お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。
#51-はじめてのGⅠ
ぴくり、とあたしの耳が動いた。夜も更けた寮室の中で、聞き慣れない音を捉えたからだ。
音はカーテンの向こう側から聞こえてくる。パチパチと、硬いものに砂粒が当たるような、それでいてどこか優しい感じもする音色。
その正体を確かめようと、カーテンの裾をひょいとつまみ上げた。
「あ、雪だ」
それは確かに雪だった。小さな小さな氷の粒が、次から次へと窓ガラスに貼り付いて、あっという間に溶けてゆく。
「なんか、珍しいね。まだ十二月になったばかりなのに」
トレセン学園に入学してから今日まで、寮の窓から雪を見たことは一度も無かった。別に積もるほどのものではないだろうけれど、冬らしいものを見つけられたせいか、無性に心が躍る。
「ホープ、雪だよ」
「子供か」
相変わらず冷めたことを言うヤツ。子供なのはお互い様のクセに。
「良かったじゃん、おととい降らなくて」
同室の机の上に置かれた賞状へ目をやりつつ、あたしは口を尖らせた。
「さすがのアンタでも、雪降る中で三六だったら、キツかったんじゃない?」
「どうかな。あんまり変わんないと思うけどね」
二日前の土曜日、ホープは初めての重賞制覇を達成していた。GⅡ、ステイヤーズステークス。中山レース場、芝3600メートル。現行のトゥインクル・シリーズで最長の距離を誇る超長距離タイトルだ。まるで自身のために作られたかのようなマラソンレースを8バ身差の圧勝で制し、菊花賞で見せたステイヤーとしての実力が確かなものだということを証明してみせた。
「まあ、そうか。アンタならダートで走っても平気そうだもんね」
いくら何でも無茶だよ、とでも言いたげにホープは笑った。……いや、ひょっとすると、自信アリ、の笑いかもしれない。いずれにしても、今現役のウマ娘で最もタフなスタミナを持っているのは間違いなくホープだ。距離が延びれば延びるほど、条件が過酷になればなるほど力を発揮する。どこかの評論家は“本物のヘビーステイヤー”なんて、懐かしいフレーズでその強さを表現していた。
「でも良かった。これであたしたち二人とも、重賞ウマ娘になれたんだから。それって、さ。なんか……すっごく、凄いことだよね」
「は?」
まとまらないまま勢いで喋ってしまったあたしに、ホープは氷のような冷たい視線を刺してきた。だけど実際、凄いもんは凄い。トゥインクル・シリーズの競争は過酷だ。メイクデビューや未勝利戦から勝ち上がれるのは三割未満、オープンクラスに到達するのは十人に一人もいないと言われている。そんな世界で、あたしたちはさらに数が限られる重賞ウマ娘になったわけだ。あんまり凄すぎて、凄いの他に言いようがない。
「もうトレーナーから聞いてると思うけどさ、あさってにはテレビの取材が来るんだよ。クレセント抜きで」
これまであたしやホープが受けてきた取材は、どれもチームのエースであるクレセントへの取材と一緒に、そのついでみたいに申し込まれたものばかりだった。だけど、今回は違う。数十年ぶりに現れたヒト生まれの重賞ウマ娘コンビとして、あたしたちのためだけに、特別に時間を割いてくれると言っていた。
「出世したもんだね」
興味なさげなセリフを口にしながらも、ホープの表情はいつもより緩んでいるように見えた。鏡を見たわけじゃないけれど、きっとあたしも似たような顔をしているんだろうな、と思った。
「ホープ」
「何だよ」
「来年が楽しみだね」
先月のマイルCSで、あたしの今シーズンは終わった。次は大目標のヴィクトリアマイルに向けて、三月の中山ウマ娘ステークスから始動することになっている。同じ頃に、ホープは春の天皇賞へ向かう。
GⅠの壁は、思っていた以上に厚かった。この一年、強い同期たちと戦い、屈強な先輩たちにも挑んだことで、理屈以上に身体で理解できた。それは単なる力比べだけじゃない。駆け引きの戦略も、レース中の位置取り争いも、想像していたよりずっと過酷で、容赦のない世界だった。あたし自身がもっと速く、そして強くならなくちゃ、到底その頂には手が届かない。
でもおかげで、登るべき山の高さも分かった。完敗だったマイルCSだって、結果としては二バ身半も差を付けられた四着だったけれど、その差は決してあたしを絶望させる距離じゃない。恒例のレース後健診をしてくれた医者も、トレーナーも、あたしの身体はまだまだ成長すると言ってくれた。同じことは、ホープも菊花賞の後で言われたらしい。
そんな未完成のあたしたちが、今年は揃って重賞を勝てた。それなら来年は、一緒にGⅠタイトルを狙いたい。その先には、いつか約束を交わした、中距離GⅠでの直接対決という夢が待っているのだから。
「まったく、キミはすぐそうやって欲張る」
絡まった尻尾の毛を解きながら、ホープは呆れたようにそう言った。
「期待した通りにならなくて、あとで無駄に落ち込むのだけはやめてよ」
何も言い返せない。勝手に先走って、想定外のことに焦って、これまで何度も迷惑をかけてきたんだから。もうそんなあたしじゃないと言いたいところだけど、説得力なんかカケラも無いのは分かっている。
「それから、慕ってくれてる後輩のことは、忘れないでやれよ」
「別に、忘れてなんかないよ」
おまけとばかりに飛んできた忠告には、すぐさま反論できた。
「ショコラの初GⅠだもん。忘れるわけないじゃん」
“慕ってくれてる後輩”ことショコラは、今週末の日曜、阪神JFに出走することになっている。デビュー戦、ファンタジーステークスと無傷の二連勝で挑むGⅠ初戦。あたしたちが取材を受けているころ、あの子は最終追い切りの真っ最中だ。その後の仁川への移動は、あたしも同行することになっている。
「忘れられるはず、ないんだよ」
ちょうど一年前、スタンドから見つめた阪神JF。その光景は、今も頭に焼き付いて離れない。当時デビューすら間に合わなかったあたしは、同期のスターたちがいち早くGⅠの舞台で活躍している姿を、羨むような気持ちで眺めていた。早くデビューしたい。追いつきたい。置いて行かれたくない。そんな焦りでいっぱいだったジュニア女王決定戦が、再びやってくる。どうしたって、意識せざるを得ない。
「だけど、去年とはやっぱり、違うよ」
あの頃のあたしとは、経験も、スキルも、全然違う。今のあたしが抱えているものは、不安よりも期待の方がずっと大きい。それは自分自身に対してだけじゃなく、出走するショコラに対してもだ。
ショコラはあたしよりもずっと完成が早い。スピードも、パワーも、出会ってからわずか半年で見違えるほど成長した。大げさでもなんでもなく、今のチームで一番GⅠ制覇に近いところにいるのは、あの子かもしれない。
もしもそれが実現したら、後輩に先を越されることになる。けれど不思議なことに、不満はかけらも湧いてこない。ショコラにはショコラのスピードがあって、あたしにはあたしのスピードがある。ここまでの学園生活で得た、一番の学びだ。今はまだ無理でも、きっといつか届く。成長もピークも遅くなるヒト生まれのあたしには、そう信じ続けられる時間が他の子よりも多く残されているはずなのだから。
「ゆっくり、やろうね」
「そうかい。ボクは勝てるもんならさっさと勝ちたいけど」
「アンタ、さっきは欲張んなとか言っといて!」
こういうとき、ホープは決まってハシゴを外してくる。空気が読めないわけじゃないくせに、わざわざ雰囲気をブチ壊してくるあたり、本当にいい性格だ。
イラッとする気持ちが無かったと言えば、嘘になる。でも、気分は悪くなかった。どちらかといえば、嬉しかった。だって、ホープが笑っていたから。明日も遊ぶ約束で一日が埋まった子供みたいな顔で、笑っていたから。
○
平年よりひと月ほど早い東京の初雪を合図に、列島はまた一段と冷たい空気に覆われた。今年の冬は随分寒さが厳しくなるらしい。
「新潟ではもう1メートル以上積もったんだって。雪」
窓の外を流れていく景色を横目に見ながら、あたしは隣の席のボンに話しかけた。
「うん。仁川は予報通り晴れてくれるといいけど」
新幹線が動き出してからというもの、ボンはしきりにスマホの週間天気予報とにらめっこしている。
するとそこへ、目の前の席の背もたれから、にゅっとこちらを向く格好で首が生えてきた。
「大丈夫ですよ! 私、道悪だって平気ですから」
自信ありますと付け加えて、顔を出したショコラはにっこりと笑った。頼もしいもんだ、なんて思っていると、ショコラは手に持った何かをひょいと掲げて、いつもと違うすました声で話し始めた。
『うーん、すごいよ、ショコラ。その調子で、ジュニア女王になっちゃってね~』
ショコラが取り出したのは、ついこの間のテレビ取材でスタッフからもらった、あたしのぱかプチだった。
「あはは、なにそれ。あたしの真似のつもり?」
あたしの問いにショコラは大きく頷くと、ぬいぐるみに向かって一人芝居を続けた。
「先輩、私が勝ったら、ご褒美をお願いしてもいいですか?」
『いいとも。何でも言ってごらん』
……これ、ぱかプチ相手に言ってるけど、遠回しに本物のあたしにお願いしてるってこと、なのか?
「それじゃあ、クリスマスにどこか、素敵な夜景が見られるとこへ連れて行ってください!」
『よーしよし、どこへでも連れて行ってあげよう。赤レンガ倉庫とか、あの有名な遊園地とか、どうかな?』
ぬいぐるみのあたしはショコラの成すがまま、やたらと男前な声で答える。
こらこら勝手に決めるなと間に割って入ろうとしたけれど、そうする必要はすぐに無くなった。なぜって、代わりにショコラの悪ふざけにストップをかけたやつがいたから。
「ショコちゃん、違うよ」
それはボンだった。やけにゆったりとして、落ち着いた声色だった。
「ルピナスちゃんは、そんな喋り方しない。あと、そんなにポンポンお出かけする場所を提案してくれるタイプでもないよ」
真剣な顔で言うことか。
ショコラは慌てて、あたしのぱかプチと一緒に頭を下げながら「すみませーん」と言いつつ舌を出すと、背もたれの向こう側へ逃げるように引っ込んでいった。
「ボン、今週の主役をビビらせないでよ」
「あっ、ご、ごめんねショコちゃん! つい……」
ボンときたら、相変わらずあたしのこととなるとマジになるから怖い。最近はどこまで本気なのか「ショコちゃんのこと、ちょっと敵視しちゃう」なんて言い出すもんだからハラハラする。
ただ、ショコラも
とはいえ、こんな人形遊びまでして甘えてくるなんて、しっかりもののショコラにしてはちょっと珍しい。やっぱり初めてのGⅠに向かうだけあって、さすがに少しナーバスになっているんだろうか。
「ショコちゃん、ほんとは寂しいんだよね、きっと」
やっと普段の冷静さを取り戻したらしいボンが、ぽつりとこぼすように言った。
「せっかくのGⅠなのに、ルピナスちゃん以外、みんなお留守番だもん」
「……ああ、そっか」
今回の遠征の帯同メンバーに加わったのは、あたしとボンだけだった。先週出走したばかりのホープと、リハビリ中のクレセントはもとより、テンダーも年明けすぐの日経新春杯に向けた準備のため、学園に残って調整を続けている。
思えば、こんなに寂しいGⅠ遠征は初めてだ。あたしがGⅠに出走する時は、毎回当然のように仲間が勢揃いしてくれていたから、心細く思うことなんてほとんど無かった。今年十四歳になったばかりのショコラにとっては、酷な経験と言わざるを得ない。
「つーか、だったらなおさら優しくしてやんなきゃダメじゃん!」
「ごめんねショコちゃん。愛ゆえにね。仕方ないよね」
「なんだそれ。ちゃんと謝んなって」
そんなバカみたいなやりとりをしていると、前の席からクックッと声を抑えた笑い声が聞こえてきた。
「こらこら、あんまり騒がしくしないで」
しまいにはトレーナーから苦言を突きつけられて、あたしたちはようやく先輩らしく振る舞うことを思い出したのだった。
新幹線はまもなく新大阪に到着する。
『それではこれより、阪神レース場第11レース、GⅠ、阪神ジュベナイルフィリーズの本バ場入場です』
勝利への道を優しく指し示すような穏やかなメロディとともに、誘導ウマ娘を先頭にして、色とりどりの勝負服に身を包んだ少女たちが地下バ道から現れた。
あたしたちのチームメイトは、鮮やかな深紅の生地と、白黒の革素材で仕上げられた、少し大人っぽい雰囲気の衣装を纏っている。
「カッコいいな。なんかもう、一人だけ強そうだよね。こうして見ると」
今回出走している子たちの衣装は、フリルがたくさん付いたフェミニンなものや、ふわふわしたスカートスタイルのお姫様っぽいイメージのものが多い。そんな中で、ショコラの勝負服は一際目立っていた。
まだあどけなさの残る顔立ちや細い手足とはミスマッチな感じがするけれど、そのギャップが却って良い。ちらほら聞こえてくる他の観客の感想を確かめてみても、好評を集めているのがわかる。
嵐のような歓声の中、ショコラはいつものように背筋をピンと伸ばして、堂々とした態度でターフに足を踏み入れていった。本当に、一年前のあたしよりずっとしっかりしている。
『9番、ショコラレイン。ここまで二戦無敗。今年のプルートはマイルでも、いやマイルこそが得意条件。生まれ変わったチームにさらなる栄冠をもたらすか。チーム〈プルート〉所属。一番人気です』
ハードルをどこまでも上げてくる場内アナウンスを聞きながら、スタンドに向かって手を振る余裕さえある。その姿を見ていると、あたしの緊張までほぐしてくれているようだった。立場が逆転していて、なんだかおかしい気がするけど。
「ショコラ、勝てるね」
「……うん。きっと、ね」
「?」
あれ、と思った。ボンの返事が、ほんのわずか、遅れたような気がしたからだ。
「どしたの、ボン」
「ルピナスちゃん。私、怖い」
「え?」
ボンは表情をこわばらせて、震える身体を押さえるように腕を抱えていた。レース前にこんな風になっているボンを見たのは、初めてのことだった。まさか、何か良くない予兆でも感じ取ったんだろうか。まだあたしが気づいていない異変が、ショコラに起きているのか。
慌ててトレーナーの顔を見ると、青ざめたボンのそれとは対照的に、トレーナーはにこやかな表情でゲートへ向かう教え子の姿を見つめていた。
そして、ふっと小さく息を漏らすと、感慨深げな様子でゆっくりと口を開いた。
「今日のレースは、ボンにとっても、初めてのGⅠなんだよ」
「初めて?」
「そう。ショコラは、ボンがトレーナー助手として初めて、チームに加入した時から面倒を見てきた子なの」
「あ」
そういえば、そうだ。ショコラは、ボンが助手になった時に、自分の代わりにチームへ加入させるために連れてきた子だった。それからずっと、遠征にもトレーニングにも付きっきりだった。トレーナー資格を持っているわけじゃないから、担当ということにはならないけど、それと同じくらいの思い入れがあるはず。
「今日はボンにとっても、GⅠデビュー戦なんだよ」
トレーナーはもう一度、念を押すように繰り返した。
ボンはもう、あたしたちとは違うところに立っている。自分の脚で戦う場所ではなく、他人の脚に、思いと願いを込めて送り出す場所に。そこがどんな景色なのか、あたしにはまだわからない。どちらがより恐ろしい場所なのかも、わからない。
だけど、少なくともあたしは、恐ろしくなったら脚を動かすことができる。大地を蹴って、脇目も振らずに駆けだすことができる。自分の意思で、自分の速さで。そんなあたしたちを信じて待つしかないトレーナーやボンよりも、ずっと自由だ。
発走時刻が来たことを告げるファンファーレの中で、あたしは親友の手を取った。冷たい師走の風に晒されたせいか氷のように冷え切ったその手は、けれどもしっかりとした意思の力を思わせる強さで、あたしの手を握り返してきた。
「大丈夫、ボン。あたしが、アンタを信じてる」
「……うん」
返ってきた声は、さっきよりも小さくなった。それでも心なしか、固く冷たい響きでなく、丸くて温かいクラウンセボンらしい響きを、取り戻したようだった。
ゲートに促されるショコラレインは、迷う様子もなくまっすぐ歩を進めていた。あの子の150センチほどの小さな身体は、遠く離れたスタンドにいるあたしたちの肉眼にはもっと小さく、ほんの豆粒くらいにしか見えない。そんな小さな背中にこんな想いを乗せてしまうのは、とても無責任なことかもしれない。
それでも、あたしは願った。
——勝ってね、ショコラ。勝って、あたしの大切な友達に、最高のプレゼントを、届けてあげて。
最後の大外枠の子がゲートインを終えて、いよいよ、戦いの火ぶたが切られる。これが今年の、あたしたちの最終レース。そして、最初で最後の、GⅠデビュー戦。ここから始まる新しい未来の、最初の一歩だ。