——こんなに広かったっけ。
これが、四ヵ月ぶりのパドックステージを歩いた感想だった。
中山レース場はあたしが初めての重賞タイトルを手にした舞台。その分、心にゆとりがあったのかもしれない。あるいは、大観衆の視線が突き刺さってくるGⅠの舞台を何度か経験したせいで、感覚が麻痺していたのかもしれない。いずれにしても、以前はもっと窮屈に思えたステージの景色はずいぶんだだっ広く感じた。どことなく、視界だけじゃなく、気分まで間延びした感じ。観覧エリアを眺めながら、もうちょっと人の入る余地があるなあなんて考えてしまうくらい、緊張もしていなかった。
「何よ、腹立つくらい余裕そうじゃない」
ステージの袖へ戻ったあたしの耳に真っ先に飛び込んできたのは、そんな言葉だった。見れば、あたしが今着ているのと同じ緑色のGⅢ用ゼッケンを身に着けた出走者の一人が、腕組みをしながらこちらをじっと見つめて立っている。大きなその肩を、ウェーブのかかった栗毛の髪がふわりとくすぐっている。
「余裕っていうか、慣れただけだよ」
そう言って苦笑いを返すと、相手はぷっと吹き出した。
「よく言うわ。重賞勝って、自信、つけたんでしょ?」
「少しはね」
謙遜はしない。実際その通りだから。
「一緒に走るのは一年ぶり、だよね」
「覚えててくれたの?」
忘れられるはずもなかった。
「久しぶり、エヴリン」
名前を呼んでやると、その子は嬉しそうに頬を緩ませて駆け寄ってきた。
スマイルエヴリン。ちょうど一年前、桜花賞への切符を取るために初めて出走した重賞のチューリップ賞で、あたしがマークしていた子。そして、最終コーナーを回ったところで、あたしと一緒に接触事故に巻き込まれた子だ。あたしは幸運にも怪我無く桜花賞に出走できた一方で、スマイルエヴリンの方は足首を負傷によって半年間の戦線離脱を余儀なくされていた。理不尽なほど分かれた明暗は、彼女の名前をあたしが心に刻んでおくには十分すぎるものだった。
「あなたが秋華賞に出てくれてたら、もっと早く再会できたんだけどね」
ずいと身を乗り出しながら、スマイルエヴリンはおどけて見せた。入着は叶わなかったものの、彼女が最後のティアラレースで復帰し、完走の記録を残したというニュースはちゃんとあたしの耳にも届いていた。今日は彼女にとって、それ以来の休養明けレースになる。
「あはは。いやー、まだあたしには二千は長いっていうか、マイルでもっと自信を……って」
言い訳をこねようとしたあたしは、そこで目をこすった。目の前に立つ相手の姿に、違和感を覚えたからだ。
「アンタ、すごい、なんというか、その……ヤバくない? 腕とか」
腕だけじゃない。初めて会った時もがっしりした印象だったけれど、彼女の身体はその時とは比べ物にならないくらい、首筋も、肩も、トモも厚みを増している。少しだけど、背も伸びたような気がする。
「リハビリのおかげでね。他のところがずいぶん強くなったのよ」
「それで説明できるレベルじゃなくない……?」
ともかく、一年前とはもはや別人と考えた方がいいかもしれない。もともとジュニア期には阪神JFで三着に入った実力者だし、チューリップ賞だって怪我をしながら二着だし、実力は折り紙付きだ。それがこんなにパワーアップして帰ってきたんだから、侮れないどころの騒ぎじゃない。
「今日出てる子でライバルになりそうなのは、あなたとハルカゼ先輩くらいだから。覚悟しててよね」
凄まれたわけでもなければ、睨まれたわけでもない。それなのに、本能的に分かった。これはハッタリじゃない。本気で言ってるんだ。復帰二戦目、出走者の半分以上が先輩というシニア級のレースで、スマイルエヴリンはあたしとの一年ぶりの再戦を、本気で楽しみにしている。そして、勝ちに来ている。
「じゃ、またね」
係員がバ場入りの時間を知らせに来たのを横目で確かめたスマイルエヴリンは、あたしの返事も待たず、足早に地下バ道へと去って行った。その後姿を目で追いかけると、通路のすぐ横、メディア関係者が立ち入れるギリギリのところから、見覚えのあるカメラのレンズがこちらを覗いているのが見えた。
「マジか」
ばっちり撮られていたらしい。番組的にはなかなかの撮れ高、なんて言ってる場合じゃない。あたしはこれ見よがしに頬を一発、両手でパチンと叩いた。ここ最近いろいろあって変に浮ついていたけど、ちゃんと目の前のレースに向き合わなきゃダメだ。
「後悔すんなよ」
聞こえちゃいないだろうけど、一人そう呟いてから、ふうっと大きく息を吐きだして、こぶしをギュッと握りしめた。
〇
今日のレースは、初めてなことだらけだった。
まず、距離について。中山ウマ娘ステークスは、芝の一八〇〇メートルで争われる。今まで七戦、すべて千六を走ってきたあたしにとって、初挑戦となる距離だ。距離的に二〇〇メートル延長される分、これまでよりもスタミナが要求される。そのうえ、小回りの中山レース場のコーナーを二回も回らなきゃいけないから、疲れていても崩れない、安定したコーナリングテクニックも必要になる。
けれど、そのどちらも今のあたしにとってはそれほど不安材料ではなかった。いずれは中距離に挑戦することを念頭に置いて、スタミナは嫌というほど強化してきたし、コーナーワークはもともとあたしの武器のひとつ。トレーナーが最初の距離延長の舞台としてここを選んだのだって、あたしのコーナリングを活かせる場所で勝負させたかったからだ。
次に、チームのサポート体制について。今日はチーム専用のボックスにも、もちろん楽屋にもトレーナーは来ていない。明日の仁川で行われるフィリーズレビューに出走するショコラのために、おとといから遠征に出てしまっている。トレーナー代理のボンと、出走者のあたし、たった二人で中山の関係者口に足を踏み入れることになった。
心細さは無いかと言われれば、もちろんある。でも、それよりも修学旅行でちょっとだけ自由時間をもらえた時みたいな、むやみにワクワクする感じの方が勝っていた。あたしを信頼してくれてるんだと思えるし、悪い気はしない。
問題はあたしよりも、ボンの方だった。
「ルピナスちゃん、落ち着いてね。ルピナスちゃんがいつもの力を出せば、ちゃんと勝てるはずだから」
「大丈夫。中山はいいイメージしかないから。プレッシャーは感じてないし、焦ってもいないよ」
「仕掛けの位置とペースだけ、絶対気を付けてね。第三、第四コーナーの中間から少しずつ、だからね」
「分かってる。それもう昨日から何十回も聞いてるから」
「落ち着いてね、ほんとに、落ち着いてね」
地下バ道で最後の確認をしている間、ボンはいつになくテンパっていて、あたしなんかよりもずっとナーバスになっているみたいだった。トレーナー不在を埋める責任、と考えれば当たり前なのかもしれないけど、これじゃどっちがレースに出る方なのかわからない。
「いいから待ってなって。取材カメラも来てるし、一発決めてくるから」
クレセントが離脱した今、チームを引っ張るのはあたしだ。明日トライアルに出走するショコラのためにも、初めての単独帯同になるボンのためにも、少しくらい頼りになるところを見せておきたい。きっとそれは、他の大切な人たちに対しても強いメッセージになるはずだから。
「あたし、今日は結構やれる気がしてるよ」
自信満々といった態度で胸を張って見せるあたしに、栗毛の親友はなおも不安そうな顔で首を横に振った。
「ルピナスちゃん、そういう時が一番危ないんだよ……」
「はいはい、分かった分かった」
妙に心配性を発揮するボンをなだめて、そそくさと本バ場へ向かう。そこに待つ、最後にして一番厄介な
『さあ、遅れて一番最後に登場しました。こちらもシニア初戦。新たな歴史を刻む一年へ向けて、初重賞を掴んだこの舞台でさらなる飛躍の足掛かりを作れるか、チーム〈プルート〉所属、9番ルピナストレジャー、二番人気です』
場内アナウンスとともに、拍手と歓声が降り注いでくる。いつもならウォーミングアップを兼ねた返しウマでさっさと逃げ出すことができるけど、今日はそういうわけにはいかなかった。
中山の千八といえば、ゴール板のすぐ近くがスタート地点。当然ゲート内での様子も、もちろんゲートイン前集合の様子も、観客には全部丸見えだ。ちょっとでもスタンドの方を見れば誰かと目が合っちゃいそうなほど近いし、野次だのガヤだのもはっきり聞こえてくる。かといって、静かにされるとそれもそれで気まずい。一万人を超える人たちがじっと黙ってこっちを見てるなんて、ちょっと不気味だ。
(うわ、これはめちゃくちゃ気が散るなあ)
覚悟はしていたけど、思っていた以上に集中を保つのは難しそうだった。幸い、ここに至っても緊張はやってこない。いや、むしろ緊張してしまった方が良かったかもしれない。こんな場所じゃ、余計なことに興味が散らばってしょうがない。ゲートの方に意識を向けなきゃいけないのに、客席で動く人影が視界の端に入るたび、あれは誰だろうとか、何を喋ってるんだろうとか、そんなどうでもいいはずのことに気を持っていかれてしまう。
「ルピナストレジャーさん?」
「わ、なに?」
急に背後から聞き覚えの無い声に話しかけられて、思わず飛び上がった。まずい、多分これも撮られてる。恥ずかしいとこ残さないようにしないと。
振り返ると、そこにいたのはさっきスマイルエヴリンが名前を出していた、あの先輩ウマ娘だった。
「チヨノハルカゼ。今日はよろしく」
「ど、どうも」
その名前は、あたしにとっては別の意味も持っている。
「あの、去年、秋天に」
「ああ、見ててくれた? ……って、そっか。あなたのチームメイトの子も出てたっけ」
チヨノハルカゼといえば、去年クレセントも出走した秋の天皇賞で二着に入った、今年でシニア三年目の実力者だ。今日は実績的にも納得の一番人気。チーム〈デネブ〉に所属している、メリッサの先輩でもある。
「あなたと一緒に走るの、楽しみにしてたんだ。うちの子がかなり惚れ込んでるって聞いてたから」
「あはは、それは、どうも」
そういえば、今日のレースはメリッサも見に来てるんだろうか。スタンドの中に姿は見つけられなかったけれど、ティアラ路線のウマ娘たちには特別な感情を持っている彼女なら、先輩の応援に駆け付けていたとしても不思議ではない。
「気になる?」
その言葉とともに、視界にチヨノハルカゼの栗色の耳がひょっこりと入ってきた。
「ああ、すみません」
いつの間にか、また視線が客席の方に吸い寄せられてしまっていたらしい。
「いいのいいの。こんなにゲートが客席と近いことなんて、なかなかないものね」
二つも上の先輩だけど、マイルCSで戦ったギラついた先輩たちと比べて、当たりはずいぶん柔らかかった。背も、あたしより少し小さいくらい。メリッサの先輩と聞いて想像する姿とは全然違う。ただ、モモイロビヨリの例もあるし、腹の中で何を考えているかはわからない。
そうこうしているうちに、ファンファーレが鳴った。集合の声がかかって、みんな順番にゲートの前に並ぶ。
「頑張ってね」
それだけ言い残して、あたしの腕をポンポンと軽く叩き、チヨノハルカゼは自分の番号が掲げられている内枠へと走っていった。
変なことを言う人だ。そう思った。彼女にとってあたしは、今日のレースをともに戦うライバルのはず。それなのに、まるで他人事のように、というよりも珍しい動物をかわいがるみたいに扱って、最後にはちょっとしたエールまで。
気に入らないな。
あたしの胸に、そんな感情がポッと湧いた。
「9番、9ばーん、早くこっちへ」
係員に両脇から促されて、はたと我に返った。見れば、偶数番をつけた子たちが怪訝な顔をしてこちらを見つめている。その中には、スマイルエヴリンの姿もあった。
「おい、大丈夫かよルピナスは」
「こりゃ今日はアカンかもしれんぞ」
最前列に集まった人波からは余計な声も聞こえてくる。あたしは首を一度ブンと大きく振って、何でもない風を装ってゲートの中へ急ぎ足で入った。
(まあ、見てなって)
心の中で呼びかける。カメラを構えているテレビ局の人に、仁川のテレビ映像で見ているはずのトレーナーやショコラに、今日一緒に走るライバルたちに、詰めかけた観衆に、そして、あたしの大事なルームメイトに。
その時だった。
「——ルピナスちゃん、そういう時が一番危ないんだよ」
「え?」
突然、ボンのその声が聞こえた気がして、ぱちりと瞬きを一つした。視界が暗転したのは、ほんの一瞬のこと。だけど、次に目が開かれたときに、目の前のゲートはすでに、軋むような金属音とともに開ききっていた。慌ててスタートを切る。それでも、出足の悪さはあのよそ見をしていたチューリップ賞に次ぐ酷さだった。置いて行かれるほどではなかったけれど、最初の一完歩でポジション争いには加われないことが確信できるくらい、周りとは勢いに差がついてしまった。
あーあ、と悲鳴のような観客のため息がしっかり耳に届く。何やってんだ、なんて怒声にも似た声も聞こえる。ライブの優先入場券、あたしの名前で買ってたのかな。
だけど、実のところあたしは少しも焦っていなかった。第一コーナーに入ったところで、十四人中十三番手。完全に後手を踏む格好にはなったけど、今日は最後尾からでも構わないと思っていたくらいだから、これで良しだ。
とりあえず、道中はリラックスして回れる位置を行くこと。最後の最後まで焦らないこと。仕掛けどころ以外でトレーナーとボンから言われていたのはそれだけだった。その点に関しては、少なくとも今のところは上手くいってる。
よしよし、良い調子だ。この感じなら脚も残りそうだし、スタートのロスも大した事なさそうだし、行けるぞ。そう思って前を追っていたのだけど、しばらくするとそれとは全然違う考えが頭をもたげ始めた。
(……遅いなあ)
ただでさえ千八のペースに、最後方からの追走。正直、あくびが出そうなくらい遅く感じた。体感、最初の三ハロンは37秒台の前半。千六で走っていた今までのどのレースよりも、二、三秒も遅い。良バ場発表の割には少し重めな芝のせいかもしれないけど、それにしたってあまりに退屈なペースだった。キックバックも、バ群から少し離れたところの外目を走っているおかげで、鬱陶しさはそれほど感じない。でも、これじゃリラックスというよりも、気合いが入らないまま惰性で走っているみたい。……こんなことを言ったら怒られそうだけど、せっかくの重賞のはずなのに、つまらない。いまいちスイッチが入らない。
(もう、早く仕掛けちゃいたいな。これだったら)
そんな邪念がよぎりだす。
(というか、こんなスローペースだったら、早く追いかけないと前残りになっちゃうんじゃない?)
指示を無視した早仕掛けの言い訳が、次々思いつく。
前を見れば、スマイルエヴリンの背中が遠く見えた。順位は五、六番手。チューリップ賞の時よりもだいぶ前の方に位置取りをしていて、あたしとも大分差がついている。スパートの勝負になった時に、ここから付いていけるかわからない。ただでさえ切れ味のあるウマ娘だった彼女が、今はさらにパワーアップして戻ってきているんだから。チヨノハルカゼに至っては、ここから見えないくらい前にいる。
(いや、もう行かないとヤバいでしょ。そうだよ。中山の直線って、三一〇メートルしかないんだからさ)
いいや、行っちゃえ。……と、思ったわけじゃない。
それでも、第三コーナーに入る手前から、あたしは自然と進出を開始していた。
どよめきが上がっている。最後方でグダグダ走っていたあたしがいきなり加速を始めたものだから、びっくりしたのかもしれない。
(なんだ、全然軽いじゃん)
小回りのコーナーに入って速度が落ちた子たちを横目に、下り坂の力を借りながらすいすいと位置を上げる。少し外を回っているし、コーナーワークが得意なあたしにとって、これくらいはお手の物だった。
直線に向くころにはもう、あたしは先頭に並びかけていた。
(行ける、行ける。もらった!)
それもあっさりと抜き去って、早くも先頭に立つ。この時あたしは、後ろのことなんてこれっぽっちも考えてなかった。
正面スタンドからは歓声が沸いている。歓喜のシャワーがもう目の前にある。そう思うと、いろんな感情が一気にあふれ出した。
気持ちいいな。
やっぱり、中山は好きだ。
見てよ、ボン。あたし、こんなに強くなったんだ。きっと、トレーナーも見ててくれたよね。
クレセント、早く復帰してよね。やっぱり、アンタのいないレースは面白くないよ。今ならあたし、あの桜花賞よりももっといい勝負ができると思うんだ。
それから、ホープ、見てるよね。あたし、アンタのホントの苦しみなんてわからない。だけど、今はとにかく前に進むしかないんだと思う。アンタがそう信じられるように、あたし、頑張るから。あたしたちを珍獣みたいに扱うやつらがいたって、あたしたちの人生に付きまとおうとする雑音があったって、二人で行けるところまで、行こうよ。
残り二〇〇のハロン棒を過ぎた。
(……あれ?)
そこで突然、違和感を覚えた。
足が前に出ない。
ゴール板前の急坂に、躓きかける。
(——やばい)
克服したと思っていた初めてが、ここで牙をむいた。
最後の二〇〇。未体験のゾーン。
後ろから、足音が急速に近づいてくるのがわかる。
まずい、まずい、これはまずい!!
止まった。足が完全に止まった。
残りはあと一〇〇メートルちょっと。ほんの、五、六秒で駆けられる距離。なのにゴール板は、地平線の果てにあるのかと思うほど遠い。
この感覚、久しぶりだ。
マイルの壁。千六の壁。
久々の激突だった。
早仕掛けのツケが来たんだ。指示通りに走ればよかった。……なんて後悔を抱く余裕すらなかった。
残れ、残れと祈りながら、何百キロものおもりがぶら下がったような感覚の手足を、必死に動かすだけ。
呼吸が乱れて、吐き気がする。
普段、神なんて信じないあたしだけど、今日この時ばかりは信じる気になった。
呆れ顔の幸運の女神が、あたしにほんのちょっぴりおまけしてくれたようだったから。
『全く、並んで、ゴールイン! 内ルピナストレジャーか、外チヨノハルカゼか! 大接戦となりましたがわずかに内が態勢有利でしょうか!』
勝った。なんとか逃げ切った。ハナ差もハナ差、数センチの差だった。
勝利の余韻に浸ることもできずに、あたしは両手両膝をターフに付いて、必死に酸素を取り込もうとした。胃液と唾液の混じったものが、口からあふれそうになる。
「「大丈夫?」」
二人分の声が聞こえる。一人はあたしの横にしゃがみこんで、背中をさすってくれている。
「すごかったね。もうちょっとで捕まえられると思ったんだけど」
背中に感じるチヨノハルカゼの手のひらは、まだ少し冷たさの残る空気の中で、ほんのりと温かかった。
「いやあ、やっぱりあなた、ただものじゃないわね。私が休んでる間も、パワーアップしてたってわけね。見た目じゃわかんなかったけど」
スマイルエヴリンの声からは、やり切った満足感が伝わってくる。
「このあとはヴィクトリアマイル? それとも、大阪杯かしら?」
「……いち、一応、マイルの、予定、ですけど」
息も絶え絶えになりながら答えると、へえ、とチヨノハルカゼの小さな相槌が聞こえてきた。
「知ってる? メリッサ、大阪杯に出るの。出走しないなら、応援してあげてね」
「は、はい」
「……でもなんだか、あなたはもっと遠くを見てるみたいだね」
小柄な先輩の声は、手のひらの温かさとは裏腹に、どこかキリリとした硬い響きをしていた。
「言っておくけど、メリッサは、私より強いよ」
その声に、グサリ、と突き刺されたような気がした。
「じゃあ私たち、枠場に行くね。トレーナーさんが待ってるから。行きましょ、エヴリンちゃん」
「はい。……ルピナスさん、先に行ってるわね。次は、負けないからね!」
遠ざかっていく足音を聞きながら、あたしはただ、ゼイゼイと息を切らしたまま、しばらく動けないでそこに留まっていた。
歓声と拍手の雨がこんなにも冷たく感じたのは、初めてのことだった。