来年もどうぞよろしくお願いいたします。
テレビ画面に、仏頂面のウマ娘が大きく映し出されている。
毎年恒例の、有マ記念枠順抽選会。出走表の空欄にライバルたちの名前が次々と埋まっていくたびに、映像はレイアフォーミュラのリアクションを狙ったカメラに切り替わる。だけど表情の方はちっとも変わらないものだから、同じギャグを何度も繰り返し見せられているような、おかしな映像になってしまっていた。
スタジオの出演者たちは口々に「さすが今年のクラシック世代最強のウマ娘は違いますね」なんて、そのポーカーフェイスぶりを褒めそやしている。だけど、あたしのニヒルなルームメイトは、そんな番組の好意的な雰囲気を鼻で笑っていた。
「アレ、どうせ何にも考えてないんだよ」
「あ、そうなの?」
ホープはこくんと頷いた。もともとフォーミュラはあんまりあれこれ考えない方がいいタイプらしい。
「へえ、じゃあ、ひょっとしたらあたしとちょっと似てるかもしれないんだ」
「いや、あいつはキミよりもうちょっとだけバカだと思うよ」
身もふたもない言い方に、あたしは思わず吹き出した。
「いやー、アンタって怖いもんなしだよね」
「別に。面倒くさいキミと違って、扱いやすいってだけ」
あたしの場合、何か困ったことや難しいことにぶつかった時も、他人の言いなりになるよりも、最後には自分の頭で考えて、納得して解決の道を選びたい。非効率的で遠回りな選択になったとしても、そうしないではいられない。結果、失敗することも多いけど。
そういう性格は、ホープに言わせると「面倒くさい」ってことになる。……まあ、そう言われるのも仕方ない、とは自分でも思う。
一方のフォーミュラは自分で考えずに、他人から言われたことをいつでも黙って実行する。むしろ、自分で考えたいとも思っていないようだとホープは言った。
「キミには何も考えるなって言ったって無理だろ。でもあいつはそうじゃない。大人の言いなりになるのが平気なんだ。その方が楽だと思ってるくらいじゃないかな」
普段の教室での振る舞いを見ていた頃から、ホープはフォーミュラの性格を何となく見抜いていたのだという。
確信に変わったのは、菊花賞で一緒に戦った時だったんだとか。
「あの時のアレは、ボクを意識しすぎてたんだ。そしたらあんなことになった。いつも通りバカみたいに頭空っぽで走ってたら、違ったと思うけど」
褒めてるんだか貶してるんだかわからない。
だけど、そんなちょっとしたことであのフォーミュラでさえも勝利を逃してしまうのだから、GⅠレースは一瞬のスキが命取りになるんだと分かる。
ふと、ベッドの横に放り出したままになっている月刊『トゥインクル』の特別号に目をやった。たしかそこには、まもなく開かれる有マ記念本番のレース展望と、秋のGⅠ戦線の振り返りが特集されていたはず。それから、未来のスター候補を集めた、ジュニア級の——。
「あの子のこと考えてんのか」
いつも通り、ホープは鋭い。
「ほどほどにしときなよ。負けた理由なんて、探そうと思えばいくらでも探せるんだから」
デビューから二戦無敗。ジュニア級重賞を早くも一つ制覇。ショコラは世代トップの実績をひっさげて、阪神JFに駒を進めた。得票率の比較では僅差ながらも一位を取り、初GⅠで一番人気の栄誉を手にレースに臨むことになった。
結果は、掲示板内の全着順が写真判定になる大接戦で、四着。勝ったのはシャンジョワイユという二番人気のウマ娘。数字の上でいえば、ショコラの阪神JFは一番人気を背負いながら敗れるという幕切れになってしまった。とはいっても、一着との着差は0.1秒以内というギリギリの勝負だったし、波乱と言われるほどのものじゃなかった。力の差だってほとんど感じられなかった。
そんな慰めなんて何の意味も成さないってことはよくわかっている。あの日から十日以上が経ったというのに、レースを終えて引き上げてきたショコラの乾いた笑顔が、未だに忘れられない。
思うことはたくさんあった。何か不安があったのかとか、期待を掛けられすぎていたことが重荷だったんじゃないかとか、もっとチームメイトたちの支えがあれば違ったのかもしれないとか……。でもどれも、こちらから切り出すのは間違っているような気がした。だってショコラは、遠征の帯同メンバーが決まった時から、学園に戻ってくる最後の最後まで、不満らしい不満は何一つ出さなかったから。ただ付き添いの感謝と、勝利を得られなかったことの謝罪だけで、それ以上は何も口にしなかった。口にしたくないようにも見えた。そんなときに「ホントは言いたいことあるんでしょ」なんて、言えるはずもなかった。
「どうしてあげれば良かったのか、全然わかんなかった」
「だったら何にもしなくていいじゃないか。キミが気を揉んでも、余計なお世話になるだけだから」
いちいち正しいことを言う。悔しいけどその通りだ。
「はいはい、そうですね」
「そうだよ」
精一杯の負け惜しみは、やっぱり軽くいなされるだけだった。
「どうでもいいけど、荷造りは早めにしておきなよ。直前になって慌てても手伝ってやらないからね」
「わかってるって」
有マ記念が終わったら、あたしはすぐに帰省することになっている。ショコラの遠征に同行していたことや、休暇前の学力試験対策にかかずらっていたおかげで、ちっとも準備が進んでいなかった。小学生の頃、学期ごとの終業式の日に決まって両手一杯の荷物を持ち帰っていたのを思い出す。あの時とは違って、今はスーツケースや宅配便という便利なものが使えるからあんなことにはならないけれど、同室に嫌味を言われながらギリギリで荷物を詰めるのはごめん被りたい。
「アンタこそ、何にもしてないじゃん」
どうせ「ボクは荷物が少ないから」とか「キミより要領がいいから」なんて返事が返ってくるもんだと思っていた。実際ホープは一年前から変わらず、制服の他には体操着とジャージくらいしか着るものを持ってきていない。学園の生徒なら誰もが持っているようなアクセサリーもコスメも、プチプラものさえ持っていない。無いと困るからと言って無理矢理押しつけたスマホも、使っているところを見たことがない。まるで昔流行った
だから、こんな口答えは無駄なだけ。そのはずだった。
「ボクは今年、帰らないから」
予想を大きく外されると、言葉が出てこなくなる。
今「帰らない」って言った? いやまさか。そんなわけがない。今年のお正月に、ホープはお世話になっている施設のサカイさんが倒れたとかで、ものすごく心配していた。それこそ病室に付きっきりで看病していたくらいに。あれから無事退院したらしいとは聞いていたけれど、それで何もかも安心、とはならないはず。休暇になって帰れるとなったら、すぐにでも飛んで帰りたいに決まってる。
「……嘘でしょ?」
長いことかけてようやく絞り出せた言葉に、ホープはあっさりとした口調で答えた。
「ウソじゃないよ。ボクは帰らない。ナギサも、サカイももう知ってる」
「だ、だけどアンタ、次は阪神大賞典でしょ?」
ステイヤーズステークスの後、トレーナーはホープの次走は阪神大賞典だと発表した。春の天皇賞に向けた、大事な前哨戦だ。開催時期は三月。普通、そのひと月前くらいまではじっくりと休養をとって身体を作り直すものだ。学園を離れて休める数少ない休暇の時期は、単なるお休みの暇な時間じゃない。新しいレースに向かうための仕切り直しのためにある。
帰らない理由が見当たらなかった。
「アンタ、あたしに何か隠してる?」
「何言ってんだよ」
薄ら笑いであしらおうとするホープだったけど、どうもおかしい。
嘘をついてる。……ような、気がする。わからない。根拠があるわけじゃない。ただ何となく、胸がざわざわする。
耳と尻尾が痒い。冬になって毛並みが荒れやすくなったみたいな話じゃなく、内側からむずむずした気持ちの悪い感覚が湧いてくるような感じ。
パタパタと尻尾を動かして、あたしはもう一度尋ねた。
「ホープ。あたしに何か、隠してるんじゃない?」
「くどいな。ショコラとボクとじゃ随分態度が違うじゃないか」
不愉快そうな顔でホープは口をとがらせた。黒い瞳が、あたしをまっすぐ見つめている。その目が「信じろ」と言っている。
「ホープ」
なぜだか泣きそうになった。自分でもどういう感情の流れなのかよく分からない。だけど、ホープと目が合った途端、あたしの中に差した疑いの影はますます濃くなった。「信じろ」という声が聞こえているはずなのに、あたしの心はどうしてもそれを聞き入れてくれない。
「ねえ、ホントのこと言って」
「うざったいな」
ホープは叩きつけるようにそう言うと、部屋に帰ってきたときに脱ぎ捨てたはずのジャージを掴んで、勢いよく立ち上がった。
「ボク、走ってくる」
そのまま、まるで逃げるようにドカドカ足音を立てて部屋を出ていってしまった。
一人いなくなっただけで、寮の部屋は急にがらんとした雰囲気になってしまう。
視界には、二人分のベッドと、二人分の机がある。それなのに今この空間には、あたし一人分の気配しか無い。こんな風に部屋で一人になる時間は、好きじゃない。誰だってそうかもしれないけど、寂しさとはまた別の種類の不安が押し寄せてくる。
そこへテレビのスピーカーから悲鳴が上がった。大外枠を引き当ててしまったらしいチーム〈スピカ〉のトレーナーの苦い表情が大写しになっている。愉快そうに笑う声もたくさん聞こえてくる。けれどあたしの心はそんなことよりも、さっきまでそこにいたはずのルームメイトを恋しく思う気持ちで一杯になっていた。
ひょっとして、もう帰ってこないんじゃないか。そんなバカげた考えが、一秒、二秒と時が刻まれるごとに頭をもたげてくる。
「どうしちゃったんだろ」
自分で自分に問いかけた。普段から何かと考えすぎるあたしにしても、今日はとりわけどうかしている。本格化が進んだせいで、心と体のバランスが崩れているのかもしれない。
そういえば、保健の授業でも習ったっけ。ウマ娘は本格化と同時に、だいたい半分くらいの確率でメンタルの不調に悩まされるようになるって。無性にイライラしたり、寂しくなったり、他のウマ娘の些細な事が気になったり。そうだ。きっとそうなんだ。あたしだって、ウマ娘なんだから。
「負けない、負けない」
もしそうなんだとしたら、これはあたし自身がウマ娘としてちゃんと本格化してきてるって証拠。もっと強く、もっと速く走れるようになる。だったら気持ちで負けてなんかいられない。一生懸命、言い聞かせた。
「ホープ……」
でも、それはそれとして、早く帰ってきてほしい。また、尻尾がむず痒くなってきた。
すると、ちょうどそこで願いが通じたみたいに、バンという大きな音と共に部屋の扉が開いた。
「ホープ!」
「やめた」
出て行ってから戻ってくるまで、ものの二、三分のことだったと思う。それなのに、ホープはまるで三〇〇〇メートルの長距離戦を走った後みたいに顔中から汗を流して、息を切らしていた。
「どうしたの、その汗」
「なんでもない」
これ以上キミの質問には答えない、という意思が伝わる口調だった。
問答無用で黙らされてしまったわけだけど、あたしは心底ホッとしていた。ホープが戻ってきた。無事に戻ってきた。それだけで、よかった。
○
ピコピコ、とLANEの通知音が鳴った。
クリスマス会で食べたチョコレートケーキの写真アイコンが、チーム〈プルート〉のグループチャットにポンと現れる。
『先輩方、おはようございます! 宮崎、着きました! お土産のリクエストをお待ちしてます!』
びっくりマークだらけの元気なメッセージとともに、背後に空港ターミナルが写ったショコラの自撮り写真が送られてきた。
『宮崎のお土産って何があるんだっけ』
パッと思いつかなかったあたしは、とりあえずそう返事した。そのすぐ後に「ホープは何でもいいって」とトレーナーの代筆らしきメッセージが続いた。
「やっぱりね」
それは予想通り。返事くらい自分ですればいいのに。
あたしはリビングのソファの上で横になったまま、大きく伸びをした。
今日は冬休み二日目。クリスマスからわずか数日で、街には一気に年越しの雰囲気が漂い始めている。
ショコラは家族とともに、彼女の祖母が住む宮崎で休暇を過ごすことになった。トレセン学園に入ってから、レースで勝つまでは会いに行かないと決めていたので、二年ぶりの再会になるんだとか。休暇に入る前日のミーティングで、嬉しそうに語っていたのを覚えている。
「いいなあ……」
写真の中で満面の笑みを浮かべる後輩の姿を見ていると、思わずそんな言葉が口をついた。
あたしには田舎が無い。田舎というより、地方の親族、というべきか。どっちにしても、あたしにはそういう、夏休みや冬休みに遊びに行ける遠方の親族なんていない。母さんも父さんも、東京生まれの東京育ち。なんならお
「つまんねーっすねぇ」
「つまんねーって何が」
「どわぁ! 誰!?」
ポロリと本音をこぼした直後、突然背後から聞こえた声にギョッとして、ソファから転げ落ちてしまった。
慌てて体を起こして声がした方を見れば、そこにいたのはパジャマ姿の父さんだった。
「なんだ、起きたの」
冷静に考えれば、当たり前だった。今日も母さんは仕事。代わりに父さんが珍しく休み。今この家であたしに話しかけてくるやつは父さん以外にいない。逆に別の誰かだったら、それこそ怖すぎる。
よくある話だけど、うちの父さんも休日はなかなか寝室から出てこない。目が覚めてもしばらくベッドの中でゴロゴロしている。
「コーヒー飲もうと思って」
「あ、そう」
よくある話と言いつつ、こんなやりとりは久しぶりだった。年中出張だらけの父さんの休みは、あたしの休暇とほとんど被らない。去年に至っては正月にも帰ってこられなかった。スマホの画面越しでなら何度か話はできていたけど、きちんと対面して父さんと会話したのは二年ぶりくらいになる。
奇しくも、ショコラのお祖母ちゃんと同じ、二年ぶり。だけどあたしの方はショコラと違ってそうワクワクすることもないし、感動的でもない。
「ルピナス、朝ごはんは?」
「一人で済ませたよ」
午前十一時の家庭で交わされる、日常的な、取るに足らない会話。
「ああ、母さんがやってってくれたか」
「ううん、あたしが勝手にやった」
コーヒーメーカーのスイッチを入れながら、父さんは感心した様子で頷いた。
「へえ、自炊できるのか」
「ちょっとだけね」
「そうか。俺が余所見してる間に、ルピナスはどんどん大っきくなっていっちゃうな」
何言ってんだか。自炊どころか、あたしはもう重賞ウマ娘様だぞ。
父さんの中では、あたしはいつまでも小学生のポニーちゃんのままらしい。
「で、何がつまんねーって?」
しまった。ごまかされてなかったか。
「いや別に。冬休み、どっか行くとこないかなーって思って」
「チームメイトの子は? 一緒に遊びに行けばいいじゃないか」
「だから言ったじゃん。みんな今年はいないんだって」
年明け二週目に開かれる日経新春杯に向けて、ボンはトレーナーと一緒にテンダーのトレーニングにつきっきりだ。クレセントは怪我のリハビリ中だし、ホープもよくわからない理由で学園を離れなかった。そしてショコラは九州へ家族旅行。あたしだけが、ポツンと残された感じ。
「そうか。そうだったっけ」
「父さん全然わかってないんだ」
母さんが前に言っていたことがある。もともと父さんはトゥインクル・シリーズにも興味がある人じゃなかった。母さんと同じ医療系の道に進んでいながら、ウマ娘のことは専門外だったって。
そんなんだから、あたしの現状がどんなものなのか、どれくらい幸運に恵まれているのか、そしてどれほど退屈しているのか、わかってないのかもしれない。
「ってことは、アレだな」
「え?」
あたしが頬を膨らませてソファに再び寝転がると、父さんは出来立てのコーヒーが入ったマグカップを持って、その傍に寄って来た。そして立ったまま一口すすると、あたしを見下ろしながらニヤッと笑って、言った。
「今、チームではルピナスが一番、充実してるってことだ」
「何それどういう——」
「トゥインクル・シリーズで暇を持て余せるのは、エースの特権だからね」
——そうか。もともと、そうだっただけ。それももう、十年以上前のことなんだ。
「じゃあ、父さんがどっか連れてってよ」
「悪い、父さん年が明けたらすぐまた北海道なんだ。休ませてくれ」
「ケチ」
暇で退屈っていうのも、悪くないかもしれない。
ふと見れば、チームのグループチャットには既にショコラが共有してくれたお土産の写真がたくさん載っていて、メンバーたちのリクエストもあらかた出揃ったようだった。
早く答えなきゃ。あたしは急いで、送ってもらった写真の中からどれにしようかと品定めを始めた。
その時突然、ガーガーとけたたましいモーター音が鳴り響いて、お土産選びを妨害してきた。見ればさっきまで父さんのコーヒーをせっせと注ぎ出していたコーヒーメーカーが、ガタガタと震えながら悲鳴を上げている。
「何? 壊したの?」
「あー、これ最近よくこうなるんだよ。電源何度か抜き差ししてると静かになるんだけど」
「壊れてんじゃん」
「もういい加減買い替えかな。十五年戦士だからな」
あたしと同い年、か。
「ねえ、それあたしの分も淹れてよ」
「上手くできるか分からないぞ」
「完全に壊れる前に、一杯だけ」
父さんは「大丈夫かな」なんて言っていたけど、その表情はまるで何かプレゼントでももらったかのように綻んでいた。