを負かすことを優先するのなら、それが最適な答えになる。

 

「でもまさか、そんな酷いことしないでしょう?」

「しない、と思うわ。露骨にはね。みんな自分が勝ちたいのが本音だもの。でも、途中で自分が一着を取れないと思ったら、特定の誰かに先着することに目標を変えるっていうのは十分にあるわ」

 

 そうなったら、何をされても不思議じゃない。たとえわざと邪魔してきたとしても、危険行為や悪質な接触と判定さえされなければセーフなのだから。内心どういうつもりでコトに及んでいようが、そんなのは関係ない。

 

 ずるい。卑怯だ。どうしてあたしが。言いたいことはたくさん湧いてくる。そのうちのひとつを、あたしは絞り出すように呟いた。

 

「ヒト生まれは、勝たせないってことですか」

 

 あたしの肩に手を置いた先輩ウマ娘は、今度は首を横に振った。

 

「ちょっと違うわ。みんな、貴方には負けるなって言われてるのよ」

 

 どう違うの、と口を開きかけたあたしに先回りするように、キラナは言葉を続けた。

 

「怖いのよ、みんな」

「!」

「貴方みたいな血統の子に負けるのは、とても恐ろしいことなの。ここに出てくるのは、それだけの血と家柄を背負わされている子たちばかりだもの。そして、それを指導しているトレーナーも。みんな、貴方に自分たちの常識を打ち負かされるのを恐れてる。だから『負けるな』と言うの」

 

 それはもはや、対抗心というより、恐怖心。あたしとどこか似ている。そう思った。

 

 あたしも、負けることを恐れていたときがあった。あたしの力が通用しないとなれば、それはあたしの中に流れるヒトの血が原因だと言われているような、そんな気がしてしまうから。血の常識を覆せると期待してくれた人たちを、裏切ってしまうような気がしたから。

 

 血統も立場も真逆にいる出走者たちにとっては、きっとその考え方も真逆。あたしに負ければ、己の血統の価値が損なわれ、血の常識を守ることができない。だから、負けることを恐れる。

 

 正反対にいるはずのあたしと彼ら。それなのに、結果的には同じように恐れを抱いているなんて、皮肉な話だ。だからといって、こんなことを受け入れられるわけではないけれど。

 

 それに、そこまでわかってみると、かえって不思議なことがあった。

 

「どうして、教えてくれたんですか」

 

 不思議、というよりも不自然だ。本当にあたしがそんな理由で標的になっているのなら、なおのこと黙っていた方が都合がいいはずだ。勝負する相手がひとり消えることになるのだから。

 

 もしかして、これも嘘なのかとさえ思った。あたしを不安にさせることで、思い切り走ることができないようにしてしまう。心理戦にしては手が込み過ぎているけど、その可能性だってなくはない。

 

 キラナは、表情ひとつ変えずに答えた。

 

「私は、貴方の魔法を見てみたいの」

 

 ハシバミ色の瞳が、あたしをまっすぐ見つめていた。

 

「プレストから聞いたわ。貴方は、魔法のような脚をもっているって。……私もそんな気がするわ。貴方だけじゃない。貴方のチームの子たちは、みんな何か、そういうものを持っているのよ」

 

 喜んでいいのかよくわからない、複雑な気持ちになる。たまらず目を逸らすと、ドレッサーの上に広げられているタオルが見えた。そこにプリントされた、Capellaの文字。

 

 ——そうか、そういうことなんだ。

 

「実は私も、言われてるの。貴方には負けるなって。負けたら、海外遠征は見送るぞって。それがどういう意味か、よくわかってる」

 

 うつむきながら、もどかしそうに呟いたキラナは、けれどもすぐに顔を上げてさっぱりとした顔で付け加えた。

 

「でも、私はやらない。誓うわ。貴方には手出ししない。私が勝ちたいのはこのレースそのものであって、プレストであって、貴方じゃないもの」

 

 それは、トレーナーの指示を無視するという宣言。

 

「いいんですか」

 

 思わず尋ねたあたしに、キラナはクスクスと笑いながら答えた。

 

「貴方にはわからないかもしれないけれど、GⅠウマ娘って、気性難で、プライドが高いヤツばっかりなのよ」

 

 そうしてくるりと背を向けると、楽屋の壁に向かって、独り言のように言い放った。

 

「私、今日は中団から行くわ。みんな、私には近寄れないわよ。なんたってカペラの短距離エースですもの。最後のスパート、誰もついてこさせない。追いつかせない。目の前を行くプレストを捉えて、私が一着をいただくわ。私の前に居場所なんて与えない。私の後ろに道ができるだけ」

 

 彼女が何を言いたいのか、察しがつかないほどバカなあたしじゃない。

 

「ありがとうございます」

「貴方、まだまだ甘いわね」

 

 きょとんとするあたしに、キラナは一瞬だけ、鋭い目つきになった。

 

「それでも私が勝つ、って言ってるのよ」

 

 地下バ道へ急ぐあいだ、そのひと言が頭から離れなかった。

 

 

『霜月の風も水面に映える京都レース場に、今年もまたスピード自慢の十八人が集いました。秋のマイル王決定戦、マイルチャンピオンシップ。それぞれの世代が己の力を証明すべく九十秒の熱戦に挑んでまいります。いまスターターが上がりまして、まもなくGⅠのファンファーレです』

 

 あたしにとっては、こぶし賞以来の京都。ひと月前にホープアンドプレイが菊花賞で駆け抜けたこの舞台を、あたしはほんの半分ほどの距離で戦う。奇数番の子たちが入っていく姿を後ろから眺めていると、何人かがちらりとあたしの方へ振り返った。ああ、本当なんだと思いつつ、気付かないふりをして、肩を回す。楽屋を出る前にキラナが結びなおしてくれたスカーフに手をやって、呼吸を落ち着かせる。

 

 深呼吸していると、地下バ道でのトレーナーの様子が思い出された。

 

『ルピナス、どこへ行ってたの! 最後に確認したいこともあったのに……!』

 

 ずいぶん探したらしく、顔中汗が噴き出していた。結局、キラナの楽屋でのあれこれのおかげで遅刻ギリギリになったあたしは、時間に追われて「行ってきます」の挨拶もロクにできないまま、ターフに駆け込むことになった。見送るトレーナーに向かって、最後にこんなことを叫びながら。

 

『トレーナー、あたし、マークする相手、変える!』

 

 あんまり急いでいたから、返事は聞けなかったけれど、一瞬視界に映ったトレーナーの顔は、驚きながらも頷いていたように見えた。

 

 ゲートを出たら、キラナの後ろへ。あたしの活路はそこにしかない。一瞬の位置取り争いがすべてだ。トレーナーとその助手が事前に立ててくれた作戦とは違ってしまうから、心の中でごめんと謝る。緊急事態だもの、仕方ないよね。

 

「はい偶数行きましょー!」

 

 係員が大きな声で合図する。ゆっくりとゲートに収まって、右隣りの彼女に視線を送ったけれど、何も返ってこない。もうゴールしか見えていないみたいだ。それならそれでいい。その目にあたしを、見せてやる。あたしに塩を送ったことを後悔させてやるんだ。

 

『さあゲートイン完了。新たな王者の誕生を予感させるGⅠマイルチャンピオンシップ……』

 

 たとえ理由が違っていても、負けるのが怖いのは、みんな同じ。だけど、あたしは、あたしのやり方で、戦う。

 

『スタートしました!』

 

 出遅れなし。完璧にスタートした。

 

 予想していた通り、いや、それ以上に、外からの圧力が強い。どんどん覆い被さるように、あたしの前へ、横へ、集まってくる。あたしは、ひとつ内側のゲートから出たキラナに必死で付いていっていた。出脚が良い先行ウマ娘のキラナ。正直、あたしの脚では同じような位置に付けるのはかなりキツい。だけど、安全な場所を確保するためには、なんとしてもここから離れるわけにはいかない。あたしは少し強引なくらいに身体を寄せて行った。もう少し、前に行ってください、と目で訴えながら。

 

 あたしのターゲットは、口の端を上げて、狭い内ラチ沿いでするりと前のウマ娘を交わし、ひとり分のスペースを後ろに作ってくれた。——ここまでは合格、ってことだろうか。あたしはすかさずそこに身体を滑り込ませる。するとその瞬間、あっという間に周りを囲まれた。

 

『さあ今年の隊列はかなり団子状態になって、これより第三コーナー、淀の急坂を下ってまいります!』

 

 いつの間にか、坂を上り切っていた。ペースが速まる様子はない。みんながひと固まりになって、牽制し合うようにしながら最終コーナーに向けて下っていく。すでに手ごたえが怪しそうな子も何人かいる。そんな中で、一番人気のプレストアジタートは、前から四、五人目の位置をキープしていた。でも、誰も競りかけていかない。異様な光景だった。

 

 ——途中で自分が一着を取れないと思ったら、特定の誰かに先着することに目標を変えるっていうのは十分にあるわ。

 

 キラナの言葉が頭をよぎる。同時にドキドキと心拍数が上がっていく。疲れてきたわけじゃない。これからどうなるんだろうという不安、あたしはきちんと無事にレースを終えられるんだろうかという不安、いろんな不安がよぎる。経験したことのある場所のはずなのに、今日の淀の下り坂は、まるでジェットコースターに乗った時のような気分。こんな気持ち、初めてだった。

 

『先頭はアウターワールド、すでに六〇〇の標識は過ぎている! NHKの、マイルカップの再現成るか、しかしプレストアジタートがかわしにかかる! さあ直線に向いて……』

 

 スローだ。あたしは、自分の脚と会話して、それがわかった。あれだけ前半で無理気味にキラナについていったのに、脚に余裕がある。淀の坂を、今日の隊列はビックリするくらいのスローでこなしたらしい。これじゃ前が止まらない。でも、あたしの脚なら。いまのこの元気な脚なら。

 

 そんなことを考えているあたしをあざ笑うように、外目をついて上がっていく子たちの背中が見えた。いつの間にか、外目の前方にはしっかりと壁ができている。

 

 ねえ、まだ行かないの? ——あたしは心の中で前を行くキラナに呼びかけた。アンタが行ってくれなかったら、あたしに道は無いのに! このままじゃ、あたしたち、ふたりとも……。

 

 その時、目の前から聞こえてくる足音が変わった。まるで隕石でも落ちてきたかのような、重く、深い一撃。その音ひとつで、キラナの身体がぐんと前に伸びる。

 

『最内を突いてキラナ! キラナが来た! 真ん中からセイントアイギス! インディゴパレスは伸びないか!』

 

 慌ててあたしも後を追った。大丈夫。付いていける。一緒に上がっていけば、道がそこにある。そして最後にかわしてやるんだ。あと、三〇〇メートルくらい。いける。行ける!

 

 淀の最終直線は平坦。坂の上りも下りもない。ただ真っすぐな広い道があるだけ。純粋な末脚の勝負になる。あたしにとっては絶好の条件。あたしは自慢の乗り換えで右脚を強く踏み込んだ。

 

 

 ……それなのに、キラナとの距離は縮まらなかった。いや、むしろ、さらにあたしは引き離されていく。

 

 ——それでも私が勝つ、って言ってるのよ。

 

 あたしはようやく、理解した。理解してしまった。

 

 

 

『外粘るプレストアジタート! 間を縫ってルピナストレジャーも来たが、内からキラナ、内からキラナ、キラナだー!』

 

 一着、キラナ。二着にプレストアジタート。そしてあたしは、四着。掲示板にこそ載ったけれど、それが限界でもあった。

 

「ルピナスちゃん、無事だった? 安心したわ、ちゃんと私の言ったことを理解してくれたのね。変なことにならなくてよかったわ」

 

 膝に手をついて荒く呼吸するあたしの頭を撫でながら、勝者は嬉しそうにそう言った。嘘偽りなく、本当に心の底から、嬉しそうだった。

 

 あたしは理解していた。彼女が言ったことの、本当の意味を。

 

 それは、どんな企みよりも残酷な現実だった。

 

 


 

第5回京都開催9日目 マイルチャンピオンシップ 芝1600m 天候:晴 芝:良

 

1着 ⑤キラナ      (5番人気) 1:33.1

2着 ⑪プレストアジタート(1番人気)  1バ身(+0.2)

3着 ②エスパンタリオ  (9番人気)  クビ(+0.2)

4着 ⑥ルピナストレジャー(7番人気) 1/4バ身(+0.3)

5着 ⑮アウターワールド (2番人気)  クビ(+0.3)

 





次回から第5章に入ります。
サクセスストーリーはここからが本番です。
頑張れチーム〈プルート〉!(しろめ)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。